親しい方から行事や催事に誘われた時、気が向かなくて断りたいことがあると思いますが、そのような時、相手に失礼にならないような断り方をしたいですよね。
今日は上手な断り方について調べました。
日本人の断り方には基本的なパターンがあるようです。
それは、「謝罪(申し訳ありませんが)」+「弁明(用事があるので)」+「不可(行けないんです)」だそうです。
但し、「不可」を言う場合、「お断りします」「行きません」という自分の意志を表す言い方は避けたほうがいいようです。
そして、この基本パターンに付け加えると断りやすくなる言い方として、「感謝」があるということです。
例えば「わざわざ誘ってくれてありがとうございます」など、相手の気持ちをありがたく受け止める言葉で、断るというマイナスな行為に対し、プラスの言葉で埋め合わせをするということです。
更に、「また別の機会にぜひ誘ってください」など、もう少し積極的なことばを付け加えてもいいようです。
逆に避けたい言い方としては、
例えば、「その日はどうかな、少し考えさせて…」や「その日は用事があるのですが…」などです。
断りにくいからといって先延ばしにすると、さらに断りにくくなったり、相手によっては、まだ脈があると受け取られるので余りお勧めはできません。
一般的に断るときには心構えも重要だそうで、
そのポイントは、
①断る決意をしっかり持つこと。
②罪悪感を持たないことです。
言葉は丁寧でも、断るときはきっぱりと断るという気持ちが大事だということです。
ネットを調べていたら、デートでも仕事でも使える、
「上手な「断り方」のコツ」がありました。
依頼やお誘いを断る時に気をつけるポイント7つが書かれています。
ご参照ください。
松江城
島根県と言えば神話の古里として知られていますが、その神話の中でも有名なものに「国引き神話」があります。
これは、古代の出雲国(現在の島根半島)は土地が小さかったため、神様が朝鮮半島や隠岐、北陸地方などから余った土地を4個所引っ張ってきてつなぎ合わせたという話です。
引き寄せた土地をつなぎ止める綱が、「薗(その)の長浜」(稲佐の浜から南に続く海岸)と弓ヶ浜、綱をつなぎ止める杭が、三瓶山と大山だとされています。
実にスケールの大きな神話ですが、その島根県にまた新しい話題が誕生しました。
今回は神話ではなく400年ほど前に出来た松江城の話題です。
島根県松江市にある松江城の天守が国宝に指定されることが先日報道されていました。
それによれば、文化審議会は15日、島根県の「松江城天守」が近世城郭最盛期を代表するとして、新たに国宝に指定するよう文部科学省に答申したということです。
天守が国宝に指定されるのは実に63年ぶりのことだそうです。
2007年11月6日
松江城の天守は、外観は4重、内部は地上5階、地下1階の形式で、中国地方に唯一残る「四重五階」の天守で、高さ2階分の通し柱を多用するなど独自の建築的特徴があるそうです。
創建の際に平和を願って奉納されたと伝えられる2枚の祈とう札が3年前に、75年ぶりに見つかり、慶長16年(1611年)に城が完成したことが裏付けられるなど新たな事実が明らかになったことで文化史的な価値が高まったと評価されたそうです。
天守が国宝に指定されるのは昭和26年の兵庫県の姫路城、昭和27年の長野県の松本城、愛知県の犬山城、滋賀県の彦根城に続いて5件目で63年ぶりとなります。
松江城へは8年ほど前に行ったことから親近感を覚え、国宝指定のニュースを見てマイピクチャを探したところ、保存されていたので当時の写真をアップすることにしました。
松江城はこじんまりとしていますが、とても美しいお城です。
読者の皆さまも、島根県を訪れた際には、松江城の見事な天守閣に上ってみられては如何でしょうか。
葛城山からの帰り道に、富田林市の瀧谷不動尊にお参りしてきました。
富田林市観光協会HPによれば、このお不動尊は弘法大師が開いたとされる真言宗のお寺で、古来、日本三大不動の一つといわれ、俗に「眼の神様」などと広く信仰されているそうです。
しかし、いずれの寺院をもって「日本三不動」と見なすかについては諸説あるようです。
また、交通安全祈願への参拝客も非常に多いのが特徴で、毎月28日の縁日には車両を通行止めにした参道に屋台が並び、大勢の参拝客でにぎわうそうです。
