らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

アカハラ

2017-11-30 | 時事

先日、ニュースを見ていると「アカハラ」という知らない言葉を耳にしました。
皆さんはこの言葉をお聞きになったことがありますか?

調べてみると、「アカハラ」とは、アカデミックハラスメントの略で、指導教官と学生、指導教授と助手などの、アカデミック(学究的)な上下関係にある関係で行われる嫌がらせのことだそうです。
ニュースでは兵庫教育大学での出来事を報じていました。

「兵庫教育大学のアカハラ」
中学校教諭の54歳の女性は5年前、兵庫県内の自治体の教育委員会から派遣されて兵庫教育大学の大学院に通っていた際、当時の担当教授から「おばさん」とか「地獄を見ろ」などと暴言を吐かれたり、差別的な扱いをされたりするなど精神的な苦痛を受けたということで、大学と元教授に損害賠償を求めて裁判を起こしました。

その判決が先日の27日にあったのですが、判決では、神戸地方裁判所姫路支部の惣脇美奈子裁判長が「元教授は女性の人格を傷つける発言をしていて、担当が変わったあともいやがらせを続けた。大学も安心して研究できる環境を整備しなかった」としてアカデミックハラスメントがあったと認め、大学と元教授におよそ130万円を支払うよう命じたのです。

私はこのニュースで初めて「アカハラ」という言葉を知ったのですが、それにしても大学教授の品位の無さに愕然としました。
大学教授と言えば、専門の学術・技芸を研究し教える人です。
そして、この男性は人生経験豊かな67歳のベテラン教授なのです。
社会的な地位も高い立派な教授が何故ハラスメントなどするのでしょうか?

この教授は神戸地裁の敗訴を受けて退官したと報道されています。
大学教授と言う職業や社会的地位の高さと「アカハラ」による自分の行為に対する責任を天秤にかければ掛ければ、どちらが大事かその重さが分かる筈です。
昨日、相撲協会に引退届を提出した大相撲の横綱日馬富士と同様、つまらないことで自分の人生を汚したものです。

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小春日和

2017-11-29 | 季節

大阪地方は暫く寒い日が続いていましたが、昨日は最高気温が19.2度で風もなく暖かい一日でした。
この時期のこのような天気を「小春日和」と言いますが、なぜ、初冬のこのような天気を「小春日和」と言うのでしょうか?

「小春(こはる)」とは、旧暦10月の異称であり、「日和(ひより)」とは、空模様、天候、よい天気、晴天の事を言います。
そこで暦をめくってみると、昨日は旧暦の10月11日であり、確かに「小春」でした。
そして天気は快晴で暖かく、いい日和だったことから、紛れもない「小春日和」の一日でした。

このように小春日和とは、晩秋から初冬にかけて日に日に寒さが厳しくなる中、穏やかで暖かな日和のことをいいます。
広辞苑でも、「小春(こはる)」とは、(暖かで春に似ているからいう)陰暦10月の異称。冬の季語、と説明し、
        「小春日和」は、小春の頃の暖かいひより。と説明しています。

ところで、日本では初冬のこのような天候を「春」になぞらえますが、外国では「夏」と言う表現を使用しています。
例えば、
・アメリカでは「インディアン・サマー」
・イギリスでは「セント・マーチンの夏」
・ドイツでは「アルトワイベルゾンマー(老婦人の夏)」
・ロシアでは、「バービェ・レート(婦人の夏)」
・フランスでは「サンマルタンの夏」
等です。

初冬の暖かさは夏の暑さとは随分違いますが、日本人と外国人では暖かさの感じ方が違うようですね。



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彦根城への旅(4)

