あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

45 二・二六事件 行動隊裁判研究 (一) 『 第一章 序説 』

2016年04月30日 11時43分32秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
一  問題の存在
二  旧陸軍の組織と規律
第二章  反乱の謀議
一  反乱の誘因
二  謀議の成立
第三章  出動命令
一  歩兵第三聯隊
二  歩兵第一聯隊
三  近衛歩兵第三聯隊
第四章  反乱行為の概要
一  反乱罪の成立
二  二月二六日午前
三  二月二六日午後
四  二月二七日
五  二月二八日
六  二月二九日 ( 以上本号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  追訴
第六章  公判審理
第七章  判決
第八章  結語  ( 以上四七号 )
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第一章  序説
一  問題の存在
一  本稿は昭和一一年二月二六日のいわゆる二 ・二六事件における、
  東京の反乱実行部隊に対する軍法会議公判記録 ( 東京地方検察庁保管 ) に基づいて、
反乱行為の経過を明らかにし、かつ、これに対する軍法会議裁判の問題点を検討しようとするものである。
本稿のタイトルは、東京陸軍軍法会議の裁判記録が、反乱実行部隊を 「 行動隊 」 と呼んでいることによる。
二 ・二六事件を管轄する特設軍法会議としての東京陸軍軍法会議には、
第一から第五までの五つの公判廷が設けられた。
・・・(1)
東京陸軍軍法会議設置の経緯とその構成については、
拙稿 「 東京陸軍軍法会議についての法的考察 」 獨協大学法学部創設二五周年記念論文集 ( 一九九二年、第一法規出版 ) 285頁以下参照

行動隊の被告人らは、将校班 ・下士官甲班 ・下士官乙班 ・兵班 ・湯河原班の五グループに分けられ、
将校班は第一、下士官甲班 ( 以下、単に甲班と略記することがある ) は第二、
下士官乙班 ( 以下、単に甲班と略記することがある ) は第三、兵班と湯河原班は別々に第四公判廷において、
それぞれ分離して審理 ・裁判された。
しかし、兵班の裁判記録は、関係者のプライバシー保護のために未だに閲覧を許されないので、
本稿では、将校班及び下士官甲 ・乙両班の各裁判記録と、被告人らに対する判決書を検討するにとどまらざるを得なかった。
・・・(2)
二 ・二六事件における下士官 ・兵の問題については、つとに大木 ( 現姓藤井 ) 康栄氏が詳細な研究結果を発表されている。
大木康栄 「 二 ・二六事件の下士官兵 」 季刊現代史四号224頁参照 ( 一九七四年 )
兵班の公判の状況を知る手がかりとしては、裁判を傍聴した憲兵の東京憲兵隊長に対する 「 二 ・二六事件公判状況の件報告 」
と題する書類がある。
林茂ほか編 『 二 ・二六事件秘録 』 ( 以下、秘録と略記する ) 第三巻208頁以下 ( 一九七一年、小学館 )
なお、埼玉県編 『 二 ・二六事件と郷土兵 』 ( 一九八一年、埼玉県 )、埼玉県民部史編纂室篇
『 雪未だ降りやまず 続 二 ・二六事件と郷土兵 』( 一九八二年、埼玉県史刊行協力会 ) には、

事件に参加した下士官 ・兵の手記が数多く集められている
二 ・二六事件は、
天皇を頂点としたヒエラルキイ機構のもと、一糸乱れぬ統制を誇ったはずのわが国の軍隊が、
上部機構の意思に反して、特定の政治的目的のために組織ぐるみで動いたという、
わが国の政治、経済、軍事史上 空前絶後の事件であった。
明治一一年には、近衛鎮台砲兵が反乱を起こした、いわゆる竹橋事件があったが、
これは西南の役の恩賞を不満とする事件であって、政治的目的の事件ではない。
また昭和七年には、海軍士官と陸軍士官候補生が参加した いわゆる五 ・一五事件が発生したが、
