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「 二、二六事件て何や 」
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「 世直しや 」
私はそう答えた

大岸頼好 皇國維新法案 2 『 皇政維新法案大綱 の行方 』

2018年07月19日 11時26分17秒 | 大岸頼好


大岸頼好

二 ・二六前夜における國家改造案
一  『 皇政維新法案大綱 』 の行方

これまで戦後の研究史における 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の位置付けを見てきたが、
今日まで明らかになっている両改造法案を登場順に整理すれば、以下のようになる。
1、 1935年  内務省警保局保安課 『 國家改造論策集 』
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 昭和皇政維新促進同盟 )
  のち 『 現代史資料 5 国家主義運動 2 』 ( 1964年 ) 収録
  原資料未確認
2、 1954年  橋本徹馬  『 天皇と叛乱将校 』
  「 皇政維新法案大綱 」
  原資料未確認
3、 1962年  秦郁彦  『 軍フアシズム運動--三月事件から二 ・二六事件後まで 』
  「 皇政維新法案大綱 」 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 )
  原資料未確認
4、1989年  『 檢察秘録二 ・二六事件Ⅰ 匂坂資料五 』
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱  」
  「 在満決行計畫大綱  」
  原資料は 「 匂坂春平関係文書 」 ( 国会図書館憲政資料室 ) 
所蔵
また、これ以外に似た名称の改造法案も含めて、国会図書館憲政資料室で原資料をいくつか確認できた。
5、 荒木貞夫関係文書 ( 目録番号309 )
  「國家總動員法案大綱 ・皇政維新法案大綱  」
6、 眞崎甚三郎関係文書 ( 2102 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱  」 ( 昭和皇政維新促進同盟 ) 昭和維新社  ・・・1932年の送付状が添付されている
7、 牧野伸顕関係文書 ( 書類の部118 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱諸言 」 ( 昭和皇政維新促進同盟 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 「 在満決行計画大綱 」 付 )
8、 「 
憲政資料室収集文書 」 ( 1121 )
  「 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 」 ( 「 在満決行計畫大綱 」 付 )

以上をまとめれば、今回確認できた 『 皇政維新法案大綱 』 は 2、3、5 である。
橋本徹馬 収録の 2、は 竹山道雄氏によれば、荒木関係文書の 5、と同一のはずである。
しかし、今回比較したところ、基本的な内容は同じであるものの、
改行の場所や表記が異なる別物であることが判明した。
このため、『 皇政維新法案大綱 』 は 2、3、5 の三種類以上存在したことになる。
オリジナルにもっとも近いと想定されるのは 5、で、
5、のみ 「 諸言 」 「 主要参考並引用文献 」 が 『 皇政維新法案大綱 』 とは別の用紙にそれぞれ刷られている。
一方、 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は 1、4、6、7、8、である。
各資料の様式を比較したところ、オリジナルは眞崎関係文書の 6、の可能性が高い。
同資料には、眞崎宛青森県鯵ケ沢町昭和維新社の封筒、
1932年2月付の昭和皇政維新促進同盟からの送り状 ( ただし日の記入箇所が空白のまま )、
正誤表が添えられている。
送り状には 「 申迄もなく筆者は尊皇愛国の精神に基けるもの御了承の上可燃極秘相成度奉願上候
 / 尚乍失礼とく名し会名も用ひ候段御寛恕被下度候 」 とあり、作成者の名は伏せられた。
6、を他と比較したところ、荒木文書所蔵の 5、に近いことがわかった。
なお、この時点では 「 在満決行計畫大綱 」 は付されていない。
7、は 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を筆写したもので、秋月左都夫から牧野伸顕に宛てられた封筒が添付された。
秋月は、牧野の義兄、外交官で大使を歴任した。
7、には 「 在満決行計畫大綱 」 も記述された。
牧野文書の書翰の部には、秋月から1935年6月14日付で牧野に同大綱の件で書簡が送られており、
そこには同大綱 「 諸言 」 の複写が添えられた。
4、も原資料は筆写されたもので、「 諸言 」 の前に
「 本 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は陸軍部内皇道派のモットーとせるものにして、
今度の二 ・二六事件の根源をなせるものなり。/ 而して本は元大使某氏が最近入手せるものを複写したるものなり 」
・・< 註 11・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件 Ⅰ 匂坂資料 五 』 490頁 1989年 角川書店 >
とあり、こちらも 「 在満決行計画大綱 」 がある。
この 「 某氏 」 は秋月の可能性があるが確証はない。
8、もまた筆写資料で、 「 諸言 」 の前に
「 本 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は陸軍部内皇道派のモットーとせるものにして、
今度の二 ・二六事件の根源をなせるものなり 」 という文章や 「 在満決行計画大綱 」 が付されている。
以上の 『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 に至る流れを改めて考えてみたい。
問題は、1、から 8、のなかでどれが 『 皇政維新法案大綱 』 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の各オリジナルに近いかである。
着目したのは 『 皇政維新法案大綱 』 の 「 諸言 」 にある 「 駢臻 」 「 洗耀開展 」、「 第一章  通則 」 の 「 克服 」、
第五章其二の 「 閉止 」 という各語句、「 實ニ絶大の威力ヲユウスル軍隊ナルコトヲ認識セサルヘカラス。
是皇国ノ徹底維新ト共ニ徹底セル国家総動員ノ必須不可欠ナル所以ナリ。」 という一文である。
これらの語句、文章が各資料でどのように表記されたかをまとめたのが次頁のひょうである。
この比較から、『 皇政維新法案大綱 』 は荒木関係文書の 5、が、
『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は真崎関係文書の 6、が
それ以外の改造案よりもオリジナルに近かったことが確認できる。
1、から 8、までの範囲で考えるならば、おそらく 5、から 3、と 6、原文が生れ、3、から2、が生れた。
6、原文が1、原文につながり、正誤表反映後の 6、から 7、が生れ、さらに 7、から 4、8、が生れた可能性が高い。



