らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

かき氷の由来

2022-07-31 | 雑学

蒸し暑い日が続いています。
繁華街や商店街などでは、「氷」の吊り旗が涼しさを投げかけるかのように吊るされ、”中に入って食べてください”と、呼びかけているように感じる夏の風景が見られます。

「最近のかき氷」
最近のかき氷は昔と随分変わってきています。
口溶けの良いミックスジュースやバラのシロップをかけ花弁が入って高級感を演出しているかき氷、バーでは綿菓子を乗せて見た目も華やかなお酒のかき氷など、ユニークな味が次々登場しています。
そして、特に若い女性にはおしゃれなスイ―ツとしてかき氷が人気を集めているということです。

「名前の由来」
ところで、かき氷の「かき」はひらがなで書かれていますが、漢字ではどのように書くのでしょうか?
実は、漢字では「欠き氷」とかいて「かきごおり」と読みます。
昔、「削り氷(ひ)」と呼ばれていたものが「かき氷」になったのは、氷を砕いたものを示す「かき=欠き」からで、そこから「欠き氷」となったようです。



「かき氷の歴史」
かき氷の歴史は古く、平安時代、清少納言の『枕草子』に出てくる削り氷(けずりひ)が最初と言われています。
当時は現在とは違って氷は貴重な物でした。
その氷を刃物で削った削り氷は、貴族など高貴な人しか口にできなかったようです。

「日本初のかき氷店」
三河国出身の中川嘉兵衛は、横浜で英国公使・オールコックのもとでコックとして働いたのち、牛肉や牛乳を扱う店を開業しました。
そして、文久2年(1862年)の夏、箱館や諏訪湖から氷を運び、横浜の馬車道通りに日本で最初のかき氷屋「氷水屋(こおりすいや)」をオープンさせました。
店をはじめた当初は、「腹に悪い」という噂のせいでなかなか売れなかった氷水(こおりすい)でしたが、ひとたび安全だと分かると、夏の暑さもあって爆発的に売れました。
1杯2文で、2時間並ばないと買えないほどの人気だったそうです。

現在のような「かき氷」が店で販売されるようになったのは明治2年(1869年)6月のことです。
横浜の町田房造という人が、アメリカで学んできた氷の製法などを生かして開いた店で、「氷水」や「あいすくりん(アイスクリーム)」を発売しました。
これが日本のアイスクリームの第1号と言われていますが、最初のものはシャーベット風だったそうです。



現在、私たちは様々なかき氷を楽しむことができます。
老舗和菓子店のこだわりのかき氷、高級ホテルのラウンジで楽しむ高級かき氷など、子供の頃いちごシロップをかけて食べた「かき氷」は、いま新感覚のスイーツとして進化を続けています。

夏の暑さはまだまだ続きます。
最近では夏だけでなく、春、夏、秋、冬、オールシーズンかき氷が食べられています。
お腹をこわさない程度に美味しいかき氷をお楽しみください。

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ポンペイ遺跡

2022-07-29 | 旅行

先日、桜島の南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生しました。
気象台は、活動が非常に活発化しているとして、桜島では初めて噴火警戒レベルを最も高いレベル5の「避難」に引き上げました。
その後、火山活動が沈静化し、27日午後8時のニュースでは警戒レベルをレベル3の「入山規制」に引き下げ、有村町と古里町の一部に出していた「避難指示」を午後8時25分に解除しています。
火山の噴火では、過去にはイタリアで大災害をもたらした事例があります。

「2000年ほど前のヴェスヴィオ火山想像図」
今からおよそ2000年程前の西暦79年に、イタリア南部の町「ポンペイ」の北西方向そびえるヴェスヴィオ火山で大噴火が起こり、たった1日で麓のポンペイの街を焼き尽くすという大災害がありました。

今年1月14日~4月3日まで東京国立博物館で特別展「ポンペイ」が開かれていたのでご存じの方もおられると思います。
それに合わせたかのように、2月10日にはNHKBSで映画「ポンペイ」が放送されました。