これは 「 軍隊 」 としての組織的行動ではなく、軍人が個人的に参加したテロ事件に過ぎなかった。
これらに対して、二 ・二六事件は、一、五〇〇近い兵力を動員して政治権力の中枢に迫ったクーデタ未遂事件であり、
既発の類似事件とは本質的に性質を異にしていた。
したがって、この事件において、首謀者たちが軍隊の組織をフルに利用して兵士たちを傘下に取り込んでいった過程は、
今日なお研究対象としての価値を失っていないと思われる。
さらにまた、軍法会議公判の経過をみると、弁護人不在で非公開の裁判のため、
あからさまにそれが論議されることはなかったものの、興味深い法律問題と事実認定上の問題が浮かび上がってくる。
本稿では、このような観点から行動隊の行動経過とこれに対する法的処理について、考察を試みたいと考えている。
二  事件を計画し、実行した蹶起将校らの建前では、
  これに参加した下士官 ・兵も、蹶起の趣旨に賛同した 「 同志 」 であった。
たとえば、リーダーの一人 村中孝次は、将校班の第三回公判において、
歩兵第一聯隊第十一中隊の中隊長代理丹生中尉が下士官に蹶起への参加を呼びかけた際の状況について、
次のように述べている。
「 其時ノ下士官ノ意氣ハ非常ニ熾烈デ、進ンデ私共ノ蹶起ニ参加スルト云ヒマシタ。
 中ニハ是非参加ヲ願出タ者モアリマシタガ、残留サセラレタ様デアリマシタ。
( 中略 )
私共ハ、平素命令ニヨル兵力使用ハ絶対反対シテ來マシタガ、コノ丹生中隊ノ状態ヲ見テ、
明カニ同志トシテ蹶起スルノデアルトイフ感ジヲ持チ、力強ク思ヒマシタ 」
第四回公判で、村中は裁判長と次のような押し問答をする。
「 問  被告ハ下士官兵モ同志トシテ起ツタモノデアルト云ツテ居ルガ果シテ左様カ
 答  下士官兵モ同志トシテ立ツタモノデアリマシテ、此ノ點 五 ・一五事件ト同ジデアリマス。
問  夫レデハ、今回ノ蹶起ハ、統帥命令ノ関係ヲ離レテ、同志トシテ下士官兵モ動イタト云フノカ
答  左様デアリマス。同志ノ集団デアリマシテ、軍隊トシテデハアリマセン 」
問  ソレデハ被告ハ、下士官兵ト雖モ命令ヲ以テ行動シタノデハナイカラ、  同ジ罪ヲ負ハネバナラヌト云フノカ
答  私共ノ行動ハ、屢々述ベタ通リ義軍ノ義挙デアリマシテ、惡イコトデハアリマセン。
  今ノ立場トナツテ、或ル一部ノ者ガ下士官兵ヲ庇フ爲、命令デ動カシタト云フ者ガアルカモ知レマセンガ、
私ハ命令デ動カシタトハ思ツテ居リマセン 」
確かに、下士官 ・兵の中にも、将校らと思想を同じくする者が存在した。
湯河原の牧野内大臣襲撃に参加した宇治野時參軍曹と黒澤鶴一 一等兵 ( 共に歩兵第一聯隊 ) は、
その典型的な例である。
・・・(3)
宇治野と黒澤の思想については、拙稿 「 二 ・二六事件湯河原班裁判研究 」 獨協法学43号39頁、41頁参照
しかし、事件で動員された主要部隊の兵力は、
歩兵第三聯隊が下士官 ( 准士官 ・見習医官を含む。以下も同じ ) 六五名 ・兵八六四名、
歩兵第一聯隊が下士官二四名 ・兵四二八名、
近衛歩兵第三聯隊が下士官三名 ・兵五七名、
以上合計下士官九二名 ・兵一、三四九名に達するが、
兵のうちの一、〇二七名 ( 七六% ) は、実に事件の一ケ月前に入隊したばかりの初年兵であった。
・・・(4)
原秀男ほか編 『 検察秘録 二 ・二六事件 』 ( 以下匂坂資料と略記する ) Ⅱ 154頁 ( 一九八九年、角川書店 ) に収録された 「 叛乱部隊参加者一覧表 」 による
いかに、精神教育に励んだとしても、この短期間に一、〇〇〇名もの初年兵に対して、
君側の奸を排除し、天皇親政を実現しようという、いわゆる昭和維新の思想を植えつけ得るはずはない。
彼らは、毎日の軍隊生活に適応するのが精一杯で、小銃の使い方さえまだおぼつかない新兵だったのである。
近衛歩兵第三聯隊の中橋基明中尉は、自らが中隊長代理を務める第七中隊の約半数を率いて事件に参加しているが、
彼はその年の一月一一日に同中隊へ着任したばかりであった。
