東京ステーションギャラリーで開催されておりました佐伯祐三展に名古屋からお出かけになったお客様より、図録をお土産にいただきました。
歴代天皇の御宸翰(ごしんかん)や、慈雲飲光(じうんおんこう)、白隠慧鶴(はくいんえかく)、仙厓義梵(せんがいぎぼん)、良寛、明月ら江戸時代の高僧の墨蹟蒐集も開始された。
ゆる美術のうちで書を最も好みます。併(しか)し一番嫌ひなものゝ多いのも書であります。絵画や彫刻以上に書が最も端的に人の心を表現するものであるからでせう(「書道私論」)
と、發次郎は書への愛好を述べる。昭和11年(1936)日本放送協会大阪放送局の伊達俊光にも次のように答えている。
私は元来書が好きで、東洋の芸術として書を第一と考へているし、書の精神は今のフランスのピカソや其他の傑れた作品にもよく共鳴し得るものに違いないと自信する。(伊達俊光「芸術蒐集の真義」、『大大阪と文化』昭和17年、金尾文淵堂発行)
佐伯祐三の作品との出会いは運命的だった。佐伯がパリで歿したのは昭和3年(1928)。同年の第15回二科展で追悼展が開かれたが、コレクターはまだいなかった。發次郎は昭和7、8年(1932、33)から佐伯蒐集に打ち込み、昭和11、12年(1936、37)頃までに作品を蒐め尽くした。
發次郎が衝撃を受けた最初の作品が、造形上の贅肉を削ぎ落とした佐伯の最高傑作である《煉瓦焼》(大阪新美術館建設準備室)である。
山本家出入りの額縁屋が、山本さんなら必ず興味を抱くと確信して《煉瓦焼》を持ちこんだという。大胆にぐいっと引かれた屋根の太い線が、書を愛する發次郎の琴線に触れたことが想像できる。
昭和12年(1937)、東京府美術館で自分のコレクション108点による佐伯の遺作展を開催し、現在の古書価格で10万円はする豪華本『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』(座右宝刊行会)を刊行した。
同書の中で發次郎は、佐伯作品に線の芸術を直感して、高僧たちの墨蹟と結びつけて語る。
茲(ここ)に今私は佐伯の絵を見る時、その線のうま味、殊にその強さと枯淡さとには、私の最も尊敬する不世出の大書僧たる前記寂嚴、慈雲、良寛等の高僧の書や、白隠、仙厓の画に対する時と、余程共通した魅力を感じ…『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』より
ただし、「寂嚴、慈雲、良寛の書を見せて死なせなかつたことは実に残念です。私はこのことだけでも彼の夭折を心から惜しみます」(「佐伯祐三遺作蒐集に就いて」)と残念がり、佐伯が寂嚴や慈雲を見たら、ヴラマンクやユトリロ、ゴッホの傑作に接した場合とも違う、もっと奥の心に触れた衝撃を受けて、画格が一段と高くなったと付け加える。
ーーー中略ーーーー
私の蒐集は決してこれを金銭に換算し、世の富豪のように有価證券を所持しているが如き心持ちでなく、私は消亡(ママ)品として、山本一個の主観的のコレクシヨンとして蒐集も亦創作なりとの観念で集めているので、大原孫三郎さんの倉敷の美術館は児島虎次郎画伯の手によつてなされているが、児島氏自身も大原氏の意志を多少加へて自己の主観や、好みで蒐集していない所に妥協的な不徹底な点があり、又松方幸次郎氏の如き其蒐集は厖大であるが、松方氏一個の趣味とか意見とかが現はれていない所に不満がある。(同前)
続きは↓のページをご覧ください。
http://www.sumufumulab.jp/column/writer/w/8/c/187?PHPSESSID=04e2dbq1b0jgldhubofbkr60c2
以上
収集は一種の信仰のようなものであると、この山本氏の紹介のページを読み感じ、またそうした信念がないと、決して自分の目は養われず、良い作品にも出会えないだろうと思いました。
逆に言えば、佐伯作品を愛することができれば、日本人として日本の全美術品、あるいは歴史、文化に興味が広がるはずであると勇気をいただきました。
その画像をうっかり失ってしまいましたので、またご紹介致しますが、今月15日からは大阪に会場を移して開催の予定ですので、皆さまにもお知らせいたします。
詳細はこちらから↓
ちょうど一年前に開館された大阪中之島美術館さんへは、一度伺ってみたいと思っていましたので、ぜひ私たちも出かけたいと思っています。
こちらに寄贈された多くの佐伯作品を収集された実業家である山本氏について、以下のような紹介のサイトを見つけました。
大変興味深く読ませていただきましたので、一部こちらに抜粋、またそのページをご紹介させていただこうと思います。
山本發次郎の生涯と蒐集
本名は戸田清、岡山県上房郡北房町(現・真庭市)に生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後、鐘淵紡績に入社し、山本家に婿入りする。義父の初代發次郎は、船場の安土町にメリヤス肌着の製造販売業を起こし、清は大正9年(1920)に二代目發次郎となる。