2017-11-28 | 旅行

彦根城への旅シリーズは今日で最終回となります。

「多景島(たけしま)」
彦根城本丸から琵琶湖の多景島が見られます。
元は島内に竹が多く自生していることから「竹島」と言っていたそうです。
しかし、江戸時代に荒神山から土を運び植林し、木が成育するとともに島を眺める方向によって多様な景色に見えるようになったことから、多景島と呼ばれるようになったということです。
琵琶湖には3つの島があり、他には南に沖島と北に竹生島があります。この事に関連して、バスガイドさんが日本で一番島が多い県を教えてくれました。
皆さんはご存知でしょうか? 
1位 長崎県・・・・・971島  
2位 鹿児島県・・・605島 
3位 北海道・・・・・509島 
4位 島根県・・・・・369島 
5位 沖縄県・・・・・363島
6位 東京・・・・・・・330島
7位 宮城県・・・・・311島
8位 岩手県・・・・・286島
9位 愛媛県・・・・・270島
10位 和歌山・・・・253島
以下、山口県249、宮崎県179、熊本県178、高知県159、広島県142と続きます。

・彦根城本丸から眺めた多景島です


「彦根城入城口」
当日は団体入場者が多く、入城制限があって、10分ほど入城口で待たされました。



「城内」
城内の特徴は多様な破風を設けた結果、4~5人が入れる広さで隠し部屋と呼ばれる部屋が2階の東西、3階の南北の計4か所あります。
隠し部屋の中も含めて、天守内には82か所も鉄砲、矢狭間を備えています。
平時は外から見えないように漆喰壁で塗りこめられており、戦時は壁を突き破って使用していたと言うことです。
天守北側の附櫓と多聞櫓の壁は櫓内部の守備隊を鉄砲玉から守るために二重壁とし、間には栗石を詰めて防弾の効果を高める工夫がされています。



「二層階段登り口」
階段の傾斜は62度もあるそうで、天守に入り込んだ敵に登らせない工夫だそうです。
階段も引っかけてあるだけで、簡単に外せるようです。
この階段でも10分以上待たされました。



「三層階段登り口」
こちらも60度以上の傾斜階段となっています。
手摺りを持ってゆっくり上り下りしないととても危険です。



「天守からの眺望」
琵琶湖や彦根市内の全域が見渡せます。



「彦根城お堀めぐり」
井伊家ゆかりの御好屋形船(おすきやかたぶね)が彦根城の内堀を運行しています。
この船は井伊家に伝わる資料を基に、江戸時代の屋形船を正確に再現しているのだそうです。
この船に乗れるのは、江戸時代には藩主とその一族に限られていました。
現在ではどなたでも乗れるので、大名の舟遊び気分で遊覧してみては如何でしょうか。



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彦根城への旅(3)

2017-11-27 | 旅行

「彦根城への旅」シリーズ、3回目の今日は、いよいよ本丸へ登城です。
表門からお城までの重要文化財などをご紹介します。

「表御殿、現在は彦根城博物館」
表御殿は彦根藩の藩庁があったところで藩の政務や対面儀式に使われた公的空間と藩主が日常生活を送った私的空間で構成されています。
この表御殿は明治維新後に取り壊されましたが昭和62年(1987年)に復元し、現在は彦根城博物館として開館しています。



「ひこにゃん」
ひこにゃんは彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる"招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成で、武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜を合体させて生まれたキャラクターです。
2006年4月13日「国宝・彦根城築城400年祭」のキャラクターの愛称公募で、名前が「ひこにゃん」に決定したことから、この日が誕生日とされています。
全国的に人気がある「ひこにゃん」は1日3回、下記の時間帯に登場しています。
10:30-11:00 彦根城天守閣前
13:30-14:00 彦根城博物館(表御殿)
15:00-15:30 彦根城博物館(表御殿)

・13:30-14:00に彦根城博物館に登場したひこにゃんです。


「廊下橋」
表門から上がって行くと廊下橋があります。
廊下橋は、鐘の丸から天秤櫓(てんびんやぐら)の門へかけての橋で、幅員3.4m(二間)、長さ15m(八間)です。
元は、この橋に覆い屋根がついて、腰壁をつけていたので廊下橋と呼ばれています。
城の防備のために城兵の移動を相手方に知られないようにするために、屋根などを設けたものといわれており、非常時にはこの橋を落下させ、敵の侵入を防ぐ事ができるようになっていました。