これでは、いかに中橋が有能であっても、思想教育を徹底することは無理である。
後述のように、彼は齋藤特務曹長の助けを借りることによって、中隊を動かすことができた。
また、二九日早朝には、彼の隙を見て、中隊全員が戦列から離脱してしまった。
このような兵たちを 「 同志 」 と呼ぶことには、無理がある。
村中の主張は、後に正真正銘の 「 同志 」 であるはずの将校からも裏切られる。
清原康平少尉 ( 歩兵第三聯隊第三中隊週番士官 ) は、第一六回公判における尋問の冒頭で、
「 私ハ蹶起将校ト立場ヲ異ニシテ居リマスノデ、同志ト云フ言葉ヲ用ヒマセン 」
と断った上、事件への参加は週番司令安藤大尉の命令によるものであり、また中隊の下士官兵を参加させたのは、
週番士官としての命令によったと述べ、
鈴木金次郎小異( 同聯隊第十中隊週番士官 ) も同様の供述をしている ( 第一七回公判 )。
蹶起将校の中核の一人であった安藤輝三大尉 ( 同聯隊第六中隊長 ) は、
身銭を切っても兵隊の面倒をみるという部下思いの人物で、兵隊たちの尊敬と信頼を一身に集めていた。
( ・・・リンク →『 安王会 』 第六中隊下士官兵の安藤中隊長 )
しかし、その安藤でさえも、事件当日兵に対しては、靖国神社参拝という名目で出動を命じている。
もっとも彼は、「 靖国神社に向かって行くと言った。
行くべき方向を示したのみで、参拝に行くとは言っていない 」 と述べる ( 第二回公判 )。
しかし、安藤が兵たちに向かって、鈴木侍従長を殺しに行くことに同意するかと尋ねた事実がない以上、
これは彼の強弁に過ぎない。
また、前述の中橋中尉は、出発に当たって、兵には明治神宮参拝と称している。
後に、下士官の中からでさえも、「 将校にだまされた 」 と恨む者が出てくるゆえんである。
( 荒木直太朗 ・憲兵調書、奥山粂治 ・乙班第八回公判等 )
いかに村中が強弁しようとも、下士官 ・兵のすべてを 「 同志 」 と呼ぶことはできない。
とくにこのことは、兵についてあてはまる。
連日の激しい訓練で死んだように眠っていた彼らは、非常呼集でたたき起され、
何が何か判らないまま営外に連れ出されている。
とても自らの置かれた状況を、的確に判断できる状態ではなかった。
そもそも軍隊とは、そのような状況判断を兵士に許す場ではない。
彼らは、上官の一方的な命令によって動かされる、将棋の駒のような存在に過ぎないのである。
そこで、この軍隊における命令と服従の関係を法的にどう考えるべきか、
また、違法な命令に対しても服従義務があるのか、という問題が提起される。
これは、下士官判 ・兵班の裁判官を悩ました法律問題であった。
三  では、将校の一方的な命令が下達されれば、兵はいつ、いかなる場合であっても、
命ぜられるままロボットさながら行動するものであろうか、答えは、否である。
兵営生活で兵士を直接掌握しているのは、将校ではなく下士官であった。
その下士官を動かさない限り、実際には兵は動かない。
旧陸軍の現役兵の大半は、明治二二年法律第一号徴兵令、
次いで昭和二年法律第四七号兵役法によって徴集された青年男子であった。
彼らは、二十歳になると徴兵検査を受けさせられ、兵役に耐えられない病弱の者を除いては、
二年間の兵役を義務づけられた ( 国民皆兵 )。
この国民兵を直接掌握し、一人前の兵士に仕立て上げる役割を担ったのは、
二四時間彼らと生活を共にし、その行動を規律する下士官であった。
将校 ( 士官 ) は、兵隊を指揮 ・統率し、命令を下す権限を有するが、直接彼らと生活を共にすることはない。
したがって、建前はともかく、事実上兵隊の生活 ・行動を支配するのは下士官であった。
いかに将校が命令しても、媒介者たる下士官が動かない限りは、実際に兵隊を動かすことはできなかったといわれている。
この意味で、二 ・二六事件で下士官の果した役割は、きわめて大きかったといえる。
そこで問題となるのが、蹶起将校と参加下士官の関係である。
もちろん、下士官にとっても将校は上官であるから、その命令は重い。
