らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

高齢者に必要な「きょういく」と「きょうよう」

2022-06-29 | 雑学

国連の世界保健機関(WHO)の定義では、65歳以上の人を高齢者としています。
日本でも65歳以上が高齢者とされており、65-74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と呼んでいます。
2021年9月15日現在の推計では、65歳以上の高齢者人口は3640万人と、前年に比べ22万人増加し、総人口に占める割合も29.1%と、前年に比べ0.3ポイント上昇して、共に過去最高となっています。

このように65歳以上の高齢者は増加しているものの、元気な高齢者も多いことから一律にとらえることはできませんが、一般的に高齢者が元気に毎日を送るための秘訣は「キョウイク」と「キョウヨウ」が必要と言われています。
「キョウイク」と言っても「教育」ではなく、また、「キョウヨウ」と言っても「教養」ではありません。
きょうは高齢者が元気に過ごすための「キョウイク」と「キョウヨウ」について調べました。

「キョウイク」と「キョウヨウ」
「キョウイク」とは「今日も行くところがある」こと。そして、「キョウヨウ」とは「今日も用事がある」ことです。
今日も予定があって、身支度を整えて出かけて行き、そこで気心の知れた人たちと協力して誰かのために役立つ活動をする。
これが今日行くところがある「キョウイク」であり、今日用事がある「キョウヨウ」です。
このキョウイクとキョウヨウがあれば、高齢者も主役となって地域を担う役割を果たすことができ、健康寿命を延ばす要因の一つになると言うことです。



「寝たきり予防法」
老年学の権威、東京大学高齢社会総合研究機構教授で医学博士の飯島勝矢先生は、「最強の寝たきり予防法」について、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のスティーブ・コール教授の研究などを参考に次のように話されています。
高齢者には「きょういく」と「きょうよう」が大切だと言われています。
「きょういく」、「きょうよう」と言っても、教育でも教養ではなく、「きょういく」は「今日、行くところがある」であり、「きょうよう」は「今日、用がある」で、この二つは健康長寿には重要なのだそうです。

飯島先生は「きょういく」と「きょうよう」が健康長寿の秘訣であるとし、高齢者の診療を終えた時に、患者さんに「来月の予約は○日の△曜日でいい?」と、訊いた時の反応を見て、今後の患者さんの状態を予想すると言います。

「患者の反応」
「今日行くところがある」
診療後に「次の予約は○日で良い?」と聞いた時の反応の違いをAさんとBさんで比べてみると、
・Aさんは、「いつでも結構です。先生のおっしゃるとおり…」と言い、
・Bさんは、「その日は、旅行の予定が入っておりますので、1週間後にずらしていただいてもいいですか?」と言いました。

この質問の返事について、Aさんと違って、Bさんは、「今日、行く(キョーイク)ところがある」生活です。
現在の認知能力が同じでも、数年後のAさんとBさんではでは状態がまったく違ってくると飯島先生は予想し、Bさんのように社会性が高い方が数年後も良い状態を維持できそうだと飯島先生は話していました。

「今日、用がある」
更に飯島先生は診療後にもう一つの質問をします。
「今日、これから何するの?」と尋ねたとき、
・Cさんは、「ま、家に帰って、ひと休みして相撲見て、夕飯食べて…」と曖昧に言いながら、傍らのおばあちゃんの顔を見て、代わりになんか言うことが無いかと顔で尋ねるような反応をする人。
・Dさんは、「上野の松坂屋に寄って帰ります」という人がいます。

このお二人について、Dさんには、大学病院に来たついでに上野の松坂屋で買い物をするという用事(今日用・キョウヨウ)があります。
こうした「今日、用がある」ことも、お薬以上の効果があるのではないか、という事も記されています。

現役をリタイヤされた高齢者の皆さん、「きょういく(今日行くところ)」と「きょうよう(今日用がある)」がありますか?
健康で長生きするために、「きょういく」と「きょうよう」を心がけたいものですね。

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三重県から滋賀県に移動した琵琶湖

2022-06-27 | 雑学

日本一大きな湖と言えば、ご存じの滋賀県にある琵琶湖です。
その広さは、滋賀県の6分の1の面積を占める大きさです。
わかり易い比較対象物では、淡路島よりやや大きい湖で、周囲の全長は235㎞あります。

「世界で3番目に古い淡水湖」
この琵琶湖はロシアのバイカル湖、アフリカのタンガニーカ湖に次いで、世界で3番目に古い淡水湖なのです。
そして、その成り立ちは新生代に当たる400万年前だということです。
最初は現在の三重県伊賀市辺りで湖を形成し、その後、何度も形を変えながら、約43万年前には今の形になったと考えられています。

