獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章 序説
一 問題の存在
二 旧陸軍の組織と規律
第二章 反乱の謀議
一 反乱の誘因
二 謀議の成立
第三章 出動命令
一 歩兵第三聯隊
二 歩兵第一聯隊
三 近衛歩兵第三聯隊
第四章 反乱行為の概要
一 反乱罪の成立
二 二月二六日午前
三 二月二六日午後
四 二月二七日
五 二月二八日
六 二月二九日 ( 以上本号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章 追訴
第六章 公判審理
第七章 判決
第八章 結語 ( 以上四七号 )
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第二章 反乱の謀議
一 反乱の誘因
二 ・二六事件の歴史的背景は、
昭和五年 ( 一九三〇年 ) のロンドン海軍軍縮条約
( 海軍軍令部の反対を押して条約を締結したため、統帥権干犯が問題となり、浜口首相暗殺事件を惹起した )、
同六年の三月事件 ( 宇垣一成陸軍大臣を首相にしようとする陸軍幕僚中心のクーデター計画 )、
同年の一〇月事件 ( 陸軍幕僚を中心とする兵力を使用してのクーデター計画で、その構想は二 ・二六事件をはるかに上回っていた )
にまで遡らなければならない。これら遠因については記述を省略するが、
事件の直接的な誘因としては、一一月二〇日事件と眞崎教育総監更迭事件とを挙げることができるであろう。
また、首謀者らを決意せしめた直接的契機に、相澤事件と第一師団の満洲派遣問題がある。
1 一一月二〇日事件
一一月二〇日事件とは、
幕僚を中心とするいわゆる統制派と、隊付青年将校を中心とするいわゆる皇道派との対立が深まるなか、
士官学校中隊長の職にあった辻正信大尉が、
同校の生徒 ( 士官候補生 )をスパイに使って集めた情報により、
皇道派の中心人物であった村中孝次大尉 ( 当時陸軍大学校学生 )、磯部淺一 一等主計 ( 大尉相当官、当時野砲兵第一聯隊付 )
らが在京の青年将校 ・士官候補生らを使ってクーデターを計画しているとして、
昭和九年 ( 一九三四年 ) 一一月二〇日に関係者を検挙した事件である。
村中 ・磯部は、この事件は参謀本部の片倉少佐 ・辻大尉らのでっち上げであるとして、
語句ちゅうから片倉らを誣告罪で告訴し、徹底的に争った。
しかし、これを受けて陸軍は、辻を指せんする一方、軍紀を紊したとして村中らを定職処分に付した。
不公正な処分に痛憤した村中 ・磯部は、同年七月、ことの顚末を明かにし、、
かつ三月事件 ・十月事件の内容などを暴露する 「 粛軍に関する意見書 」 と題するパンフレットを作り、
・・・(1) 『 現代史資料4 国家主義運動1 』 609頁 ( 一九六三年、みすず書房 ) に収録されている
これを各方面に配布して、軍当局の責任を追及した。
激昂した陸軍首脳部は、同年八月 村中 ・磯部を懲戒免官とし、二人を陸軍から追放した。
この事件が、村中 ・磯部の統制派に対する憎しみをたぎらせる結果となったことはいうまでもない。
手負いの猪のような二人は、後に二 ・二六事件の舞台回しの役をつとめることになる。
また磯部は、二月二十六日午前一〇時頃陸軍大臣官邸で、
宿敵片倉の東部を拳銃で狙撃し、同人に重傷を負わせている。
2 眞崎教育総監更迭事件
眞崎教育総監更迭事件とは、
昭和一〇年七月、青年将校に人望があり、皇道派の頭領的存在であった
眞崎甚三郎陸軍大将を教育総監更職から罷免した事件のことである。
「 陸軍省 参謀本部 教育総監部 関係業務担任規定 」 の細則に、
「 将官ノ人事ニ附内奏スル場合ハ、参謀総長及教育総監ニ協議ス 」 という一項があった。