しかし、下士官も幹部の一員であり、兵と違って状況判断の能力を備えている。
しかも、彼らの中には、駆け出しの将校よりもはるかに軍隊経験の豊富な者が少なくない。
したがって、形式的な命令服従の関係だけでは将校と下士官との関係を律することはできない。
命令は、下士官にとっても納得できる内容のものでなければならず、
さらに何よりも、将校と下士官の間に人間的、心情的な連帯意識が通っていなければならない。
安藤は、この点について、第一二回公判で次のように述べる。
「 ・・・・コノ下士官ニ對スル命令モ形式デアリマシテ、実質ハ同志デアリマス。
 私ハ、コノ形式ガ命令デ実質ガ同志デアルト云フノガ、軍隊ノ理想的ナルモノト考ヘテ居リマス。
コノ意味ニ於テ本件決行ニ付テハ、下士官兵モ同志デアルト自惚レテ居タノデアリマス 」
反乱参加下士官九四名 ( 近衛師団司令部の大江曹長と湯河原襲撃の宇治野軍曹を含む ) 中 七五名 ( 八〇% ) が起訴されたことは、
検察官がこの将校 ・下士官間の同志的心情を重視したことによるものであろう。
予審官の尋問調書をみると、参加下士官に対する取調べの最大のポイントは、
反乱参加が自主的な意思決定によるものであったかどうかという点にあったことが窺える。
もちろん、将校、とくに中隊長のような直属上官と下士官が、上命下服の関係にあることも無視することはできない。
後述のように、旧軍隊では、上官の命令はすなわち天皇の命令として、
これに絶対に服従することが求められていた。
法廷に立たされた下士官たちの多くは、反乱参加が命令によるものであったことを強調し、
ときには裁判官と激しい議論を交わしている。
このようにして、下士官班の裁判では、被告人の事件への参加が命令によるものだったのか、
それとも、自主的な参加だったのかという問題が、事実認定上の最大の争点となったのである。

二  旧陸軍の組織と規律
本稿では、事件における下士官 ・兵の行動を理解するための一助として、
平時における旧陸軍の組織と、旧陸軍で強調された命令服従の原則について概観することとする。
1  旧陸軍の組織
  陸軍の平時における最大の単位は、師団である。
  師団とは、独立して行動し、作戦できる最小の戦略単位をいう。
昭和一一年 ( 一九三六年 )改訂の陸軍平時編成によると、一師団は歩兵四聯隊 ( 二聯隊で一歩兵旅団を編成 )、
騎兵一聯隊、砲兵一聯隊、その他の支援部隊で編制されるのが通常であり、兵員数は約一万二、〇〇〇名であった。
師団の数は一七で、全国各地 ( 朝鮮を含む ) に配備され、ほかに台湾に駐屯する台湾軍、満洲国に駐屯する関東軍などがあった。
ちなみに、当時関東軍には、日本内地の二個師団が交代で派遣されることになっており、
昭和一一年三月には第一師団が渡満した。
この第一師団ま満洲派遣計画が二 ・二六事件の引き金となったことは後にみるとおりである。
東京に置かれた師団には、天皇親衛隊ともいうべき近衛師団と、第一師団があった。
近衛師団管下の歩兵聯隊には、近衛歩兵第一ないし第四聯隊があり、
いずれも東京市内に駐屯し、交代で皇居の護衛に就いた。
第一師団管下の歩兵四個聯隊のうち、東京市内に配備された部隊は、
歩兵第一聯隊 ( 赤坂、現在の防衛庁所在地 ) と歩兵第三聯隊 ( 麻布、現在の東京大学生産技術研究所の所在地 ) であった。
聯隊とは、その兵種本来の戦闘能力を発揮させるための戦術単位である。
兵営は、通常聯隊単位で設置されていた。
前記陸軍平時編成によると、歩兵聯隊 ( 聯隊長の階級は、通常大佐 ) は、
三大隊 ( 大隊長は、通常少佐 ) と歩兵砲隊で編制され、
各大隊は三中隊と機関銃隊で構成される。
一個中隊は一六〇名、機関銃隊は一〇四名の編成であり、
歩兵一個聯隊は合計一、九九六名の編成と定められていた。
ただ本件発生当時、第一師団は翌月に迫った満洲派遣に焦点を合わせて、
とくに機関銃隊の兵員を増やしていたようであり、歩兵第一、第三聯隊ともその数は二〇八名を超えている。
