らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

南極と北極どちらが寒い

2015-10-31 | 雑学

きょうはクイズを取り上げます。

「問題」  
 南極と北極はどちらが寒いでしょうか?
 1.南極
 2.北極
 3.同じ
正解は「1」の南極だそうです。

南極と北極は南北と言う極の違いはあっても、南緯90度の南極と北緯90度の北極点は同じ緯度にあるので、寒さも同じように思えますが、実は北極より南極の方がはるかに寒さが厳しいのだそうです。
北極の平均気温がマイナス30度前後なのに対し、南極中心部の平均気温はマイナス50度くらいであり、その差は実に20度もあるということです。

南極がこれほど寒いのには二つの理由があります。
一つは、南極は大陸であり、北極は海であることです。
大陸と海水とを比べると、大陸の方がはるかに熱しやすく冷めやすい大陸性気候の性質を持っていること。
しかも、氷の下にある海水はマイナス1.8度以下にならないので、北極は気温が下がりにくいそうです。

そしてもう一つの理由は、南極の氷の厚さが平均2450メートルもあり、南極大陸の平均標高は2000メートル以上あります。
一方、北極にはただ氷原があるだけで、標高は高くても数十メートルにしかなりません。
つまり、山の上が寒いのと同じ理由で南極の方が寒いそうです。

なお、南極にある日本の昭和基地は、極寒の大陸中心部を避け、海岸近くに設けられているので、年平均気温はマイナス10.6度、最高気温は10度近くまで達するそうです。
しかし、過去の最低気温は1982年9月4日にマイナス45.3度を記録しているそうです。
一方、南極大陸の海岸線から遠く離れた内陸部にあるロシアのボストーク基地では1983年にマイナス89.2度と言う極低温を記録しており、これは地球上で測定された一番低い気温だそうです。


年賀状の忌み言葉

2015-10-30 | 季節

昨日、全国一斉に年賀状が発売されました。
早速、年賀状書きに取り掛かる方もおられると思います。
私は毎年12月中旬になって腰を上げるほうですが、皆さまは如何でしょうか?

ところで、年賀状には使用してはいけないという「忌み言葉」があります。
既にご存知だと思いますが、今日は改めてその事について調べました。

忌み言葉とはご存知のように、不吉な意味や連想を持つところから、忌みはばかって使用を避ける言葉です。
年賀状の忌み言葉としては、「枯れる、衰える、破れる、失う、倒れる、滅びる」等があり、これらを年賀状に使うのはタブーとされています。
更に、去年の「去」という漢字もお祝いの場にはふさわしくない忌み言葉とされています。
なぜなら、「去年」の「去」という字は逝去という言葉で用いられているように、離別死別(=去る)の死を連想させるためであり、年賀状には相応しくありません。
これに代わる言葉として、年賀状では「昨年」や「旧年」と言い換えますが、この事は、新年に口頭であいさつする時も同じです。
「あけましておめでとうございます」で始まる新年の挨拶の会話のなかでも、去年という言葉は使用しないようにします。

忌み言葉以外に、年賀状について一般的な注意点を記しておきます。
・「A Happy New Year」と英語で書かれる方がおられますが、この表現は「よいお年を」と言う年越し前の挨拶になります。
 年越しの後に届く年賀状には「Happy New Year」と「A]を入れないのが正解です。
 「Happy birthday」 や 「Good morning」 に「a」が付かないのと同様、挨拶で使う場合は 「Happy new year」 にも不定冠詞の「a」は付けません。

・「元旦」とは、1月1日、または1月1日の朝をさすため、「1月元旦」や「1月1日元旦」と書くと、同じ言葉を2度繰り返すことになります。
 正しくは「平成28年 元旦」や、「2016年 1月1日」などの様に書きます。

・目上の人には「賀正」「迎春」などの二文字の賀詞は控えます。
 目上の人に向いた表現は四文字の賀詞、即ち、「謹賀新年」「恭賀新年」「謹賀新春」「恭賀新春」などです。
 例えば「謹賀新年」は「つつしんで喜びを申しあげます」という意味になり、相手への敬意やへりくだった気持ちを表す表現が入っているからです。

