今村夏子さん、『こちらあみ子』

 装丁がとても好きなのだが、特に麒麟。あまりにもぴったりで何度でも見入ってしまう。『こちらあみ子』の感想を少しばかり。

 胸に溢れてきたのは懐かしい…と言うより、もっと近しくて愛おしい気持ちだ。それを、溢れるそばからこぼしてしまわぬよう抱きしめたまま、うずくまりたくなる読後感だった。ここで。自分の内側に向かって目を閉じて、何処にもない“ここ”という場所でうずくまりたくなる…そんな。
 私の中にもあみ子がいたし、そしてきっと今もいるのだろうな…と、当たり前のようにそう感じられることが、小さな痛みでもあり、ささやかな安堵でもあるのだった。…たぶん、そういうものなのだろう。

 実のところ、読み始めてすぐにすぅっ――と、あみ子の傍らに寄り添えたわけではなかった。そうなるにはいささか、あみ子という少女は奇矯であり過ぎるように思えてならなかった。最初の方に出てくる、チョコレートクッキーのチョコレートだけを舐めとってしまうところなんて、私はこの子苦手かも知れないなぁ…と、がっかりしたほどだ。
 少女“あみ子”の目に映る世界。それは不思議な、不可解なそれだ。投げかけた言葉もぶつけた感情も、決して自分の思うような形では相手に届かないということ、通じていないということ。それがあみ子には何故なのかわからない。投げかけたら相手にも投げ返して欲しいのに、いつもそらされるばかりで、誰に向かっても自分のしていることは一方通行のまま、一人残されて立ちつくす。それが何故なのかも、あみ子にはわからない。居心地の悪さには気が付いていても、どうしたらいいのか、誰に何を訊いたらいいのか、それすら…。ただぼんやりと首を傾げている。
 けれども思い返せば子供の頃、私の世界だって似たり寄ったりだった。あみ子の場合はあまりにも極端なので、そのいつまでも変わらない頑是無さに、つい私は勝手にいじらしく感じてしまうのだけれど…。でも、そんなことは関係ない、あみ子はあみ子のままでいいのだよ。うんうん。

 そして、もう一つの作品「ピクニック」も大変良かった。
 ある意味こちらも永遠の少女(無理がある?)みたいな、七瀬さんという女性の話である。自分が作り上げた物語の中で生きている、まるで己が吐き出した糸から成る繭の中で完璧な夢を見ながらいつまでもまどろんでいる、まどろんでいたい……と、そういう生き方を選んだ、選ばざるをえなかった…そんな、七瀬さんの話。一緒に働くことになる年下の女の子たち(でも先輩)が、七瀬さんの話を聴きながら温かく見守っている様子もよかった。七瀬さんを包み込むような作者の優しい眼差し、胸に沁み入って忘れられない。
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