・天秤櫓の手前、大堀切の紅葉です。


「天秤櫓(国の重要文化財)」
天秤櫓は廊下橋を中央にして左右対称になっており、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。
この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれており、城門は、正面約4.3mで、全部、樟材(くすのき)を用いて建築されています。
このような形式は、日本の城郭では彦根城ただ一つといわれています。



「時報鐘」
彦根城に登城する途中に時報鐘があります。
この鐘は江戸時代から絶えることなく、毎日3時間おきに6時、9時、12時、15時および18時の1日に5回撞かれます。
城下に鳴り響く鐘の音は、「お山の鐘」として市民に親しまれており、環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されています。





「太鼓門及び続櫓(国の重要文化財)」
本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。
登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。
太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。



「彦根城(国宝)」
国宝彦根城は関ヶ原合戦の前哨戦で耐え抜いた大津城から移築したと言われ、慶長12年(1607年)ころに完成しました。
政治的象徴としての外観の美しさだけでなく、城本来の機能である軍事面でも優れているということです。
また、丸みを帯びた唐破風や切妻破風を駆使した変化のある屋根は他の現存天守にはない美しさがあります。
即ち、正面1層目の両端には切妻破風が、2層目の中央入母屋破風の上には唐破風(曲線の屋根)が、そして2層目と3層目の中央には大きな入母屋破風が設けられており、これらが組み合わさって類い希な美しさを見せているのです。

・本丸御殿側からの天守です。


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彦根城への旅(2)

2017-11-26 | 旅行

彦根城の表門通りにある「彦根キャッスルリゾート&スパ」ホテルで食事をした後、集合時間までの時間を利用して、集団では訪れないであろう彦根城の周辺を見て回りました。
2回目の今日はそれらの重要文化財などをご紹介します。

・昼食をした「彦根キャッスルリゾート&スパ」のホテル前から眺めた彦根城です。


「いろは松」
表門橋に向かう中濠の沿道の松並木で47本あったのでこの名が付けられました。
現在では34本(補植12本)が残り、当時の面影を偲ばせる通りとなっています。
この松は第3代井伊直孝が、諸国から取り寄せた竹木を城内に移植する際に、通行の妨げにならないように、根が地上に出ない土佐松が植えられているそうです。



「埋木舎(うもれぎのや)」
井伊直弼(なおすけ)が青春時代を過ごした屋敷です。
他家を継ぐ等の機会に恵まれなかった直弼は、父の死とともに槻御殿から中堀に面したこの屋敷に移りました。
彼は「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」という和歌を詠み、自らこの屋敷を「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に励みました。
徳川幕府の大老として開国の父となった才能はここで培われたといわれます。

・白い塀で囲まれた林の中が埋木舎です。


「井伊大老(直弼)歌碑」
歌碑は直弼の死から100年が経った昭和35年(1960年)に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志29人よって、いろは松と道を隔てたところに建立されています。
    「あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世(みよ)にこころを くだきぬるかな」
    「琵琶湖の磯うつ波が、打ちくだけてはひき、また打ちくだけてはひくことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。
    しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」 
歌には、直弼のこんな心情が詠まれています。



「佐和口多聞櫓(国の重要文化財)」
いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたものです。現在、重要文化財に指定されています。

・佐和口の左右に多聞櫓があります。一部見えている右側の櫓は現在は開国記念館です。


佐和口の右手にあるこの櫓は、昭和35年(1960年)に再建された佐和口多聞櫓ですが、現在は開国記念館として使われています。



「馬屋(国の重要文化財)」
元禄時代(1688年〜1703年)に建てられ、常に十数頭の藩主用の馬がつながれていました。
昭和43年に解体修理されたこけら葺きの屋根が美しく、城内に残る馬屋は彦根城だけです。
明和年間(1764年〜1771年)のころ、火災により類焼、修理されましたが、こけらぶきの屋根は棧瓦(さんがわら)ぶきに変えられました。
昭和48年解体修理の時、もとのこけらぶきに復元されました。

