あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好 皇國維新法案 3 『 大岸頼好と皇國維新法案 』

2018年07月17日 18時42分47秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
二  大岸頼好と 『 皇國維新法案 』

1931年 ( 昭和6年 ) 秋に 『 皇政維新法案 』 をまとめた大岸頼好は、
末尾の参考文献一覧に北一輝、権藤成卿、遠藤友四郎の著書をあげていた。
この選書の背景には、大岸が同時期に取り組んでいた国家改造運動の提携があった。
というのも、1931年頃の大岸の目に映った 「 革新運動 」 は、
「 こぢれて、いつの間にか海軍は海軍、民間は民間、東京の西田派は西田派となりました。
 そしてもともと固て居らぬものが矢張り元通り固らぬものとなつた 」 からであった。
・・< 註 25 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 395頁  1990年6月 角川書店 >
そこで大岸は、当時将校間で影響力のあった北説、権藤説、
また彼自身が 「 日本的 」 と評していた遠藤友四郎の説を参照したうえで、
新しい国家改造運動の指針を生み出そうとした。
それが前章で見た 『 皇政維新法案大綱 』 だった。
しかし、その後の大岸は、運動の提携 ・統一よりも思想的な純化を重視するようになる。
それは、北や権藤の説から離れて、かねてから共鳴していた遠藤友四郎の思想、
つまり日本主義へ大岸を傾かせることになった。
大岸は、この離別の背景と思想的な経緯を次のように語っている。

 夫れから満洲事変、上海事変等起り 時代が変化し、
 又人的関係に於ても五 ・一五事件で大川周明は収容され、
権藤成卿は支那思想一流の君民共治思想として批難され、
北一輝もどつかから金を貰て居る、
又外国思想であるとて批難され、遠藤友四郎丈けは批難を受けませんでした。
そして東京の空気は東京丈となり、夫れから九年十年と過ぎ、
私と他の者との間に思想上の懸隔が出来て、
之は對馬であつたか、栗原か磯部か村中か覚えませんが、
私に一度、あなたは改造法案をなぜ信じないかと云はれたことがありました。
私も昭和五、六年頃は確かに改造法案に対して
尊敬と云ふ迄はありませんが多少魅せられて居りましたが、
昭和六年十月以来次第に変化して、昭和九年に這入り明瞭となり、世間にも左様な噂が上る様になりました。」
・・< 註 26 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 396頁  1990年6月 角川書店 >