私は10年ほど前にイタリア旅行でポンペイ遺跡を訪れたことがあるので、この映画に関心があって録画しておきました。
先日、録画していたその映画「ポンペイ」を観たので、今日は10年前を思い出しながらポンペイについて取り上げたいと思います。

・大噴火前のヴェスヴィオ火山とポンペイの街並みの想像図です。(ウィキペディアより)


「ヴェスヴィオ火山」
ヴェスヴィオ火山は西暦79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイの街は埋没しました。
嘗ては標高3000mを超える火山だったそうですが、度々の噴火で山が削られ、現在は1281mになっています。
1880年には山麓から火口まで登山電車が開通し、これを記念して作られた曲がご存じの『フニクリ・フニクラ』です。

・現在の「ヴェスヴィオ火山」です(2012年4月撮影)


「古代都市ポンペイ」
ポンペイ遺跡はイタリア南部のカンパニア州にある広大な遺跡です。
洗練されたローマ帝国の都市として繁栄していましたが、西暦 79 年にヴェスヴィオ山が大噴火したことで、街は大量の火山灰と軽石に埋もれました。
ナポリ湾の近くで発掘されたこの遺跡は、保存状態が良く、自由に探索することができることから、イタリア旅行でも見学コースに組み込まれていました。

ポンペイはヴェスヴィオ火山南東麓(ろく)の肥沃なな土地で、ナポリ湾に近く交通要地でもあったために、古くイタリア先住民のオスク人が集落をつくっていました。
紀元前8世紀にはギリシャの植民者が来住し、前7世紀にはエトルリア人も移住して都市国家に成長し、貴族共和政となったと考えられています。
その後、紛争や戦争を繰り返しながら急速にラテン化、ローマ化が進み、都市参事会制度(下記参照)も整いました。
ローマの富裕者も好んで別荘をつくり、劇場、神殿、バシリカ(市場、裁判所などに使われた施設)、浴場、凱旋門、柱廊、商店が続々と建設されました。
最盛時の人口は1万5000~2万を数え、カンパニアでも有数の壮麗な都市となり、その後も保養地として繁栄を続け、水道や舗装路も整備されました。

しかし、西暦63年2月に大地震に襲われ、住民が不安に陥っていたところ、西暦79年8月24日ヴェスヴィオ火山が大爆発を起こしたのです。
火山から10キロほど離れていたポンペイの街には高温の火砕流や火山灰、火山礫が降り注ぎ、街全体が6~7メートルもの火山灰に埋没し1万人以上が暮らす都市はたった1日で消滅してしまったのです。
(参考)
なお、都市参事会制度とは、北西ヨーロッパの諸都市で成立した制度で、上層市民を中心に同等の権利を持つ無報酬の参事会員(通常12名前後)から構成され,多数決による議決を行った制度です。

「ポンペイ遺跡」
「車道と歩道」
およそ2000年前にすでに車道と歩道が設けられていました。
通り(スタビアナ通り)の両側には家や商店が立ち並んでいました。



「大噴火で亡くなった人のレリーフ」
ヴェスヴィオ火山の大噴火に伴い、発生した二酸化硫黄や硫化水素などの有毒ガスによって、ポインペイでは多くの人が亡くなり、膨大な量の火山灰が降り、人々の上に積りました。
長い年月が経つと、人間や動物の肉体は腐食し、微生物による分解でなくなります。その結果、火山灰の中が空洞化します。
考古学者等はそこに石膏を流し込み、石膏が固化した後、火山灰を取り除くことで人や動物のレリーフができあがります。
この方法によって、往年の人々の顔の表情や容姿、衣服から装飾品までがレリーフで再現されているのですが、その数は1200体に上ると云われています。



「ジュピター神殿跡」
ポンペイ最初の守護神はアポロでしたが、次第にアポロへの信仰心が失われ、ジュピターが最高の神として崇められるようになったそうです。
ジュピター神殿の両側には二つの立派な凱旋門があり、広場全体が回廊で囲まれた、大きくて荘厳なものだったようです。