・・・(2) 『 現代史資料23 国家主義運動3 』 の資料解説 22頁 ( 一九七四年、みすず書房 ) による
これを、陸軍三長官会議という。
ときの陸軍大臣林銑十郎は、提案人事に同意しない眞崎に対して辞任を求めた。
しかし、眞崎がこれに応じなかったため、林は閑院宮参謀総長の同意の下にその更迭を強行した。
眞崎更迭は軍の内外に衝撃を与えたが、
中でも敬愛する眞崎を閑職 ( 軍事参議官 ) に追いやられた皇道派青年将校へのショックは大きかった。
彼らはこの人事を、ロンドン軍縮条約に続く統帥権干犯事件として問題にした。
教育総監の同意を得ないまま天皇に更迭を奏請した行為は、統帥権の侵害に当たるというのである。
陸軍省官制 ( 明治四一年勅令第三一四号 ) 一条には、
「 陸軍大臣ハ陸軍軍政ヲ管理シ、陸軍軍人軍属ヲ統督シ、所轄諸部ヲ監督ス 」 とある。
陸軍大臣が全陸軍の人事権を掌握することは明白であり、三長官の 「 協議 」 の内規を、
参謀総長と教育総監に将官人事についての拒否権を認めた趣旨に解することはできない。
又、人事権の発動を統帥権の範囲に含めて論ずることにも、疑問がある。
人事は軍政上の問題であって、軍令上の問題ではないからである。
しかし、統帥権という聖域を犯されたとして逆上した青年将校たちには、このような法的論理は通用しなかった。
後に蹶起将校らが作った 「 見当リ次第斬殺スベキ人名表 」 のトップには、林の名が挙げられている。
ところが、その林よりももっと憎まれた人物がいた。
それは、グズで無能力の林陸相を操り、この人事を強行させたと思われた、影の実力者永田鉄山少将である。
永田は統制派の中心人物で、当時陸軍省軍務局長の要職にあった。
軍務局長とは、軍の政策立案その他の重要事項すべてを所轄する省内の最重要ポストであるが、
その歴任者の中でもとくに永田は、革新官僚とも交流のある内政外交に通じた陸軍きっての逸材で、
生来の陸軍大臣を嘱望されていた。
3 相澤事件
昭和一〇ねん八月一二日午前九時過ぎ、永田は陸軍省軍務局長室で執務中、
陸軍歩兵中佐相澤三郎に斬殺された。いわゆる相澤事件である。
相澤は満四五歳、同月一日付で福山の歩兵第四一聯隊付から台湾軍への転属を命ぜられた皇道派の将校である。
永田を、「 尽忠至誠ノ眞崎大将ヲシテ教育総監交代ヲ陸相ヲシテ奏上セシメタル如キ、大逆ナル犯罪ヲ犯シ 」 た
陸軍の破壊者と信じての犯行であった。( 第三回予審調書 ) ・・・(3) 匂坂資料 Ⅳ 313頁
村中孝次によると、相澤は 「 至誠神ノ如シト云フベキ純一無雑ノ人 」 であったという。・・・(4) 匂坂資料Ⅳ 403頁
しかし、永田を教育総監更迭の張本人と断ずる根拠については、相澤は
「 前述ノ二文書 ・・・(5) 「 軍閥重臣閥の大逆不逞 」ハ前傾 『 現代史資料4 』 673頁、 「 教育総監更迭事情要点 」 ハ同書678頁
( 筆者注、村中作成の 「 教育総監更迭事情要点 」 と題する文書と、出所不明の 「 軍閥重臣閥の大逆不逞 」 と題する文書をいう )
ニ永田閣下ガ南大将ト策謀シテ眞崎総監罷免ヲ林大臣ニ進言シ、其ノ結果林大臣が眞崎総監罷免ヲ上奏サレタ様ニ書イテアツタノヲ見テ、
永田閣下ハ色々策謀ヲスル人ダカラ、右文書ニ書イテアル如ク、南大将ト策謀シテ林大臣ニ進言シタノハ事実デアロウト推測致シタノデアリマシテ、
之ト云フ確証ハ持ツテ 」 いなかった。( 相澤 ・第一一回予審調書 ) ・・・(6) 匂坂資料 Ⅳ 503頁
相澤は、永田を殺害した後買い物をして、台湾に赴任するつもりであったというが、
これが常識的に理解できない心理状態である。
相澤を逮捕した憲兵は、「 同中佐 ( 筆者注、相澤を指す ) ニ對シ、軍務局長ニ何カ暴行シマセヌデシタカト訊ネマスト、