・「新年明けましておめでとうございます」は意味が重複しているので、この表現は控えます。
 「明ける」には「年が改まる」という意味があるので、「新年」と「明けまして」の意味が重複してしまいます。
 正しくは『新年おめでとうございます』とか『明けましておめでとうございます』です。

・年賀状はできるだけ三が日である1月3日までに届くように出すのが理想です。もし7日を過ぎるようであれば、年賀状ではなく「寒中見舞い」として出します。
 また、年賀状が来たのに1月7日を過ぎたからと言って、出さないのは失礼です。寒中見舞いとして出すようにしましょう。

今年も年賀状を準備する季節となりました。
失礼のない年賀状を12月25日までには投函できるように、早めに準備しましょうね。


陳謝と謝罪

2015-10-29 | 時事

先日、横浜のマンション傾斜問題で、旭化成建材や親会社である旭化成の社長が謝罪していましたが、今回に限らず、企業や警察、学校、議員の先生方などの公務員に至るまで、問題が発生する都度、責任者が陳謝したり謝罪をしています。
それは当然のことですが、謝罪して済む問題ではありません。
今回の旭化成建材については、何故このような事が起きたのか、その原因究明を徹底していただき、二度とこのような事が起こることがないよう、そして消費者が安心して安全に暮らせるような建物を建築して、信頼の回復に努めていただきたいものです。

ところで、このような謝罪問題が発生した時、報道では「陳謝(ちんしゃ)」と言う言葉を使ったり、「謝罪」の言葉を使用していますが、この二つの言葉はどのように違うのでしょうか?
今日はこの言葉の違いについて調べました。

陳謝と謝罪、広辞苑では、陳謝・・・①訳を述べて謝ること。②礼を言うこと。
                 謝罪・・・罪や過ちを詫びること。
と説明しています。

陳謝の「陳」という字には「つらねる」「のべる」という意味があるようです。
従って、「陳謝」を使う場合はただ謝ることではなく、理由を添えて謝ること、つまり、何について謝っているのかを明らかにする時に使用する言葉です。
例えば、「Aさんが大切にしていた器を割ってしまったことについて、陳謝した」とか、「経営危機に陥ったことについて陳謝する社長」という表現は何について謝っているのか、その理由が添えられているので正しい使用例です。

一方で「彼はただ泣き続けて陳謝した」「○○さんは電話ひとつよこさず、詫び状だけで陳謝したつもりらしい」という表現は、具体的な理由の言及がないまま謝っているので、このような場合は「謝罪」を使用するのが一般的なのです。

本当の意味を十分に理解したうえで、今後、TVの記者会見やマスコミ報道に接すると、言葉の表現力を知ることができるかもしれませんね。


世界一の長身

2015-10-28 | 雑学

現在、日本でも世界の国々でもギネスブックに挑戦することがブームになっているようです。

先日、中国東部の江蘇省で開かれた催しで、4トン余りのチャーハンが作られ、世界最大だとして一度はギネスの世界記録に認定されました。
しかし、その後、一部がゴミ収集車で運び出されて豚の餌にしていたことがインターネット上で暴露されたことから、食べ物を無駄にする行為は認められないとして記録が無効となり、ギネスの登録から抹消されたとのニュースが報じられていました。

中国では、現在、宴会の際などの食べ残しが社会的な問題となっていて、インターネット上では「記録の無効は当然だ」といった意見や「最も多くの食べ物を無駄にした世界記録だ」などと、今回の行為を批判する意見が相次いでいるということです。

ところで世界一と言えば、世界一の背の高い人は何センチだと思いますか?
実は、身長の世界一は272センチなのだそうです。

アメリカ・イリノイ州に住んでいたロバート・パーシング・ワドローさん(1918年2月22日~1940年7月15日)は、「疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間」としてギネスブックに記載されている男性だそうです。
既に亡くなっていますが、死亡時の身長は272 cmという前例のないものであり、体重は約200 kgあったそうです。

因みに、日本で一番背の高い人は、松坂良光さんの237cm、次いで岡山恭崇さんで230cm、日本人男性の平均身長はおよそ172センチです。
ワドローさんは日本人の平均よりも1mも高いということになります。