・馬屋の入口です。


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彦根城への旅(1)

2017-11-25 | 旅行

一昨日、自治会の親睦バスツアーがあり、参加してきました。
今年はNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」 が放送されていることから、井伊家ゆかりの城である彦根城を見学するツアーが組まれました。
今日から数回に分けてご紹介します。

彦根城は姫路城、松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている名城です。
天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。
お城については後日ご紹介する事とし、初回はバスガイドさんが説明してくれた車窓からの風景について取り上げます。

「近江富士」
一般に近江富士(おうみふじ)として知られるこの山は、正式名称を三上山(みかみやま)と言い、滋賀県野洲市三上にある標高432mの山です。

「近江富士と富士山の親子伝説」
江戸時代の文献、『和漢三才図会』(1712年)によれば、
富士の山は、孝霊帝五年に始めて出現した。そもそも一夜のうちに地がさけて大湖ができたが、これが江州(おうみ)の琵琶湖で、その土が大山となったのが駿州の富士である。
江州の三上山は簣(もっこ)からこぼれて出来たものなので、形はほぼ富士に似ている。
ということで、近江富士と富士山は親子である、とガイドさんが説明していました。

「近江富士のムカデ伝説」
この三上山にはその昔、俵藤太という武将が、この山を七巻半したという大ムカデを退治した有名な伝説があります。
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。
その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。
娘は龍神一族が三上山の百足(ムカデ)に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。
藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。
藤太は矢を射たが大百足には通じない。ムカデは人間の唾に弱い事を教えられていたのを思い出し、最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。
藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。
また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
なお、俵藤太は平安時代中期の貴族、豪族、武将の藤原秀郷と言われており、天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥の平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月に平将門討ち取った武将です。

・大ムカデ退治伝説が残る近江富士(三上山)です。


「佐和山」
嘗て石田三成の居城があった佐和山です。
織田・豊臣政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られています。
関ヶ原の後、将軍徳川家康の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604年)より彦根城築城が着工されました。

・嘗て、石田三成の居城・佐和山城があった佐和山です。


「お釈迦様の寝姿」
遠くのお山はお釈迦様の寝姿に見えませんか?
左が顔で右が胸になります。
言われてみればそのように見えるから不思議です。

・この「お釈迦様の寝姿」もガイドさんが説明してくれました。


「彦根キャッスルリゾート&スパ」
昼食を頂いた「彦根キャッスルリゾート&スパ」のホテルです。
現地に着いたのが11時30分だったので、まず昼食を食べることになりました。



これが用意されていた1人分の昼食です。
赤い器は三段重ね、黒い器は二段重ねのせいろです。



重ねられた器を並べるとこのような料理となっていました。
黒い器には近江牛や鰻の切り身などが、赤い器には刺身など盛られていました。
思っていたより豪華な料理でした。



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筒井筒

2017-11-24 | 雑学

最近では聞かれなくなった言葉に「筒井筒(つついづつ)」があります。
昔は漫才や落語にも登場した言葉でした。
意味はご存知だと思いますが、幼なじみ同士が結婚することで、「私と妻は実は筒井筒でして」などのように使用されます。

筒井は円筒状にまっすぐに掘り下げた井戸のことで、筒はその井戸の枠をいいます。
この言葉の由来は平安時代の歌物語『伊勢(いせ)物語』の次のような話に基づきます。

行商の子供たちが井戸の傍に出て遊んでいましたが、二人とも年頃になると恥ずかしがって会わないようになりました。
しかし、心の中では、互いに一緒になりたいと望んでいたのです。

ある時、男の方が次のような歌を女性におくりました。
「筒井筒  井筒にかけし  まろ(私)がたけ  過ぎにけらしな  妹(いも)見ざるまに」
(意訳:あの井戸の井げたのもとで背比べをした私の背丈は、あなたに会わない間に、井げたの高さを超えてしまったようですよ)