「瀧谷不動尊」
瀧谷(たきだに)不動明王寺は真言宗智山派の仏教寺院で山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺ですが、一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言われています。
寺伝によれば、当山は平安時代、嵯峨天皇の弘仁12年(西暦821年)に弘法大師が国家の安全と国民の幸せを祈るために開かれた道場で、本尊不動明王及び脇侍の矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子との御三体は、大師一刀三礼の霊像として敬われ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
「本堂」
明治30年中興慈恭僧正により建立され、昭和3年に奥殿を増築し、現在に至っています。
お不動様のご誓願は、人間の悩みの原因である無明(まよい)を断ち切って、ほんとうの幸せを授けることのようであり、私たちの真心が通ずるならば、どのような願いでも必ず一願は成就するといわれています。
「本尊」
本尊の不動明王、弘法大師、聖天等が祀られており、また奥の院には十二天、真言八祖、ならびに各人のえとの守り本尊が祀られているそうです。
「目の神様」として眼病へのご利益が広く知られるようになった瀧谷不動尊には、多くの人がご利益を授かりに訪れるようです。
・御本尊です(撮影禁止なのでネットより)
「霊験話」
眼病平癒の霊験話も多く残されているようで、その中の一つは次のように伝えられています。
明治20年ごろ、泉州大津(現在の大阪府泉大津市)に藤井庄三郎・常次郎という双子の男の子が住んでいました。
ある日、2人はいたずらをしていて、誤って猫を殺してしまいます。すると、その夜2人とも同時に両目が見えなくなりました。
両親は子どもを助けようと医者へ連れて行き、薬やあらゆる治療を受けさせますが、少しも良くなりません。
瀧谷不動尊が眼病にご利益があると知った両親は、子どもの目が治るようにと1週間交替で一心に祈願に訪れました。
3週目の夜、父親は祈願の途中で胸騒ぎがし、急いで家に帰りました。
その頃、家では子どもたちが泣き叫んでいて、母親が理由を聞くと、「夢の中で白いひげをはやしたおじさんが剣で目をついたんや」と答えました。2人は同時に同じ夢を見ており、さらに子どもたちの目をよく見ると、血のうみが流れていたのです。
そして母親がうみをふき取ると、なんと子どもたちの目が、もとのように見えるようになりました。
喜んだ両親は、瀧谷不動尊に感謝の祈りを捧げに行ったそうです。
本堂にはこの絵馬が飾られているということです。
「トチノキ」
境内には大きなトチノキが植えられており、丁度、花が咲いていたので撮影してきました。
トチノキ(栃、橡、栃の木、)は、トチノキ科トチノキ属の落葉広葉樹で、雌雄同株です。
5月頃、枝先に大きな円錐花序を直立し、雄花と両性花を付けます。
トチの実は、多量のデンプンや、脂質を含む栄養豊富な木の実であり、アクを抜いて食べたり、栃餅などに利用されています。
また、民間療法で、しもやけ、水虫、たむしなどに薬効があるそうです。
イギリスでは、栃の花が咲くころの日曜日を、チェストナッツ・サンデーと呼び、日本のお花見のように、花を愛でようです。
なお、フランスなどで街路樹として植栽されているマロニエは西洋トチノキのことです。
・栃の花です。
今回の葛城山登山は山頂のツツジを見るために、菜園仲間のT氏から誘いを受けて実現したものです。
そのT氏は熊取のNPO法人“グリーンパーク熊取”の役をされている方で、野鳥や山野草に詳しく、登山道沿いに見られる数々の草花や樹木の名前を教えてくれました。
今日は、その中から一部をご紹介します。
・丘陵地の下にある展望ベンチからの眺めです。
「マムシグサ」
マムシグサはサトイモ科テンナンショウ属の多年草で、有毒植物です。
北海道から九州に分布し、明るい森林や谷沿いのやや湿った場所に生育しています。
茎を直立させて、春から初夏に茎頂に高さ15cmほどの1個の仏炎苞に包まれた特異な形態の花をつけます。