ワドローさんの身長がこれほど伸びたのには理由があるそうです。
彼は出生時の体重が3800㌘、身長は正常であり、2歳までは身長の伸びに異常はなかったそうです。
ところが、2歳の時にヘルニアの手術を受けた際に体の一部に損傷を負ってしまったようで、手術をしてからは、急速に成長していくようになりました。
5歳の時に163センチ、8歳の時には既に、188 cmになっており、10歳では198 cm、体重は100 kgに達していました。
そして、11歳の時に既に2メートルを超え、22歳で272センチになったそうです。
このままいくと3メートルを超えてしまうのではと思われた矢先、彼は22歳で亡くなったと言うことです。

このように桁はずれに背の高い人は成長ホルモンの分泌過剰が考えられるそうです。
通常17歳前後に成長ホルモンの分泌は終了しますが、何らかの理由で分泌量が増加したり、分泌し続けると成長が止まらなくなってしまうと言うことです。

272センチの巨人ワドローさん、生前は何かと不自由な面があったのではないでしょうか。
身長も体重もほどほどが一番いいですね。


大鳥神社

2015-10-27 | 地元紹介

先日、堺の大鳥大社を参拝してきました。
ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)と大鳥連祖神(おおとりのむらじのみおやのかみ)を御祭神としている神社です。
日本武尊と言えば、白鳥伝説でご存知の方も多いと思います。
今日はその伝説の地の一つと言われている大鳥大社をご紹介します。

「大鳥大社」
大鳥大社は和泉国一の宮にあたる延喜式内社です。
本殿は神社建築史上、大社造りに次ぐ古い様式で、大鳥造りと呼ばれている切り妻造りの妻入り神社建築です。
現在の本殿は明治38年に焼失した後、同42年に造営されたものだそうです。



「日本武尊・白鳥伝説」
日本武尊(やまとたけるのみこと)は第12代景行天皇の子として誕生しました。
幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われています。
武勇に秀でていたのですが、気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていました。

ある時、日本武尊は父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲(くまそ)・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に自分の不遇を訴えています。

幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの:亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。
体を横たえた日本武尊は大和への思いを、次のように詠んでいます。
   『大和は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山こもれる 大和し美(うるは)し』 
   意訳:大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。その山々に囲まれた大和は美しい。

能褒野(のぼの)に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、琴弾原(ことひきのはら:御所市)を経て、旧市邑(ふるいちむら:現羽曳野市)に降り立ち、その後、何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

大鳥大社の社伝によれば、天高く飛び立った白鳥はこの地にやってきたため、社を立てて祀ったとされており、
これが大鳥神社の始まりだということです。
神域の森は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれており、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと伝えられています。

・日本武尊の銅像です。


「拝殿」
本殿は大鳥造りで、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っているそうです。
拝殿は昭和30年に檜皮葺の屋根をふき替えたようです。



「平清盛歌碑」
平清盛・重盛親子は平治元年(1159年)熊野参詣の途中、都で兵乱が起きたとの急報を聞き、都への帰途、大鳥神社に参拝して、戦勝を祈願しました。
この時、「かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」と詠み、この和歌一首と神馬一頭を献じました。
清盛が詠んだ和歌はこれだけであり、大変貴重な一首だそうです。

・この歌碑は明治時代の著名な文人画家で、大鳥大社宮司・富岡鉄斎の筆により建てられた自然石の碑です。


「与謝野晶子歌碑」
平成18年、与謝野晶子倶楽部設立10周年記念に建立され、晶子の誕生日にあたる12月7日に除幕式が行われたそうです。
碑には、
「和泉なる わがうぶすなの 大鳥の 宮居の杉の 青き一村」の和歌が詠まれています。
この歌は、幼い頃の晶子が親しんだ大鳥大社を詠んだものだそうです。



「大鳥美波比神社(おおとりみはひ)」
大鳥美波比神社は、大鳥5社の一社で大鳥大社の境内にある摂社です。1873年(明治6年)の神仏分離令で破壊された神鳳寺跡に鎮座しています。
神鳳寺は謎の多い古代寺ですが、現在、大鳥美波比神社がある場所を含め、その南北が跡地と考えられているそうです。




魅せられて

2015-10-26 | ナツメロ

今から36年前の昭和54年(1979年)に、一世を風靡した歌手にジュディ・オングがいました。
彼女が歌った『魅せられて』は200万枚を超える大ヒット曲となったのだそうです。

