あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

牧野伯の臣節を疑う

2017年01月07日 20時00分52秒 | 『 天皇と叛亂將校 』橋本徹馬


牧野伯の臣節を疑う

つぎには、牧野伯が問題である。
この人が今上陛下の御信任第一等の人となつたについては、
今上陛下の御幼少の頃よりの御養育に、
牧野伯が深い関係を持つた点によるところが多いといわれるが、
この人が終戦までも生き延びて、
しかも文芸春秋誌上に、面白おかしい回顧録を連載していたところなどを見ると、
それほどの陛下の御信任を受けながら、
「 自分の眼の黒いうちに、今上陛下を敗戦国の君主にはしない 」
という堅い決意などを、持つていなかつた人であることは明白であろう。
ことに この人は非常に偏見の強い人で、一度気に入らぬことがあると、
どこまでもその人を許さぬ悪癖があり、また少年の頃からイギリスの教育を受けた人であるから、
西洋カブレの西園寺公との話は会いすいが、
皇祖皇宗の道について、西園寺公の不明を補うことのできる人ではなかつた。
終戦後占領軍にたいし
「 天皇は政治に責任なし 」 という、スギリス流の君主の立てまえを押し通すことによつて、
今上陛下が戦犯問題の面倒を脱がれられたについては、
牧野伯および恐らくはその女婿の吉田茂氏の智慧ちえによるところが多いと思われるが、
その反面にわが国体の万邦無比なる所以が、いよいよ分らなくなつたことも事実である。
左に 二・二六事件で襲撃を受けた当時の牧野伯の逸事をも伝えておきたい。
 
湯河原で河野大尉等の襲撃を受けたとき、
牧野伯の身を護つて闘つた護衛巡査 ( 皆川義孝氏 ) が重傷を負うて仆れた。
牧野伯に付添いの看護婦森すゞえさんが駆けよつて、皆川巡査を助け起そうとすると、
「 私には構わずに閣下を閣下を・・・」
といつた。
森さんは心を残しながら、牧野伯の頭から女の着物をかぶせ、
その家族をも共に援けて裏山にでたとき、すでに家は火焔に包まれていた。
( 河野大尉の一党の人々が、牧野伯が見つからぬので放火したのであつた )
そこへ駆けつけた警防団の人々が、
「 家のなかに残つている者はいませんか 」
と 叫んだ。
そのとき森さんは、
「 皆川さんが残つています 」
と いつたが誰も返事をする者がいなかつた。
そうするとまた警防団の誰かが、
「 家のなかにのこつている者はいませんか 」
と 叫んだので、また森さんが、
「 皆川さんが残つています 」
と いつたが、誰も答える者がなく、逆に牧野伯が、
「 捨てて置いて構わずにいけ 」
というふうに手を振つて森さんをせき立てた。
自分のために仆れた人にたいしての牧野伯の冷淡さに、森さんは不快に思つた由であるが、
つぎの瞬間には森さんも腕に一弾を受けて仆れた。
それでも気丈に立ち上がつて、牧野伯を無事ならしめたが、家の焼跡からは、
無残や皆川巡査の焼死体が発見せられた。
一方皆川巡査のために重傷を負うた河野大尉は、熱海の陸軍病院に入り、
後三月六日に自決したが、その自決の前に令兄司氏に遺言し、
「 牧野伯を護つて仆れた巡査は、如何にも気の毒であるから、
お宅を訪問してお詫びをしてもらいたい 」
といつたので、事件後の二週間ばかり経つたある日、
河野司氏が皆川氏のお宅を訪ねてお詫びすると、
どんなに恨まれるかと思つた遺族の方々が、非常に喜ばれたのは意外であつたが、
その節、
「 牧野さんの方からは、どなたもお見えになりません・・・・」
といわれて、河野さんは驚いた由である。
それから河野司さんが森すゞえさんに会つて、当時の模様を聞くと、
森さんは前記の避難当時のことを語り、重傷の皆川さんを捨てて避難したことの心残りをいい、
さらに自身のことについては、
「 あのとき腕に傷を受けて入院をしましたが、入院中の費用は牧野さんから出してくれましたけれども、
その後も働けずに遊んでいますが、それきりなにもしてくれません 」
とのことであつたという。
護衛巡査や看護婦の献身的な奉公ぶりに、何んの感じも持たぬ牧野さんであれば、
その今上陛下にたいする御奉公の心掛けが、どのくらいひややかなものであるかも、
およそ察せられるのではあるまいか。
このような人が今上陛下の御誕生当時から、その第一等の御信任を受ける宿命をもつていたとは、
よくよく呪われた昭和の時代といわざるをえないであろう。

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