ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:日本事務器。中央区日本橋蛎殻町1-9
1987(昭和62)年5月24日
左:キッチン中村。日本橋蛎殻町1-9
1991(平成3)年8月4日

上写真は割と最近まであった東京穀物商品取引所とカネツ商事の間を新大橋通りの方へ入ったところ。左奥は大間知ビル、高橋理髪店、賛工家具、写真左端の四つ辻の角が「キング(喫茶店?)」。日本事務機は昭和30年頃の火保図にも載っている。建物は戦前のものかどうか微妙である。理髪店は昭和8年の火保図に「床ヤ」となっているから戦前から続いているのだろう。
キッチン中村は日本事務機の横を入ったところ。『 ニッポン懐景録>蛎殻町(2)』に2005年に撮られた写真が載っていて、店構えが改修されている。現在は周囲も含めて「グランドコンシェルジュ日本橋」というオフィスビルに替わり、店は少し移動したが仮店舗のような建物で営業中のようだ。



左:さとこ。日本橋蛎殻町1-8。1901(平成3)年8月4日
右:矢澤商店。日本橋蛎殻町1-8。1987(昭和62)年6月28日

居酒屋の「さとこ」は1枚目写真の賛工家具とキングの間を右へいったところで、建物は今も残っている。やはり居酒屋らしいが、店は「斉家」に替わっている。足場用の丸太が立てかけてある。ものは鉄パイプに替わったが今もそれが置いてある。
矢澤商店(京呉服卸)は新大橋通りの銀杏八幡の裏の路地。写っている建物はまだ残っているかもしれない。写真右端は居酒屋の「ほし」で、昭和30年頃の火保図にも「ほし(ヤキトリ)」の記載がある。

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和光園。中央区日本橋蛎殻町1-11。1987(昭和62)年5月24日

かつて蛎殻町にあった東京穀物商品取引所の並びのカネツ商事(現在はラサ商事本社ビル)の裏手。興味を引く建物が写っているわけではないが、今は大方がビルに建て替わっているので、昔の記録といったところで取り上げてみた。
上、および下左の写真は「東横イン人形町」の北の横丁。上写真の左から、菊池家、和光園(茶舗)、中央ビル別館、たえ(料理屋)、竹田嘉兵衛商店東京店(友松絞り)、ペンギン(撮影時の住宅地図による。なんの商売だかわからないが廃業したように見える)。
現在、中央ビル別館(1階は「海老専家」)とその右の3軒の家が今も残っている。「たえ」は正面は改修されたが店は続いているようだ。



左:たえ。日本橋蛎殻町1-11。1996(平成8)年5月6日
右:旧光峯銅機KK。日本橋蛎殻町1-10。1988(昭和63)年1月24日

銅板貼り看板建築の家は新大橋通りの蛎殻町交差点から昭和通りの江戸橋北交差点への道路に面していた。写真左の駐車場は今「東横イン人形町」が建っている。「光峯銅機」というのは昭和30年頃の火保図からで、撮影時はしもた屋だったようだ。



宮田楽器店、和世。日本橋蛎殻町1-10
1996(平成8)年5月6日

1枚目写真の向かい側。右写真の右から、株式会社和世、宮田楽器店、蛎殻食糧(米店)、蛎殻町ビル。現在、右の2棟が「宮田ビル」に建て替わっている。

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元木工所の民家。神奈川県小田原市板橋。2012(平成24)年4月7日(4枚とも)

醤油醸造所だった内野家の向かい側にある平屋の家。後ろにあるのが木工所の工房だったようで、旧東海道に向いた建物は店舗だったのだろうか。昭和初年の建築らしい。
下の写真の家は内野家から少し西へ行ったところ。やはり平屋で格子窓が外観の特徴で、上の写真の家と似たような建物に見えるが、それよりだいぶ立派である。1928(昭和3)年頃の建築で以前は蕎麦屋だったという。



植村家住宅



二階が張り出している民家

旧東海道と国道1号線が合流する付近にある民家。右側の二階が張り出していて、増築したようにも見える。元は旅館だろうかと思ったがそういうわけではないらしい。『 歴史文化地図』には、「川瀬家住宅【建築年代】1940年(S.15)頃 東京にあった旧嵯峨侯爵邸を解体した際、そのうちの1棟(全体の1/3程)を購入し、現在地に再建した。2階部分の張り出しが印象的である。」と説明されている。
「嵯峨侯爵」とは誰だろうと、ネット検索してみると嵯峨公勝(きんとう)1863-1941か嵯峨実勝(さねとう)1887-1966らしい。実勝の娘・浩(ひろ)は愛新覚羅溥傑(満州帝国皇帝溥儀の弟)と結婚(1937年)した人で、1938年に長女・慧生(えいせい)が生まれた。慧生は1957年12月に天城山心中で死亡した。もしかしたら話が関係ない方向にずれたかもしれない。

