エリザベス・ボウエン、『ボウエン幻想短篇集』

 『ボウエン幻想短篇集』の感想を少しばかり。

 “「見殺しにはできないわ……あれはどう見ても林檎の木よ」” 133頁

 とても素晴らしかった。読むのに随分と時間がかかったが、それは何故かと問うまでもない。文章の一つ一つ、そこに置かれた言葉の一つ一つが、まるで硬水のように重たい喉越しだった。弾かれた水玉が、ゆっくりと黒い沁みになるように、描かれたイメージを心に浸透させるのに時間のかかる、そんな文章ばかりが待ち受けている。始めはそれを読み辛く感じたけれど、じわじわと讃嘆の思いに変わっていった。

 収められた17篇は、出版年順になっている。まずやはり、少女を描いた作品には魅入られた。少女性の儚さ、残酷さ、いずれは手離し通り過ぎなければならない無為な時間への哀惜が、ひりりと伝わってくる。そして、幾つかの作品の中に現れる、行き場のない幽霊たちが彷徨う姿にも、ざわざわと心を掻き立てるものがあり、印象深かった。幽霊は、鏡でもあり分身でもあり、孤独な誰かの虚ろな隙間が呼び入れてしまう何か…だったり、する。

 好きだった作品は、「第三者の影」、「死者のための祈り」、「嵐」、「よりどころ」、「林檎の木」、「あの薔薇を見てよ」、「緑のヒイラギ」、「幻のコー」、「陽気なお化け」、「闇の中の一日」。説明を欠いた短篇小説ならではの、深読みの余地を存分に堪能させてくれる作品ばかりだった。
 例えば「第三者の影」は、死んだ先妻の気配に怯える後妻の話だが、いるのかいないのかよくわからない幽霊もさることながら、夫のマーティンも何となしに不可解な男で、夫婦の会話の内容も、ぞくりと怖かった。愛されなかった先妻の影。怯え続ける妻と、それに同調しない夫…。「人の悪事をなすや」の夫婦も、もしかしてこういうことなのかなぁ…と気になる箇所があって、相当に皮肉な話だった。

 とりわけ好きだったのは、「林檎の木」と「闇の中の一日」。
 「林檎の木」は、在郷地主の新妻が、少女の頃の出来事をきっかけに夢遊病に悩まされていた…という話で、少女と怪異の取り合わせがすこぶる忘れがたい。林檎の木が出てくる、ぞっとする眺めの怖さ。訳者のあとがきにも書かれていたが、“オオカミのよう”なミセス・ベタスレーがとてもよかった。
 「闇の中の一日」は、15歳の少女が分水嶺のような夏の一日を過ごす話である。女学生のバービーが、薔薇の花束と言付けをたずさえ、叔父の代理で老嬢ミス・バンテリーのテラス・ハウスを訪問する場面が回想されている。この日着ていた木綿のドレスのことが、この後彼女はどうなったのだろう…という想像へと結び付く。どちらの作品にもきつい美しさがあり、思い浮かべた途端に心を捉われる情景があった。
 情景と言えば、「幻のコー」の満月も素晴らしい。街を濡らす、月の光。この1冊の中でも白眉である。

 ボウエンによる短篇集の序文、訳者あとがきも凄くよかった。興味深い内容が詰まっていて、短篇創作の指針など、溜め息が出た。あと、やはり長篇も読み返したいと思った。

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