全然更新してないのに、毎日アクセス数は変わらない…すんません、このトリノ五輪前に(なぜ謝るのか?)。静香ちゃんが「トゥーランドット」にPGを戻したり、ホリエモンが捕まったり、いろいろございましたね。
個展は無事終了。嬉しい事、考え込んじゃう事、こもごもにあるのだった。なつかしの友人に会ったり、またその子がいきなり母になってたり、またその赤ちゃんが鋼鉄のように重くて、抱っこする私が死にかけたり…。
私ごときのサイン(絵を買ってもらった方には、額縁の裏に作者のサインを入れる)に喜んで頂いた方、ありがとうございます。この中学生のよーなサイン文字に何のありがたみがあるのか。そう問われたらツライ。そうよ。そうよね。ジョニーやプルさんのサインなら、そっから後光も差す事でしょうけど、私やけんね…。でもとにかく最終日はサインしまくり。写真を撮られた方、すみません。山本容子センセイのような美人でなくて…これでも頑張ってるほうなので許してね(書いてて悲しくなってきた)。
考えて見たら、フィギュア選手も皆、自分の容姿に自信持ってるよね。ファンに撮影を頼まれても、な~んも臆する事もなく、ニッコリ笑ってベストのスマイルだもの(目をつぶる事もなく+白い歯にノリがついてる事もなく)。奇蹟のようだ。顔の美醜がどーのこーの…という問題ではなく、とにかく「撮られて大丈夫」な心構えが大事なのだ。
最終日に画廊の方とワインを飲みながら、ヨモヤマ話。
いつも思うけど、「作る側」と「売る側」の距離は近いようで遠い。いや「作る人」と「作らない人」か。
駆け出しの頃は、画廊側が圧倒的に人生のセンパイなので、私はただただ「はい。はい。」と頭を下げて、「お話」を拝聴するのみだった。とにかく、経験値が無いので何もモノを言えないのである。
その後、「若手」と呼ぶには苦しい年齢にさしかかり、浮世の酸いも甘いもわかってくると、少々ゴーマンになるのだった。そしてまた「ガツン」とやられ、謙虚モードに戻る。ゴーマン→ケンキョ→自信→反省→壁にブチ当たる→初心に帰る…このシーソーゲームの繰り返しで、どうにかこうにか仕事をクリアしているような気がする。
斉藤真一、安井寿磨子、ミヒャエル・ゾーバ、etc…と、最近感銘を受けた画家の話を次々と振ってみるが、どうも画廊主Hさんの好みとは正反対だったようで、お話は平行線。一向にひろがらない。というか、私が「作る側」からの感情論で語っているのに対し、Hさんはあくまでも「画廊側」なのだった。そこに大きな大きなミゾがあるのだった。でも、お互いに役割が異なるのだから、ミゾがあって当たり前。途中からそう割り切り、もっぱら食事と軽いお話を楽しむ方向に変えた。とてもとても醒めているが、重要なポイントは漏らさずに拝聴する。帰宅してそれらを整理し、取捨選択する。今はその最中。
山の奥深くからの帰路。夜の電車は寂しい。
駅のホームには学生さんが2人だけ。私も含めて3人は皆、それぞれに自分のケータイをじっと見つめてる。白い雪が降り積もってきた。