ナタリア・ギンズブルグ、『モンテ・フェルモの丘の家』

 久しぶりに須賀さんの訳。『モンテ・フェルモの丘の家』の感想を少しばかり。

 モンテフェルモの丘の家〈マルゲリーテ〉で、楽しく愉快に過ごしたあの頃。ただただ自由を無駄遣いしていたかつての放逸な日々を、共に過ごした気の置けない仲間たち――。この物語は、そんな主人公たちが取り交わした手紙の数々から成っている。
 ルクレツィアの最後の手紙の結びが、切なくてとても素敵だと思った。それだけでホンの少し、すくいになった。

 …とは言ってもやはり本を閉じた時には、やるせない思いばかりがとりとめもなく胸の中に広がった。虚ろな目に沁みる淋しい西日のように。「あの頃はよかったわねぇ」と、自分にとってのとっておきな“あの頃”を、幾度も振り返っては懐かしむばかりな誰かさんの足元。そこに届く弱々しいい光、それは人生の斜陽だから。大きなお祭りがすっかり終わってしまった後の、残りの日々をただ淡々と倦んでやり過ごさなければならないことに気が付いて愕然としている人たちの声が、一通一通の手紙の中で、あぶくのように浮かんでは消えていくのだ。そんな彼らの呟きは、浅はかだったり健気だったり独りよがりだったり、愚かだけれど可哀想で愛おしかったり…するのだが。

 家族とは何か…。多かれ少なかれ大抵の人は、家族の存在を己の拠り所にしていたり、いつもそうであって欲しい…と願っているものなのだろうか。堅固な絆で守られた、いつまでも変わりなく自分を迎えてくれる場所として、心から信じているものなのだろうか…? ここに描かれていた家族のありさまは、全く真逆だった。
 身につまされるほどやり切れない、流動的に移ろっていく暫時的な家族の姿。確かなことなど欠片もない。常に親しい友人たちに囲まれていた家族が、最後にはばらばらに脆く崩壊していく過程が、彼らが取り交わす手紙の中では、残酷なまでに浮き彫りにされている。息子から逃げ続ける父親、子育てを放棄した母親、自分たちの都合で子供たちの居場所をまるで家具のように移し替える大人たち、浮気を咎めない“開放的”な夫婦の欺瞞と破綻……。そして、はっと気が付いた時には櫛の歯が欠けたように、人が少なくなっている。目の前にいるときには大切にしようとしなかった家族の命が、惜しむ間もなく失われていく。あまりにも儚い。
 この物語の先に希望が残されているのか、正直なところ私にはよくわからない。それでも、残された人たちはこれからも生きていくのだから、どこかしらに希望を見出していくのだろうと思う。ルクレツィアの最後の手紙の結びを読んだ私が、何となしに救われる思いがしたように。
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