二  中隊とは、中隊長を中心とする基礎的な戦闘単位であり、
  下士官 ・兵は、この中隊単位で生活を共にし、かつ、教育訓練を受ける。
陸軍軍隊における連隊長以下の各官の職責と
兵営内の生活 ( これを内務班といった ) を規律する軍隊内務書 ( 昭和九年軍令陸第九号 )
の綱領三には、「 兵営ハ苦楽ヲ共ニシ、死生ヲ同ウスル軍人ノ家庭 」 と記しているが、
より具体的には、この中隊こそが 「 軍人ノ家庭 」 であった。
中隊長には、通常大尉の階級にある者が任ぜられる。
中隊長は 「 中隊ヲ統率シ、軍紀ヲ振作シ、風紀ヲ粛正シ、部下教育訓練 」 の責任を負う ( 軍隊内務書二一 )。
すなわち、中隊長は、戦闘員である下士官 ・兵を直接掌握する責任と権限を有しており、
下士官兵 ・兵からいえば、中隊長が直近の直属上官である。
これに対して、連隊長 ・大隊長は、下士官 ・兵の直属上官ではあるが、その関係は間接的であり、
下士官 ・兵への指揮は中隊長に対する命令を経由して行われる。
「 中隊長が連隊長の命令に服従する意味がないばあいには、聯隊はその中隊の一兵をも自己の意志にしたがわせる力がない 」
のである。
ここに、後にみるように、反乱軍に参加した下士官 ・兵が、直属上官たる連隊長 ・大隊長の原隊復帰の説得に応じなかった一因があった。
中隊には、中隊長のスタッフとして、数名の中隊付少尉がおり、中隊長を輔佐して兵の教育訓練に当った。
彼らは、兵たちから教官と呼ばれていた。
しかし、いわばラインとして中隊長の命令を受けて日常業務に従事し、
かつ、兵を直接指導監督する下級幹部は、准士官と下士官であった。
中隊には、通常二名の准士官と、十数名の下士官が配属されていた。
准士官とは、特務曹長の階級にある者であり ( 後に准尉と改称された )、下士官には、曹長、軍曹、伍長の三階級があった。
准士官と曹長は、中隊の総括的な日常業務 ( 庶務 ・人事 ・経理 ・兵器管理など ) を担当した。
中隊の兵は、約三〇名の単位で数個の内務班を構成する。
本件発生当時の歩兵第一、第三聯隊では、各中隊に五つの内務班があった。
各内務班には数名の軍曹 ・伍長が配備され、先任軍曹が班長となった。
兵は、この内務班単位で起居し、班長と班付下士官の指導の下で教育訓練を受けた。
もっとも、下士官の居室は、兵とは別に設けられていた。
三  下士官 ・兵は二四時間営内に居住しているが ( ただし、古参の曹長は、許可を得て得て営外に居住することができた )
  連隊長を始めとする将校 ・准士官は、営外に居住している。
これら営外居住者は、通常は一般のサラリーマンと同様に、朝定時に出勤して夕方定時に退庁する。
したがって、夜は幹部が不在となるが、これをカバーするための制度が、営内に宿直する週番司令と週番士官の制度であった。
週番は、通常土曜日の正午に交代した。
もっとも、都合によって、一時的に日直制度がとられる場合もあった。
事件当時の近衛歩兵第三聯隊 ( 以下、近歩三 と略称する ) がその例である。
週番司令は、聯隊内の秩序維持の総責任者である。
週番司令には、緊急を要する事項で連隊長の指示を仰ぐ余裕がないときは、自らこれを処断する権限が与えられていた。
( 軍隊内務書第一〇〇 )
「 夜の連隊長 」 と称せられたゆえんである。
週番司令には、大尉が交代で勤務についた。
後にみるように、事件当日の歩兵第一聯隊 ( 以下、歩一 と略称する ) の週番司令は、
栗原中尉の要請で他と交代して週番勤務についた革新派シンパの山口一太郎大尉である。( 反乱幇助罪に問われ、無期禁錮の刑を受けた )
山口は、聯隊内に不審な動きがあるとの報告をすべて握りつぶし、反乱部隊の出動を黙認した。
他方、歩兵第三聯隊 ( 以下、歩三と略称する ) の週番司令は、首謀者の一人安藤輝三であった。
安藤は、週番司令の権限を最大限に利用した。
週番司令命令によって、厳重な管理の下に置かれていた弾薬庫から実包多数を搬出 ・分配させ、
かつ、部隊を出動させていたのである。