秦氏の先述の資料解説によれば、
『 皇政維新法案大綱 』 は大岸頼好が執筆した原案を、
 「 昭和七年 對馬中尉が某右翼分子に印刷配布させた 」
たとあった。
まずはこの点から検証していきたい。
これを一部裏付ける資料として、二 ・二六事件第四師団軍法会議の裁判記録 ( 1936年6月19日 ) がある。
ここには、大岸頼好が検察官から 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 の複写を見せられるシーンがある。
これはおそらく 4、だろう。
大岸は、同案作成の背景を次のように答えたとされる。

答    之 ( 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 ) と 粗同様なもの を、
 私が青森の官舎に居る時遊びに来た青森県西津軽郡黒石村 鳴海某と云ふ四十才位の呉服商人でありますが、
私が座を立て外づした時、同法案大綱を見付けて一週間ばかり貸して呉れと云うて持て行き、
印刷して諸方に配布し、私にも一部送て貰ひました。
当時鉛筆書きの草稿で、私が北、権藤、遠藤、大川等の著書を読んだとき
脳裏に残たものを形態づけ列挙したものであります。
印刷物は和歌山に行てから受取りました。
これは私の研究時代の事で、思想的誤謬は沢山あります。
又民主主義が非常に沢山這入て居ります。
尚之は当時のものに多少手がはいつて居る様です。
鳴海は夫れから印刷して配布したことの詫に和歌山に来た様に思ひます。」
・・< 註12 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録二 ・二六事件 Ⅱ匂坂資料 六 』 398頁 9頁 1989年 角川書店 >

この記述から、大岸が 『 皇政維新法案大綱 』 の作成者であることは間違いなさそうである。
大岸は1902年高知県に生れ、1923年陸軍士官学校本科を卒業 ( 陸士第三五期 、一期前に西田税 )、
歩兵第五十二聯隊付、見習士官から歩兵少尉となるが、1925年から青森歩兵第五聯隊付、同年中尉になっていた。
・・< 註13 ・・・その後大岸は1932年4月に和歌山歩兵第六十一聯隊に補せられ、翌年大尉になる。
ニ ・ニ六事件後は予備役となり、1937年11月に林正義、中村義明と 「 曙 」 創刊。
1939年には昭和通商株式会社に参加。 1952年1月逝去。
大岸については 須山幸雄 『 二 ・二六事件  青春群像 』 ( 1981年2月 芙蓉書房 ) の第三章 「 不運の大器大岸頼好 」 を参照。