ここに、すでに1930年代前半の時点で、
北の改造法案をめぐる二つの態度 ( 信奉か否か ) があったことがくっきりと描かれている。
大岸の思想的な後ろ盾である遠藤友四郎はもとキリスト者で、
1906年に同志社神学校に入学するが翌年退学、
1918年には堺利彦の売文社に籍を置いて社会主義運動に加わるが、
翌年高畠素之らとともに国家社会主義運動を起した。
1925年には高畠とも離れて、『 日本思想 』 を創刊し、独自の日本主義運動を推し進めた。
1927年には赤尾敏らと錦旗会を結成している。
なお、遠藤のパトロンのひとりに皇道派の領袖 眞崎甚三郎 ( 1923年参謀次長、三四年教育總監 ) がいた。
眞崎は、皇道派青年将校との公然たる接触を避けつつも、彼らに関する情報収集を怠っていない。
しかし、眞崎は、青年将校が慕う西田税に対しては強い警戒心を抱き、
北一輝の思想に対しても、日記に、
「 今日ハ昭和五、六年頃ヨリ進歩シ、北、大川ノ思想を批判シ得ル程度ニ達シアリ。
 対立ノ如キモ彼等ガ勝手ニ定メタルモノナリ 」 ( 1935年8月23日条 ) 
・・<註 27 ・・・伊藤隆、佐々木隆、季武嘉也、照沼康孝編 『 真崎甚三郎日記  昭和十年三月~昭和十一年三月 』 201頁 1981年7月 山川出版社 >
として、乗り越えるべきものとみなしていた。
おそらく眞崎は、北の思想を国家社会主義や国家統制主義と解していたと思われるが、
それと対峙する日本主義者、すなわち 『 原理日本 』 の蓑田胸喜や三井甲之ら、
『 日本思想 』 の遠藤友四郎を積極的に支援していた。
これは、国家社会主義勢力の駆逐と天皇機関説への誌上攻撃を煽ることが目的だったと思われる。
しかし、蓑田と遠藤では、真崎の対応は異なる。
当初眞崎は、蓑田を 「 頗ル熱狂漢 」 ( 1934年6月15日条 ) と評していたが、
のちに 「 予ハ若宮 ( 卯之助 )、蓑田等個々ノ人間ニ共鳴シタルニアラズ、全ク其ノ主義思想ナリ 」
( 同年10月26日条 ) と述べたり、
蓑田を 「 地獄ニ陥リタル者 」 ( 1935年7月3日条 ) と評したりするなど距離を置くようになる。
・・< 註 28 ・・・伊藤隆、佐々木隆、季武嘉也、照沼康孝編 『 真崎甚三郎日記  昭和十年三月~昭和十一年三月 』 145頁 1981年7月 山川出版社 >
これに対し、遠藤の場合は、その妻しげの も真崎のもとに足繁く通っている。
しげの が最初に日記に登場するのは1934年に入ってからで、
「 眞崎甚三郎関係文書 」 には眞崎に夫婦仲を相談した書簡 ( 1937年11月10日付、目録番号127 ) もある。
また、遠藤友四郎自身の書簡も同関係文書にあり、
その時期は1928年から1940年までだが、二 ・二六事件以後が多い。
こちらは時事問題、社会運動関係がメインである。
遠藤らの主な目的は活動資金の無心や軍関係の情報収集だったと思われるが、
蓑田への対応と異なり、真崎日記の描写には同情が垣間見える。
こうして遠藤は眞崎という後ろ盾を得ることで、軍内にも影響力を増していく。
そして、遠藤に感化された一人に大岸頼好がいた。
沿道の思想が大岸を変えていったことは間違いなく、
実際、大岸と遠藤の接触を物語る一節が
他ならぬ遠藤の著作 『 皇国軍人に愬ふ 』 ( 1932年12月 ) に記されている。

私の読者になつて間もなく、
例の十月事件に予め反対したと伝へられる某陸軍尉官は、
今春一種の短い改革案筋書を、リーフレットして配布した。
それは北と権藤とに列べて私の名も挙げられ、
この三者を綜合すれば、こんな立派なものが出来ます、
と云ふ風に主観が示されて居た。
私は直ちに彼を批判したが、前二者と私とは、水と油であつて、絶対に融合性を欠く。」
・・< 註29・・・ 遠藤友四郎 『 皇国軍人に愬ふ 』  46頁1932年12月 錦旗会本部 >

