あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

麥屋清濟少尉・挫折した昭和維新 1 『 私は無期禁錮 』

2019年08月11日 05時53分15秒 | 坂井部隊


麥屋清濟少尉

「 政治は時の主権者に従う 」
という言葉がある。
私が二 ・二六事件に参加した頃の国政は、
真に公正な指導原理を欠いた国策が行なわれていて、
およそ国民を対象とした政治など抹殺され、所謂 国民不在の政治が行われていた時代であった。
この世情を もう少し分析してみると、先づ、
国政をあずかる政党のうち主体となる 民政、政友の二大保守党が
共に腐敗堕落し 国民不在の政治を行っていたことが指摘される。
その例を挙げると、
対外的にはロンドン海軍軍縮会議で屈辱的な提案に妥協し、これを批准 (昭和五年) したことであり、
国内的には金解禁  (昭和五~六年) の実施で深刻な不景気を招来し 国民は塗炭の苦汁を飲まされ、
加えて東北地方を襲った冷害 (昭和九年)
及び 同年九月、関西方面に発生した大風害 (室戸台風)
   
身売りする娘                         室戸台風・大阪 四天王寺

など 一連の天災によって日本は未曾有の危機に直面した。
このため庶民は極度の生活困難に陥り、納税すら思うにまかせず、
教員の給料は遅払いとなり、東北地方八戸附近では娘の身売りがおこり、
工場では女工哀史が頻発する有様で、歩三でも東京近在の出身者は日曜ごとに家に帰り、
夕方まで家業の手伝いや引売り (豆腐屋) を 行なって帰隊するという状況であった。
私の村も同様で、食糧は兎も角、経済危機で村民は農閑期 (十月~四月迄約半年) 働きたくとも
当時職場はなく、止むなく遊んでもいられないので山仕事に出掛けるという有様で
金銭収入の途は殆どなかった。
たまたま時局匡救事業の一環として講じられた救済事業 (土木工事) も 村民が殺到したため
私用人数が制限され、余程の幸運がない限り人夫にも出られないという、
因に日当は五十銭であった。
このため学童が持ってゆく弁当はさつま藷が上の部で、
それさえもなく欠食する児童が大半であった。
まことに赤貧洗うが如し といった
現実そのままの姿に慄然たるものを覚えずにはいられなかった。
  
・・・ 後顧の憂い 
この窮状を早く何とかせよ、
仁徳天皇は民のカマドから立登る煙を眺めて政治を行ったというが、
現在でも天皇の政治は そうあるべきである。
それができないのは天皇のとりまきが悪いからだ。
徒に寄生虫的役割りを慣行するだけで国内に目を向けていないからである。
一方 陸軍部内では国内の苦境を他所に二つの主義がぶつかり合い
甲論乙馭の白熱化した場裡を展開中であった。
即ち 満洲以外に侵攻を企図する大陸侵攻作戦主義と、
満洲国政充実とを結び国内改革を推進し 共栄圏を作ろうとする、
いずれも未曾有の大構想であった。
そこで両者は己れの主義主張を貫徹すべく相手を屈服させることと、
国内の世論を短期間のうちに統一する必要に迫られていた。
このように国民の生活は日毎逼迫ひっぱくの度を強め 破綻に近づきつつある時、
陸軍は陸軍独自の一大野望をかかげて実行に移さんとする体制をほのめかしていた。
« これでは日本は滅亡する、一刻も早く国民生活の安定化をはかることが急務だ。
現下の国政は社会態勢の改善以外にない。
これを早急にしかも円滑に処理するには国体真姿の顕現であり、
大御心による政治以外には その打開策はない。
即ち 天皇に政治大権、軍制大権、経済大権等枢要の大権を奉還して
住みよい国造りをすることである。
満洲国の充実政策も、これなら併行して実施可能と思われる。
明治維新は日本の血の中から生まれた。 昭和維新も正にそれと同じである »
日本の国防と兵をあずかる下級青年将校たちの信念はこのような考えを抱き
憂国精神に燃えていたのである。
この考えは当時全国青年将校の一般的与論でもあった。
尚、在京師団では青年将校達による中少尉会が時折開催され、
日本の現状打開策が毎回討議され、
その都度上申書を作成し上層部に提出したが、残念ながら憤慨の域を脱することはなかった。
それは差出された上申書は全部握り潰しになったからで、その理由を一言でいえば
「 どうにもならぬ 」 というのが 本音のようであった。
やがてそこに持上ったのが北一輝の著書 「 日本改造方案大綱 」 で
青年将校の中にこれに共鳴する者が出てきた。
次いで 陸軍部に教育総監真崎甚三郎大将更迭問題がおこった。(昭和十年八月)
これに対し青年将校たちは、国民の生活難を無視して徒に大陸侵攻の野望に立つ陸相、
永田軍務局長を頂点とする幕僚一連の謀略により
皇道派の中心的存在の真崎大将を転出させたことに怒りを爆発、
その指しがねが統制派の軍務局長永田陸軍少将であるときめつけ、
この更迭に対し反対を唱えだした。
この憤懣はやがて相澤事件 (昭和十年八月十二日) となって爆発し、
永田局長は斬殺されるに至った。
その後 開廷された軍法会議の動向は、これまた全国青年将校の注目の的になり、
青年将校運動を更に高揚させた。