右記の引用で、大岸が語る 「 之と粗同様なもの 」 こそ 『 皇政維新法案大綱 』 で、
これをもとに 「 鳴海某 」 が1932年2月に印刷して配布したのが 『 昭和皇政維新国家総動員法案大綱 』 だったと思われる。
秦氏の説明では、後者の発行年月日を
「 二 ・二六事件の直後さらに前文を加え 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 として配布された 」
となっているが、眞崎文書所蔵の 6、に1932年の送付状が添付されているので、二 ・二六事件直後ではない。
また、大岸が和歌山の歩兵第六十一聯隊付を命ぜられるのは1932年4月であることを考えれば、
和歌山にいた大岸が鳴海から受け取った 「 印刷物 」 とは、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 である可能性が高い。
この呉服商の 「 鳴海某 」 とは、鳴海才八のことである。
鳴海は今日では無名の人物だが、ただの商人ではなかった。
彼の経歴の一部が内務省警保局 『 昭和七年中に於ける社會運動の状況 』 に次のように記録されている。

青森県南津軽郡黒石町大字仲町二二呉服雑貨商鳴海才八ハ、
大正二年 ( 1913年 ) 三月市立青森商業學校卒業後家事ノ傍ラ
弘前市在住ノ修養團體、養生會、旭会等ニ關係シツツアリシガ、
昭和五年 ( 1930年 )五月青森県下各地ニ立憲養生會ノ支部ヲ設立シ、
或ハ日本國民党ノ創立當時ニハ其ノ中央委員トナリタル等、漸次熱烈ナル國家主義思想ヲ抱持スルニ至リタリ。
然シテ本年 ( 1932年 ) 2月5日自ラ代表トナリテ陸奥興國同志會を創立シタルガ、
次デ同月上旬頃日本改造法案 ( 北一輝著 ) 自治民範 ( 権藤成卿著 ) 等を基礎トシタル
『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 ナルパンフレットヲ作製シ 昭和皇政維新促進同盟ヲ以テ各方面ニ頒布シ、
爾來屢々上京シテ急進的國家主義團體ヲ歴訪シテ聯絡採リ、又ハ顯官ニ建白書ヲ提出スル等ノコトアリ。 
・・< 註 14 ・・・内務省警保局編 『 社会運動の情況 四 昭和七年 』 927頁  復刻版 1971年12月 三一書房 >

このように鳴海が 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の発行者だったことは間違いなさそうである。
大綱の発行団体は 「 昭和皇政維新促進同盟 」 だが、前掲 『 國家改造論策集 』 でも
「 青森県黒石町陸奥興國同志会鳴海才八が印刷物頒布に際して用ひたるものにて團體の實體なし 」 とある。
・・< 註 15 ・・・内務省警保局保安課 『 国家改造論策集 』 頁無数記載 1935年 >
鳴海を中心とする陸奥興国同志会は、内務省警保局保安課 『 國家主義團體綱領集 』 ( 1934年12月末調 ) 177頁に
「 事務所 」 「 中心人物 」 「 綱領 」 が列挙されたほか、「 齋藤實関係文書 」 ( 書類の部 二  190 「満洲 」 --28 )
にも 「陸奥興國同志會創立宣言/綱領 」、同会作成の 「 昭和維新の指導原理 」 という一連の資料がある。
これらの資料によれば、1931年12月から鳴海を中心に陸奥興国同志会創立の動きがあり、
創立宣言、綱領、会則が、また翌年一月には 「 昭和維新の指導原理 」 が作成された。
この 「 指導原理 」 には、「 一切を挙げて上御一人へ / 一切を挙げて国家総動員へ 」
といった大岸の 『 皇政維新法案大綱 』 から転用した箇所もある。
一方で鳴海に対する周囲の評価は高くはなく、憲兵大尉山中平三は 「 東北、北海道地方出張報告 」 ( 1935年12月 19日付 )
で、陸奥興国同志会と鳴海の素行を次のように報告した。

