あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好 皇國維新法案 1 『 はじめに 』

2018年07月21日 05時22分16秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
はじめに

一九三〇年代初頭から後半にかけて、
日本ではクーデター未遂事件や血盟団事件、五 ・一五事件、二 ・二六事件が起こった。
その担い手となった青年将校や社会運動家にとって、
世界恐慌後疲弊していた日本の 「 改造 」 は実行に移すべき焦眉の課題であった。
それゆえ、こうした動きは国家改造の指針 ・構想を数多く生み落とすことになる。
例えば、内務省警保局保安課はこれら改造案を収集し、一九三五年に 『 国家改造論策集 』 を発行した。
同資料には、北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 を筆頭に、
民間の右派社会運動家、団体が出した一九の国家改造案が列挙されている。
同資料は、運動簇生の要因として、農村恐慌、財閥の国益無視による国民の反感、政党政治への不信、
「 欧米文化 」 である個人主義、自由主義、社会主義、共産主義の跋扈、
ワシントン及びロンドン条約における政府の妥協的態度が愛国団体を刺激したこと、
失業者増加と知識階級の就職困難などをあげる。
これらを背景として起きたのが日本主義の台頭、「 左翼闘士の転向 」、「 右翼運動の左翼化 」 だった。
とくに最後者が改造簇生の直接的な要因として次のように説明される。
「 斯くの如くして新に左翼闘士を迎へたる右翼陣営は
此等左翼闘士に依りて国家改造に関する科学的理論と巧妙なる戦術とを伝授せられ
右翼従来の一大欠点たる理論的根拠の貧弱と運動方法の拙劣とを補ひ
全く其の面目を一新し よく大衆を獲得し 之を指導するに及び改造運動は客観的情勢の好適と相俟て
茲に一大進展を示すに至りたり 」
つまり、同資料によれば、国家改造案が夥おびただしく世に出た背景にはいわゆる  「 転向 」 の問題が潜んでいた。
もともと大衆運動と縁遠かった右派社会運動に 「 転向者 」 が加勢することで、
綱領や理論の構築が急速に進み、国家改造案の簇生につながったのである。
その後、同資料は国家改造を必要とする対内的、対外的理由を述べたうえで、
国家改造案の分類 ( 「 純正日本主義 」 「 国家社会主義 」 「農本主義 」 )、実現の手段 ( 合法と非合法 )、
運動の指導勢力 ( 「 軍部 」 「 浪人系団体 」 「 左翼運動よりの転向団体 」 「 農民団体 」 「 宗教団体 」  「 所謂新官僚 」 )
にまで論は及ぶ。
こうした運動にともなって誕生した国家改造案のひとつに、
『 極秘  皇国維新法案  全編 』 ( 以下 『 皇国維新法案 』 ) がある。
同案は、今日までその具体的な内容は明らかになっていない。
他方で、この 『 皇国維新法案 』 とよく似た名称 ・内容を持つ 『 皇政維新法案大綱 』 はその存在が知られており、
『 皇国維新法案 』 の実在が不明だったこともあいまって、これまで両者は混同してとらえられてきた。
本稿では、まずこの錯綜した歴史を解きほぐしながら、これらの資料の内容や背景について考察していきたい。