「フォロ(公共広場)」
ヴェスヴィオ火山の大噴火による火山灰の深さは6~7mにもなり、その重みで建物の屋根は殆ど崩壊し、柱や壁だけが残っているものです。
この壁の奥に太陽の神「アポロ神殿跡」があります。



「メイン道路」
およそ2000年前のポンペイのメインストリートで「アッボンダンツァ通り」です。
全長は約1㎞、車道と歩道に分かれており、飛び石を置いた横断歩道もあります。



「轍(わだち)の後」
スタジア通りにはおよそ2000年前の轍(わだち)の跡が今もそのまま残っています。



「商店跡」
商店の入口扉の溝跡です。一般住宅にはこの溝がなく、これで住宅と商店の区別ができるそうです。



「パン屋」
パン屋の跡です。右がパン焼きがまのようです。



「住宅の玄関」
およそ2000年前の玄関のタイルです。
タイルの奥が家屋で、その奥に庭があったそうです。



「公衆の水道」
顔の口から水が出て、石の中に溜まり、溢れた水は左右の石を削っているところから流れるようになっています。



2000年前と言えば、日本では弥生時代の中期に当たります。
稲作とともに、青銅器や鉄器など金属器が伝わり、銅鏡や銅鐸などが作られ、お祭り宝物として使われるようになった時代です。
この時代にイタリアでは都市国家が出来ていて繁栄していたのです。
古代ローマ帝国の先進性が見て取れますね。

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「がぜん」本来の意味は?

2022-07-27 | 雑学

文化庁が行っている令和2年度の国語に関する世論調査で、言葉の本来の意味を尋ねる項目があります。
その中の一つに「がぜん」という言葉はどちらの意味だと思うか?  
と言う質問があり、その調査結果があったのでご紹介します。

「質問」
・「がぜん」という言葉はどちらの意味だと思うか?

「調査結果」
(ア)「とても、断然」という意味     67.0%
(イ)「急に、突然」という意味      23.6%(本来の意味)
(ア)と(イ)の両方           5.8%
(ア)、(イ)とは、まったく別の意味   1.7%
 無回答                 2.0%

「本来の意味」
「がぜん」の本来の意味は(イ)の「急に」「突然に」と言う意味です。
ところが調査の結果では、全ての年代で、辞書等で本来の意味とされてきたものとは異なる(ア)「とても、断然」を選択した人の割合が、本来の意味とされてきた(イ)「急に、突然」を上回っています。
中でも、40 代以下では(ア)を選択した人の割合と(イ)を選択した人との割合に 50 ポイント以上の差がありました。

・年代別調査結果(赤が本来の意味です)


「俄然(がぜん)」
「がぜん」を漢字で書くとわかり易いと思います。
漢字では「俄然」と書きます。
「俄然」の「俄」は訓読みでは「にわか」と読み、「急に、いきなり」という意味を持ちます。
一方の「然」は状態を表す意味があります。
この二つの漢字を重ねた「俄然」は、「急に(その状態に)なる=突然に」というニュアンスが読み取れると思います。
漢字で書くと理解しやすくありませんか?

「誤用例」
「俄然」を「こっちの方が俄然似合っているよ」のように、何かと比較して「より一層」の意味で使用するのは誤りです。
「俄然」は「急に、突然」という意味のため、「俄然似合っているよ」は「急に似合っているよ」となり、意味をなさない言い回しになります。
更に、「俄然有利になる」は「急に有利になった」という意味では正しいのですが、「一層有利になった」という意味にとるのは誤りです。

しかし、言葉の意味は時代と共に変化することもあることから、将来、「より一層」という意味で使われるようになることがあるかもしれません。
そうなると、現在では本来の意味である「急に、突然」が「誤用ではないの?」となることもあり得ますね。

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左遷の故事

2022-07-25 | 雑学

リタイアした今では関係ない言葉ですが、現役時代には、異動の辞令が出ると「あいつ左遷されたのかな?」なんて囁いたものです。
この左遷という言葉にはどのような由来があるのでしょうか?

