日比谷映画劇場。千代田区有楽町1-2。1984(昭和59)年4月
設計:阿部美樹志、施工:竹中工務店、竣工:1934(昭和9)年。
「阿部美樹志」をネット検索して情報を拾ってみると、コンクリート工学の方で有名らしい。高架鉄道や橋の設計者として名前が出てくる。建物では阪急デパート、墨田区太平の精工舎の工場、八重洲の東京建物本社ビルなど。
昭和21年3月、復興院総裁になっている。震災復興院というのもあったから戦災復興院ともいうらしいが、1945(昭和20)年11月、幣原喜重郎内閣のときに設置され、1948(昭和23)年1月に内務省国土局と統合して建設院に、後に建設省となる。(ウィキペディア参照)
日比谷映画劇場。1984(昭和59)年4月
劇場の建物の後は円形で、屋根はドーム状だった。後ろからも写真を撮っておけばよかったのだが、「なくなるから撮っておこう」と、1・2枚も撮れば気が済んだのだった。当時はぼくの頭にはまだ「近代建築」の概念はなかったようだ。
ぼくは「007ゴールドフィンガー」をここで観たのだが、1965年のことらしい。そんなものを観てないで、街の建物を見て歩けばよかった。
国策ビル。有楽町1-3。1984(昭和59)年9月
昭和30年代に建築されたビルではないかと思う。映画の看板が懸かっているがこのビルに映画館があるわけではない。左からスカラ座、みゆき座、日比谷映画、○○プラザの広告。1階に「東宝三番街」とある。飲食店街になっているらしい。
現在は日比谷シャンテ前の広場になった。
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それにしても54で「人生の終末」を考えとは。まだ「週末」では?
昭和30年40年代を生きた大先輩はいかにお感じになっておられるでしょうか。私は30代で腎臓病を患い40で透析 腎臓移植 46で肝臓半分切除 先日ALSと診断されました。まだまだ生きていける勇気を流一様から頂きました。そうだ人生の週末で頑張ります。
「ときめきがなくなった」のは、子供が与えられた玩具に満足できなくなってくるように、経験と知識が増えるにつれ、多くのものに不満が出てくるのでしょうか。
私の父も戦争アクションが好きで、そういう映画は私が高校生になっても父と一緒に見に行ったものです。「大列車作戦」「ナバロンの要塞」「史上最大の作戦」「大脱走」……
この映画は地元五反田の2番館で見ました 今見ても素晴らしい映画です パリは燃えているか?有楽座でした。史上最大の作戦は渋谷パンテオン ナバロンの要塞も渋谷のパンテオンの5階で見ました 大脱走は
親子3代 父と私 私とせがれと見ました 戦争万歳ではなく男はアクションですよね マックィーン万歳です。
三ツ輪の写真拝見いたしました 懐かしく 昭和43年までは我が家のすき焼きは 三ツ輪か和田金でした と言うのも親父の会社が銀座にあったからです。
写真見て、6月の賞与で三ツ輪で肉買ってこようという気になりました。
一昨日 大森の東邦医大で幼馴染の医者がお前はあと20年は生きられると言ってくれて元気が出たこと追記いたします。ありがとうございます。
下は私の娘です 大学4年 流一さまの写真を楽しみにしております。
http://www.campusnavi.com/misscam/2008/sudou.html
このたび日比谷映画の記事を書こうと画像を探していたところ、流一様のブログに行き当たりました。
懐かしい日比谷映画の姿に郷愁の思いにひたりました。
さて、突然ぶしつけで申し訳ありませんが、日比谷映画の記事を書くに至り、本文中に流一様のブログの日比谷映画の記事のリンクを貼らせていただきたく、ご考慮頂けませんでしょうか。
何卒よろしくお願い致します。
当ブログへのリンクは大歓迎です。よろしくお願いします。
私は映画館へは年1回いくかどうかという人間ですので高橋さんのような映画好きの方がいるのは驚きですが、趣味というのはそういうものですね。
この記事の写真は1984年に撮られていますが、当時は戦前に建築された建物ということにこだわっていて、そんな映画館は当然ながら数は少なく、当ブログでは5・6件しかありません。今考えれば、なんでもかんでも映画館の写真を撮っておけばよかったと思います。
記事に貼らせていただきます。
シネコンだらけになってしまった現在、初代日比谷映画のような風格と個性のある一戸建の映画館は絶滅してしまいました。淋しいかぎりです。