戦後の研究史上にまず登場したのは 『 皇政維新法案大綱 』 だった。
戦前からの社会運動家で陸軍の皇道派とも交友があった橋本徹馬が、 
 『 天皇と叛乱将校 』 ( 1954年 ) で、この改造案を巻末資料として紹介した。 ・・・リンク →皇政維新法案大綱 
橋本は解説で
「 当時の統制派の将校達が、独伊と結託しつつ
天皇の名において、共産政治を日本に布こうとしていたことが、 これで知られる 」
・・< 註2 ・・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 126頁 1954年五月 日本週報社 > 
と、述べ、この資料を統制派のもの、
しかもこの計画を立案した人物として永田鉄山をあげ、
「 その筆になる計画案は、今も某氏の手元に保存せられている 」 とした。・・< 註3 ・・・橋本徹馬 『 天皇と叛乱将校 』 15頁 >
この某氏とは、竹山道雄氏によれば皇道派の領袖荒木貞夫だったという。
竹山氏は 『 昭和の精神史 』 ( 1956年 ) で、
「 今でも荒木貞夫将軍の手元にあるそうで、永田筆跡であることはたしかだという 」 、
「 この過激な革命プランを、どういうわけか永田課長が軍事課長室の金庫にしまい忘れて、 それが荒木大将の手に入つた」
と述べた。・・< 註4 ・・・竹山道雄 『 昭和の精神史  竹山道雄著作集一 』 65頁 1983年3月 福武書店 ・・原著は1956年5月 新潮社発行 >
後述のように、たしかに国会図書館憲政資料室所蔵の荒木関係文章には、一見これに相当する資料がある。
今となっては、『 皇政維新法案大綱 』 が統制派の作という説は完全に否定されている。
逆に興味深いのは、なぜ橋本らがこれを統制派のものと断じたかである。
推察では、『 皇政維新法案大綱 』 には統制派の主張を想起させる 「 一切を挙げて国家総動員へ 」 という文句や、
国家統制経済を掲げた綱領が並んでいたからではなかったかと思われる。
一九六〇年代に入ると、新資料や関係者回想録を背景とした研究の進展とともに、
『 皇政維新法案大綱 』 の位置付けは再検証されていく。
その先鞭せんべんを付けたのが、秦郁彦著 『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』 ( 1962年 ) だった。
同著は、巻末に 『 皇政維新法案大綱 』 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 ) など新資料を収録し、
三月事件から二 ・二六事件までの軍部や社会運動の研究を大きく塗り替えた。
秦郁彦著 『 軍フアシズム運動 』 収録の 『 皇政維新法案大綱 』 は、
橋本徹馬著 『 天皇と叛乱将校 』 ( 1954年 ) の 『 皇政維新法案大綱 』 と大部分重なるが、
末尾に 「 在満決行計画大綱 」 が 添付されたことが大きく異なる。
同法案の位置付けについて、秦氏は次のように解説を添えた。
「 本大綱の原文は、皇道派の大岸頼好中尉が執筆したものであるが、
 昭和七年對馬中尉が某右翼分子に印刷させ、 その後 昭和九年、在満決行計画大綱を付し、
二 ・二六事件の直後さらに前文を加え 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 として配布されたものである。」
・・< 註5 ・・・秦郁彦 『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』 221頁、1962年 河出書房新社 >
ここで 『 皇政維新法案大綱 』 が統制派やその領袖の永田鉄山の作でなく、
皇道派青年将校の大岸頼好によって書かれ、
その後 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』  ( 「 国家改造論策集 」 に収録 ) になるとされた。
また同時期に、秦氏の研究に加えて、これら国家改造案作成に直接携わった青年将校の回想が世に出た。
青年将校のひとり末松太平は、 『 私の昭和史 』 ( 1963年 )で、
『 皇政維新法案大綱 』 は統制派の作という橋本の説を批判した。
末松が同大綱を青年将校の菅波三郎から見せられるシーンを引用しよう。

〔 菅波三郎が 〕 そのとき 「 これなどはその意味において、一応いい案だと思っているがね 」
といって出したのが 『 皇国維新法案大綱 』 というのだった。
これは私も前に見ていた。
青森の連隊時代の大岸中尉の作品で、十月事件の前に私案として同志に印刷配布したものだった。
北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 や、権藤成卿の 『 自治民範 』 や、遠藤友四郎の 『 天皇信仰 』 などを参考文献に起案したものである。
これは橋本徹馬著 『 天皇と叛乱将校 』 のなかの特別資料として全文収録されている。
が、皇道派ひいきの著者は、これを十月事件を企てた統制派の将校たちが
「 独伊と結託して天皇の名において、共産政治を日本に布こうとしていた 」 恰好の証拠品として収録しているのである。
『 天皇と叛乱将校 』 は著者が、これを印刷する前、
二 ・二六事件死者の遺族の会である仏心会の主だった人々の前で読みあげ意見をきいたものである。
私もたまたまその場に同席していた。
それで、そのとき私が柳川平助中将を第一師団官舎に訪ねたときの話をしたのだが、
この著者の私見をまじえて 「 末松大尉との神様問答 」 という見出しで、この著者に採録されているわけだが、
『 皇国維新法案大綱 』 については、
その席で、これは大岸頼好の作品だと私がいくらいっても、
いや、これは統制派のものだ、でなければ、こんな過激なはずはないといって、いっこうにきこうとはしなかった。
いまとなっては、これは大岸頼好の案ではないことにしておいたほうが、本人のためであるかも知れない。
が事実は曲げられない。」 ・・< 註6 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 91、2頁 第五刷 1974年5月 みすず書房 >

この引用中本稿との関連で特筆すべきは 末松が 『 皇国維新法案大綱 』 に言及し、
当事者のひとりとして、改造案作成の背景を具体的に証言した点である。
ここで 『 皇政 』 ではなく 『 皇国 』 を冠する改造案が存在する可能性があることが研究史上明らかになった。
しかし、右の回想だけを見るならば、
『 皇国維新法案大綱 』 は橋本徹馬が紹介した 『 皇政維新法案大綱 』 とほとんど同じものになる。
後者には北、権藤、遠藤の著作が参考文献としてたしかにあげられていたからである。
それゆえ、この本の発刊に強力した二 ・二六事件の研究者高橋正衛氏が、
『 皇国維新法案大綱 』 の箇所に、次の註を付している。