当時、エキゾチックで妖艶な29歳の彼女の歌声と、あの衣装に魅せられた方は多かったのではないでしょうか。
あの衣装の余りにも斬新なデザインに、当時の一般人の中には「シーツでマネをした」という人がいたり、他の芸能人への影響力も大きかったと言われています。

今日は妖艶なジュディオングさんの歌声に魅せられて頂きたいと思います。




慈眼院

2015-10-25 | 地元紹介

日根神社の鳥居をくぐって参道を進んでいくと、一番奥の鳥居の手前左側に鐘楼が建っていました。
神社の境内に梵鐘?
不思議に思ってその方向に回ってみると、慈眼院の表示がありました。
しかし、名称はお寺のようですが、山門はなく、塀の内側は境内らしくもなく、建物もお寺らしくありません。
早速、慈眼院について調べてみました。

「慈眼院」
慈眼院(じげんいん)は大阪府泉佐野市にある真言宗御室派の寺院で、山号は大悲山です。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺でした。
国宝の多宝塔は、石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとして知られていると云うことです。
また境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されているようです。

泉佐野市は、鎌倉時代、藤原北家の流れを汲む有力貴族の九条家によって開発された、日根荘(ひねしょう)という名の荘園が広がっていました。
現在の泉佐野市ほぼ全域に渡る日根荘のうち、かつての日根野村には日根神社という古社が祀られていますが、その日根神社の神宮寺を担っていたのが、真言宗御室派の仏教寺院、慈眼院なのだそうです。
日根神社に隣接するその境内には、鎌倉時代に建造された金堂と多宝塔が今もなお残されており、それぞれ金堂は重要文化財に、多宝塔は国宝に指定されています。
天武2年(673年)天武天皇の勅願寺として、覚豪阿闍梨によって創建された慈眼院は、泉州の最古刹だそうです。

・お寺らしくない慈眼院の門と建物(本堂?)です。右は鐘楼です。


「金堂」
金堂は多宝塔と同じく鎌倉時代の建立で、国指定の重要文化財です。
文和2年(1353年)南北朝の戦火で炎上した後、後村上・後亀山の両帝の勅命で再興されました。
文亀元年(1501年)より、前関白九条政基が荘園の直務支配のために慈眼院に滞在し、「慈眼院日記」(宮内庁蔵)を記しています。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州鎮撫の時、金堂、多宝塔を除く一山が炎上しましたが、慶長7年(1602年)豊臣秀頼によって一山が再興されました。

・文永8年(1271年)に再興された金堂です。
 平面方3間、屋根・単層本瓦葺で、小堂ながら鎌倉期の端正さをよく現しているそうです。毘沙門堂・一願薬師堂とも言われています。


「多宝塔」(多宝塔の拝観には事前予約が必要ということで、ネットの画像を使用しています。)
多宝塔は、石山寺、高野山金剛三昧院の塔と並ぶ日本三名塔の一つで、 鎌倉時代に建立されました。
その高さは10メートル余、我が国 最小の塔とされており、泉佐野市では唯一の国宝となっています。

・3間2層、全高10メートル余の多宝塔です。
 その優美、典雅の趣は他に比類がなく、石山寺・高野山金剛三昧院のものと共に、日本3名塔と称されています。


・弘法大師の銅像と鐘楼です。



日根神社

2015-10-24 | 地元紹介

JR阪和線の下り線は、熊取駅の次は日根野駅です。
その日根野駅から3㎞ほど東に行くと、全国でも珍しい“枕”の神様が祀られている「日根神社」があります。

「日根神社」
御由緒によると、
日本を平定するため日向国(宮崎県)を出発した神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は筑紫国(福岡県)、安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て難波の岬(大阪湾)に着きました。
ここから河内国(大阪府)を通り大和(奈良県)へと入ろうとしましたが、激しい抵抗に遭い、進むことが出来ません。

