井上荒野さん、『切羽へ』

 まだ、と言うか。また、と言うか。体調がすっきりしないのは、未だ季節の変わり目にある所為か。今日もひねもす、うつらうつらと過ごしてしまった。半醒半睡。 
 
 ともすれば紗がかかりそうな意識の、ふっと覚醒する隙間をぬうようにして。
 『切羽へ』、井上荒野を読みました。


 とても好きな作品。
 交わす視線が伝えてしまう。触れなば落ちむ…と。その、あと一押しで転げおちそうな、危なっかしげな風情を互いに認め合いながら、相手に触れることの叶わない恋。一見淡いようでいて、理不尽に惹かれあってしまう秘かで荒々しい恋。ただそこにあることすら怖れるように、逸らした視線がたゆたうように揺れる。くんでほぐれて、離れて、また結ぶ…。 
 ほんの少しの綻びから、ぽろぽろこぼれおちる心情が、細やかな女性らしい神経の行き届いた筆致で繊細に描かれていく。あまり強過ぎる力で握りつぶすことのないようにと、静かに掬いあげていくように…。彼らの間にだけ存在する、ぴんと張りつめた空気がとても素敵だと思えた。   

 舞台となっている島は、本土から遠く離れているらしい。私には、その島の心当たりがまるでなかったけれど(井上光晴が少年期をすごした崎戸島を原型とするらしい)、何とも素晴らしい絶妙な設定だと感じ入った。都会ならばやすやすと守れる秘密が、重くて大きな意味を持ってしまう狭くて特殊な舞台だから。  
 例えばマンションの隣人が、何を生業としているのかさっぱりわからない。そんな乾いた町の暮らしを居心地良く思える私にとって、この作品に描かれた小さな島の閉塞的な社会は、あまりにも密で息が詰まりそうだ。主人公セイが近所や職場で顔をつき合わせる同性たちが、ことごとく示し合わせたかのように常に訳知り顔なのにも、「これだから田舎は…」と、げんなりしてしまう。
 密な人間関係に鍛えられた女たちは、どうしてあんなに勘が鋭いのだろう。うとましいことだ…。私はセイのように、こんな狭い島での生活に順応するのは絶対に無理。年季の入った人生の諸先輩方に取り巻かれるのも、ふるふるご免だ。でも、こんな物語の舞台としては、とても面白いとも思った。

 小さく閉じられた島の中、したたかさやずる賢さを持ち合わせない女が、己の秘密を守り抜くことすら、きっと思う以上に困難だっただろう。心の奥深くに押し秘めたはずの恋ならば、口にさえ出さなければ胸の内で隠しおおせるはずなのに、そばにいる女たちには簡単に見抜かれてしまう。…敵わない。 

 そんな状況の中、自身の思いにすら戸惑いゆれるセイの姿は、情け知らずな風になぶられる可憐な花のようだ。 
 夫婦ってなんだろう…なんて、詮無く考えてしまった。セイの一番近くにいた夫だけが、何も言わずにそっと、そんな風にゆれる妻を見つめていたのか…と思うと、溜め息が出た。たとえ夫婦であっても、恋を禁じ合うことは出来ないけれど、それもまた切ない。あ、井上さんは初めて読みました。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 蛸がいっぱい♪... 神戸牛~♪ 「... »