「左遷」
左遷とは、広辞苑によると次のように説明しています。
[漢書(周昌伝)](中国で右を尊び左を卑しむ習慣があったところから)高い官職から低い官職に落とすこと。また、官位を低くして遠地に赴任させる事。左降。
と説明しています。
辞書が示すように、中国では「右」を尊び「左」を卑しむ観念があり、官位の降格を「左遷」と言いました。

「語源」
その語源は、秦の滅亡後、項羽は諸侯に領地を分配しましたが、劉邦には約束した関中ではなく、その西側の辺境の地が与えられ、「劉邦を左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったということです。



「故事」
その故事は、項羽は劉邦と秦を滅ぼし首都咸陽を焼き払います。
その後、中国全土の領土を武将たちに分け与えるのですが、秦の打倒で大きな功績を立てた劉邦のことを警戒し、辺境にある巴・蜀・漢中を与えて追い出しました。
つまり、劉邦は土地を与えられたといってもひどく辺境な、誰もが行きたがらない場所を与えられたのです。

なお、巴は現在の四川省重慶、蜀は同じく四川省成都、漢中は陝西省南部の地域です。
上の地図でもわかるように、これらの地域は中国大陸の中心である中原(洛陽周辺)からすれば左側の地域にあります。
このような劉邦への扱いから「左遷」という言葉が生まれたということです。

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大伴家持の「鰻」の和歌

2022-07-23 | 雑学

今日は「土用の丑の日」です。
土用とは「立春・立夏・立秋・立冬」の前18日間のことで、その期間中の丑の日を「土用の丑の日」と呼びます。
今年はこの18日間に丑の日が2回あり、8月4日が二度目の丑の日で、この日を「二の丑」と言います。
土用の丑の日は前記したように年間に4回あるのですが、ウナギを食べるのは夏の丑の日が多いようです。

「土用の丑の日の由来」
土用の丑の日にうなぎを食べるようになった由来には諸説ありますが、有力なものは平賀源内説と言われています。
売上不振が続くうなぎ屋を助けるために、蘭学者の平賀源内が土用の丑の日に「本日、土用の丑の日」とうなぎ屋に張り紙をしたところ大盛況になったというものです。
うなぎは栄養価も高く、夏バテにもいいということもあり、更に、元々、丑の日には「う」の付く食べ物を食べるといいという風習があったため、この宣伝がきっかで土用の丑の日はうなぎを食べる日と根付いていったということです。



「大伴家持が詠んだウナギの和歌」
しかし、それよりも更に1000年以上も前の7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本最古の和歌集「万葉集」に次のような歌があります。

「石麻呂爾 吾物申 夏痩爾 吉跡云物曽 武奈伎取食」
「石麻呂(いはまろ)に われ物(もの)申(まを)す 夏痩(やせ)に良(よ)しといふ物そ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ」(大伴家持)

意訳:石麻呂さんに申し上げます。夏痩せに良いというものがあります。どうぞ鰻を捕って召し上がりなさい。

この歌は痩せた人をたわむれに笑って詠んだ歌とされており、土用の丑の日にウナギを食べる由来とは言えませんが、8世紀中ごろには夏痩せにウナギがよいという和歌が詠まれていることから、奈良時代に夏の栄養源としてウナギを食べていたことがわかります。
この歌を贈られた石麻呂という人は、本名を吉田老(よしだのおゆ)といい、教養がある立派な人物だったようですが、生まれつきとても痩せていて、たくさん飲み食いしても飢えた人のようにやせ細った姿だった、と言われています。

今日23日は「土用の丑の日」です。
鰻は今では高級魚ですが、うなぎにはビタミンA、B群などの栄養が含まれており、疲労回復効果や食欲増進効果があるので、暑い夏にはピッタリといえる食べ物です。
1200年以上前から夏にはウナギが食べられています。
今日はコロナにも罹らず、元気に過ごしてきた自分へのご褒美として、美味しいウナギを食べては如何でしょうか?
そして、暑い夏を乗り切ろうではありませんか。