「仏炎苞」とは、ミズバショウのように小さな花を周囲に密生させた棒状の花穂(肉穂花序)を苞葉が包みこんでいるもので、仏像の後背の仏炎に似ているためこのように呼ばれているものです。
名前の由来は、茎に褐紫色の模様があって、これがマムシの皮膚の模様に似ているからとか、花の形が、マムシが鎌首をもたげている形に似ていることから、などが一般的に言われています。
・写真の中央、葉が折れ曲がっている部分に白い筋が見えるのがマムシグサです。
「チゴユリ(稚児百合)」
チゴユリはユリ科、チゴユリ属の多年草です。
日本・中国・朝鮮にかけて分布し、日本国内では全国で見られます。
早春に芽を出して、上部で弓なりに曲がった茎先に、4~5月にかけて花径1cmほどの白い鐘形の小さな花が少し下向きに咲きます。
花の名前の由来は、ユリに似た小さくかわいらしい花を稚児に見立ててつけられたという説と、地下茎が横に延びて、たくさん並んで花が咲いている姿を稚児行列に見立てたという説があります。
・アップしたチゴユリの花です
「ギフチョウ」
絶滅危惧種に指定されているギフチョウは、アゲハチョウ科に分類される蝶で、国蝶の「オオムラサキ」と共に、「日本固有の美しい蝶」です。
毎年、早春の時期に現れるため「春の女神」とも呼ばれています。
真珠色の綺麗な卵を数個ずつ「ミヤコアオイ」の葉の裏に生みつけるそうです。
・蝶が飛んでいなかったのでネットからご紹介します(ネットより)
「ミヤコアオイ」
ミヤコアオイは、四国、中国地方から関西地方に広く見られるカンアオイの仲間です。
葉はほこ形の卵状楕円形で、長さ5~8cmほどで、葉面に散毛があります。
ギフチョウが卵を産みつけ、そして、幼虫の食草として欠かせない植物です。
「ワレモコウ(吾亦紅、吾木香)」
ワレモコウはバラ科ワレモコウ属の耐寒性がある多年草です。
日本では北海道から九州まで全国に分布しており、世界でも中国からシベリア・ヨーロッパに広く分布しているようです。
陽当たりが良い山腹、草原に自生し、草丈は70~100㎝、葉には切れ込みがあって楡(にれ)の葉に似ています。
開花期は8月~10月で、花弁がなく赤紫の穂状のような萼(がく)が赤黒く色づき、この姿から別名ダンゴバナとも呼ばれています。
漢方では根を乾燥させたものを地楡(ちゆ)と呼び、生薬でタンニンを含み止血剤として用いられているようです。
・花が咲く前のワレモコウです。
私たちが登山した数日前と前日に、新聞とテレビで葛城山のツツジを紹介していたことから、昼前には多くの観光客がケーブルで上って来ました。
私たちがベンチで休んでいると横に年配の男性がきたので、座ってもらって雑談したところ、その方は守口市から来たと言い、ケーブルに乗るのに1時間余り並んだことや、今日の混雑は、『葛城山のツツジ、今が見ごろ』の新聞・テレビのニュースが影響したのでは、などと話してくれました。
「金剛山」
展望ベンチから金剛山が正面に見えます。
金剛山は、大阪府千早赤阪村と、奈良県御所市との府県境にある山です。
大阪府の最高地点は1056mですが、標高は1125mで、二上山や葛城山の連なる金剛山地の主峰です。
観光スポットとしても人気が高く、週末に観光を兼ねてハイキング登山に来る登山者も多いようです。
・標高1125mの金剛山です。
「山頂と三角点」
葛城山の山頂です。手前には二等「三角点」の石柱があります。
三角点とは、三角測量を行う時に地表に埋定された基準点のことです。
また、三角測量とは、三角形の一辺の距離と二角の角度を知ることにより、他の二辺の距離を計算で求める方法をいいますが、その三角測量を実施したとき、地表に埋定された基準点のことを三角点といっています。
三角点には原則として一等から四等まで等級があるようです。この等級は山のランク付けではなく、設定された順番なのだそうです。
地図を作成するために測量を行う際、全国を一辺約45㎞の三角の網で覆うことから始まりますが、この時設定された三角点が一等三角点の本点です。
一等三角網が完成するとより高い精度を求めるため、一等三角網を利用して、新たに一辺約8㎞の三角点の網が作られます。これが二等三角網です。さらに二等三角網を利用して、一辺約4㎞の三等三角網が完成します。
この成果を利用して基本的な地図である五万分一の地図が完成するのだそうです。
・葛城山山頂の標識とその手前の三角点標石です。
