協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章 序説
一 問題の存在
二 旧陸軍の組織と規律
第二章 反乱の謀議
一 反乱の誘因
二 謀議の成立
第三章 出動命令
一 歩兵第三聯隊
二 歩兵第一聯隊
三 近衛歩兵第三聯隊
第四章 反乱行為の概要
一 反乱罪の成立
二 二月二六日午前
三 二月二六日午後
四 二月二七日
五 二月二八日
六 二月二九日 ( 以上本号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章 追訴
第六章 公判審理
第七章 判決
第八章 結語 ( 以上四七号 )
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第四章 反乱行為の概要
一 反乱罪の成立
陸軍刑法 ( 明治四一年法律第四六号 ) 第二五条は、次のように規定していた ( 海軍刑法第二〇条モ同文 )。
第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ爲シタル者ハ左ノ区別ニ從テ処断ス
一 首魁ハ死刑ニ處ス
二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ爲イタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ處シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
ここに
「 党ヲ結ブ 」 とは団体を結成することをいい、
「 反乱ヲ爲ス 」 とは軍の組織 ・秩序に逆らって敵対行為に出ることをいう。
したがって、法的には、出動部隊が各聯隊の営門を出た時点で、本罪が成立したというべきである。
ただ事件全体を評価するには、その後の各部隊の行動をみるべきことはいうまでもない。
事件の経過はすでに広く世に知られているが、軍法会議の裁判記録によって初めて明るみに出た事実も少なくない。
ここでは、将校班 ・下士官甲班 ・下士官乙班の裁判記録 ( 公判調書と証拠書類 ) と判決書に基づいて、
各部隊の行動経過を追ってみる。 (1) ・・・判決書は主として伊藤隆・北博昭 『 新訂二 ・二六事件 判決と証拠 』 ( 一九九五年、朝日新聞社 ) によった
二 二月二六日午前
1 丹生部隊と首脳部
一 歩一の第十一中隊ヲ主力とする丹生部隊約一七〇名は、午前五時頃麹町区永田町の陸軍大臣官邸に到着した。
丹生は、主力部隊を同官邸表門に位置させた上、隣接する陸軍省、参謀本部の各門にも武装兵を配置し、
特定人意外の出入を禁止し、かつ陸軍省通信所を占拠して電信電話を停止させた。
陸軍の中枢部を押えることによって、上層部にプレッシャーをかけたのである。
二 武装兵を伴って陸相官邸を訪れた香田 ・村中 ・磯部の首脳部は、川島義之陸軍大臣に面会を申し入れた。
生命の危険を感じた川島は、風邪で就寝中との口実を構えて会うのを渋ったが、濟さんの催促を受け、
六時四〇分頃ようやく彼等の前に現れた。
川島に対して、香田らは蹶起趣意書を朗読し、事件の情況を説明した後、
「 陸軍大臣ノ断乎タル決意ニ依リ速ニ事態ヲ収拾シテ維新ニ邁進スルコト 」
などを求めた 「 陸軍大臣ニ對シ要望スベキ事項 」 と題する書面を提出し、川島に決断を迫った。
本来であれば、陸軍の長たる川島としては、統帥を紊し、軍を私兵化した香田らを厳しく叱責すべき場面である。
しかし、彼は、正面切って彼らを非難することができず、
「 斯クマデ思ヒ詰メテ頂タナラバ、何故早ク云ツテ呉ナカツタカ 」
と愚痴るのが精一杯であった。
村中は、
「陸相ハ、私共ノ行爲ガ惡イトハ云ハレズ、私共ノ精神ヲ認ロラレタ様デアリマシタ 」
と述べている。( 将校班第三回公判 )
困惑しきった川島は、香田らの求めに応じて、青年将校に信望のあった眞崎甚三郎軍事参議官らを呼んで会談に加えた。
眞﨑が到着したときの様子について、当時表門で連絡に当たっていた磯部は次のように述べる。( 同班第五回公判 )
「 眞崎大将ガ来邸シタノニ會ヒマシタノデ、同大将ニ状況を御承知デスカト云ヒマシタ処、
同大将ハ非常ニ緊張シタ顔付デ、トウトウヤツタカト云ハレマシタノデ、
私ハ私共ノ蹶起ノ趣意ガ枉まゲラレテハ困ルト思ヒ、同大将ニオ願ヒシマスト云ヒマシタ処、
同大将ハ判ツテ居ルト云ハレテ車ヲ降リテ官邸内ニ入リマシタ 」
川島は、午前一〇時頃報告のため皇居に向かい、香田らは陸相官邸で待機する形となった。
三 二月二六日午後 ( 省略 )
四 二月二七日 ( 省略 )
五 二月二八日 ( 省略 )
六 二月二九日 ( 省略 )