すると女性は次の歌を返しました。
「比べ来(こ)し 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれか上(あ)ぐべき」
(意訳:あなたと比べあってきた私の振り分け髪も、肩を過ぎるほどの長さになりました。成人したしるしの髪上げを、あなたでなくて誰がするのでしょうか)

そして、とうとう二人は年来の思い通りに結ばれたのです。
この事から、幼馴染みが結婚することを「筒井筒」と言うようになりました。

歌でプロポーズをする昔の男女は知的で優雅だったようですね。

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シャインマスカット

2017-11-23 | 地元紹介

シャインマスカットという品種のブドウをご存知でしょうか?
このブドウはまだ新しい品種ですが、先日、家内の実家に帰省した時、親戚から2房届けられたのを見て、その房の巨大さにビックリしたのでご紹介することにしました。

シャインマスカットは、ウィキペディアによれば、房は円筒形で400〜500グラム。成熟時の色は黄緑色で、粒は短楕円形。大きさは11〜12グラムと巨峰と同程度である。
糖度は20度程度で高く、酸含量は0.3~0.4 g/100 mLと低く、甘い。ジベレリン処理により種無しで皮ごと食べる事ができる。
と説明しています。

シャインマスカットは2006年に品種登録されたばかりのまだ新しい品種の白ブドウです。
マスカットの香りと高い糖度、そして何よりも皮ごと食べられるという特徴があり、マスカット・オブ・アレキサンドリアほど栽培は難しくなく、その分、価格も手頃で、コストパフォーマンスが非常に高いブドウだそうです。

・親戚からは2房届けられたシャインマスカットです。


そこで、頂いたシャインマスカットの巨大な房の大きさですが、
・房の長さ27センチ、(持ち上げている房です)
・房の幅16センチ、(同上)
・1房の重さ1940g(同上)
でした。

シャインマスカットは「スチューベン」に「マスカット・オブ・アレキサンドリア」を掛け合わせたブドウ「安芸津21号」に「白南」を交雑して育成した大粒で食味良好なブドウだけあって、マスカットのように甘く美味しいブドウでした。
道の駅ではこれより小さい1房が千円ほどで売られていました。
高価な果物なので我が家では買ってまでは食べられません。
今回は偶然に居合わせたことから、貴重なブドウを美味しく食べさせてもらいました。

・1房の重さが1940gの巨大な房です。2kg用の秤の針が殆どいっぱいまで回りました。



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いい夫婦の日

2017-11-22 | 時事

所用のためブログの書き込みを休止していましたが、今日から再開しますのでよろしくお願いします。

昨日、10日ぶりに畑に行ってみるとアライグマの捕獲器にイタチが入っていました。しかし、可哀そうに、そのイタチは既に死んでいました。
檻に入ってから数日が経ったのでしょう。空腹と連日の夜間の冷え込みから死亡したのだと思います。
生きておれば遠方に解き放してやるのに。
近くに棲んでいると思われるイタチの家族たち、このイタチも「いい夫婦」を築いていたのかも知れません。

ところで、今日11月22日はその「いい夫婦の日」だそうです。
ウィキペディアによれば「いい夫婦の日」とは、1988年に財団法人余暇開発センター(現日本生産性本部)によって提唱された記念日だそうです。
その後、1998年に「いい夫婦の日」をすすめる会(名誉会長・桂文珍)を設立し普及を推進しており、1999年より、毎年、広く一般からの投票を基に、理想の夫婦・カップルに相応しい「パートナー・オブ・ザ・イヤー」を選出しているようです。

その「いい夫婦の日パートナー・オブ・ザ・イヤー2017」のイベントが11月13日に行われ、今年の「理想のいい夫婦」が表彰されました。
選ばれたのは、結婚50周年を迎える西川きよし&ヘレン夫妻と結婚20周年を迎える中山秀征&白城あやか夫妻で、表彰式では、金婚式を迎えた西川夫妻がいまだにアツアツなところを披露し、ノロケて見せたそうです。

