邪魔ものはやっつけるぞ !
支那事変勃発以後において、
軍部の横暴---ことに統制派すなわち独伊派将校達の横暴眼にあまるものものがあり、
彼らの意のまま通さしめたならば、国家を危くすることが眼に見えていながら、
当時の重臣その他の政治家達が、遂に彼らを制し得ずして、
国家の敗戦降伏の屈辱にまで導いたについては、
この人達が二・二六事件を逆用したことによる点がはなはだ大であると思う。
なかんずく 昭和十五年九月に締結した日独伊三国間の軍事同盟こそは、
太平洋戦争を不可辟にした意味において、日本歴史上の大失態であるが、
これを強硬に主張した陸軍部内独伊派の幕僚達は、この三国同盟さえ締結すれば、
アメリカもイギリスもその威力の前に慴伏しょうふくし、
そのためドイツはイギリスに勝つてヨーロッパはドイツの自由になり、
アジアは日本の自由になると考えたのであるから、その錯覚のはなはだしいのに驚くであろうが、
彼らは、
「 この明白な情勢を見抜き得ないで ( つまり彼らと錯覚を同じうしないで )、
三国同盟締結に反対するような者は、
再び 二・二六事件を起こしてやつつけてしまう 」
と 揚言した。
そうすると当時の近衛内閣も重臣諸公も、この一言に震え上がつて
「 日本を内乱に陥れるよりは 」
とか、或いは
「叛乱将校達に殺されるよりは 」
とか 考えて、
遂に三国同盟を締結し、他日の敗戦降伏への途を開いた。
〔 註 〕
三国同盟締結の当時、
近衛首相より三国同盟締結の外なきにいたつた事情を聴取せられた陛下が、
非常に嘆かれ、国運の前途を憂えられた次第は 拙著 「 天皇秘録 」 に詳述せる通りであるが、
最早この頃におよんでは、軍の主戦派 ( すなわち統制派 ) の独裁制が確立しているので、
陛下の御力をもつてしても、容易に彼らの勢力を抑えようがなかつた。
・
彼らがこのように 二・二六事件を引合いにして、政治家達を威嚇したことはたびたびあつたが、
これを反面からいえば、東条、杉山、寺内、畑、梅津らを頭目とする独伊派将校達は、
かつて自分達の反対派であつた皇道派の企てた叛乱を、よくも十二分に逆用して、
国家を滅亡に導いたものというべきである。
しかもこれらすべての時代を通じて、各地方師団の真面目なる軍人は、
なお依然として軍人への勅諭により、皇軍精神を叩き込まれていたのであり、
そうしてそのような将兵を、天皇の御名において続々死地に追いやつた者は、
皇軍精神を忘れ果てた統制派の将官および、その幕僚達であつたのである。
他日における日本の敗戦降伏の悲運は、決して突然に降つて湧いたのではない。
それは一歩々々誤りを重ねた後の総決算であるが、なかんずく前記の陸海軍大臣任用の改正、
宇垣内閣の流産、日独伊三国同盟の締結等は、日本の他日の大転落への巨歩であつた。
あのような場合にわが上層部が、
二・二六事件のさいの憤激を想起し、一大決意をもつて相当の犠牲をも覚悟し、
誤らぬ処置をとつておけば、他日の無謀な戦争突入もなく、したがつて、
敗戦降伏もなかつたはずであらう。
〔 註 〕
そういう君は支那事変中何をしていたかと、著者に詰問される人があるならば、
著者は米内内閣および第二近衛内閣時代に、非公式に両内閣の依頼を受けて、
支那事変の解決と日米国交調整のために尽くし、
その事績を挙げたことが軍の主戦派の憎むところとなつて、
五十三日間 東京憲兵隊に留置せられ、
釈放とともにさらに六カ月間、郷里に隠退を命ぜられていたことを告げたい。
( 詳細は拙著 「 日米交渉秘話 」 にあり )
われわれは支那事変をこう見た
ついでながら当時の私達が、いかに支那事変が邪道に入らぬように、
苦心努力をしたかを想起する材料として、左に 「 日本国民に告ぐ 」 の一文を掲げておきたい。
支那事変勃発後三年目の昭和十四年十二月に、紫雲荘の名で東京、大阪の各大新聞紙上に、
約半頁大の広告文として発表したその文章の趣旨は、
世界の各大国の指導者諸君が 「 他国を犠牲にするに非あらざれば、自国の繁栄を期することが出来ぬ 」
と考える錯覚よりして、相互に対立闘争をなすことの誤りを指摘し
