ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




中村眼鏡店、中村屋化粧品店。中央区日本橋人形町1-4。1992(平成4)年4月26日

写真の通りは人形町通りの人形町交差点から小舟町、江戸橋北交差点へ向かう芳町通りで、人形町交差点からすぐ西のところ。建物は左から、中村時計店、コスメドール中村屋(化粧品)、路地、岡電業社、大橋印房、ロータリーギフト人形町店(金券ショップ)、立花外科医院。左端は「人形町センタービル」(1994年3月築、9階地下2階)の工事現場。
これらの店のほとんどが昭和30年代の火保図に載っている。当時の住所は「芳町一丁目8番」で「中村時計、中村屋洋品。岡電キ、増田メガネ、岡クリーニング、大橋印房。立花外科」という記載。
大橋印房」は江戸初期の創業で「江戸日本橋四日市(現在の日本橋一丁目)に創業。代々「大橋素十」と号し、徳川幕府御用達印判師として大橋出雲守の名を戴き、幕府公印を始め諸大名の印判製作に当たる」としている。現在地には明治元年ごろ移転した。
中村屋の後ろの壁に看板建築の装飾のようなものが見える。建物本体は昭和初期のもので、後に前面を増築したものと思われる。
現在は、中村時計店と中村屋が取り壊されて14階建て店舗・マンションを建築中、岡電業社と大橋印房は変らず、金券ショップ(閉店時は「マタハリ」)は2018年5月に「ALO Kebab」というケバブの店に替わった。立花外科は「ガラ・ステージ日本橋人形町」(1999年11月築、12階地下1階59戸)になって、そのビルで医院は続いている。




岡電業社、大橋印房。1996(平成8)年5月6日

上から見ると、通り沿いの建物とその後ろの建物とで三角形の区切りが浮かび上がる。芳町通りを斜めに通したため、古い町の境が変な具合に取り残されたのが今に残っていると考えられる。芳町通りを整備した年代は調べていないが、明治30±10年と思われる。
左の地図は「大正元年 日本橋地籍地図」(『中央区沿革図集[日本橋編]』(平成7年、中央区立京橋図書館)。芳町通りは親父橋の通りの両側を広げるかたちで整備された。また、親父橋から人形町交差点に直接つながるように少し斜めに引かれている。そのため、新芳町と芳町は町域の半分近くが道路になってしまった。写真の三角形の場所は明治・大正期では「日本橋区芳町四ノ二」という住所になっていたらしい。
芳町通りを境に、北を芳町二丁目、南を芳町一丁目としたのは関東大震災後のことで、1976年には日本橋人形町一丁目に変更され、「芳町」は住所としては消滅した。「芳町通り」も公認の名称ではないから、地元の人でないと通用しないかもしれない。

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