多和田葉子さん、『海に落とした名前』

 今日は朝から本屋さんに行きたくて、行ってきました。春物も買いました。今はアサリの砂抜き中です。春キャベツと厚揚げと一緒に蒸し物にする予定です。春ですね。
 そして、しばらく積んでいた本を。
 『海に落とした名前』、多和田葉子を読みました。

 “たとえ身体がなくても名前さえ分れば保険が下りるはずだが、逆に名前からはぐれてしまった身体の方は保険がもらえない。本当は名前ではなくて身体の方が医者を必要としているはずなのだけれど。” 118頁

 目次は、「時差」「U.R.+S.R.極東欧のサウナ」「土木計画」「海に落とした名前」となっています。全4篇ですが作品の長さはまちまちで、一番長いのが表題作でした。どれも流石の読み応えです。とりわけ「U.R.+S.R.極東欧のサウナ」の実験的な試みを、とても面白く楽しみました。

 多和田さんの作品が大好きです。読んでいる内に眉毛の辺りがむずむずして、あれよあれよと言う間に眉間で一本に繋がって、豚のしっぽのように一回転してしまうほど、いったい何なんだこの話は…と悩まされることもあります。そこが好きなのかも知れません。

 「海に落とした名前」の主人公は、記憶と一緒に自身の名前を失ってしまった女性。つい安部公房の『壁』を思い出しましたが、内容が似ているわけではありません。そこはもう、多和田さんならではの鮮やかな切り口。 
 名前を失った主人公にまとわりつく兄妹の、何とも奇妙で胡散臭い言動。この主人公はいったいどうなってしまうのか…と読み進んでいくうちに、名前を思い出せないから自分の正体も分らない、唯一の手がかりのレシートの束にしがみ付く彼女の姿に、どんどんひき込まれていきます。自分の足元すら心許なく、ふうっと消えてしまいそうな不安にまんまと感染するのです。 

 元来人は、まず名前によってその存在を世の中に認められているわけで、もしもその名前を失ってしまったら、自分が自分であるという事実には何ら変化がなくても、社会的にはこの存在を抹殺されてしまう。でも、社会的に「不在」と言う烙印を押されたその身体が、名前を失うまでの自分と何ら変化なくその内面を収斂させて自分自身の核のようなものを保持していられるのかと言うと、そこは甚だ危ぶまれる。何故ならば人は、自分自身の意思だけでなく社会的に対人的に自分を認識されることによって、己の存在を確認しつつ生きているから。
 だから名前を失ってしまった主人公はもはや誰でもなく、自分自身にとってすら誰でもなく、自分を失ってしまうしかない。そして驚きのラストへと雪崩れ込むことになった…。
 (2007.3.27)

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コメント
 
 
 
Unknown (show)
2007-03-27 23:36:32
ジュンク堂はいい書店ですねぇ。書店好きなのでジュンク堂のことを考えるだけでうっとりしてしまいます。

東京ではあんまり見ないのですが(でもサイトで調べたら東京にも数店舗ありますね)うちの会社の大阪支店が大阪の堂島にあり、そこのジュンク堂には仕事さぼってよく行ってました。あとうちの名古屋支店の向かいにもありましたね。広いスペース、検索機もきちんとあって。硬派な本も軟派な本もきっちりそろってっていいですね。

ああいう本屋が近所にあればなぁ。

あ、本とぜんぜん関係なくてゴメンナサイ。。。
 
 
 
Unknown (りなっこ)
2007-03-28 19:11:37
そうそう、名古屋にもジュンク堂があったのですよね。 私はそちらには行ったことがないかもしれませんねぇ。
書店好きって、わかります。 続けて梯子してみたりとか、その日の気分で行くお店を変えてみたりとか、そういうのも楽しいし。
明日こそは本屋さんに行かなくちゃ、とか思ってるだけでも楽しいし。

こっちも、近所にはないですねぇ。 電車で30分ぐらい? 近すぎても、毎日行きそうで怖いですが・・・。 
 
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