欧米漫遊から帰国後、芦屋に竹腰健造の設計になるスパニッシュ風の自邸を建設した。
本名は戸田清、岡山県上房郡北房町(現・真庭市)に生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後、鐘淵紡績に入社し、山本家に婿入りする。義父の初代發次郎は、船場の安土町にメリヤス肌着の製造販売業を起こし、清は大正9年(1920)に二代目發次郎となる。
欧米漫遊から帰国後、芦屋に竹腰健造の設計になるスパニッシュ風の自邸を建設した。
邸宅は白雲荘と命名され、この建設を機に室内装飾用の美術品購入への関心が發次郎に起きたらしい。
さらに蒐集の本格化は、郷里ゆかりの高僧・寂嚴諦乗(じゃくごんたいじょう)の墨蹟に魅せられたことがきっかけとされる。
さらに蒐集の本格化は、郷里ゆかりの高僧・寂嚴諦乗(じゃくごんたいじょう)の墨蹟に魅せられたことがきっかけとされる。
歴代天皇の御宸翰(ごしんかん)や、慈雲飲光(じうんおんこう)、白隠慧鶴(はくいんえかく)、仙厓義梵(せんがいぎぼん)、良寛、明月ら江戸時代の高僧の墨蹟蒐集も開始された。
ゆる美術のうちで書を最も好みます。併(しか)し一番嫌ひなものゝ多いのも書であります。絵画や彫刻以上に書が最も端的に人の心を表現するものであるからでせう(「書道私論」)
と、發次郎は書への愛好を述べる。昭和11年(1936)日本放送協会大阪放送局の伊達俊光にも次のように答えている。
私は元来書が好きで、東洋の芸術として書を第一と考へているし、書の精神は今のフランスのピカソや其他の傑れた作品にもよく共鳴し得るものに違いないと自信する。(伊達俊光「芸術蒐集の真義」、『大大阪と文化』昭和17年、金尾文淵堂発行)
佐伯祐三の作品との出会いは運命的だった。佐伯がパリで歿したのは昭和3年(1928)。同年の第15回二科展で追悼展が開かれたが、コレクターはまだいなかった。發次郎は昭和7、8年(1932、33)から佐伯蒐集に打ち込み、昭和11、12年(1936、37)頃までに作品を蒐め尽くした。
發次郎が衝撃を受けた最初の作品が、造形上の贅肉を削ぎ落とした佐伯の最高傑作である《煉瓦焼》(大阪新美術館建設準備室)である。
山本家出入りの額縁屋が、山本さんなら必ず興味を抱くと確信して《煉瓦焼》を持ちこんだという。大胆にぐいっと引かれた屋根の太い線が、書を愛する發次郎の琴線に触れたことが想像できる。
昭和12年(1937)、東京府美術館で自分のコレクション108点による佐伯の遺作展を開催し、現在の古書価格で10万円はする豪華本『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』(座右宝刊行会)を刊行した。
同書の中で發次郎は、佐伯作品に線の芸術を直感して、高僧たちの墨蹟と結びつけて語る。
茲(ここ)に今私は佐伯の絵を見る時、その線のうま味、殊にその強さと枯淡さとには、私の最も尊敬する不世出の大書僧たる前記寂嚴、慈雲、良寛等の高僧の書や、白隠、仙厓の画に対する時と、余程共通した魅力を感じ…『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』より
ただし、「寂嚴、慈雲、良寛の書を見せて死なせなかつたことは実に残念です。私はこのことだけでも彼の夭折を心から惜しみます」(「佐伯祐三遺作蒐集に就いて」)と残念がり、佐伯が寂嚴や慈雲を見たら、ヴラマンクやユトリロ、ゴッホの傑作に接した場合とも違う、もっと奥の心に触れた衝撃を受けて、画格が一段と高くなったと付け加える。
ーーー中略ーーーー
私の蒐集は決してこれを金銭に換算し、世の富豪のように有価證券を所持しているが如き心持ちでなく、私は消亡(ママ)品として、山本一個の主観的のコレクシヨンとして蒐集も亦創作なりとの観念で集めているので、大原孫三郎さんの倉敷の美術館は児島虎次郎画伯の手によつてなされているが、児島氏自身も大原氏の意志を多少加へて自己の主観や、好みで蒐集していない所に妥協的な不徹底な点があり、又松方幸次郎氏の如き其蒐集は厖大であるが、松方氏一個の趣味とか意見とかが現はれていない所に不満がある。(同前)
続きは↓のページをご覧ください。
http://www.sumufumulab.jp/column/writer/w/8/c/187?PHPSESSID=04e2dbq1b0jgldhubofbkr60c2
以上
収集は一種の信仰のようなものであると、この山本氏の紹介のページを読み感じ、またそうした信念がないと、決して自分の目は養われず、良い作品にも出会えないだろうと思いました。
逆に言えば、佐伯作品を愛することができれば、日本人として日本の全美術品、あるいは歴史、文化に興味が広がるはずであると勇気をいただきました。
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