「江戸東京博物館:特別展 手塚治虫展 」
江戸東京博物館で開催されている生誕80年記念の「手塚治虫展」がもうじき閉幕となります。今日あたり足を運ぼうと考えているところですが、手塚治虫といえば、しかし遠い存在ではなく、私にとっては近所の人でもありました。30代の時に住んでいた東久留米のちっぽけな自宅の近くに、でっかい屋敷がありました。そこに手塚治虫は家族とともに住んでいたのです。
当時、地域のコミュニティ雑誌「くろめがわ」の編集にボランティアで関わっていた私は、この近所の巨人に、無謀にも予約もなく玄関のドアをたたき、原稿依頼を申し込んだのです。「ふるさと・東久留米」という題で、何か執筆してもらえないかと。
すると二つ返事のOKで、しかも原稿料など要りませんということでした。超人気作家として多忙な中で、半月ほどして2枚の原稿用紙が戻ってきました。「タクシーの中で書いたようですよ」と夫人から笑って渡された原稿には、あの人懐っこい文字で、しかも自然保護への思いが滲む気持のいいエピソードがしたためられていたのです。
彼が映画の仕事でニューヨークの担当部長を訪れた際の、郊外の駅ホームでの出来事を綴ったものでした。その原稿のさわりを紹介しましょう。
「その駅は、北側は住宅が密集しているのに南側は家一軒見えず、ひくい雑木林があるだけだった。なぜ南側は家を建てないのかと訊いてみた。『なあに、この駅から見た月がとてもいいもので、役場が建てさせないんです』。部長のまじめな顔から、冗談でないことがわかった。ぼくは電車を待つ長い長い間、ひろびろとした南の空を駅から眺めていた」。
手塚治虫はことのほか、まちづくりにおける自然環境と地域住民の生活感覚を大事にし、その感覚を柔軟に受けとめる地域自治の形成を強く願っていたのです。その思いを、地元の小さなコミュニティ雑誌に快く綴ってくれたのです。
この手塚治虫とのやりとりと、彼の書いた鉛筆書きの生原稿は、いま私の宝物の一つとなっています。江戸東京博物館に勤務するかつての同僚たちに、今日はこの生原稿を見せびらかせてやろうと、ほくそ笑んでいるところなのです。