「 今度の支那事変は侵略戦争ではなく、わが特殊の国体に根ざす聖戦であるから、
支那より取るよりは支那に与うべきである 」
といい、全世界から功利主義の戦争を絶滅すべきである所以を、
別項所載のごとく詳細に説いたものであつた。
何故あの戦争を聖戦だなどと主張したかというと、
当時は軍部の検閲を経たものでなければ声明文の発表は許されず、
もちろん新聞社でも陸軍省閲覧済みでなければ、受付けなかつたのであるから、
あの戦争の主導者であるわが軍部を、頭から攻撃することなどができるはずがなかつたので、
あの戦争を 「 聖戦だ 聖戦だ 」 と主張することによつて、事変が誤つた方面に走るのを、
幾分でも喰止めたいという、切なる願いから書いたものであつた。
当時の武藤軍務局長 ( 中将、絞首刑になつた人 ) は、検閲後その文章を私に返すさいに、
「 この文章はよく読んだ、これは非常に示唆しさの多い文章だと思う。 今後の軍はこの趣旨でいく 」
といつた。
それは支那事変も三年に入つて、ますます拡大の兆きざしがあり、
どこで収拾し得るかの見通しがまるでつかないとき、私の文章によつて武藤局長らが、
救われる途を発見したという意味であつたようだ。
つまり支那事変は聖戦だ、だから元来日本に侵略的野心などはなかつたのだというふうにして、
日支の平和交渉をやりやすくし、事変が収拾していこうということなのである。
私のねらいも実はそこにあつたので、私の一文がまず軍部に好影響を与えたことを、
窃かに喜んだのであつた。
かくて軍部は聖戦論を振りかざして、翌年 ( 昭和十五年 ) 春の議会に臨んだところが、
議員中の硬骨漢の斎藤隆夫氏が、
「 こんな戦争を聖戦とはなんだ 」
という意味に突つ込んだ。
痛いところを衝かれた軍部が狂気のようになつて怒り出したので、
軍部に迎合する大多数の議員が、とうとう斎藤代議士を除名してしまつたのが同年三月七日であつた。
斎藤代議士除名の裏面の真相は以上のごとくであるが、その斎藤氏と私の家とは同じ品川御殿山で、
つい眼と鼻の間にあるのも皮肉であつた。
ついに主戦派を抑え得ず
戦時中の各重臣会議において、重臣達がどんな発言をしているかをみよ。
(拙著 「 天皇秘録 」 参照 )
重臣達のあの正気の沙汰とも思えぬ強硬論は、彼らが国家のためを思うよりは、
主戦派将校達に憎まれぬようにということだけを、念頭においての言葉であると考えた場合にのみ、
理解し得るであろう。
この人達の多くも、かつての機関説論者であつて、軍部の皇道派さえ排撃し尽くせば、
それで軍部は健全になるものと考え、統制派を支持した人々であることを想起すべきである。
もとよりあの戦時中に一人擢ぬきんでて正論を主張することは容易ではあるまいが、
もし各重臣が一致結束して正論を主張したならば、日本は降伏までいかずに講話しえたかもしれず、
或いは たとえ数カ月または数日でも、終戦を速かならしめて、
無用の犠牲を少なからしめたに相違ないのである。
わが国有史以来の危急に関する場合における彼らの態度がかくのごとくであつたのをみれば、
彼らが如何に奉公の誠に欠ける人達であつたかがしられるのであるが、
なぜ昭和の時代には、このような誠なき人物ばかりが、元老重臣の信頼をえ、したがつて、
また陛下の御信任をもえたのであるかが問題である。
これではたとえ大戦争がなくとも、国内がしばしば混乱して、国家が衰亡に向うのが当然であろう。
悪貨が流行するとき、良貨は駆逐される。
ここに昭和の時代には、忠誠君国に尽す人物が排出しなかつた大きな理由と、
さらにこの時代には不吉な事件が続出した理由とが存するのではあるまいか。
今後のわが国政を思う者は、深くその由来を考究すべきである。
日本の敗色が次第に濃厚になつてきた頃、近衛、木戸、平沼らの諸氏の苦心は、
皆如何にしてこの独伊派将校達の横暴をおさえて、講話に持つていくかにあつたが、
近衛公はそのためには東条派の最も恐れる、真崎大将を陸軍大臣に特別に起用を願うの外なしと考え、
幾度かその旨陛下に言上した。
実際主戦派の最も恐れたのは、ただこの一事であつた。