命は「日の神の子である自分が、太陽に向かって戦ったのが良くなかったのだ。日を背にして戦おう。」と一旦退却し、広野に根城を構え、天照大神(アマテラスオオミカミ)と須佐之男命(スサノオノミコト)を奉って戦勝を祈願しました。
その後、進軍を続けた命は無事に大和を平定し、即位して初代の天皇である神武天皇となりましたが、このとき命が戦勝を祈願した地は『日』の神である天照大神と、『根』(黄泉の国)の神である須佐之男命をお祀りした野原であること、或いは『日の御子が根拠地とした野原』であることから『日根野』と呼ばれ、ここに天照大神と須佐之男命の二柱を『日根大明神』としてお祀りしたのが始まりであると言われています。
後に、命の御両親である鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)と玉依毘売命(タマヨリヒメノミコト)をお祀りした社が建てられ、併せて『日根神社』となりました。

・日根神社の参道です。


「枕祭り」
日根神社は延喜式や国内神名帳にも登場する古社です。
日本唯一の、枕と寝床を守護する神が祀られており、安眠や快眠の御利益があるとされています。

枕の由来は、子宝に恵まれない村の若い嫁が、子授けを願って奉納した“枕”を祭りの幟(のぼり)にくくりつけて渡御したのがはじまり、と伝えられています。
この言い伝えにより、日根神社では毎年5月5日に行われる「まくら祭り」で、村人たちが色とりどりの飾り枕を奉納して祈願枕にくくって幟を担ぎ、1日かけて渡御しながら“縁結び”や“厄除け”を祈願します。



「拝殿」
掲示されている案内によれば次のように記されています。
日根神社の創建は明らかではありませんが、元正天皇霊亀2年(716年)に制定された和泉五社のうちに数えられ、また延喜式内社、日根郡十座の内に列しています。
なお、延喜式内社とは、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧です。



「本殿」
現在の本殿は社伝によれば、天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものと言われています。
向拝、縁側周りに修理の部分が認められるが細部の手法はよく桃山時代の特徴を表し、斗栱(ときょう:ますぐみ)など見るべきものがある。
社殿としては比較的大きな部類に属し、堂々として雄大な風格を示している、と説明しています。
明治6年(1873年)には郷社定則により郷社に指定され、大正13年(1924年)には府社に昇格しました。
この本殿は昭和47年(1972年)3月31日に府指定有形文化財(建第20号)に指定されています。




蟻通神社

2015-10-23 | 地元紹介

昨日ご紹介した塙(ばん)団右衛門の五輪塔の場所から北へ200~300メートルの所に「蟻通神社」が鎮座していますのでご紹介します。

「蟻通神社」
蟻通神社は、大阪府泉佐野市長滝に鎮座する氏神鎮守社で、主な祭神は、大国主命・蟻通明神で、国土開発・五穀豊穣・智恵・孝行の神として氏子崇敬者の篤い信仰を寄せています。
元の境内は、熊野街道(紀州街道)沿いにあり、広大な社域、長い参道に松並木が続く泉州の古社でしたが、第二次世界大戦下の昭和16年(1941年)佐野飛行場建設のため、現在地に移転しました。



「拝殿」
蟻通神社は長滝中の番にあり、『紀貫之家集』『枕草子』などにも名前が見られる古社で、ここに掲げられている説明には次のように書かれています。
この神社は弥生中期の開花天皇の紀元93年に創始されました。稲作りが始まり、米が貴重な食物で五穀豊穣、長寿の神として祀られました。
5世紀に朝鮮・新羅より優秀な技術集団が渡来し、今日の条理制農地を造り、国土開発の神として崇められる。平安時代、摂政藤原道長の領地となる。
紀貫之が京都へ上る途中、馬が急に病み、「かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしおば 思ふべしやは」と歌を奉ると馬の病が治った。
世阿弥がこの歌を基に謡曲「蟻通」を作り、和歌謡曲の神として崇拝された。
清少納言は枕草子で七曲がりの法螺貝に赤糸を通せとの難問を父の教えによって解決し、知恵と親孝行の神として崇拝された。
熊野信仰が盛んになり、上皇・貴族が行列をして神社前を通り、蟻の熊野詣と呼ばれた。
戦国時代、根来寺の領地となり日根郡の中心神社となる。豊臣秀吉の根来寺攻めで焼失す。
万治3年、岸和田藩主岡部宣勝が社殿能舞台宗福院を造営す。
昭和16年、境内が飛行場となり現地に移転す。