以上 要約して述べたが、
これが二・二六事件の勃発の背景で如何に国内が混乱していたか 推察できるであろう。
而して これを天皇親政の政治に戻し、
国民が安心して生活できることを目的として蹶起したのが二・二六事件である。
この場合主謀者が尉官級であったのは、
陸軍の権力主義を持たぬ純粋性が尉官級の他に求められなかったからである。
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・・・中略・・・ 次頁 
麦屋清済少尉・挫折した昭和維新 2 『 リストにある人物が現れたら即時射殺せよ 』
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裁判は三月五日から七月五日までの間、数回出廷して行われたが、
この裁判は弁護なしの一審制で控訴を認めず、非公開、傍聴人なし
という 東京衛戍特設陸軍軍法会議というものであった。
やがて六月四日 求刑がいい渡された。
勿論死刑である。
今までの裁判過程では当然予想された結果だ。
国家がどうなろうと、
それを憂いて蹶起した精神が正しかろうと、

そんなことは裁判には関係はなかったのである。
要は統帥権を干犯し 国軍を私兵化して人を殺害したことに焦点が置かれていたのだった。
しかも
天皇までが 激怒され 即時鎮圧を下令されたとか、
あまりのことに二の句も出ない有様だ。
だから法廷において 村中、磯部の両名は激しい口調で憂国の赤誠心をブチまけ、
国政の腐敗をなじり、軍閥によって陸軍は崩壊すること、
更に偏見とも思われる大御心を叱責したのである。
また 安田少尉は刑死寸前、大音声を張上げ
「 国民よ、軍部を信頼するなかれ 」
と 叫んだそうである。
これには深い意義がある。
軍部とはこの場合 上層部を指しているが、
本人をして ここまで云わしめたのは並大抵の憤激ではなかったものと推察できる。
事件の結果は真にうたた慟哭どうこくの一語に尽きた。
七月五日 判決がおりた。
私は無期禁錮刑に決まった。
私は意外な気持ちで判決を聞いていたが、この時死刑をいい渡されたのは現役将校十三名、
地方人四名 計十七名でその次に私がランクされていた。
死刑の執行は一週間後の七月十二日 朝七時から三回に分けて行われた。
刑場は所内の西北の隅に特設され、銃殺による処刑方式であった。
その朝 点呼が終り、しばらくすると彼等は五人ずつ一列になり、
先任者が号令をかけ 歩調をとりながら刑場に向っていった。
行進に移ると 誰の口からともなく 「 昭和維新の歌 」 が はじめられた。
汨羅の淵に波騒ぎ  巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば  義憤に燃えて血潮湧く
歌声は悲壮感がこもり 私の胸にも突きささる思いであった。
死んで行く彼等の心境は真に歌詩そのものである。
私はだんだんちいさくなってゆく歌声を追いながら ひたすら彼等の冥福を祈り続けた。
こうして三つの組が一時間の間に私の目の前を通過していったが、
それっきり戻ってはこなかった。
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リンク→天皇陛下万歳 
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その後 私の身柄は小菅刑務所に移され、思想犯として服役に入った。
無期刑なので気を長くもって服するようにつとめるうち、
翌十二年、立太子式による恩赦に浴し刑期が二十年に決定した。
その頃だったと思うが 井出前聯隊長が面会にこられた。
既に少将となり敦賀の旅団長として赴任するとかで立寄られたが、
相変わらず肉親のような気がして久しく忘れていた嬉しさを味わった。
また 同じ頃 石原大佐もきてくれた。
彼も中将に昇進していて京都の留守師団長になっていた。
「 皆と一緒に昭和維新をやりたかった。君たちばかりに気の毒をかけたな 」