二、陸奥興國同志會
 鳴海才八ノ主宰ニ係ル会員僅々數名ニシテ元來鳴海ハ捨石トモナルヘキ意氣アル人物ニ非ズ。
單ナル右翼ブローカーニシテ稍々やや誇大妄想狂ナリ。
常ニ賣名宣伝的ニ行動シ他ヨリ出版物ノ郵送ヲ受クル時ハ往々之ヲ複写ノ上自己名義ヲ以テ發送スルコトアリ。
・・・・
青年將校側ニ於テハ鳴海ノ本質ヲ看破シアリテ今ヤ本氣ニ相手シアルモノナシ。」
・・< 註 16 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 363頁 1993年2月 文藝春秋 >

「 往々之ヲ複写ノ上自己名義ヲ以テ發送スルコトアリ 」 というのは、
まさに大岸の 『 皇政維新法案大綱 』 の扱いについてもあてはまろう。
この 「 ブローカー 」 の手によって、大岸の思想は別名の冊子となって伝えられ、その配布先は東京にも及んだ
これは、鳴海の行動範囲が青森一県にとどまらず、東京の国家主義団体にも及んでいたためである。
鳴海は、眞崎甚三郎ら皇道派、国本社グループとも付き合いがあった。
その始まりを特定するのは難しいが、後述する遠藤友四郎から眞崎に宛てられた書簡
( 1928年5月19日付、「 眞崎甚三郎関係文書 」 目録番号130--5 ) には、
「 黒石の青年鳴海才八君より又聞きに達し候事と存上候が
 来る六月中旬出發私他二名 東北一巡不逞思想掃滅尊皇愛國熱を沸騰燃焦せしめんとの心組 」
などとあるので、1920年代末には接触があったと考えられる。
また、同関係文書には眞崎宛陸奥興国同志会書簡が数多くあるほか、
弘前隊報写 「 鳴海才八帰京後の言動 」 ( 1932年10月31日付 目録番号2126 ) という文章にも残されている。
ここには鳴海の交友関係の一端が記され、本間憲一郎の紫山塾、橘孝三郎の愛郷塾、
日本第一新聞社長で画家の宅野田夫と付き合いがあったようである。
公刊されている眞崎甚三郎の日記1934年9月9日条にも、「 午后六時 鳴海才八來訪、是又昔日ノ元氣ナシ 」 
とある。・・< 註 17 ・・・伊藤隆、佐々木隆、秀武嘉也、照沼康孝編 『 眞崎甚三郎日記  昭和七 ・八 ・九年一月~昭和十年二月 』 285頁  1981年1月 山川出版社 >
翌月十五日にも、鳴海は実業家成田努と眞崎を訪ねた。
成田は1892年生まれ、東亜同文書院を出たあと、貿易業を自営し、1933年7月からは大同興行常務をつとめた。
戦後は新東京国際空港公団の総裁になる。・・< 註 18 ・・・秦郁彦編 『 日本近現代人物展歴事典 』 382頁 第二刷 2000年8月 東京大学出版会 >
同時に、彼は国本社メンバーでもあり、木戸幸一 ( 当時厚相 ) に言わせれば 「 平沼 ( 騏一郎 ) 男の子分 」
だった。・・< 註 19 ・・・木戸幸一著 木戸幸一日記研究会編 『 木戸幸一日記 』 上巻 1937年11月11日条 601頁  1990年6月 東京大学出版会 >
その彼と行動をともにする鳴海の交友範囲も重なっていた部分が多かったと推察される。
こうした交流を背景に、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 は主に東京において政治家や軍人、
運動家へ配布されたが、その一部が海を渡って満洲国にも届けられたと考えられる。
これは秦氏が紹介した 『 皇政維新法案大綱 』 に 「 在満決行計畫大綱 」 が添付されていたことと関係してくる。
秦氏の説明によれば、『 皇政維新法案大綱 』 は その後昭和九年、「 在満決行計畫大綱 」 を付しとあるが、
なぜすでに『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 頒布後の1934年に、
その原案である方の 『 皇政維新法案大綱 』 に 「 在満決行計畫大綱 」 が付されたのか、
またそれを付したのは誰かという問題がある。
これらの問題を考えるうえで、青年将校のひとり 菅波三郎の発言に注目したい。
彼は二 ・二六事件の公判や取調べで、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 の作成や、
「 在満決行計畫大綱 」 添付について次のように語っている。