山頂から眺められる大和路展望図です。
「大和三山」
山頂からは、大和三山が展望できます。
大和三山(やまとさんざん)は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺(橿原市)にそびえる3体の山々で、
・天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
・畝傍山(うねびやま、199m)
・耳成山(みみなしやま、140m)
をいいます。
万葉集にも詠われた大和三山は、橿原市を代表する景観であり、平成17年7月14日に国の名勝に指定されています。
また、大和三山に囲まれた平野部分には、古代の都・藤原京の中心であった藤原宮が造営されていました。
「藤原宮跡」
藤原京は694年(持統天皇8年)、飛鳥の地から遷都した都城です。
大和三山に囲まれた場所に宮を据え、中国・朝鮮の都城をモデルとして造られた、わが国最初で最大の本格的な都城でした。
・大和三山です。 左から耳成山、畝傍山、そして畝傍山の右奥に天香久山が見えます。右側の森は甘樫丘です。
先日、菜園仲間のT氏と葛城山へ登頂してきました。
葛城山は大阪府千早赤阪村と奈良県御所市にまたがる標高959mの山で、登頂の目的は、いま見ごろとなっているツツジを見るためです。
葛城山への登山は、奈良県御所市からは山頂までのケーブルがありますが、私が登ったのは大阪府千早赤阪村からで、こちらからの登山は、一般の人で山頂まで約2時間程度かかる急坂の登山道です。
私は毎日ジョギングをしているので足には自信がありましたが、それにも増して同行者のT氏は健脚であり、殆ど休むことなく1時間余りで登り切りました。
山頂付近では「一目百万本」と呼ばれるツツジが鮮やかな赤色で山肌を染めていました。
今日から数回に分けてご紹介します。
・入山後、間もない急坂です。この後さらに険しい坂道が待っていました。
・途中の標です。
・小休止している同伴者のT氏です。
山頂近くになると、真っ赤に咲いたツツジが出迎えてくれます。
早朝に登ってきた人たちがツツジの下で休息していました。
約15ヘクタールに広がる色鮮やかなヤマツツジの間を、ハイキング客らが散策したり、記念撮影したりしていました。
・山頂のすぐ下にある国民宿舎「葛城高原ロッジ」の下に設けられている休憩所からの眺めです。
「善光寺御開帳」
長野市の善光寺で4月5日から5月31日までの57日間にわたって御開帳の行事が行われています。
御開帳の行事とは、数え年で7年に一度、秘仏である御本尊のお身代わりとして、まったく同じ姿の「前立本尊」を本堂にお遷しして全国の人々にお参りいていただく行事だそうで、前回の平成21年(2009年)の時には673万人の方が参詣されたそうです。
なお、本堂前に立てられている「回向柱(えこうばしら)」は前立本尊の右の御手と善の綱で結ばれ、柱に触れる人々にみ仏のお慈悲を伝えてくれると言われており、その回向柱は本堂建立の際、松代藩が普請奉行にあたったという縁から毎回松代町から寄進されているそうです。
「ドローンの飛行規制」
その、御開帳の行事が行われているさなかに、今月9日に小型の無人機「ドローン」が境内に落下すると言う事件がありました。
ドローンを飛ばしたのは横浜市の15歳の少年とのことで、落下の約1時間半後、少年が自ら同寺にある臨時派出所に名乗り出てきたそうです。
警察署では、署員が「危ない」と注意をして帰したということですが、その数日前には首相官邸の屋上にドローンが落下していた事件が起きたばかりです。
ドローンの飛行規制を早急に講じる必要がありそうです。
「牛にひかれて善光寺参り」
ところで、善光寺と言えば「牛に引かれて善光寺参り」と言う諺があります。
今日はこの意味や故事を調べてみました。
「牛に引かれて善光寺参り」とは、たまたま他人に連れられて、ある場所へ出かけて行くこと。また、自分の意志からではなく他人の誘いで、思いがけない良い結果を得たり、よい方面へ導かれたりすることを例えて使われる諺です。
その故事を善光寺の法話からご紹介します。
昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいました。
ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。女はたいそう腹を立てて、「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ。」などと怒りながらその牛を追いかけていきました。
ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつきません。
そうする内に、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまいました。日は沈み牛はかき消すように見えなくなりました。
ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らしました。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見えます。
その文字をよく見てみると、『うしとの みおもひはなちそ この道に なれをみちびく おのが心を』と書いてありました。
女はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かしました。
昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。
たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないですか。
こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げました。
そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれています。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのであります。
箱根山の大涌谷では火山活動が活発になっています。
国土地理院は今月8日に、箱根山の大涌谷で、直径200メートルほどの狭い範囲が最大で6センチ隆起したと発表しています。
気象庁も、傾斜計などにより今回の火山活動に関連するとみられる地殻変動を確認しているそうで、今後、大涌谷周辺に影響を及ぼす小規模な水蒸気噴火が発生する可能性もあると警戒を強めています。
大涌谷は大勢の観光客が訪れる観光スポットですが、水蒸気噴火の可能性が高まったとして、6日に、噴火の危険度を示す「噴火警戒レベル」が「1(平常)」から「2(火口周辺規制)」に引き上げられたことから、現在は入山することができず、湯けむりも、名物の黒い温泉卵にも、お目にかかることができません。
早く、火山活動が治まって欲しいものです。
・4年前に行った時の大涌谷の湯けむりです。
・同じく黒い温泉卵です。この卵を“1個食べると寿命が7年伸びる”とか云われています。
その箱根を歌った唱歌に皆さんよくご存知の「箱根八里」があります。
♪ 箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず・・・
が、歌いだしの歌詞ですが、題名の箱根八里の「八里」とは何処から何処までかご存知でしょうか?
「箱根八里」とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたものだそうです。
東海道では大井川とともに難所として知られており、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われています。
今日は箱根に因んで、懐かしい「箱根八里」を、音羽ゆりかご会の歌で聴きたいと思います。
箱根の山(箱根八里)
箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼なお暗き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は
苔(こけ)滑らか
一夫関(いっぷかん)に当るや
万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩ね踏み鳴す(ならす)
斯く(かく)こそありしか
往時(おうじ)の武士(もののふ)
「紫雲丸沈没事故」をご記憶されていますか?
