嶋津隆文オフィシャルブログ

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梅棹忠夫先生の一言「梅原猛の魑魅魍魎めが」

2010年07月09日 | Weblog

「お世話になった梅棹忠夫先生」

文化人類学者の梅棹忠夫先生が逝かれました。寂しくなるというものです。先生とはNIRA(総合研究開発機構)の研究員として過ごした昭和62、3年頃に、ご一緒する貴重な機会を得ました。首都に関する文化的研究プロジェクトでのことです。

あるとき、最終まとめの集中論議をすることとなり、伊勢の志摩観光ホテルが宿泊合宿の場所となりました。他に矢野暢京大教授、川添登早大教授らも加わり、当ホテル名物料理のあわびのステーキを食しながら、皆で口角泡を飛ばしたものです。

そのとき、忘れもしない“事件”が起きました。メンバーの一人が、京都の国際日本文化研究センターの新設を話題にした際のことです。梅原猛教授が当時中曽根首相に働きかけていたこのセンター開設に関して、梅棹先生が突然に声を荒げてこう言ったのです。

「私が日本文化センターを狙っているのだと? 何を言っているのか。私は民俗博物館で100人余の手勢をもつ大将である。わずかばかりの研究員しかいないセンター等に触手を動かすことなどない。あの(あらぬ噂を流す)梅原猛の魑魅魍魎めが!」

この激しい口調に私たちは息をのみました。知的で穏やかな風貌の梅棹先生の、思いもよらぬ激昂ぶりに、梅原猛との根深い対立を知らされたのです。何よりも魑魅魍魎という言葉が、こんな風に他人をののしる際にも使われるものかと感動したものでした。梅棹先生名を聞く時、私がいつも思い出す30年前の強烈な場面です。

その梅原猛先生が、梅棹先生追悼の談話を翌日新聞に載せました。「梅棹先生は天才。私は凡才。その悔しさが羽根になって「梅原日本学」と呼ばれる仕事ができたと思う。梅棹氏なくして私の仕事はない。冥福をお祈りしたい。」(読売新聞7月7日)。

梅棹vs梅原という二人の巨頭の相克と嫉妬の度合いは、凡人の私らには推量すら出来ません。しかし、梅棹先生の能力と功績をひたすら称えながら綴る追悼文の、そのさりげなさにこそ、人間の心の闇の深さを感じてしまうのはどうしようもありません。

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1 コメント

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Unknown ()
2010-07-10 10:27:33

ご冥福します。
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