この 「 某陸軍尉官 」 とは大岸のことだろう。
鳴海才八が1932年2月頃印刷 ・頒布した 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』
を大岸は四月頃に受け取ったはずである。
大岸はそれを遠藤に送ったが、
すでに1929年末から北を 「 君主機關説に因はるゝ拝洋唯物魂の徒 」
・・< 註 30 ・・・遠藤友四郎 『 皇国軍人に愬ふ 』  44頁1932年12月 錦旗会本部 >
と批判していた遠藤の応答はむろん 「 非難 」 だった。
それゆえ、のちに大岸は、『 皇政維新法案大綱 』 を書いたかつての自分を振りかえり、
「 研究時代 」 「 思想的誤謬は沢山あります 」
・・< 註 31 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 398頁  1990年6月 角川書店 >
など自省することになる。
しかし、その転換のきっかけは、思想上の問題だけではなかった。
大岸が時期を 「 昭和六年十月以来 」 と指定したように、クーデター未遂事件である十月事件が関係していた。
大岸もこのクーデターに参加すべく上京していた一人であった。
しかし、計画はあえなく失敗し、大岸は青森に帰っていく。
のちにこの事件を 「 大衝動 」 ・・< 註 32 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 399頁  1990年6月 角川書店 >
と 評したように、この事件への失望と反省を契機として、思想的な鈍化に向かったことは想像に難くない。
大岸が 「 外國思想 」 とされた北一輝の改造法案を信じることができなかったのは、
こうした日本主義への傾斜が背景にあったと思われる。
より具体的に語る大岸は、
「 北の改造案はいろいろの思想が混入して居り、たとへば民權思想もあり、又 獨逸流の國家主義的國權思想もあります 」
・・< 註 33 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅱ  匂坂資料 六 』 402頁  1990年6月 角川書店>
として、民主主義や日本的ならざるものをかぎ取っていた。
改めていえば、軍部にも浸透した國家社会主義と日本主義との対立は、人間関係と複雑にからまりながら、
旧来の統制派対皇道派という図式にとどまらず、
皇道派青年将校内でも北の改造法案に依拠しようとするグループと、
そうでないグループとの軋轢あつれきを引きおこしていった。
前者が、東京にあって北 ・西田税につらなる村中孝次、磯部浅一、栗原安秀たち、
後者が和歌山の大岸頼好、末松太平たちとなる。
青年将校のひとり末松太平は、回想で 「 『 日本改造法案大綱 』 をめぐっての東京と和歌山の確執 」
があったこと、 ・・< 註 34 ・・・末松太平 『 私の昭和史 』 236頁 >
「 『 日本改造法案大綱 』 は一点一画の改変も許さないという金科玉条組と、これを過渡的文献にすぎないとするものとの確執 」
・・< 註 35 ・・・ 末松太平 『 軍隊と戦後のなかで   「私の昭和史 」 拾遺 』 122頁 1980年2月 大和書房 >
を伝えている。
末松自身は、二 ・二六事件の第一回公判で法務官から 「 日本改造法案大綱を如何に感ずるや 」 と問われ、
「 戰術的に見て日本改造法案大綱に依る革新は不可なり。 何故なれば、反對者多數あるが爲なり 」
・・< 註 36 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  265頁 >
などと述べた。
しかも、法務官が今回の二 ・二六事件における改造法案の影響に改めて言及すると、
末松は、
「 お考へになることは法務官殿の勝手であるが、私は斯く信ぜず。 蹶起將校が本法案の具現にあたりたりとは今初めて聞きたるなり 」
・・< 註 37 ・・・『 二 ・二六事件秘録 』 三巻  265頁 >
と述べ、当局側の物語を突き放した。
では、末松らは、どのような改造を望んだかであった。
彼は 「 自分らは破壊すれば事足りると思っていた 」 ・・< 註 38 ・・・『 私の昭和史 』 90頁 >
というが、それは先輩で同志の大岸頼好がいればこそであった。
いわば東京グループのイデオローグが北とすれば、和歌山グループのイデオローグが大岸だった。
そして、末松と同じく、北の思想や改造法案に納得できないものを感じていた大岸が、
『 皇政維新法案大綱 』 という試作品を経て、
1934年 ( 昭和9年 ) に生み出した新たなフムログラムが 『 皇国維新法案 』になる。
しかも、北の改造法案が上層部にも受けが悪いことを知っていたことが、
大岸が別案を模索するきっかけにもなっていた。
かつての 『 皇政維新法案大綱 』 が国家改造運動における横の連携を目指すものだったとすれば、
今度の 『 皇國維新法案 』 は上層部の支持を取り付けるまではいかないまでも、
反発を和らげることが意図されていた。
末松は次のように回想している。

北、西田に対しては、『 日本改造法案大綱 』 とともに、先入観的に、
青年将校を支持する軍首脳部のなかにさえ、反発があるときている。
力の均衡が微妙に動揺する場合には、蹶起に反対して現状を維持しようとするものは、
これを勢力挽回の好餌にするだろう。
大岸大尉が別に 『 皇国維新法案 』 を起案し印刷した苦心は、この辺の消息を知っておればこそだった。
大岸大尉がこれの原稿を、はじめて私に提示したとき、それを手中にもてあそびながら、
「 將軍連は 『 改造法案 』 がきらいだからなア ・・・・・」 とつぶやいていた。・・< 註 39 ・・・『 私の昭和史 』 270頁 >

前章で触れたとおり、『 皇國維新法案 』 はこれまで 『 皇政維新法案大綱 』 と混同してとらえられ、
その存在すら明らかではなかった。
しかし、既述のように、ただひとり末松が
『 皇政維新法案大綱 』 とはかならずしも一致しない 『 皇國維新法案大綱 』 を回想していた。
それは次の諸節である。