各中隊には一名の週番士官が置かれた。
週番士官は、週番司令の指揮を受け、中隊週番下士官 ( 一名 ) を指揮して、各中隊の秩序の維持に当たった。
週番士官には中隊付の中少尉と特務曹長が、また週番下士官には中隊付の軍曹 ・伍長が、いずれも交代で勤務した。
反乱に参加した部隊は、ごく一部の例外を除けば、蹶起将校が中隊長または中隊長代理の職にあるか、
あるいは事件前夜に週番士官をつとめていた中隊であった。
すなわち、後者の場合は、中隊長の夜間不在に乗じて、週番士官がその命令権を代行して部隊を出動させたのである。
歩一の山口週番司令が、栗原の要請を容れての交代服務であったことは、前述した。
歩三の清原少尉は、安藤大尉の指示によって、事件前日に他と交代して週番士官となっている。
また、近歩三の中橋中尉は、事件前日の夕刻、自ら日直士官を筒井特務曹長と交代して引き受け、同人を帰宅させた。( 清原 ・予審調書 )
これは、出動に反対しかねない筒井を敬遠するための策であった。

2  命令と服従
軍隊の目的は戦闘である。
軍の力を最大限に発揮し、戦闘で勝利をえるためには、
人力の限界を超えた極限状況下においてさえも、一糸乱れぬ統制が必要である。
このため旧軍では、軍の規律、すなわち軍紀をきわめて重視した。
上官の命令に対する服従を、軍紀の基礎に置いた。
一定の目的を持った社会的集団において、上司の職務上の命令に対して部下の服従義務が要求されることは、
むしろ当然の事理である。
旧官吏服務規律 ( 明治二〇年勅令第三九号 ) 二条も、
「 官吏ハ其職務ニ附本屬長官ノ命令ヲ遵守スベシ。但其命令ニ對シ意見ョ述ルコトヲ得 」
と規定していた。
しかし、官吏が上司の命令に従わない場合は、鳥海事由となるに過ぎなかった。
これに対して、軍刑法では、戦時 ・平時を問わず上官の命令に反抗し、またはこれに服従しない行為を抗命罪として規定し、
厳しく処断したのである。( 陸軍刑法五七、五八条、海軍刑法五五、五六条 )
旧軍隊における服従の原理の原点は、天皇制軍隊の基本理念を樹立した明治一五年の軍人勅諭に見出される。
同勅諭は次のように述べる。
「 凡軍人には、上元帥より下一卒に至るまでその間に官職の階級ありて統屬するのみならず、
 同列同級とても停年に新旧あれば、新任の者は旧任の者に服従すべきものぞ。
下級の者は上官の命を承ること、實は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
軍隊内務書の綱領五は、軍紀と服従について次のように規定する。
軍紀ハ軍隊ノ命脉ナリ。故ニ軍隊ハ常ニ軍紀ヲ振作スルヲ要ス。( 中略 ) 
 服従ハ軍紀ヲ維持スルノ要道タリ。
故ニ至誠上官ニ服従シ、其ノ命令ハ絶対ニ之ヲ励行シ、習性ト成ルニ至ラシムルヲ要ス。( 後略 ) 」
次いで、同書第二章服従の一部を紹介しておこう。
第六  部下タル者其上官ニ服従スルハ、如何ナル場合ヲ問ハズ必ズ厳重ナルベシ。
  部下ニ非ザル受令者ノ命令者ニ對スル場合モ亦之ニ同ジ。
第七  隷屬ノ關係ヲ有セザル上級先任者ト下級新任者トノ間ニ於テモ、各職務ニ妨ナキ限リ服従ノ道ヲ守ルベシ。
第八  命令ハ謹デ之ヲ守リ、直ニ之ヲ行ウベシ。決シテ其当不当ヲ論ジ、其原因理由等ヲ質問スルヲ許サズ。( 後略 )
第九  軍隊ヲ裨益スルニ足ルト信ズル所ハ、上官ヲ補佐スルノ至情ヲ以テ進デ之ヲ上官ニ開陳スルハ、
  各級ノ軍人、特ニ幹部ノ責務トス。然レドモ其ノ開陳ニ當リテハ、秩序ヲ紊ルガ如キコトアルベカラズ。
  又、一度上官ノ決定シタル事項ニ對シテハ、仮令意見ヲ異ニスルトキト雖、常ニ己ヲ虚クシテ、専心上官ノ意図ヲ達スルコトヲ勉ムベシ 」
この服従の倫理は、後にみるように、下士官 ・兵の裁判において、被告人側の最大の抗弁事由として主張される。
また、右の軍隊内務書第九にいう上官への意見の開陳を 「 意見具申 」 と称していたが、
将校の出動命令に対して、被告人が適切な意見具申をしたかどうかも、一つの争点とされた。