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阿倍野橋の由来

2022-07-21 | 地元紹介

大阪は嘗て、「水の都・大阪」と言われていただけに、古くから河川や堀が張り巡らされ、橋の多さから「浪華八百八橋」と称されてきました。
このようなことから、天満橋や心斎橋など川に架かる「橋」の地名はたくさんあります。

ところが、JR天王寺駅周辺の「阿倍野橋」と呼ばれる地名には「橋」が付いていますが、川に架けられた橋ではありません。
川がないのに何故、「橋」なのでしょうか?
今日は阿倍野橋の由来について調べました。

「阿倍野橋」
調べてみると、阿倍野橋は鉄道の敷設に伴って付けられた跨線橋でした。
天王寺区悲田院町と阿倍野筋を結ぶ大阪府道30号線(谷町筋)にあって、JR西日本の関西本線、大阪環状線、および南海天王寺支線跡を跨いでおり、所謂、川に架かる橋ではなく鉄道を跨ぐ橋として架けられました。
その場所は、JR天王寺駅直結の商業ビル「天王寺ミオ」の前で、欄干から見下ろすとJRの線路が束になって橋の下をくぐっています。
大阪市のホームページによると、阿倍野橋は長さ61メートル、幅35メートルの橋だということです。

・鉄道を跨ぐ橋「阿倍野橋」です。おおむね谷町筋の部分が阿倍野橋です。


「阿倍野橋の由来」
阿倍野橋が架けられたのは1889年(明治22年)のことです。
大阪鉄道(現在のJR大和路線)が、湊町(現在のJR難波)~柏原間に鉄道を開通させる際、上町台地を東西に掘削して鉄道を敷き、その上に南北を結ぶ橋を架けました。
この橋が「阿倍野橋」です。
上町台地を掘削した理由は、「当時の電車は馬力が乏しく、台地の勾配を登ることができなかった」から、ということです。
所謂、「浪華八百八橋」と呼ばれている江戸期の橋ではなく、明治期にできた跨線橋が阿部野橋なのです。

・阿倍野橋はその後、1943年に改築工事を行い、現在の姿になりました。


川がないのに「橋」がある地名の「阿倍野橋」は鉄道敷設に伴う跨線橋に付けられた名前でした。
跨線橋に名前が付くこともあるのですね。
でも、谷町筋と阿倍野筋と繋がっている一般の道路なので、これが「阿倍野橋(上の画像)」であることは殆どの方が気づかないでしょうね。

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七味唐辛子の由来

2022-07-19 | 雑学

NHKの番組に「こころ旅」があります。
この番組は視聴者から思い出の風景を投稿してもらい、俳優の火野正平さんとスタッフの方たちが自転車でその場所を尋ねるものです。
途中には昼食のシーンがありますが、火野正平さんが麺類を食べるときには、唐辛子を”これでもか!”と言うくらい振りかけることがあります。
辛さを我慢しているような正平さんの顔は、観ている人を和ませてくれます。
ということで、今日は火野正平さんの好物と思われる唐辛子について調べてみました。

「唐辛子の起源」
唐辛子は南米アマゾン川流域が原産地とされ、メキシコでの歴史は紀元前6000年に遡ると言われ、中南米で古くから食用にされていたことが知られています。
コロンブスはこれを持ち帰り、まずヨーロッパに広めました。
その後、南蛮船が東洋にもたらし、世界各国へと広がりました。
日本へは、1592年に秀吉の朝鮮出兵時に種子がもたらされたとする説や、それ以前にポルトガルの宣教師が紹介したという説などがあります。

「一味唐辛子と七味唐辛子の違い」
ところで、一味唐辛子と七味唐辛子をよくみかけますが、その違いは次のようです。
・一味唐辛子・・・乾燥させた赤唐辛子のみを粉末にしたものが一味唐辛子です。
・七味唐辛子・・・一味唐辛子に山椒、ごま、けしの実、麻の実、陳皮(ちんぴ=みかんの皮)、青のり、などを加えて風味をつけたものが七味唐辛子です。
どちらも種類によって辛さや香りに違いがあります。