では一体、『 改造法案 』 のどういった点が意見の衝突となっているのだろうか。
 これに就いて大岸大尉は、あまり語ることを好まぬふうだった。
ただこの点は骨が粉になってもゆずれないといって、二三それをあげるにはあげた。
が、それがどういうことであったかは、いま記憶にない。
私はしかし 『 改造法案 』 批判よりも、それに代わる案があればそれを知りたかった。
それで 「 では 『 改造法案 』 に代わるものがありますか 」 ときいた。
大岸大尉は 「 あるにはあるがね 」 といったきりで口をつぐんだ。
てゆに、勿体ぶるなと思った。
いわなければいわなくてもいいや、おれにいえなくて誰にいえるのだろう、とも思った。・・・・
夕食が終わったあとで大岸大尉は、量ばった和紙の束を持ち出してきた。
「 これはまだ検討を要するもので、人には見せられないものだが・・・・」 
といって私の前に置いた。
私はひらいてみた。
冒頭に 『 皇國維新法案 』 と銘打ってあって、革新案が筆で書きつらねてあった。
これが 『 改造法案 』 に代わる大岸大尉の革新案の草稿だった。
が、それはまだ前編だけで、完結していなかった。
・・< 註 40 ・・・『 私の昭和史 』 103、104頁 >

澁川が大岸大尉の 『 皇國維新法案 』 を印刷したものを、風呂敷一杯重そうに提げて、
また青森にやってきたのは、このときから一ヵ月とはたっていなかった。
これはこんないきさつからだった。
澁川がこの前帰って間もなく、
大岸大尉から、和歌山で 「 人名は見せられないもの 」 と大事がっていた 『 皇國維新法案 』 の草稿を、
どう心境に変化がきたのか、至急印刷したいから澁川に頼んでくれといってきた。
私は早速大岸大尉の意志を澁川に伝えたが、それが出来上がったから、と持参したのである。
「 知っている印刷屋のおやじが奉仕的にやってくれた。
 紙も、おやじが大事なものだから上質紙にしたがいいというのでそうした 」
澁川は風呂敷を解きながら、こういった。
・・< 註 41 ・・・『 私の昭和史 』 110頁 >

ここでは 『 皇國維新法案 』 が 「 前編 」 しか完成していないとされるが、
前章であげたいずれの  『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 にも 「 前編 」 とは記されていない。
また、今回入手した  『 皇國維新法案 』 はたしかに上質紙で作られ、
表紙には 「 前編 」 と書かれている。
旧蔵者である三浦延治は、今日では無名の社会運動家で、
内務省警保局や司法省刑事局にもとくにマークされていなかった。
彼は、1932年に結成された永井了吉の勤皇維新同盟の名古屋支部員で、遠藤友四郎とも交流があり、
のち1934年頃に大森一声を中心に設立された直心道場の一員となっている。
後述する核心社の機関紙 『 核心 』 の編集者でもあった。
一方、大岸の 『 皇國維新法案 』 だが、その内容は
『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と比べて、一変している。
『 皇政維新法案大綱 』 は、「 準備作業 」、「 維新ノ諸動 」、「 維新ヘノ発程 」、
「 皇政維新第一期 」 から第五期の時期区分で構成されている。
国家総動員に向け、天皇大権を発動、枢密顧問官らを罷免、華族制も廃止したうえで、
天皇を補佐する顧問院を設置し、国家改造内閣を樹立する。
また、天皇自身が皇室所有の財産を国家に差し出し、私有を禁止された国民も財産、土地、資本を国家に上納する。
一方で、「 自治 」 が説かれたのも特徴的で、農村、都市、工業において 「 自治制 」 を採用したうえで、
地方議会、国会、憲法などに再構成し、家族単位の国家を確立するというものである。
これに対し、『 皇國維新法案 』 の方では、右記の制度改造論や 「 國家総動員 」 という言葉が退き、
かわりに天皇主義がより強く押し出されている。

