俺が生まれたのは波瀬小学校の教員住宅だった。遊び場は小学校の砂場だ。「先生がよちよち歩きのときに遊んであげたわ」と笑いながら言ったのは太郎(9期生・東海理化)のお母さんだ。
俺が波瀬小学校に入学すると親父は隣にあった中学校に替わった。同じ学校にいることを良しとしなかったのだ。俺が小6で久居へ転居。距離的にはかなりになったが、親父は唯一の足、バイク・・・50ccだが、それで通学していた。俺が成美小学校から久居中に進学すると親父は成美に赴任、それから栗葉小学校を経て最後は立成小学校で教師生活を終えた。
その間、ずっとバイクで通っていた。退職後も同様、お袋を後ろに乗せてどこにでもいっていた。俺の車で親父とお袋を飛鳥の奥の談山神社に連れて行ったとき、お袋が懐かしそうに「前にお父さんと来たことある」と言う。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密談をしたほどのところ、アクセスは限りなく不便な場所だ。「電車とバスで来たんか」 「お父さんのバイクに乗せてもらってよ」 ・・・呆れた。
ちなみに坂倉(4期生)が50ccで臼井(4期生・臼井自動車)が下宿していた関西大学裏まで行ったことはある・・・若さと寂しさゆえだ。
それでもさすがに危険かと感じたのはお袋が遠山病院へ入院していた頃だ。何度か半田の峠あたりで転んだという。後ろから車が来なかったから大事にはならなかった。そろそろバイク乗るのをやめたら・・・口にしてみたが笑って相手にされなかった。
デイサービスで週に3日つぶれることでバイクに乗る機会は減った。たまに乗ると、走っている間にどこへ行くのか忘れてしまって、結局は1時間ほど市街を走りまわってから家に帰って来ることが増えてきた。・・・鍵を預かることにした。
そろそろと思い、何度も廃車の話をしたが、最近になると「それほどに言うんやったら言うとおりにする」と言ってくれるものの、翌日になるとリセットされるのだろう、「鍵を返してくれ」との連絡が俺の家にも塾にもあった。何度もやりあった、そのことがあるのか最近では家のほうだけに電話がかかるようになった。
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今日、実家に行ったときに「今日、廃車にしてもらうから」と言った。「おまえたちがそれほどまでに乗るな、と言うなら乗らんほうがいいんやろな」
午前9時過ぎ、デイサービスの最近入社したお嬢ちゃんが親父を迎えに来た。玄関からデイサービスの車に歩いていく一瞬、視線が流れた・・・視線の先には長年親しんだバイク。
・・・俺は視線を逸らした。
午前11時、『B2マツモト』の兄ちゃんが軽トラでバイクを回収にやって来た。