私は岡山県人なので、子供ながら新聞記事を読んだり、5球スーパーラジオで聞いたりしたことをよく覚えています。
一昨日の5月11日は、その宇高連絡船「紫雲丸」が沈没してから60年に当たる日でした。
紫雲丸沈没事故は、昭和30年に高松市の沖合で、旧国鉄の連絡船「紫雲丸」が別の連絡船と衝突して沈没し、修学旅行中の小中学生など168人が犠牲となった事故です。
「紫雲丸沈没事故の概要」
昭和30年(1955年)5月11日、午前6時56分、濃霧の高松沖で、岡山県の宇野行き旧国鉄連絡船「紫雲丸(1480トン)」と、貨車を運ぶ高松行き旧国鉄連絡船「第三宇高丸(1282トン)」が衝突し、紫雲丸が沈没しました。
「犠牲者」
この事故での犠牲者は168名に上り、うち児童生徒の犠牲者は100名を数えました。
犠牲者の内訳は次のとおりです。
・紫雲丸関係者・・・・・・・・・・・・・ 2人(船長他1人)
・一般乗客・・・・・・・・・・・・・・・・ 58人
・修学旅行関係者・・・・・・・・・ 108人 〔児童生徒100人(男子19、女子81) 引率教員5人 関係者(父母)3人〕
愛媛県の庄内小学校・・・・30人(児童77人中29人、PTA会長1人)、
広島県の木江南小学校・・25人(6年生97人中22人、引率教員3人)
島根県の川津小学校・・・・25人(6年生58人中21人、引率教員5人中2人、父母3人中2人)
高知県の南海中学校・・・・28人(3年生117人中28人)
特に児童生徒の犠牲者100名中、81名が女子でした。
現場では次々と児童生徒の遺体が搬出されましたが、その様子はあまりにも凄惨で、搬出活動にあたった者の多くが、長らくその状況を語ることができないほどだったそうです。
11日には、高松市では遺族などが出席して慰霊祭が行われたと言うことです。
なお、この事故が瀬戸大橋建設のきっかけとなったそうです。
・沈没する紫雲丸です。(ネットより)
修学旅行中の生徒が巻き込まれた船事故と言えば、記憶に新しいところでは、昨年4月に韓国のセウォル号沈没事故がありました。
この事故では、乗員・乗客の死者295人、行方不明者9人、捜索作業員の死者8人の犠牲者がありましたが、そのうち修学旅行中の高校生250名が死亡したり、行方不明になっています。
更に、2012年1月にはイタリアの豪華クルーズ客船コスタ・コンコルディアが浅瀬に座礁し、浸水・転覆した海難事故があり、死者30人、行方不明者2人の犠牲者が出ています。
このような事故は今後二度と起きて欲しくありません。
船会社や船長を始めとする乗員の方には、安全の上にも安全に配慮した航行を願いたいものです。
タラヨウ
「タラヨウ」をご存知でしょうか?
漢字では「多羅葉」と書き、ハガキ(葉書)の語源になったとも言われています。
今日は「タラヨウ」について調べました。
「タラヨウ」はモチノキ科モチノキ属の常緑高木で葉っぱに文字が書けることから「葉書の木」、「郵便局の木」と知られており、日本郵政公社では「郵便局の木」に指定し、東京中央郵便局を始め各地の郵便局の前などに植樹されているそうです。
この「タラヨウ」の葉に宛名と便りを書いて切手を貼り、ポストに入れると郵便として扱ってもらえるそうです。
・これこそ本当の葉書です。郵便として配達してくれるそうです。(ネットより)
「はがき」の由来
はがきの由来は紙片などに書いた覚書き「はしがき」からきたという説が有力なようです。
つまり「端・書き」から派生した言葉で「端書」とか「羽書」とも書いたと言われています。
江戸時代には、借金の催促や徴税令といった金銭関係の通知文書や伊勢の国の紙幣などが「端書」と呼ばれていましたが、明治以降に郵便制度が導入されてからは今のように郵便はがきを指すようになったようです。
「端書」から「葉書」が用いられるようになったは明治以降のようですが、なぜ「端」から「葉」に変わったのか、その有力な説の一つが「タラヨウ(多羅葉)」の「葉」からとされています。
・葉書です(ネットより)
葉に傷つけて字が書けるのは、細胞内の酸化酵素が水溶性のタンニンを酸化させ、不溶性タンニンが生じて黒褐色になるためです。
葉が大きいため『葉書の木』とされたと言うことです。
「タラヨウ」の葉書、一度出してみたいですね。
・これも葉書です。(ネットより)
「タラヨウ」は、本州静岡以西~九州、中国、四国に分布しているようです。
雌雄異株で、花期は4~5月頃、4mmほどの小さな淡黄緑色の花が群れて咲き、秋には8mmほどの小さな球形の赤い実が生ります。
葉は肉厚で、20センチほどもある長楕円形をしており、その縁は鋸のように細かいきざぎざとなっています。
日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されているそうです。
戦国時代には、この葉の裏に文字を書いて情報のやりとりをしたという話もあり、これがはがき「葉書」の語源になったとも言われています。
・タラヨウの木です(ネットより)