「古代湖」

一般的な湖は土砂の堆積の影響を受けて1万年程度で消失してしまいますが、琵琶湖のように10万年以上の歴史をもつ湖は稀だそうです。
こうした湖は「古代湖」と呼ばれ、主に10万年以上の歴史を持つ湖のことを指します。
そして、世界中で古代湖は僅か10か所だけですが、その中でもバイカル湖、タンガニーカ湖、琵琶湖は桁外れの歴史を持っているという事です。

・琵琶湖が移動した軌跡。


「琵琶湖の変遷:誕生は現在の三重県」
・大山田湖(約400~320万年前)
滋賀県にある琵琶湖は、400万年前に現在の三重県伊賀市付近にできた、浅くて狭い湖「大 山田湖」が始まりです。
約400万年前の断層運動の結果できたものですが、次第に流送土砂によって埋まっていき消失しました。

・阿山湖(約300~270万年前)
一旦、なくなっていた湖は約300万年前に再び現れます。
これが阿山湖で、大山田湖からは北へ移動しています。
しかし、これも次第に埋まり、また北側に別の湖ができます。

・甲賀湖(約270~250万年前)
それが甲賀湖で、深い湖だったと言われていますが、これも土地の隆起によりなくなりました。

・蒲生沼沢地(約250~180万年前)
約250万年前には滋賀県蒲生町付近に蒲生湖(沼沢地)がでたのですが、この湖も干上がって消滅したようです。

・堅田湖(約100~40万年前)
蒲生沼沢地がなくなったあと、約100万年前には堅田付近に小さな湖(堅田湖)が形成されました。
この付近が約40万年前に隆起し、断層運動により陥没した凹地に現在の琵琶湖が形成されました。

・現在の琵琶湖:古代湖(約40万年前~現在)
現在も琵琶湖の底で沈降は続いており、はるか未来には三方五湖のあたりで日本海に出てしまうという話もあるという事です。
 


「名前の由来」
「琵琶湖」という名前が文献に初めて現れるのは16世紀初頭、室町時代の後期ですが、広く知られるようになったのは約320年前、江戸時代の元禄期以降のことになります。
それまでは「近淡海」、「淡海」、「水海」、「湖」などと呼ばれていました。
名前は竹生島にまつられている弁才天がもつ楽器の琵琶に湖の形が似ていることに由来します。
また、琵琶が奏でる音色と湖水のさざ波の音がよく似ていたからともいわれています

以前NHKの日本列島誕生の番組を観た時、琵琶湖が三重県から現在の滋賀県に移動したと放送していたのを覚えていますが、その時はどのように移動したのか、不思議に思っていました。
今回、琵琶湖について調べてみてその概要が少しわかったような気がします。

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「近東」「中東」「極東」とは

2022-06-25 | 雑学

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いています。
第二次世界大戦以降では、嘗て、1948年から1973年にかけて中東でも4次にわたって戦争が起こりました。所謂、中東戦争です。
これは1948年5月にイギリスによるパレスチナ統治が終了した日に、ユダヤ人がイスラエル建国を宣言したことに対し、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発したもので、その後4次に亘って戦争が繰り返されています。
一方で日本近辺では戦争こそ起こっていないものの、北朝鮮の核開発やミサイル発射、中国の武力を背景とした海洋進出などで平和が脅かされようとする状況が続いています。

この日本周辺、所謂、東アジア地域は、前記の中東に対して、極東と呼ばれています。
でも、なぜ日本を含む東アジア地域が「極東」なのでしょうか?
更に、極東の他にも近東、中東、と呼ばれる地域がありますが、皆さまはその由来をご存じでしょうか?

・極東と呼ばれている地域です。

「極東」
調べてみると、日本を含む東アジアは極東と呼ばれ、英語では「Far East」と言い、遠い東の果ての意味です。
でも、どこから見て日本が東の果てなのでしょうか?
実は、ヨーロッパから見てのことなのですが、正確にはイギリスから見て東の果てが「極東(Far East)」なのです。
同様に、「中東」「近東」もヨーロッパから見ての呼称になっています。

日本では一般的な世界地図は太平洋が真ん中に来る日本が中心の地図ですが、欧米では大西洋が真ん中に来る地図が一般的であり、それを見れば日本は地図の最東端、所謂「極東」に位置するという訳です。

19世紀初めの世界は7つの海を制した海洋国家・大英帝国(イギリス)を中心に回っていました。
更に、イギリスにある グリニッジ天文台は経度0度にあり、ここを基準として世界各国の標準時が決められており、それに基づくと 日本は経度135度となるため、グリニッジ標準時から9時間の差があることになります。
つまりイギリスから見れば、政治、経済的な外交ルートで見ても地理的な意味でも、日本は、紛れもない「東の果て」と言うことになります。

