国鉄日本橋寮。中央区日本橋蛎殻町1-15。1985(昭和60)年2月17
昭和8年火保図では「大勝旅館」となっている。このあたりは会社や商店が多いから今で言うビジネスホテルもけっこうあったようだ。斜め向かいには「山本旅館」という同規模の旅館が記載されている。昭和20年代の地図ではすでに「運輸省鉄道総局日本橋寮」だ。
左:1987(昭和62)年頃、右(国鉄日本橋寮の裏側):1987年6月7日
玄関先に「国鉄/日本橋宿泊所」の置き看板?を出している。飲食店でもないのに意味があるのだろうか。
1987(昭和62)年6月28日
日本国有鉄道が分割民営化でJRに変わったのは1987年4月1日、つまり撮影の3ヶ月ほど前のことだった。取り壊されるまで看板は「国鉄」で通したのだろうか。
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周辺地域は、証券と先物の会社が多くありながら、一風かわった雰囲気でした。
晩年、寮と言うよりも宿泊所と言った感じでした、夏になると、ゲタの音をカラコロと鳴らしながら歩く家族連れが歩いていました。
この界隈、路地裏必ずと言っていいほど手こぎポンプがあり、古き良き昭和の香りがした地域でした。
昭和36年?には、此処から八幡様の反対側へ引っ越したのですが
此処あたりが、一番懐かしいですね
此処には小さなお煎餅やさんもありました
八幡様の裏にはギッコンと井戸がありましたよ^^
クマさんのかつての家はどうも「満留賀」という日本そばの店のような気がします。ただしその店の記憶は私にはありません。地図を調べてのことです。同じく「前の印刷屋さん」は「宮島印刷」。「山田湯」が分かりません。どこにあったのでしょうか?
木村湯の和菓子屋はたぶん「紅谷」、我が家でもアイスクリームを買っていました。
水天宮が地べたに建っていたころは私も行っているのですが、すでに忘れかけています。また最近建て替わりましたね。
「秀明閣アパートと荷風」に出した航空写真は「goo地図」の「昭和初期航空写真(東京23区)」です。「昭和初期航空写真(東京23区)」で検索すればすぐ出ると思います。
すいません^^;;
多分お蕎麦屋さんになっているのかなと思います
山田湯は、おばた薬局の前の通りを、本町方向へ2~30mほど行った、角にありました
その先は小さな公園がありました
この素晴らしいブログに出会えたことに感謝します
有難うございました
国鉄日本橋寮、懐かしいです。この斜め向かい、現在のアナリティカビルの隣の写真はお持ちでないでしょうか?
残念ながらお探しの写真は撮っていないようです。
ちなみにアナリティカビルの並びは、1986年の地図では「泰信(泰徳?)ビル、アート、スナック・アン、天狗屋、安達不動産ビル」となっています。