法務部長  「 直接行動の認識に就て訊ねるが、
 被告の理解する改造法案中にても、昭和皇政維新法案、在満決行計畫中にも、
 大岸に宛ため文中にも、共に直接行動を是認しある部分を散見するが、如何 」
菅波三郎  「 在満決行計畫は 関東軍幕僚が昭和八年頃内地と相呼應してやると云ふ案であつて、
私の深く關知する処でない。
改造法案の見解は、前に申した通り、大岸宛の實力云々、
砲煙云々は、相澤公判の證人として出廷する気持を書いたのです。
昭和皇政維新法案は澁川が書いたのです
法  「 ( 満洲 ) 青年同志会のテキストとして
 之等の文章が使用せられて居るのを被告は知らぬと云ふか 」
菅波  「 一切は鳴海啓がやり、他は関東軍の内諾を得てやつたのですから、惡いとは思ひません」
・・< 註 20 ・・・林茂編 『 二 ・二六事件秘録 』 三巻 377頁 1971年9月 小学館 >

公判時に語られた右記の 『 昭和皇政維新法案 』 が  『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を指すなら、
澁川善助作という菅波の発言は事実と異なるし、公判中であることを勘案して、読み解く必要がある。
澁川は後述する直心道場幹部で、北一輝、西田税グループに属していたが、大岸頼好、菅波、末松らとも親しかった。
それゆえに、次の証人尋問で、菅波が 「 在満決行計畫大綱 」 を澁川単独の作と述べたのも疑問が残る。
この訊問が興味深いのは、『 昭和皇政維新法案 』 『 國家総動員大綱 』 『 在満決行計畫大綱 』 が
押収物として提示されていることだが、
訊問内容では 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と表記され、当局側の記述も一貫していない。
菅波は、「 在満決行計畫大綱 」 について次のような経緯を説明している。

四 問  「 在満決行計畫大綱 」 は、何人が何時何処で作成したものか
 此時押収の高検領第□号の証第□ 「 在満決行計畫大綱 」 を示したり
答  「 昭和八年五、六月頃、澁川善助が満洲國公主嶺の當時の私の官舎に於て作成したものであります 」
五 問  如何なる事情で作成されたか
答  「 私は昭和五、六年頃は満洲國東邊道の匪賊討伐に從事中で、
 澁川が東京から來る事は知つて居たが其の日時に付て  はよく存じませぬでした。
恰度五 ・一五事件の事に附私に聽きたい點があると云ふ軍法會議側からの通知で、
 昭和八年五月末頃新京に出て参りました。
其時澁川は私に會ふべく通化に這入り、途中で知らずに行き違ひました。
私が新京滞在中、澁川は新京に歸り、
其の頃の或る日 公主嶺の私の官舎に澁川が柳沢一二、山際満寿一を聯れて來ました・・・・・
同夜は殆んど徹夜して此相談を爲し、翌日私、山際、柳沢等は新京に出たが、
其の留守中に澁川が自分の持參した満鐵改組の三案を冩し、
之れに 「 在満決行計畫大綱 」 を自ら書いて添へて全部を私の宅へに置て、本人は奉天に出發しました。
私は其の日歸宅して、此残されたものを入手した次第であります。」 」
・・< 註 21 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅲ  匂坂資料 七 』 412、3頁  1990年6月 角川書店 
 「 第  号の証  第  号の証 」 の空白部分は原文のママである >

この菅波の供述は時期、場所など具体的で、
「 在満決行計畫大綱 」 作成が1933年5月末頃とあるのは注目される。
憲兵司令部関係資料 「 五 ・一五事件以後ニ於ケル陸軍一部將校ノ動静概況 其三 」 によると、
たしかに澁川は四月十六日に渡満し、
「 五月四日ヨリ通化守備隊将校室ニ宿泊連日日満官衙ヲ訪問ノ上六月二十日大連発帰国セリ 」 とある。
・・< 註 22 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 31頁 1993年2月 文藝春秋 >
もっとも、発案から作成まで澁川単独によるものとは考えにくく、
菅波供述によれば、菅波、澁川らとの徹夜の相談中に 「 在満決行計畫大綱 」 はある程度まとまり、
最後に書きとめたのが澁川だった可能性が高い。
訊問では菅波は澁川の主導性を強調しているが、実際には菅波自身も国家改造運動に積極的で、
そもそも 『 皇國維新法案大綱 』 ( 『 私の昭和史 』 ) を末松に見せたのは菅波だった。
別の憲兵司令部関係資料 「 陸軍一部將校ノ動静概況  其十三 」 でも
「 菅波大尉ノ在満間ニ於ケル行動中補遺事項 」 として次のように記録された。