暴行トハ何カト立腹ノ態度デ、アレハ天ガヤツタノダ、陸軍省ノ門迄ハ相澤ノ行動ダガ、
其後ニ於ル省内ノ行動ハ神様ノ行動ダ、天ニ代リ誅戮ちゅうりくスルト云フ意味ノ、歌ノ様ナモノヲ申シマシタ 」 と述べている。
( 小坂慶助 ・検察官聴取書 ) ・・・(7) 匂坂資料 Ⅳ393頁
この異常な言動からすると、相澤に刑事責任を問うためには、精神鑑定の必要があったように思われる。
相澤は、昭和一〇年一一月二日 用兵器上官暴行、殺人、傷害事件として第一師団軍法会議に起訴され、
翌一二年一月二八日第一回公判が開かれた。
相澤事件が皇道派青年将校に強烈な刺激を与えたことは、いうまでもない。
彼らは、公判を傍聴して相澤に無言の激励を送るだけでなく、
活発な公判闘争を展開して事件の真相を暴き、粛軍の実を挙げようと企てた。
西田税、澁川善助、村中孝次の三人であるが、青年将校への働きかけは村中と澁川が担当した。
彼らは、麻布驅新竜土町のレストラン竜土軒で、数回にわたり青年将校を対象とする相澤中佐公判状況報告会を開いた。
席上、栗原安秀中尉が、われわれは相澤中佐の屍を越えて躍進すると煽動したこともあったという。
・・・(8) 秘録第一巻450頁 ( 一九七一年、小学館 )
・・・・・・・・・挿入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問 安藤大尉より、大眼目を受領した時に、何の目的で受け取ったか。
答 安藤大尉より、之を下士官に見せて呉れないかと申されましたので、軽い気持ちで引受けたので有ります。
問 大眼目を受取った時の其の許の感じは如何
答 内容が相澤中佐の公判でありましたので、なるべく多くの人に見せたらよいと考えました丈であります。
問 相澤中佐公判状況報告会に出席したのは相違なきや
答 麻布驅新竜土町竜土軒には、報告会があつた時弐回出席したのは事実であります。
問 該会合に出席せる人員及其ノ人名は如何
答 人員及氏名は次のとおりであります。
村中孝次、磯部淺一、澁川善助、野中大尉、安藤大尉、坂井中尉、栗原中尉 ( 歩一 )、林少尉 ( 歩一 )、池田少尉 ( 歩一 )、
高橋少尉、常盤少尉、清原少尉、堀内大尉、鈴木少尉、新井中尉、阿部少尉、近歩三中橋中尉、所沢飛行学校河野大尉、
歩一丹生中尉、と私でありますが、出席人名の区別は一回と二回の区別が判然として居りませぬ。
問 相澤中佐の公判状況報告会は何んの目的を以て出席したるや
答 安藤大尉に奨められましたので、公判の情況を聞くこと、
一つには集会する人々の抱いて居る思想の状態をも知って置く必要があると考へまして、
良い機会だと思つて出席する事にしたのでありますが、私は同志である等では全然ありませんが、
野中大尉や安藤大尉とは、思想方面の事を抜きにして、親しかったのでありまして、
同情的立場でありましたが決して同誌ではありません。
問 同情的立場とは如何なることか
答 安藤大尉は私が士官候補生時代に見習士官で居られて、相当面倒を見て戴きました事もあり、
又安藤大尉の思想を離れて見ますと、私心がなく純真であり、真面目の方でありますので、
私は安藤大尉が思想的に動かれたことでも、或は其れが正しいのではあるまいかと考へて居りましたので、
今回の事件があるまでは、其点で私が同情的立場であつたのであります。
問 同情的立場と言ふことは、直接参加せざるも、内部整理の役目に任じて居たのではないか
答 そんな事は絶対にありません
問 相澤中佐公判状況報告会に臨席して如何なる感じを抱きたるや
答 私は相澤中佐の行為は、新聞等で見ました当時は悪いと考へて居りましたが、
公判廷で述べられた内容では、永田中将を殺した後、台湾に赴任せられんとして居られた等と聞きましたので、
吾々常人では想像することが出来ない事をする人があつて、相当修養の出来た人だとも考へて見たこともありました。