「 註 (19)   全文はこの 『 天皇と叛乱将校 』 以外に、
『 国家改造論集 』 ( 秘 ) 内務省警保局保安課 ( 昭和十年五月 )、85頁--92頁に所収。
秦郁彦著 『 軍ファシズム運動史 』 ( 昭和37年 ) 216--221頁。
なお正式には 『 昭和皇政維新国家総動員大綱 』 」
・・< 註7 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 342頁 第五刷 1974年5月 みすず書房 >

この時点で高橋氏は、 『 皇国維新法案大綱 』 を 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員 〔法案 〕大綱 』 と同じものだとした。
こうして 『 皇国維新法案大綱 』 はふたたび歴史の闇へと沈んでいった。
しかしながら、 『 皇国維新法案大綱 』 をめぐる末松の回想は、
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の内容とすべて一致するわけではなかった。
明かに両案には見いだし得ない情報が書き留められていたからである。
こうした点を高橋氏も無自覚だったわけではない。
『 私の昭和史 』 刊行直後に、
近代日本国家主義運動の得難い資料を収録した 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 ( 1964年 ) が発刊された。
この資料集の解説を書いたのも高橋氏である。
同資料には、先述の内務省警保局保安課 『 国家改造論策集 』 ( 1935年 ) が収録され、
そこに 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 も挙げられた。
この大綱の解説で、高橋氏は
「 非常に似た名称で大岸頼好執筆の 『 皇国維新法案大綱 』 というのが
澁川善助の手で上質紙に印刷されたものがあるが、これは今日殆んどみることが不可能 」 と述べ、・・< 註 8 ・・・ 「 資料解説 」 Ⅺ 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 1989年8月 第9刷 みすず書房 >
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 とは異なる 『 皇国維新法案 』 が存在する可能性があるとしたのである。
しかし、その後の研究では、このもうひとつの可能性はない、もしくは 『 皇国維新法案大綱 』 はないものとする見解が続く。
たとえば、木村時夫氏の 『 北一輝と二 ・二六事件 ( 承前 ) ---その周辺者の思想的対比 』 ( 『 早稲田人文自然科学研究 』 1977年2月号 )
では、末松の回想にあった 『 皇国維新法案大綱 』 は
『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 を指すという高橋説を援用している。
また、稲生展太郎氏は 「 『  「 皇国維新法案大綱 」 抹殺論 』 ( 『 国学院雑誌 』 1979年11月号  、のち 『 東アジアにおける不平等条約体制と近代日本 』 1995年収録 )
で 『 皇国維新法案大綱 』 の所在について検討した。
その名の通り、『 皇国維新法案大綱 』 の実在に疑問を投げかける同論は、
末松証言を検討しながら、最後には 「 末松が、昭和六年、十月事件以前に見たという 『 皇国維新法案大綱 』 なる資料は、
実は青森の鳴海才八が作成し、印刷したばかりの小冊子 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 であった 」 と想定した。
・・< 註 9 ・・・稲生展太郎  『 東アジアにおける不平等条約体制と近代日本 』  228頁 1995年 10月 岩田書院  >
つまり、『 皇国維新法案大綱 』 の存在は末松の記憶違いであったということになる。
このように、末松の回想で一度はその存在が明らかにされかけた 『 皇国維新法案大綱 』 だったが、
その後の研究ではふたたび 『 皇政維新法案大綱 』 と同じもの、
もしくはこれに類する 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の記憶違いとされていった。
本稿の目的は、これらの位置付けをもう一度原資料までたどりながら、検証し直すことである。
しかし、『 皇国維新法案大綱 』 の出自や、
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 との異同を再検証することだけにとどまらない。
二 ・二六事件に至る国家改造運動のなかで、これらの改造法案を生み出した青年将校、
社会運動家を取り巻く思想状況をあらためて振り返りながら、
今日通説となっている統制派対皇道派という図式や、
北一輝 『 日本改造法案大綱 』 と皇道派青年将校の関係を本稿で再検証していく。
・・< 註 10 ・・・既存の青年将校像に対する問題提起は、これまで筒井清忠 『 70年目を迎えてなお残る、単純な青年将校観  二 ・二六事件のイメージ
 はなぜ歪み続けているのか  』 ( 『 中央公論 』 2006年3月号 ) や 須崎愼一 『 二 ・二六事件---青年将校の意識と心理 』 ( 2000年10月 吉川弘文館 )
などで行われており、本校もこうした問題意識を共有している >


次頁 『 皇政維新法案大綱 』 の行方 に 続く