ジョナサン・リテル、『慈しみの女神たち』

 『慈しみの女神たち』の感想を少しばかり。

 これは《ユダヤ人問題の最終解決》に携わった、ナチ親衛隊の将校の物語である。
 素晴らしい読み応えだった。すでに上巻を読み終えた時点で圧倒されていた。描かれているものは凄絶を極め、息苦しくなるような場面には何度も打ちのめされたけれども、目を閉じるまいという意志がふつふつと湧き起こった。そしてまた実際のところ、物語としてとても面白かったのだ。
 
 保安謀報部に所属するSS中尉アウエは、ウクライナの特殊行動部隊へと派遣され、その地において切りのない虐殺に立ち会う。大学では法律を学び文学好きな青年でもある彼は、持ち前の公正さと真っ当な感覚を捨て切れないために、おぞましい事態に直面させられて苦悶する。本来人の死に伴うはずの困難と、人が人をいとも簡単に殺すことが出来る…という事実との間の“絶対的な不適合”を受け入れられない。
 その後カフカスへ、そして更に激戦地スターリングラードへと転属させられたアウエは、戦地で重傷を負ってベルリンへと戻ってくる。休養中の彼はそこで、最愛の女性との思いがけない再会を果たしたのであったが…。
 徐々にけれども確実に、アウエの中で何かが麻痺しそのまま損なわれていくことが、じわりじわりとこちら側に伝わってくるのが、不気味で怖ろしかった。特に下巻に入ってからの、新たな任務を帯びたアウエには、ユダヤ人たちを家畜扱いすることへの抵抗感なんぞ、ほとんどないようにしか見えない。
 そしてもう一つ、導入部でもほのめかされているようにこの物語には、アウエ自身の家族の物語が内包されている。引き裂かれた(とアウエは思い続けている)双子の姉と、失踪したままの父親のこと。母親と義父への強い憎悪。病み衰えゆく心に家族の存在は、ますます狂気へと追い詰めていく役割をしか果たせない…という、救いのなさ。極限におけるもう一つの悲劇が、そこには描かれている。
  
 “そうとも、わたしはあなたがたと同じだと言ってるではないですか!”――(上巻34頁)。
 時々“非人間的”という言葉を耳にする度に、何とも言えない居心地の悪さを感じる。およそ“非人間的”などと評されなければならないほどの酷い行いを、人間以外のどんな存在がし得ると言うのだろうか…と。理解することが難しい、或いは、そもそも理解出来ると考えること自体が多くの人々にとっては耐えられない、そんな所業を見せつけられた時。これはまともな人間のすることではない、あまりにも特殊なケースだ…と決めつけて、“非人間的”というレッテルを貼った蓋をしたまま遠くへ追いやってしまうような、そこで思考を止めてしまうような、そんな、この言葉に含まれた欺瞞の臭気。
 語り手である元ナチの官僚マックス・アウエが、つきつけてくる偽りない事実。それは、彼も、彼らも、そして私たちも、人ゆえに人だからこそ人間的な理由でもって人を殺す存在になり得るのだ…ということ。マックス・アウエは決して、特別な誰かではなかった。自分が殺人者になることなど、考えたこともなかったのだ。
 
 動物園に、慄然とした。


 
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