このように、ヨーロッパ・アメリカ、そして経度から見て、最も東方を指す地政学あるいは国際政治学上の地理区分により、 日本や中国の甘粛省、四川省、台湾、極東ロシア、朝鮮半島辺りの地域を極東と呼び、 歴史的にヨーロッパからみて最も遠くにある地域として名付けられました。

・伝統的中東とG8によって提案された拡大中東です。


「近東」
逆にヨーロッパから見て「近い東」はかつてオスマン帝国が支配していた地域で、その辺が「近東(near east)」と呼ばれるようになりましたが、19世紀には「中近東」(Near and Middle East)」の呼び方が一般的に使われていました。
「近東」は東方問題が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成されたようです。
広辞苑でも、「近東」とは、 「バルカン諸国・トルコ・シリア・エジプトなど旧オスマン帝国領に対するヨーロッパでの呼称。」と説明しています。

「中東」
中東とは、近東と極東の中間地域を指し、イギリスの最も重要な植民地であったインドやトルコ、エジプト、シリア、イラクなどの地域を指す呼称として形成されたようです。
広辞苑でも、(1)ヨーロッパから見て、近東と極東の中間。ペルシャとその周辺を指す。
      (2)第二次大戦後、アフガニスタン以西の西南アジアと北アフリカ北東部の地域の総称。と説明しています。

「結論」
結局、極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)などはイギリスからみた呼称として成立した概念であり、厳密にここからここまでと線引きがなされているわけではなく、時代によっても多少変わっているようです。

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グロリオサの蕾から開花まで

2022-06-23 | 

今、我が家では炎のような花、「グロリオサ」がたくさん咲いています。
そこで今日はグロリオサの蕾から開花までをご紹介します。

「グロリオサ」
「グロリオサ」は、ユリの仲間で、 炎が燃え上がるように咲く花姿が特徴の半つる性多年草です。
原産地はアフリカ、熱帯アジアで、日本には明治の末頃に入ってきたようです。
しかし、栽培が盛んになったのは1980年代になってからで、高知県では観賞用の球根の商業栽培が行われているということです。
日本で最も多く栽培されている品種はロスチャイルディアナ種であり、我が家の花はその品種のようです。

・1株の中に、蕾や炎が燃え上がるように反り返った花、水平までの開いた開花途中の花、咲き終わって萎れた花など見ることができます。


・これがグロリオサの蕾です。 蕾の長さは4~5㎝、太さも2㎝ほどあります。


グロリオサの名前はギリシア語のグロリオサス(栄光ある・名誉ある)に由来します。
和名はキツネユリといい、これは花の姿をキツネに見立てたもので、他にも「ゆりぐるま(百合車)」という別名があります。

・蕾が開きかけました。


・更に開いて花弁の形がはっきりと見え始めました。


・花弁が水平に開いてきました。 この状態で花径17~18㎝の大きさです。
 雄しべの中心から直角に左に伸びているのが雌しべです。


花は枝先に下向きに咲き、花が開くに従って花びらが上に反り返り、花弁の波打ちも大きくなります。

・上に反り返ってきました。上の画像から8時間余り経過してこれだけ反り返りました。


・完全に開花したグロリオサです。
上の画像から夜中の時間8時間を含め、16時間ほど経過しています。 


雌しべは6個の雄しべの中心から1㎝ほど伸びた後、直角に左に曲がって伸びています。

・左に伸びているのが雌しべです。


真上に反り返った状態から4~5日後にはこのように萎れてきます。

・これが咲き終わって萎れた花です。


炎が燃えているように、上に反り返っている花は勢いを感じますが、萎れてしまうとなんだか哀れさを感じます。
林芙美子ではないですが、花の命は短いですね。

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曽我兄弟の仇討(2)仇討に隠された「頼朝暗殺未遂事件」

2022-06-21 | 雑学

日本三大仇討の一つ、「曽我兄弟の仇討」と題して一昨日と今日の2回に亘って取り上げています。
今日は「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」と「頼朝暗殺未遂事件」をご紹介します。

建久4年(1193年)5月8日、頼家が鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために約1か月に亘って行われた「富士野巻狩り」が終わろうとしていた5月28日の晩に曽我事件が起きました。

「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」
皆が寝静まった深夜、曽我十郎祐成(すけなり)と弟・五郎時致(ときむね)の二人が御家人たちが泊まる富士野の館に忍び込んだのです。
そこで頼朝側近の有力御家人工藤祐経(すけつね)を殺害しました。
これが「曽我兄弟の仇討」、所謂、曽我事件です。