問 竜土軒では公判状況以外には何も話がなかつたか。
答 別段他にはなかつた様に思ひます。栗原中尉は、二月四日と記憶して居りますが、
吾々は相澤中佐の屍を超えて躍進するとかの意味のことを言つて居りました。
・・・昭和十一年三月六日 小林美文 第一回憲兵聴取書・・・秘録第一巻450頁 ( 一九七一年、小学館 )
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相澤事件は、青年将校らの精神を著しく昂揚させた。
しかし、当初特別弁護人満井佐吉中佐によってはなばなしく展開された公判闘争も、重要証人の尋問の頃からは、
裁判長の傍聴禁止措置によってすっかりその勢いを失った。
公判闘争に対する青年将校らの失望感が強まると同時に、急進派の磯部、栗原らのボルテージは高まる一方であった。
新井勲によると、
二月一二日夜の竜土軒での公判状況報告会終了後に、村中 ・磯部 ・安藤 ・新井の四人が会合したが、
その席上、軍隊による直接行動を迫る村中 ・磯部と、これに反対する安藤 ・新井が激論を戦わしたという。
・・・(9) 新井勲 『 日本を震撼させた四日間 』 108頁 ( 一九八六年、文芸春秋、文春文庫 ) ( ・・・リンク →竜土軒の激論 )
これに対して西田税は、二月一四、五日頃村中が来て、
「 聯隊の将校の中には、自分が相澤公判に専念していることに快く思わぬ向きがあり、評判が悪い 」
とこぼしたと供述している。( 西田第二回公判 )
しかし村中は、後述のように、すでに前年の一二月には蹶起を決意していることからみると、
西田に対するこの愚痴は、西田から蹶起を制止されることを警戒してのカモフラージュとみるべきであろう。
その当時満洲 ( 現中国東北部 ) に駐留する関東軍には、内地の二個師団が交代で派遣されていた。
昭和一〇年一二月、第一師団の派遣が内定し、その時期は翌年三月とされた。
この情報は、同師団所属の急進派青年将校 ( その多くは歩一、歩三に集中していた ) に衝撃を与えた。
満洲に派遣されれば、二年間は東京を離れることになり、その間は彼らの政治的活動を休止しなければならない。
また、満州駐留中に、ソ連と戦火を交えることになるかもしれない。
来るべき対ソ戦に備えるため、政治を一新して国防を充実したい彼らは、
一刻の猶予も許されないという、せっぱ詰まった心理状態に追い込まれて行った。
こうして、渡満前に行動を起こすべきだとする急進派の意見が、次第に勢いを強めてくる。
この間の事情について、村中は次のように述べている。( 第二回公判 )
「 問 今回ノ蹶起決行ニツイテハ、何日頃カラ決心シタノカ
答 昨年十二月、第一師団ガ満洲ニ派遣サレルトイフ報ガ傳ハリマシタノデ、
第一師団ノ渡満前ニ、主トシテ在京ノ同志ニヨツテ急ニ事ヲ擧ゲナケレバナラヌト考ヘ、
其時決心シタノデアリマス。
問 ソノ頃被告ハ、誰カニ自分ノ決心ヲ打明ケタカ
答 昨年十二月頃ハ、未ダ一人デ心ノ中ニ収メテ居リマシタガ、本年一月ニナツテ、初メテソノ意思ヲ磯部淺一ニ話シタノデアリマス。
又、香田大尉ニモ同様ソノ意思ヲ打明ケマシタ処、二人トモ私ト同意見デアリマシタ。
問 夫レカラ逐次安藤大尉、栗原中尉ト連絡ヲトツタノカ
答 左様デアリマス。ソレラノ者ニ、個人的ニ漠然ト、第一師団渡満前ニ蹶起スル旨ヲ話シタノデアリマス。 ( 後略 )
それまでは蹶起に慎重な態度をとっていた村中までも、危機感に煽られた形で第一師団渡満前の決行を決意したのであった。
この意味で、第一師団の満洲派遣は、二 ・二六事件の起爆剤であった。
二 謀議の成立
一 軍隊を率いての直接行動、すなわち反乱の謀議が形を整え始めたのは、昭和十一年二月に入ってからであつた。