と 何か不遇をかこつ様子をチラつかせていた。
だが 何もかも 後の祭りである。
坐して刑に服するばかりでしかない私なのである。
次いで昭和十五年、二六〇〇年記念の恩赦で五年減刑となり一五年となった。
昭和十六年には太平洋戦争が勃発し、
泥沼化した支那事変から更に滅亡への方向に突入していった。
かつて我々を弾圧した統制派が皇道派を駆逐して権力の座につき、
軍閥政治を抬頭させ、思うがままの大芝居を打ち、破局への道を進み出したに他ならぬ。
十七年になると帝都には度々空襲警報が発令されるようになり、
刑務所内にも消防隊が組織された。
私は所長から消防団長を任命されたので゛思想犯をもって消火班を編成、
ポンプの操法、消火訓練など重ね 万一に備えた。
この思想犯の中には共産党の佐野学がいて、彼は消火訓練になかなか積極的であった。
こんなことから私は柳川看守長と以前にもまして仲良くなった。
その年の十二月三十一日、はからずも特赦の発令で私を含め三名が仮出所となった。
これは入所中改悛の情が顕著であったというのが理由だそうである。
早速 仮出獄証書を受領し刑務所の裏口からソッと出て、その夜は看守の合宿所に一泊、
翌日 指示された司法省刑事局の太田書記官の所に出頭し あいさつすると、彼は
「長い間御苦労だった。仮出所は国の命令によるものである。
これから静養して身体を丈夫にしてもらいたい。
今後君たちの振り方については別命がある筈だから承知しておいてもらいたい。
下命があった時は同輩と同じぐらいの待遇が与えられるから安心せよ。
それまでしっかり休養しているように 」
と いった。
別命とは何か、私はその時 特攻隊か特務機関あたりに行くのではないかと直感した。
こうして私は久し振りに家に帰ってきた。
仮出所のため刑期が明けるまでは身の所在を明確にする義務があり、
家をあける時は必ず地元警察に届出または連絡することになっていた。
戦争は愈々激しくなり南方では玉砕が相次ぎ 敗色が濃厚になってきた。
そうした中で私はひっそりと農業をやり蚕を飼いながら別命を待った。
しかし日本各地が空襲を受けるに至り日毎主要都市が消滅し、
やがて終戦となったが遂に何の音沙汰もなかった。
そしてその年の十月十七日、
東久邇宮内閣の時 大赦が発令され、私はようやく青天白日の身に戻ることができた。

あれから既に四十数年が経過し
二・二六事件は日本歴史の一頁におさまろうとしている時代になった。
私は当時を想起するたびに、
誰にもできなかった最大の仕事をやったという誇りが湧いてくる。
終戦後は地方の政治にも関与し、養蚕組合長にもなったが、
大きな仕事はやはり二十代で終わったのだと思っている。
あの安田少尉が事件連座の将校を代表しての大音声の血の叫びは見事に的中した。
即ち事件後軍閥は我々の思想とは正反対に、我々を踏台として展開し、
日中戦争---太平洋戦争へと突進したものの戰勢李らず、
昭和二十年、
広島 長崎の原爆投下を最後に八月十五日 敗戦の聖勅はくだり 遂に降伏するに至った。

・・・敗戦の日

かくて 天皇は人間天皇となり、軍は壊滅、主権は在民となり、
社会福祉の充実、言論、政治、結社、宗教は自由となり、
皇族の臣籍降下、華族制度の廃止、

寺社仏閣等特権階級の追放等、
現実的大御心の政治経済という国家は日本人の血に求めることはできなかったが、
外国の手によって所謂 昭和維新が達成されたのはあまりにも皮肉である。
昨日を憶い 今日を考える時、
人知れず無量無限の感に打たれる次第である。
やはりこれが生甲斐ということであろう。

二・二六事件と郷土兵 (  昭和56年・・1981年 )
歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉 「挫折した昭和維新の回想」 から 


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