「七味唐辛子の由来」
七味唐辛子(七色唐辛子)は江戸の日本橋薬研堀町が発祥地と言われています。
この地で、1625年(寛永2年)、からしや徳右衛門(店名:やげん掘)が漢方薬を基に生薬を組み合わせて七味唐辛子を売り出し、江戸中に広めました。
その後、江戸の食文化の伝播と共に日本全国に広まっていったそうです。

「三大七味」
先人が考え出した日本独特の香辛料である「七味唐辛子(七色唐辛子)」は、いつの頃からか「三大七味」と呼ばれる三軒の暖簾を生みました。

東京・浅草の【やげん堀
からしや徳右衛門と言う人が薬として珍重されていた赤唐辛子を漢方の薬種と調合しました。
唐辛子は乾燥させて辛さを増したものと、香ばしい深煎りの2種類で、ゴマ、陳皮(ミカンの皮)、サンショウ、ケシ,麻の実を合わせ、「七色唐辛子」と名付けました。
客の体調に応じて調合して売り出すと、「食欲が増す」と評判になりました。更に、ソバに合うとして江戸中に広まりました。

京都・清水の【七味家本舗】
江戸の「七色唐辛子」が伝わった京都・清水坂の店では、青じその葉を入れて「しちみ」と名付け、「七味」の名が一般的になりました。

信州・善光寺【八幡屋礒五郎】
八幡屋礒五郎は辛味を出すための唐辛子、辛味と香りを併せ持つ山椒・生姜、そして、風味と香りの麻種・胡麻・陳皮・紫蘇の7つで、体が温まるショウガを入れて人気になり、今も名物となっています。

七味唐辛子を構成する素材には厳密な定義がありません。
従って、店ごとにそれぞれの「七味」があり、その調合に工夫があり、それが味や香り、色などの特徴となって表れています。

なお、最近では、七味唐辛子は塩分が少ないことや、唐辛子のダイエット効果など、効用が見直されており、更に、和食人気も相まって海外でも関心を集めているということです。

ダイエット効果が期待できるからなのでしょうか? 唐辛子の辛い味が好きな方は多いですね。

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ゴーヤの本場、沖縄の「ウリミバエ絶滅の戦い」

2022-07-17 | 家庭菜園

夏を代表する野菜のひとつでもあるゴーヤは沖縄の代表的な野菜で、夏バテの防止にもなると言われています。
今では沖縄に限らず、国内の各地で栽培されており、グリーンカーテンとして植えているご家庭も多いのではないでしょうか?
このゴーヤは、嘗て沖縄では「ウリミバエ」という恐ろしい害虫に見舞われて、人々を震撼させた出来事があったようです。
そこで、今日は我が家のゴーヤと沖縄における「ウリミバエ根絶の戦い」をご紹介します。

・赤丸内の右下に向いている「↘」のようなものが出蕾して間もない雌花の蕾です。


「ウリミバエ根絶の戦い」
沖縄は昭和47年に本土復帰を果たしましたが、その年に人々を震撼させる出来事が起きました。
その出来事とは、東南アジアから「ウリミバエ」と言う恐るべき害虫が飛来したのです。
体長わずか8ミリの害虫は、カボチャ、ピーマンなどの野菜に寄生し、卵を産み付けると、野菜には瞬く間にウジが沸いて腐ってしまいます。

天敵のいない沖縄の島々で、ウリミバエは大繁殖し、次第に北上し始めました。
もし、本土に上陸すれば、日本の野菜全体が壊滅的な被害を受けることから、日本政府は「植物防疫法」により、沖縄県からの野菜の持ち出しを厳禁しました。

「沖縄全域からウリミバエを根絶しよう」を合言葉に、沖縄県農業試験場の研究者を中心に、プロジェクトチームが結成され、必死の根絶作戦が始まったのです。
しかし、農薬を持ってしても根絶出来ない最強の害虫を前に、プロジェクトは行き詰まってしまいました。
ウリミバエは沖縄本島を席巻し、九州上陸は時間の問題でした。

日本政府は、ウリミバエ根絶のため、思いも寄らぬ方法を沖縄県に提案したのです。
それは、放射線「コバルト60」をハエに照射して、生殖細胞を破壊する方法です。
そして繁殖力を失ったハエを増殖させることで、何十年もかけて撲滅するという、気の遠くなるような作戦でした。

