嶋津隆文オフィシャルブログ

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お盆の季節に思う、葬送の自由というもの

2008年09月04日 | Weblog


お盆の季節に思う、葬送の自由というもの

 
(月刊「地方財務」(ぎょうせい)9月号【シリーズ】もう一つの団塊世代論③より転載)                                 

1 心なごむバラの霊園「ふれあいパーク」 
東京の郊外に「ふれあいパーク」という人気の霊園がある。お盆を前にその一つを小平に訪れてみた。生垣とバラの花に囲まれ、せせらぎの水音まで工夫されていた。しかも墓石も従来の三段墓の形態でなく大半は洋風の平板版だ。なるほど人気を得るのも当然である。従前の苔の生えた暗い墓地のイメージと離れ、開放的で心なごむ空間といってよい。現にこの墓地には団塊世代を中心に多くの申し込みがなされ、ちょっとしたブームになっているという。 
形式だけではない。墓はかつての先祖代々の家墓から、個人を葬る個人墓ないしは夫婦墓に移行しつつある。それに伴い内容も大きく変容してきている。現にその霊園でも「○○家の墓」というものは10%程度と少なく、「風立ちぬ いざ生きめやも ○○夫」など自分の好きな言葉とともに、その故人名が正面に刻まれているものが多い。あるいはまたシングル女性たちのための語らいの共同墓地を設けるとともに、夫の親などと一緒の墓に入ることを拒む女性へのサービスも行っている。
なるほど、戦後の個人尊重主義としての、「私らしさ」を求める風潮は、いよいよ大きく墓にまで波を寄せてきたかと感心したものである。

2 葬送の自由は大切にされるべきであるが 
現在わが国の死亡者数は年間約100万人である。これが団塊世代の死亡が本格的に始まる2035年頃には年間180万人とほぼ倍増する。その結果、大量の墓地需要が生じる一方、実に多様な葬送の形式が選択されることになると予想される。その前触れが「ふれあいパーク」のような試みといえよう。現にこの霊園を企画した㈱いせやの社長は昭和22年生まれの団塊世代の一人であり、同世代のトレンドを掴みマーケットとして成功させたと語っている。
しかし少し冷静になってみると、団塊世代が作り出す個性化や自由化を果たして無限に商業化し受容してよいのか、問題なしとしない。以前から話題になっているが、例えば散骨の様式を求める人は広がっている(都の調査では2~3%)。荼毘にふされた後、遺骨を砕き海や川に流そうとするものだ。またそれに類似するものに樹木葬なるものも注目を集めている。山全体を墓地とし、墓石を立てずその代わり桜等の樹木を植えるものだ。また愛妻を暗い土の中に埋めるのはいやだと、遺骨をマッシュし透明の丸いガラスケースに入れ、自分の身辺から離さない人もいる。 
しかし、と思う。一見ほほえましく思われる個人の行動だが、こうした傾向はやがて葬送の態様を一体どこまで変質させていくものだろうかと不穏になる。実際、驚いたことに、既に「自分の体はペットの熊に食べさせて欲しい」、「鳥葬が望ましい」という相談が寄せられはじめた時代になっているという(碑文谷創「「お葬式」の学び方」)。個人の意向を受容するあまり、公衆衛生上の問題や人々がもつ死穢意識を軽視する風潮が拡大するとなれば、それは危険である。

3 懸念される祖先崇拝の伝統の崩壊、地域環境の破壊 
確かに葬送の自由は、個性や個人の意思を尊重することで、「死」をば土に閉鎖された因習の感覚でなく、大きな開放感を与えつつある。しかしその一方で見捨てられていくもののあることを忘れてはならないのだ。都会での個人か夫婦だけの墓でありたいという。では田舎に残された両親の墓は誰が維持するのか。あるいは無縁墓とし荒れ放題の蛇のすみかにしてよいのか。かように伝統や環境、治安の崩壊という視点から、とくに地方の自治体に深刻な問題をもたらしかねないのだ。 
戦後すぐの昭和21年、行政は墓地に関し造成などの事業から事実上手を引く措置をとった。その結果、多くの宗教法人等が「事業型墓地」の造成事業に参入し、そのことが商業主義と絡み、墓地の需給を混乱させてきたといわれる。もし今後、行政が葬送の自由化というものを過度に尊重し、墓地造成と同様に無制限に放置してしまうとするなら、商業主義的混乱を生むだけでなく、明らかに多くの社会的、倫理的混乱を惹起しかねないのだ。戦後の向都性向のなかで都会に出た子供たちに、次々に見捨てられ始めた先祖の墓と土地。自治体はこうした視点にも留意して、昨今の団塊世代を中心とした墓地と葬送の動向を捉え、早めの墓地対策、土地対策を講じていく必要があるというものである。

写真:「小平ふれあいパーク」


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