以下でその内容を具体的に見ていきたい。 ( 本稿未掲載の 『 極秘 皇國維新法案 前編 』 参照 )
第一編 の内容をまとめれば次のようになる。
「 祖神 」 の 「 直系顕現延長者 」として現人神の天皇がおり、「 顕現延長 」 にいまの 「 大和民族 」 がいる。
それゆえ、天皇と 「 大和民族 」 の関係は 「 大父 ( 至親 ) 」 と 「 赤子 」 の関係であり、
両者とも  「 祖神 」 から発する 「 一大家族體民族 」 なのである。
この家族に流れる民族精神が 「 まつろひ 」 であった。
天皇は神に対して 「 義侠ト犠牲トノ一ツナル 『 まつろひ 』 精神 」 を有するように、民を見て、「 祭政一如ノ御親裁 」 を行う。
その向かう先は、「 大和民族 」 の使命 「 世界修理 ( 創造的世界革命 ) 」、
すなわち 「 不義ノ文化鞏力ニ妖蕩呻吟スル人類ヲ普ク光明平安ニ解放シ、以テ一天四海同胞共和ノ招來 」
することであった。
第二編 は 「 世界的使命 」 として国外関係が述べられる。
「 通則 」 では、「 國際的戰國時代 」 である現代に、「 最高道義國家 」が出現するとし、
それこそが 「 皇國 」 になる。
「 當面ノ方針 」 では、満洲国の独立保全にあたって、列強や中国といかに伍するかが述べられる。
ロシアが赤色の 「 亜細亜侵略者 」 であれば、イギリスは白色の 「 亜細亜僣奪者 」 である。
これらの国に対すべく、ウラル以東や西南アジア、インド、南西太平洋を巻き込んだ 「 亜細亜聯邦 」の結成が必要だとする。
それゆえ、アメリカとの決戦は避けて 「 不戰平和ノ堤契 」 に進むべきとする。
また、中国は 「 皇國ノ實力的扶導ノ下ニ同盟鞏力シテ聯盟亜細亜ヲ結成スベキ一大要素 」 と位置付けられた。
第三編 は、日本を取巻く国際状況の悪化が語られる。
国際聯盟の脱退、南洋委任統治領処分問題、ロンドン軍縮条約の失効と英米等による圧迫、
列強のブロック経済化、中国の反日運動、満洲国の混沌などである。
ここで、やや論理が飛躍しながら、
「 皇國ノ大難ハ常ニ 至尊ノ絶對ヲ冒シ遷シ參ラセシ時ニ到來ス。是レ皇國獨特ノ國難ノ根因ナリ 」
として、天皇信仰の不足が原因とされた。
第四編 の冒頭では、その解決に向けて次のような方法が掲げられた。
至尊絶對神性ノ徹底復固 !!
至尊絶對神性ノ徹底復固ニノミ含蓄セラルル下萬民平等本義ノ徹底確立。
至尊絶對神性ノ徹底復固ニノミ結果スル所謂政治 ・經濟 ・法制 ・思想 ・教育 ・軍事 ・外交ノ國體原理性ヘノ畫期的確立復固、
即チ神州獨自優秀性ノ發揮、而シテ其ノ擴充推延 = 皇道ノ福音ノ世界宣布 ( 創造的世界革命の鴻業遂行 )、
是レ皇國維新ノ眼目ナリ。
註一    「 ナチス 」 ヨリモ 「 フアツシヨ 」 ヨリモ 「 コスミユニズム 」 ヨリモ其他の何レヨリモ、
  ヨリ高ク ヨリ優レタル創造的建設ヲ含蓄スル國體原理
註二    至尊ノ絶對神性徹底復固ニノミ閃發開端スベキ國體原理ノ洋々タル自展。 東洋平和---人類救済ノ大聖顔。

