写真:「三角駅舎も解体放置されたまま4年もたつ」
先日出された東京地裁の「国立市長は上原公子前市長に3123万円を請求せよ」との名判決は、国立市民を中心に関係者に大きな安堵感を与えているようです。国立市の松嶋としのぶ市議は「天網恢恢、疎にして漏らさず」とつぶやいたほどでした。
そのなかで気になる意見があるのでちょっと触れることとしましょう。例えば東京新聞です。「国立市は既に明和地所から賠償と同額の3123万円の寄付を貰っている。ここで上原公子に求償しては、賠償の2重取りになるのではないか?」というものです。
明らかに市側の身勝手な論理に与するものです。そもそも明和地所が平成20年に勝訴した後、被告の市側に何故3123万円を寄付したのでしょう。「私たちはおカネが欲しくて訴訟したのではない。理がどちらにあるか明確にしたかったのです」。そして「ピアノなどの教育費に使ってほしい」と申し入れたのです。
見上げたものです。昨日まで自分を殴り続けた相手(市)に、そっとおカネを差し出すのですから。逆に言えば加害者の国立市が、被害者からおカネを提供されて、恥も外聞もなく懐に入れた市長のセンスこそ、まことに見苦しいものというものです。
ところで考えて見るべきは、国立マンション訴訟の最初の原因です。そもそもは、国立市が事前にきちっとした建築規制もかけず、まちづくりのスタンスを明確にしていなかったところにあります。要は行政の怠慢が、一連の景観騒動の発端なのです。
業者としてみれば当然の企業行為として、当時の法の規制にしたがって建築に着手したのです。にもかかわらず前市長は、後出しじゃんけんの規制を掛け、さらに明和を「悪徳不動産」呼ばわりのなかで、営業妨害行為に奔走していったのです。
こうした経緯を知ってか知らでか、東京新聞も国立市側の弁護士も「二重取り」等といった表面的な表現を使っているのです。偏った、おかしな言い方です。
もし二重取りと言うような「後ろめたさ」があるとするなら、その解消策としては、国立市が明和地所の好意にのっとった甘えを捨て、明和地所から寄付された3123万円をそっくり明和に返却することです。これが本来のスジというものです。
今回、裁判所は、明和地所の寄附が国立市の支払った賠償金を補填するものではないと判断したからこそ、上原前市長への求償を認めたわけで、「二重取り」は不適切で偏った表現であると思います。
受け取ったんですかね。
つっかえせと当時、私も
思いました。