この作戦は、生殖能力を失わせた雄のウリミバエを大量に放って雌と交尾させ、世代を重ねるごとに着実に数を減らす方法でした。
作戦が始まって 一年、二年と過ぎる中、ハエが減り始めました。 
放たれた雄のウリミバは累計で625億匹になりましたが、この効果で1993年までに沖縄や鹿児島・奄美の全域で根絶が確認されたということです。

・上記の蕾から数日経過すると幼果の先端が膨らんで開花が直前の状態になります。


「ゴーヤ」
ゴーヤの標準和名はツルレイシと言いますが、一般的にはニガウリ、またはゴーヤと呼ばれています。
ウリ科の植物で、主に未熟な果実を野菜として食用に利用されます。
ツルレイシは、イボに覆われた果実の外観と完熟すると仮果皮が甘くなるという形質がムクロジ科の果実であるレイシ(ライチ)に似ていることに由来します。

・上の画像の幼果の先端が開花したゴーヤの雌花です。


「雌花が付かない」
ゴーヤの雌花が中々咲きません。
その原因をネットで調べると、「やまむファームさん」のページに次のように書かれていました。

それによると、雌花が付かないのは、雌花は短日条件でつく性質があるため、生育初期は雄花が多く咲き、雌花は少ないという事です。
6月下旬の夏至を境に短日になりますが、実際は8月頃から盛んにつくようになるので心配しなくてもよいという事です。
また、雌花は子づるに多くつくので、親づるを本葉6〜7枚で摘心して子づるを伸ばすとより多く収穫できるという事でした。

・雌花が咲いて受粉が成功すると、開花から3週間余りでゴーヤが収穫できるくらいに太くなります。


・収穫できる大きさに成長しました。


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右に出る者はいない

2022-07-15 | 雑学

安倍元総理が1週間前の8日に奈良市内での街頭演説中に銃撃されて亡くなりました。
改めて哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

凶行に及んだ山上容疑者は、安倍元総理が特定の宗教団体(旧世界統一教会)と近しい関係にあると勝手に思い込み、選挙演説中の安倍元総理の背後から銃撃したと供述しています。
この大事件は世界に衝撃を与えました。
その衝撃の大きさは世界の259の国・地域・機関から計1700件以上の弔意のメッセージが届いたとからも解ります。

安倍元総理は首相時代の2020年1月17日現在で、80の国・地域を訪問し、延べ訪問国・地域は176に上り、地球儀を俯瞰する外国訪問を実施して日本の国際的な評価を高めました。
このようなことからも、安倍元総理は外交に関しては勿論ですが、第1次政権を含む通算在任日数が3188日で憲政史上最長となるなど、まさに安倍元総理の「右に出るものはいない」と言える実績を残されました。



でも、傑出している者がなぜ「右」なのでしょうか?
今日は「右に出る者はいない」について調べました。

「故事・由来」
「右に出る者はいない」とは、中国で、古くから使われている言い回しからで、その由来は、「史記―田叔伝(でんしゅくでん)」に次のような話が伝えられています。
紀元前二世紀の初め、前漢王朝の時代に、ある王の家臣たちが反乱を起こそうとして失敗し、処罰の対象とされたことがありました。
このとき、前漢王朝の皇帝・劉邦(りゅうほう)はその家臣たちと直接、面会したのです。
すると、彼らは非常な傑物ぞろいで、「漢廷に能(よ)く其の右に出(い)ずる者なし(前漢王朝の宮廷には、位の順で彼らの右側に座れるほどすぐれた者はいない)」と感じたのだそうです。
そこで、全員の罪を許して、自分の部下として召し抱えたということです。
この故事は、当時の中国では右側が上位であることを示している逸話であり、そこからこの言葉が生まれたという事です。