このように 「 国体原理 」 はファシズム、コミュニズム双方を乗り越えるものであった。
まして、個人主義、民主主義、資本主義はさらに否定されるべきものとなる。
「 議會至上組織 」 「 政党組閣制度 」 「 個人搾取資本制經濟 」 を 「 非國體原理制度 」 としてその廃絶を訴え、
ひいては現憲法 ( ただし伏字表記 ) を 「 赤化大憲章 」 としてその理念の廃棄を訴えた。
このために政治では天皇親政はもとより、「 信教自由 」 の廃棄、「 萬民ノ協翼 」 「 有司ノ輔弼 」 など、
思想 ・教育では 「 信教自由 」 「 宗教神道 」 の廃絶にともない、「 民族信仰 」 「 國體教育 」 が掲げられる。
経済では 「 個人搾取資本制經濟 」の断除に向けて天皇の経済大権を確立し、
これを支える万民が経済活動で 「 連帯共和勤勞ノ實 」 を発揮することが訴えられた。
外交、軍事はほとんど語られていないが、
ここに 「國家総動員的國防ノ充實完備 」 として 『 皇政維新法案大綱 』 の若干の名残が見られる。
では、この 『 皇國維新法案 』 はどの程度普及したのだろうか。
末松の回想によれば、西田税は同法案を見るやいなや激怒したという。

『 皇國維新法案 』 というのは未完成であるが、一つの建設業として大岸大尉の起草したものである。
これは大岸大尉からの依頼で澁川が東京で印刷し、青年将校に配ったものだが、しばらく西田にはかくしていた。
西田もながい間それを知らなかった。
知ったのはやっと二 ・二六事件のあった年の正月頃らしかった。
印刷したのは昭和九年だったから不思議にも相当永い期間知らなかったわけである。
その頃澁川に会うと、
「 あれをとうとう西田さんにみつけられたよ、これは誰が書いたのかと、えらくおこっていた 」
と当惑顔をしていた。
酸いも甘いも知りすぎている太ッ腹の西田がそれほどおこるとは私には意外だった。
・・< 註 42 ・・・末松太平 『 二 ・二六外伝  津軽海峡 』 173頁  田村重見編 『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』 1993年10月 >

『 皇國維新法案 』 のどの点が西田を激怒させたかはわからないが、
そこに彼自身が信奉する北の 『 日本改造法案大綱 』 と相容れぬものがあったことはたしかだろう。
この一件から、西田派の青年将校には広まりにくかったことが想像できる。
西田派の佐藤正三 ( 大眼目社 ) は、
戦後の回想で、『 改造法案 』 の西田税に 『 皇國維新法案 』 の大岸頼好という、
二大潮流が青年將校運動のなかにあるのだといった考え方が、私の漠然たる理解の仕方であった 」
と述べ、『 皇國維新法案 』 を真剣に検討することもなかったという。
・・< 註 43 ・・・佐藤正三 「 一期一会 ---大岸さんを偲んで 」 27頁   『 大岸頼好  末松太平--交友と遺文 』  >
今回頒布先が確認できたのは、相澤三郎中佐である。
1935年 ( 昭和10年 ) 8月に相澤は統制派の永田鉄山を刺殺するが、
これにともない行われた同月24日の捜査で、
門司合同運送株式会社倉庫にあった相澤の引越荷物から 『 皇國維新法案 』 が二部押収された。
・・< 註 44 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件Ⅳ 匂坂資料 八 』 291頁  1991年8月 角川書店 >
当局側も証拠物件をいくつか取り出して相澤に訊問しているが、
『 皇國維新法案 』 は俎上に上ってきておらず、当局側も危険視しなかったような事情もあったという。

私はこれを私直接の全国の同志に配ろうと思った。
が、どういうわけか大岸大尉から間もなく、配布はしばらく待ってくれといってきた。
そのときはまだ何部かを独身官舎の若い将校に配っただけで、殆んど手付かずだった。
二 ・二六事件のときまでそのままだった。
湮滅しようと思えばそのひまはあったのに、わざとそのまま残して置いた。
・・<註 45 ・・・『 私の昭和史 』 110頁 >
特に 『 皇國維新法案 』 は、配布を見合わすよう大岸大尉からいわれていたので、
ほとんど手付かずに百部、あるいはもっとあったかも知れないが、
澁川が持ってきてくれたままになっているのを、そのまま残しておいた。」
・・< 註 46 ・・・『 私の昭和史 』 278頁 7頁 >

なぜ大岸が配布を辞めさせたのかは不明だが、
この頒布数の少なさが今日まで 『 皇國維新法案 』 が世に出なかったひとつの要因であろう。

次頁 『 皇魂 』 と 『 皇民新聞 』 に 続く