1、七年  ( 一九三二年 ) 八月着任以來在満青年將校、
 右翼分子ニ面接又ハ文書ヲ以テ皇道原理ノ宣伝普及指導ニ任シ
八年九月満洲青年同志会ヲ組織シ所属分子ヲシテ警備及右翼運動ニ關係アル情報蒐集ニ努ム。
十月頃北ノ改造法案ヲ基礎トシテ改案自作セル 「 國家改造法案 」 ヲ在満同志ニ回覧ス。
在満右翼運動カ自己指導ノ穏健派ト笠木良明ノ急進派トニ対立セルタメ
八年末ヨリ戰爭 ( 線 ) 統一ヲ企畫シテ成ラス。
・・< 註 23 ・・・松本清張、藤井康栄編 『 二 ・二六事件 = 研究資料  Ⅲ 』 177頁 1993年2月 文藝春秋 >

この「 國家改造法案 」 が具体的に何を指すかは明らかではないが、
彼が満洲青年同志会の中心にあって、国家改造運動に取り組んでいた様がうかびあがる。
しかし、一番の問題は、『 皇政維新法案大綱 』 や 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 がどのようにして
「 在満決行計畫大綱 」 に結び付けられたかである。
後者については菅波の訊問でも焦点となっており、担当した予審官は彼に次のように問うている。

十二問    左様だとすれば荒木 ( 章 ) は結局此計畫は知らなかつたか
答    同人は満鐵新京地方事務所長として満鐵内の特秘情報を受けて居つた様で、
時々私も同人から其の特秘情報を貰つて居たが、
日時は判らぬけれども荒木が、満鐵特秘として 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と
之に附録された「 在満決行計畫大綱 」 とを入手し 之を私に見せて呉れた事があります。
左様な事情で、荒木自身も此決行計画の内容は見て知つて居ります。
十三問    其の方は荒木より右のものを見せられた時、
それに基いて其方等が決心し活躍して居る趣旨を説明したではないか
答  全然説明は致しませぬ。
十四問    『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と
 「 在満決行計畫大綱 」 を一緒にしたのは其の方ではないか
答    左様なことは絶對ありませぬ。
 何人がやつた事かも知らず、荒木より見せられた時 驚いた次第であります。
十五問    島一郎に對しては右決行計畫の話をしたではないか
答    致しませぬ。
・・< 註 24 ・・・原秀男、澤地久枝、匂坂哲郎編 『 検察秘録 二 ・二六事件 Ⅲ  匂坂資料 七 』 417頁  1990年6月 角川書店 >

菅波はこのように否定を続け、真相は不明のままである。
また、『 皇政維新法案大綱 』 と 「 在満決行計畫大綱 」 との関係もわかっていない。
いずれにしても、『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 ではなく、
『 皇政維新法案大綱 』 の方に「 在満決行計畫大綱 」 が付されていたことは、
あまり世に出ていない 『 皇政維新法案大綱 』 にアクセスできた、
つまり、大岸に近い人物によるものであつた可能性が高い。
以上の 『 皇政維新法案大綱 』 から 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 に至る経緯をまとめると、
大岸が1931年9月頃に書いた 『 皇政維新法案大綱 』 を参照して、
鳴海は1932年1月頃に 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 を作成、印刷し、
二月頃東京の関係者に頒布した。
その後、1933年5、6月頃に澁川善助、菅波三郎らが 「 在満決行計畫大綱 」 を作成、
同年か翌年に 『 昭和皇政維新國家總動員法案大綱 』 と 「 在満決行計畫大綱 」 は結びつけられたことになる。
しかし、1934年頃になると、大岸の思想はもはや 『 皇政維新法案大綱 』 を書いたときとは異なっていた。
そこで、改めて大岸によって編まれたのが、次章で取りあげる 『 皇國維新法案 』 だった。 

次頁 大岸頼好と 『 皇国維新法案 に 続く