「左右の序列」
左右どちらの方が上位なのかは時代によって異なります。

「日本」

日本では古来「左」が上でした。
これは漢代に右上位だったのが、唐に入って左上位となり、この習慣が日本に入ったからと言われます。
左大臣・右大臣という昔の官位でも左上位です。
この基準は天皇から見ての左側に立つのが左大臣、同じく右側が右大臣です。
これは中国の習慣に従って天皇は北を背に南に向かって立ちます。
その際、左側は東に位置するので、太陽の昇る東は沈む西より上となるという事です。



「欧米」
一方、欧米では逆で「右」優位です。

「皇室」
その後、日本の皇室は外交関係を考慮して左優位から「右」優位に変わりました。
天皇・皇后両陛下の写真では、天皇は天皇から見て右、皇后は左です。
その写真を私たちが見ると天皇は左、皇后は右となりますが、その基準は見る側ではありません。

「雛飾り」
なお、雛飾りについては関東と関西では飾り方が異なっています。
関東では雛壇に向かって左側(雛壇の右側)が男雛、右側(同左側)が女雛になるのに対して、関西では右側が男雛、左側が女雛になっています。
これは国際儀礼を取り入れて宮中の仕来たりが改められた際に、関東はこれに準じましたが、関西では古来の伝統を受け継いだ並び方に基づくもので、関東は「右上位」、関西では「左上位」の考え方になっていることからです。

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三年飛ばず鳴かず

2022-07-13 | 雑学

私が耕作している畑の隣地の借地人は、体調不良でここ2~3年耕作していません。
当然のことながら雑草が伸びて草むらとなっています。
そして、そこには雉が棲みついているようです。
畦道を通るとカッカー、カッカーと鳴きながら走って逃げるのですが、大抵、雄と雌の2羽が飛び出します。

諺に「雉も鳴かずば撃たれまい」がありますが、諺通り、そのままそこに潜んでいれば、全く気付かないのですが、野鳥の習性でしょうか? 鳴きながら飛びだします。
もし、狩猟の最中であれば、この雉は撃たれているでしょうね。

・オスの雉です。


一方で「鳴かず飛ばず」という慣用句があります。

「鳴かず飛ばず」
鳴かず飛ばずとは、広辞苑によれば、将来の活躍にそなえて何もしないでじっと機会を待っているさま。現在では長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑して言うことが多い。
と説明しています。
この慣用句の出典は中国の『史記・楚世家』の「三年蜚(と)ばず鳴かず」からで、その故事は次のように伝えられています。

「故事」
楚の国の歴代君主の中でも最高の名君と言われた第6代の王様・荘王が、『諌める者は死刑にする』と宣言し、3年間まったく仕事をせずに飲んだり食ったりと遊んでばかりしていました。
たまりかねた家臣の伍挙(ごきょ)が、それとなくたしなめるように、
『丘の上に3年間も鳴かず飛ばずのままで木にとまっている鳥がいます。なんという鳥でしょう。』と言ったところ、荘王は、『3年間鳴かず飛ばずでいたとしても、一度飛べば天までも飛ぶだろうし、一声鳴けば世を驚かすであろう。お前の言いたい事は解っている。下がれ!』
と言ったまま、やはり仕事には戻らず、その後も淫蕩に耽(ふけ)っていました。

そこで今度は、別の家臣・蘇従(そじゅう)が王様をはっきりと諌めました。
荘王は、『諌めた者は死刑にすると言ったはずである。』といったが、蘇従は『死刑になっても王様が目を覚ましてくだされば本望です。』と、はっきり申し上げました。

荘王は3年間、愚かな振りをする事で家臣の人物を見定めていたもので、その後、仕事に戻ったということです。
そして、自分を諌めた伍挙と蘇従を優秀な部下として認めて国政を執らせ、目を付けておいた者を新たに数百人登用し、悪臣たち数百人を誅殺したと言われています。

この故事から、何もしないでじっと観察し、自力を蓄えて機会を待つ状態の事を「鳴かず飛ばず」と言うようになったのですが、現在では長いこと何も活躍しないでいることを軽蔑して言うことが多く、本来の意味とは異なってきているようです。

言葉の意味は時代と共に変化していくものですね。

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