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内野邸。神奈川県小田原市板橋。2012(平成24)年4月7日

箱根板橋の旧東海道沿いの中でも目立って目を惹く建物で、また重要な建物である。通りに面して蔵(店蔵)と土蔵造りの母屋(店舗兼用住宅)と隠居処(通りの側は上に窓を開けた漆喰の壁をのせた板塀)が並んでいる。裏には醤油醸造の工場や倉庫が残っている。
現在、「 板橋まちなみファクトリー」というボランティア団体によって、土日を中心に内部公開がされている。150円の入館料では リーフレットの費用くらいにしかならないのではないかと心配だ。これからの維持管理には市や県の補助が必須だろう。
建物については『 庭園(歴史的建造物)保全活用推進員』というサイトに詳しい。1903(明治36)年11月に店蔵、文庫蔵、穀蔵が建った。大工棟梁は板橋村の鈴木卵之助という人で、鈴木工務店は今も続いているらしい。
母屋の右の石造アーチが店舗の出入り口で「武功醤油醸造工場」の看板がかかっている。廃業したのは昭和55年という。

板橋まちなみファクトリー>歴史と背景』に、小田原電気鉄道の路面電車(小田原駅行きらしい)が内野醤油店の前を通過している昭和9年の写真が載っている。店のすぐ東の電柱に「上板橋電車停留場」の標示板があり、子どもを背負った女性が電車を待っている。この写真で路面電車が旧東海道を走っていたことが判った。翌昭和10年には箱根登山電車が小田原―箱根湯本間で開通し、路面電車は箱根板橋―小田原間に短縮される。



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洋館と蔵。神奈川県小田原市板橋
2012(平成24)年4月7日(3枚とも)

箱根板橋の旧東海道の真ん中あたりに、洋館の住宅がある。板橋の旧街道沿いでは古い洋風の建物はこの1軒だけではないかと思う。長方形平面の総二階建ての単純な外観だが、前面のバルコニーが決まっている。バルコニーの手すりと同じデザインの塀が小さな庭をかこっている。建物の角にはギリシャ建築のオーダーをモダンにデザインした飾りがある。南に面したバルコニーが物干し台になっていて実用的に使われているのが面白い。
洋館の右の蔵は京紺屋の老舗・津田家の蔵だそうだ(『 庭園(歴史的建造物)保全活用推進員』)。蔵の右側に平屋の家がくっついていたような跡がある。『国土画像情報>カラー空中写真(昭和63年以前)』では、その建物(作業場だろうか)が写っている。また、その前面に店舗があったのかもしれない。蔵の取り壊しは費用がかかるので残してしまったのだろうか。


下田豆腐店

明治後期に創業したという豆腐店で、建物は関東大震災後のものという。「とうふ工房」として小田原市の「街かど博物館」になっている。その際、『 株式会社 計画・環境建築』という会社が改修などを手掛けたらしく、『 2004とうふ工房』に、改修の内容などが書かれている。「出し桁づくりの建築様式を残しながら外装の改修と内部の展示を行った」ということで、「屋根を緑青色に塗り」「棟の鬼を家紋の入った銅板で再現」「外壁も明るい木製を感じさせる色に塗り替え」たりしているという。

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板橋の旧東海道の家並み。神奈川県小田原市板橋。2012(平成24)年4月7日(3枚とも)

東海道は国道1号線とほぼ一致するが、小田原市の板橋地区ではバイパスが建設され、東海道の道筋はその裏通りのようになっている。国道1号線は板橋見付交差点から元箱根まで「箱根国道」の名称があり、1875(明治8)年に地元住民らの私費で建設された人力車道が始まりという。また、箱根の国道1号線の改良工事は大正9年から始まり、関東大震災の復旧工事を含めて、大正14年7月に開通している。それが板橋付近の国道1号にあたるのかどうかよく判らない。1888(明治21)年に開通した小田原馬車鉄道は現在の1号線を走ったのだろうか?
板橋の旧東海道は国道1号の板橋見付交差点で分れて、新板橋交差点でまた合流する。板橋見付のところは古い街道によく見られる道筋を鍵形に曲げた形状である。改修されているらしく、道幅がわりと広くて旧街道らしくないのだが、昭和初期と思われる古い家が点々と残っていて、その点では旧街道歩きが楽しめる区間である。



廣瀬畳店。1枚目写真の赤い屋根の家と同じような造りの家。平屋のように見えるが、屋根と一階の庇の間に明り取りの窓があるのでおそらく二階建てである。



二階建て出桁造りの家。右は「丸由(まるよし)酒店」。

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