磯部の供述によると、一月初旬頃までは、磯部と河野を中心とする若干名の同志によるテロを考えていたが、
そのような単独行動をとれば必ず他の同志にも迷惑がかかるであろうということを考え、村中、栗原らと協議することにしたという。( 将校班第五回公判 )
この磯部の呼びかけによる会合が二月一〇日夜、歩兵第三聯隊将校集会所で行われた。
出席者は、安藤輝三大尉 ( 歩三 )、河野壽大尉 ( 飛行学校学生 )、栗原安秀中尉 ( 歩一 )、中橋基明中尉 ( 近歩三 )
それに村中と磯部という顔ぶれであった。
この席で、第一師団渡満前に在京同志で蹶起すべきだという話が出たが、具体的な討議には至らず、
安藤もとくに反対する様子はなかった。( 村中 ・第二回公判 )
このとき河野は、牧野伸顕は自分が単独でやると宣言し、一六日には単身拳銃を携えて湯河原に赴き、
牧野の宿舎を探索している。
しかし、その所在を突き止めることができなかったため、これは空振りに終わった。( 河野 ・憲兵調書 )
このころ、栗原は歩一第七中隊長の山口一太郎大尉に会って、二月二二日からの週番司令になるよう、
手配方を依頼している。( 栗原 ・第八回公判 )
週番司令が同志かシンパでないと、計画を探知され、出動を阻止されるおそれがあるからである。
歩一の勤務割当表によると、二月二二日から二九日までの司令は日高友一郎大尉 ( 第五中隊長 ) の予定であり、
山口は二九日から三月六日までの勤務となっていた。
山口は、栗原の申し出によって蹶起が間近に迫ったことを悟ったが、何も聞かずにこれを引き受けた。
彼は聯隊本部の中島軍曹のところに出向いて、三月上旬に引っ越しをするから週番を変えてもらいたいと頼み込み、
日高との入れ替えが決まった。( 中島義房 ・憲兵調書 )
二 一八日夜栗原の自宅に、村中 ・磯部 ・安藤 ・栗原が集まった。
この席で、来週中の決行が提案されたが、意外にも安藤がこれに強く反対した。
時期尚早であり、成算の見込みがないというのである。
安藤は歩三の革新将校の中心人物であり、下士官 ・兵の信望も厚い。
彼が動かなければ、歩三の動員兵力は計画の半分にも満たなくなってしまう。
結局この日は、襲撃の目標 ・方法などについて一応の案が討議されたものの、
決行日時 ・動員兵力等細目の決定には至らず、安藤には同志の出動を黙認してもらうことにして散会した。( 磯部 ・第五回公判 )
一九日、磯部は前夜の話し合いの結果を踏まえて豊橋に行き、豊橋陸軍教導学校勤務の對馬勝男中尉に会い、
豊橋在住の同志で興津の別邸に隠樓する元老西園寺公望を襲撃することを依頼し、
その承諾を得た。( 磯部 ・前同公判 )
二一日夜と翌日二二日朝、磯部は二度にわたり安藤をその自宅に訪ねて、蹶起への参加を説得した。
安藤は、その数日前先輩の野中四郎大尉 ( 歩三第七中隊 ) に決起参加を断った旨を報告したところ、
野中から、
「 なぜ断った、今蹶起しなければ、かえってわれわれに天誅が下るのだ 」
と強く叱責され、恥しい思いをさせられて悩んでいた。
安藤が土壇場まで来て参加を渋った理由の一つに、それまで彼を信頼し、引き立ててくれた連隊長はじめ歩三将校団に対するもんだいがあった。
井出連隊長 ( 当時 ) は、その前年の一月、一部に安藤の急進性を危ぶむ声があったにもかかわらず、
彼を第六中隊長に任命する手続きをとっている。
第六中隊は、かつて秩父宮が中隊長を努めたことのある名誉ある中隊であった。( いわゆる殿下中隊 )
この人事の背景には、安藤の士官候補生時代の教官であり、彼を信ずることの厚かった秩父宮の口添えと、
誠実な人柄の安藤に対する歩三将校団の指示があったという。
井出はこの人事を上申するに当たって、安藤から、「 誓って直接行動は致しません 」 との制約を取り付けている。