「舞殿」
拝殿前方に建つ、5.8メートル四方の方一間、吹放し形式の舞殿で、入母屋造妻入り、銅板葺です。
床高はやや低めとし、棹縁(さおぶち)天井で、境内景観の中核をなす大型の舞殿です。



「紀貫之大人冠乃渕」
この由来は、紀貫之が蟻通神社の社前を通りかかったところ、蟻通明神の逆鱗に触れ、突然馬が病に倒れました。
その時に貫之が過って、冠を路傍の渕の中へ落としました。
冠を落とした池なので、「冠之渕」と呼ばれています。

・紀貫之が落馬時に冠を落としたとされる「冠之渕」(かんむりのふち)の石碑です。


「仏足石」
中世長滝の荘に創建された禅興寺より移されたと伝えられ、明治100年(昭和43年)記念として再建されました。
古来より足に関する病を持つ人が参詣し、回復を祈ると云う伝承があるそうです。

・境内にある仏足石です。


「紀貫之の故事伝承」
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。
そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。

その歌は、「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」です。 紀貫之が奉能した和歌(貫之集より)
(意訳)
  一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。
  こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない。という意味だそうです。

その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。
実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。


塙団右衛門

2015-10-22 | 地元紹介

昨日、大坂夏の陣の緒戦となった樫井の合戦をご紹介しましたが、この合戦で大坂方の先鋒をつとめたのが塙(ばん)団右衛門です。
塙団右衛門は尾張国羽栗の人で、加藤嘉明に仕え、朝鮮の役で軍功を挙げ、その名を知られましたが、関ヶ原の戦い(1600年)以降、浪人して僧となり、鉄牛(てつぎゅう))と称しました。

団右衛門は大坂冬の陣では豊臣方に属し、大坂城に入城します。
慶長20年4月(1615年)に夏の陣が起こると、豊臣方は徳川方の紀州和歌山城主・浅野長晟(ながあきら)の軍と戦うべく泉州に進みました。
塙団右衛門は先鋒隊を率いて4月29日早朝、熊野街道を南下し、待ち構える浅野軍に突入しました。
安松、岡本、樫井で激闘が展開されましたが、大坂方は敗れ、団右衛門はこの地で討ち死にしました。時に48歳と言われています。
団右衛門を討ったのは上田宗箇(そうこ)、亀田大隅、或いは八木新左衛門などの説がありますが、一定していないそうです。

「塙団右衛門直之の墓」
石柵に囲まれた中に、高さ約2メートルの五輪石塔が安置されています。
この墓碑は、紀州藩士の小笠原作右衛門が、塙団右衛門直之の17年回忌(1632年4月)に建立したとされています。

塙団右衛門直之は、大坂冬の陣が始まるや否や大坂側に馳せ参じ、大野治房の組下に加わりました。
大坂冬の陣では「夜討ちの塙団右衛門」の勇名を轟かせていましたが、夏の陣における樫井合戦で戦功を焦った余りに、一命を失うことになったのです。

・塙団右衛門直之の墓です。合戦場跡の石碑から200~300メートル北にあります。


「塙団右衛門直之五輪塔」
慶長20年「1615年)、豊臣方と徳川方が戦った大坂夏の陣の樫井合戦で討ち死にした塙団右衛門直之の五輪塔です。
この五輪塔は寛永8年(1631年)に紀州の士小笠原作右衛門が造立し、石灯籠は八木新左衛門の孫が奉納したそうです。
250回忌(1868年)には団右衛門の子孫の櫻井氏が補修し、周囲を整え、当地の観音寺に位牌を納めました。
以後、当地の人たちにより守られているということです。

・塙団右衛門直之五輪塔です。


「五輪塔」
五輪塔とは、五大にかたどった五つの部分からなる塔で、構成は下から、地輪は方、水輪は球、火輪は三角、風輪は半球、空輪は宝珠形となっています。
平安時代中期から供養塔、墓塔として用いられており、その多くは石造りですが、金銅・木・泥土などでも造られているそうです。

なお、広辞苑には「五大」とは、地・水・火・風・空の五つを言います。一切の物質に偏在してそれを構成する元とみて「大」という。と説明しています。