「 木戸、近衛は真崎を起用せよというが、真崎は二・二六事件の関係者ではないか 」
と仰せられ、木戸侯はまたそのつど
「 左様で御座います 」
とお答えすることによつて、折角の近衛公の進言が無効に帰するのが例であつたという。
私は真崎大将と二・二六事件との関係が、どれだけ深いか浅いか知らぬが、
陛下や木戸侯の方では、真崎に二・二六事件の企てが、事前に分らぬはずがない。
分つたならばナゼ抑えなかつたかというにあるらしい。
かくて主戦派の横暴を抑える手段がなく、
遂に敗戦降伏に終つたのは、国運の窮まるところ是非もないことであつた。
皇道派もまた反省を要す
もとより私の比較的よくしる皇道派の将軍達も、決して完全な人々であつたとはいえぬようである。
特に真崎大将が教育総監を罷免されるまで、あんなに抗争することなく、
事の非なるを見て潔く身を退くべきであつたのに ( 当時の私はその論であつたが )
最後まで抗争したことおよび、荒木陸相が満州事変で専壇を働いた板垣、石原両氏らを、
当然予備にして軍の将来の戒めとすべきであつたのに、逆に論功行賞を奏請したこと等は、
最も重大なる失態であつて、それらがどれだけその後の軍部に、禍しているかも知れぬのである。
また私は叛乱将校達ばかりでなく、とかく国体擁護論者は、自己の所信に忠実なるあまり偏狭に陥つて、
他人の立場を許しえないふうがあることも考えずにはおれない。
( 私などもその一人であつたことを深く反省懺悔している )
叛乱将校達のなかには実に立派な人物が幾人もいて、もし彼らが適当な場所を与えられたならば、
一かど君国の御役に立つはずの人達であつたにんんわらず、
あのようなことで身を終つたのも、
その偏狭にして他人の立場を許しえない点に、禍されたのではあるまいか。
なおそれにつけて思い出されるのは、あの事件のために非業の死を遂げられた、
斎藤内大臣その他の人々のことであり、ことにその遺族の人達の無念さは、さぞかしと察せねばならない。
ただ、それらのすべてにかかわらず、私は此の度のあの映画 「 叛乱 」 をみて、
あの一途に君国のためと思うて蹶起した諸君が、何んの善意も認められぬばかりか、
かえつて叛逆者の汚名のもとに銃殺となつた心事を察せずにはおれぬのである。
お通夜の晩にさえ憲兵や刑事が列席しているのであるから、遺族が悲嘆することさえ自由でなく、
かつまた、焼香にくる者は、一々刑事にその名を書き留められ、関係薄き者は玄関で追い返された。
葬儀は秘密に執行させられ、その後の慰霊祭には参拝者の数よりも、
憲兵と刑事の方が多いこともしばしばであつた。
そうして麻布賢崇寺に、この人達の合祀が黙認されたのは、占領統治が終つて、日本が独立を恢復した後であつた。
刑死する者は多いがこれは日本人として最も重い、叛逆者扱いの刑死者なのである。
想い起す西郷南洲翁の事例
私はここでふと西郷南洲翁の事例を想い起すのである。
維新第一の功臣といわれる西郷(隆盛)南洲翁も、明治十年の役には自ら首領となつて官軍に抗したため、
賊魁隆盛と称せられたが、明治二十二年二月十一日には、その賊名を許されて、
正三位を贈られた。
十年の役における南洲翁の立場は叛乱将校以上に重大であるが、
しかしその心事が君国を思うにあつたことが認められたればこそ、生前の功労を思召されて、
右の御沙汰があつたのであろうと思う。
わが肇国以来の歴史を読み、軍人への勅諭、教育勅語、帝国憲法等によつて、
日本の国体が万邦無比なる所以を教えられた軍の将校達が、その国体を護らんとして起した叛乱。
その事件から教訓を学び得ずして、
国家を敗戦降伏の屈辱に導いた上層部の失態は悔ゆるもおよばぬことながら、
その将校達の処刑後二十年近き今日、彼らの一片の志が認められるならば、
反逆の汚名は許されるべきではあるまいか。
ことにこのような問題をこのままで、皇太子殿下御即位後の御代まで持越すことは、
もっとも避けねばならぬことと思う。
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