このような経緯から、安藤は、
「 中隊長トシテ在職中ハ、イカナル理由アルモ直接行動ハトルコトノデキナイ立場 」 に置かれていたのである。
・・・(10)
予審官の尋問が終わった後、安藤が予審官に提出したと思われる 「 決行前後ノ事情竝立場心境等ニツキ陳述ノ補足 」 と
題する自筆の書面が、記録に編綴されている。
彼はこの書面で決行直前まで参加の勧誘に応じられなかった苦衷を明かにした上、次のように結ぶ。
彼の誠実な人間性を窺わせる文章と思われるので、ここに紹介しておく。
「 此ノ期ニ及ンデ此ノ如キ心境ト立場トヲ申シ述ベルコシハ、心臆シタカノ如ク取ラレ、
マコトニ心苦シイコトデハアリマスガ、前述ノ諸上官、恩師、先輩、同僚ト云フ方々ニ對シ、
今回ノ蹶起ニ方リ私ノ煩悶はんもんシタ心裡、其ノ方々ニ對スル手前上最後迄消極的、逃避的ナ態度ヲシカ取リ得ナカツタ點ヲ、
何ラカノ機会ニ知ツテ頂キ度イ。
然ラザルトキハ、『 純真ニシテ生一本、単純ナ人間 』 トシテ迎ヘラレ、信用サレテヰタ私ガ、
腹ニ一物アツテ虚偽、欺瞞、単純ヲ装ツテ最後マデ瞞着シテキタト云フ誤解ヲ下ニ、
三十年間正シキ道ヲ踏ンデ來タ私ノ人間トシテノ価値ガ失ハレテシマフ。
此ノ點ガ最モ心殘リナルガ故ニ、維新史上ニ於ケル自分ノ抹殺サレルコトヲモ忍ンデ、
此処ニ申シ述ベル次第デアリマス 」
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しかし、その安藤も、ついに二二日朝、「 同志一体感カラ、ソノ時判然サンカニ決心 」 するに至った。( 安藤 ・第一二回公判 )
三 ニ二日午後四時頃、磯部と村中は野中宅を訪れ、状況を説明したところ、野中は参加を快諾した。( 村中 ・第二回公判 )
二二日夜、栗原の自宅で、村中 ・磯部・河野 ・栗原による会合が開かれた。
安藤は、この日から週番勤務のため、出席していない。
磯部から安藤参加の報を聞いた栗原らは、おそらく快哉を叫んだことと思われる。
安藤の参加によって兵力の目鼻もつき、蹶起の日時 ・襲撃の目標などがほぼ確定した。
その概要は、次のとおりである。( 以下、村中の第二回公判における供述による )
① 二月二十六日午前五時を期して一斉に蹶起すること
② 栗原は一隊を指揮して首相官邸を襲撃し、岡田内閣総理大臣を殺害すること
③ 中橋は一隊を指揮して高橋蔵相私邸を襲撃し、同人を殺害した後、できれば坂下門を警護し、奸臣と目される重臣の参内を阻止すること
④ 坂井は一隊を指揮して齋藤内大臣私邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑤ 安藤は一隊を指揮して鈴木侍従長官邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑥ 河野は一隊を指揮して湯河原に滞在中の牧野前内大臣を襲撃し、同人を殺害すること
⑦ 野中は一隊を指揮して警視庁を襲撃 ・占拠し、警察権の発動を阻止すること
⑧ 丹生は一隊を指揮して陸軍省 ・参謀本部 ・陸相官邸を占拠し、村中 ・磯部 ・香田らは陸相に面会して事態収拾につき善処方を要望すること
⑨ 田中は野戦重砲兵第七聯隊の自動車数台をもって、兵員の輸送業務に従事すること
⑩ 對馬ら豊橋部隊は、興津の西園寺別邸を襲撃し、同人を殺害すること
⑪ 村中は香田 ・澁川 ・安田・中島に、磯部は安藤 ・田中 ・山本に、栗原は對馬 ・中橋と歩一の蹶起将校に、安藤は歩三の蹶起将校に、各連絡を取ること
⑫ 合言葉は 「 尊皇討奸 」 とし、同志の標識は三銭切手とすること
以上が、この日決定された主要な事項であった。
蹶起日時の決定理由は、村中の供述などを総合すると次のとおりである。