報道によれば、西川夫妻は毎朝、出がけにほっぺにキスをして見送り、一緒にお風呂に入るのが日課だそうです。
お出かけのチューは愛情確認のスキンシップだそうですが、入浴は夫婦仲の良さ以上に別の意味合いを持っていると言うことです。
それは、ともに70歳を過ぎたお二人なので、足腰が弱って風呂場で転倒したり、湯船で寝込んだり、温度差が原因の心筋梗塞を起こしかねないということから、互いに安全を確認しあってもいるのだそうです。

西川ご夫妻のような行いが夫婦円満の秘訣なのかもれません。
皆さんも西川ご夫妻のような、いつまでもいたわり合えるアツアツのご夫婦関係なのですよね。
そうでないご夫妻はご参考にされては如何でしょうか?

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ジグソーパズル

2017-11-12 | 趣味

小学校3年生の孫娘が幼稚園年長組の頃、日本地図のパズルで遊んでいました。
47都道府県の県境の境界線を切り離したものを地図上に当てはめていくものですが、これが子供には結構面白かったようです。
大人は都道府県の所在地が分かっているので比較的簡単ですが、子供にはその知識はなく、都道府県の形で判断して当てはめます。
最初は苦労していましたが、数回すると覚えてしまいます。都道府県の場所を覚えさせるには最適なパズルのように思いました。
現在は「人生ゲーム」に凝っており、現金の元締めの銀行役を手放しません。
このゲームでは加減算の計算に役立っているようです。

さて、パズルと言えば、ジグソーパズルがあります。
モナリザの絵柄などは有名ですが、最近では色々なものが造られています。
世界地図や世界の風景、犬や猫の写真、干支、花など多岐に亘って販売されています。
でも、なぜジグソー(糸のこ)と言うのでしょうか?
今日はジグソーパズルについて調べました。

ジグソーパズルは1760年頃にイギリスの地図製作者が考案したとされています。
地図を木の板に貼り、国などの境界線に沿って切り離したもので、子供に地理を教える教材でした。
当時は「解体地図」と呼ばれて、大変高価だったようです。
その後、複雑な形に切るため糸のこぎり(ジグソー)が導入され、より複雑なカットができるようになりました。
この糸のこぎり(ジグソー)が由来となってジグソーパズルと呼ばれるようになったそうです。

現在のように厚紙製のものは1900年代に入って登場しました。
特に世界恐慌が1929年に始まると、安価で繰り返し遊べるため、アメリカなどで大人にも大流行したそうです。

日本で広まるきっかけは1974年に東京国立博物館で開かれた「モナリザ展」です。
玩具製造販売「やのまん」などがモナリザの絵柄のジグソーパズル(750ピース)を輸入すると大ヒットとなり、最初に輸入した2万個は4日間で売り切れたそうです。
しかし、モナリザ以外の輸入ジグソーパズルは絵柄的にもそれ程日本人に受け入れられませんでした。

そんな中、登場したのが国産ジグソーパズルです。
富士山や金閣寺など日本の風景が中心でしたが次第に日本市場に浸透していきました。
優秀な日本の技術によって品質、絵柄のバリエーションなど、 日本人の気質にあった商品が世に送り出され、日本でもジグソーブームがやってきました。
ただし、欧米の普及と日本のそれとは明らかに違い、欧米では繰り返し組んで遊ぶ娯楽として普及したのですが、日本では一度組んで完成されたパズルは奇麗に飾っておきたいというインテリア指向のホビーとして花開いたということです。

現在では素材も多様化し、立体や球体のパズルも登場しているそうです。
私のような高齢者にはボケ防止に良いかも知れませんね。


「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  所用のため、明日から1週間程度ブログの書き込みを休ませていただきます。(少し長引くかも知れません)

 

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