近歩三が二月二九日から野営演習に出発の予定であり、又第一師団の部隊も三月上旬から演習に出かける。
さらに、二月二二日から歩一では山口が、歩三では安藤が週番司令に当っているが、
その山口は二七日から野営演習に出発する。
このような事情から、「 襲撃準備及ビ兵力出動上ノ便宜等ヲ考慮シテ、二十六日午前五時ニ決行スルコトニ決定 」 した。
まさに、可能な範囲内ぎりぎりでの選択であった。
襲撃目標選定の理由について、村中は次のように述べる。
「 国体破壊の元凶 ・統帥権干犯の不義を討ち取るのが趣旨であった。
具体的には、次のとおり。
西園寺公は、
内閣首班に関する奏請が當を得なかったため、国政を非に導いた。
とくに、統帥権干犯のロンドン条約に関係した齋藤 ・岡田を首相として奏請した責任は重大である。
牧野前内大臣は、
ロンドン条約当時における統帥権干犯に直接関係し、伏見宮の奏上を阻止した。
齋藤内大臣は条約派の巨頭であり、眞崎教育総監更迭につき林陸相を鞭撻し、軍の統帥に容喙ようかいした。
牧野と結託して、重臣ブロックの中心として国政を誤った人物である。
鈴木侍従長は、
条約派の巨頭であり、君側にあって聖明を蔽っている。
岡田総理大臣は、
条約派の一人であって、無為無策にして国政を誤る。
とくに、天皇機関説問題に関する国体明徴においても、その処置は不当である。
高橋大蔵大臣は、
正当の巨頭として参謀本部廃止論を唱え、皇軍親承の基礎を危くする人物である。
また、現在の経済機構を維持しようとして、国防を危殆に瀕せしめている。」
二三日、栗原は夫人を連れて豊橋に赴き、前日の決定事項を對馬と竹嶌に伝達し、その夜は豊橋に泊まった。
その際彼は、小銃用実包二、〇〇〇発を持参し、竹嶌の下宿に運んでいる。
これは、栗原が一年ほど前から実弾演習の都度へそくって、自宅に隠匿していたものである。
夫人を同伴したのは、憲兵の目をごまかすためであった。( 栗原 ・第八回公判 )
・・・(11)
旅行に誘われ、うきうきとして栗原に随行した夫人であったが、
豊橋に着くや否や、来客によって次の間に追いやられたり、夫から宿に置きざりにされたりした。
彼女は、憤懣やるかたのない当時の気持ちを次のように述べている。( 栗原玉枝 ・検察官聴取書 )
「 私ハ一人寂シク取殘サレ、何ノ爲ニ豊橋マデ來タノカ譯ガ判ラズ、腹立タシク感ジテ居リマシタ。
其ノ内ニ安秀ハ帰ツテ來テ寝ミマシタガ、明朝ハ早ク帰京スルノダト申シマスノデ、益々憤慨致シマシタ 」
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四 二三日朝、村中は前日まで旅団現地戦術のため出張中だった香田の自宅を訪れ、
前日の決定事項を伝えた。
その夜、歩三の週番指令室に安藤 ・野中 ・香田・村中 ・磯部が集り、
前日決定した計画内容を再確認し、これを更に詰める協議がなされた。
この席で、新たに、襲撃目標に渡邊教育総監を追加することが決められ、
坂井部隊のうちの高橋 ・安田両少尉が、齋藤邸襲撃後に一部兵員を指揮して担当することとされた。( 磯部 ・第五回公判 )
渡邊の襲撃は、彼が天皇機関説信奉者であり、教育総監として不適任という理由によるものであった。( 村中 ・第二回公判 )
反乱計画は、この日の謀議によって完全に固まった。
二四日夜、歩一の週番指令室に村中 ・磯部 ・野中 ・香田 ・栗原が集合して、最後の打ち合わせを行った。
なお、この日の中橋は、中橋中隊が二六日当日り御守衛控隊の当番に当たっていることを知り、
午後二時頃歩一に行ってこれを栗原に伝えている。( 中橋 ・第一一回公判 )
控隊とは、非常事態に備えての宮城警備の予備隊である。
栗原はこれを聞いて、天祐と喜んだという。
異常事態発生を理由に、中橋が控隊を指揮して出動し、宮城に入る口実が与えられたからである。