「曽我兄弟の仇討までの経緯」
事の発端は頼朝の挙兵以前に遡ります。
殺害された工藤祐経は伊豆の領地を巡って有力豪族・伊東祐親と争っていました。
争いの中で工藤祐経は伊東祐親の嫡男河津三郎祐泰を殺してしまいます。
河津三郎には二人の息子がいたのですが、父を殺されたことから、残された兄弟は相模の貧しい武士・曽我氏に引き取られたのです。
そして、父親を殺した工藤祐経を恨みながら成長していきました。

一方、工藤祐経は頼朝に重用され、鎌倉幕府の有力御家人に出世していきました。
元服した二人はそんな工藤祐経を討ち取る機会を狙っていたのです。
そして富士野巻狩りの夜、遂に本懐を遂げたのです。
兄の曽我十郎祐成は22歳、弟の五郎時致は20歳になっていました。
現在では、この事件は親の仇討をした側面だけが強調されて語られています。



「頼朝暗殺未遂事件」
しかし、事件は仇討ちだけでは終わりません。
兄弟の標的はもう一人いたのです。
この仇討に隠された「頼朝暗殺未遂事件」が起きたのです。

兄弟は工藤祐経を討った後、頼朝の館へ向かって走り出しました。
兄の十郎祐成は集まってきた御家人10人を相手に切り合いになり、9人までは倒したものの、10人目で遂に討たれてしまいます。
一方、弟の五郎時致は目指す館の入り口まで行き、更にこの館の奥で迎え撃とうとする頼朝を目掛けて走って行きました。
しかし五郎は捉えられてしまいました。

翌日、頼朝の尋問を受けたのですが、そこで五郎は「頼朝への恨みがあった」と答えています。
その尋問で五郎は
「祖父の伊東祐親が罰せられてから子孫は落ちぶれてしまい、お傍に近づくことも許されなかった。
工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐ(そそぐ)ためです。兄祐成が9歳、私・時致が7歳の頃からその事を忘れることはありませんでした。
頼朝様の御前に推参いたしましたのは、工藤祐経が可愛がられ、祖父祐親は嫌われておりました。その恨みがないわけでもありませんでしたので、お会いし、その事を申し上げて自害するつもりでした」
これを聞いていた者は皆感動したといいます。

この時、頼朝は五郎の勇猛ぶりを称え、勇士として許そうとしたのですが、殺された工藤祐経の遺児犬房丸が泣いて訴えたので、時致を引き渡しました。
そして、五郎は鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられ梟首(きょうしゅ=斬首した人の首を木にかけてさらすこと)にされたのでした。

以上が曽我兄弟による頼朝暗殺未遂事件の概要です。
現在、曽我事件は殺された父の仇を討ったという側面にのみに脚光が当てられていますが、その裏には祖父の伊東祐親が頼朝に罰せられ、不遇の生活を余儀なくされたその恨みから、頼朝を暗殺するという「頼朝暗殺未遂事件」が隠されているとも考えられています。

一昨日と今日の2回に亘ってご紹介した日本三大仇討の一つ「曽我兄弟の仇討」、そして、その裏に隠された「頼朝暗殺未遂事件」をご紹介しました。

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曽我兄弟の仇討(1)「富士の巻狩り」

2022-06-19 | 雑学

先週のNHK大河ドラマでは「曽我兄弟の仇討」、所謂、曽我事件が放送されました。
テレビを観た方はご存知だと思いますが、「曽我兄弟の仇討」は、その裏に頼朝暗殺未遂事件がありました。
この仇討は、忠臣蔵、伊賀越えの仇討と共に日本三大仇討の一つと言われています。
そこで今回と次回の2回に分けて「富士の巻狩り」と「曽我兄弟の仇討」を取り上げます。

1回目の今日は「曽我兄弟の仇討」が起きた「富士の巻狩り」についてです。

「日本三大仇討」
先ず、冒頭にも書いたように「曽我兄弟の仇討」は、「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」「伊賀越えの仇討」と共に日本三大仇討の一つと言われています。
この内、忠臣蔵はご存じのとおり、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った事件です。

「伊賀越えの仇討」は、寛永11年(1634年)11月7日に渡辺数馬が義兄・荒木又右衛門の助太刀を得て、弟・源太夫を殺した河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件で、「鍵屋の辻の決闘」とも言われています。
そして「曽我兄弟の仇討」は、富士の巻狩りの際、曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件です。

「曽我事件(曽我兄弟の仇討)と頼朝暗殺未遂事件」
曽我事件(曽我兄弟の仇討)は、父親の敵討ちだけでなく、頼朝暗殺を狙った事件でもあると言われています。
曽我事件は駿河の国で催された「富士野巻狩り」で起こりました。
では、「富士野巻狩り」とはどのような催しだったのでしょうか?

「鎌倉殿の後継問題」
建久3年(1192年)7月26日、鎌倉の源頼朝を征夷大将軍に任命する辞令を届けに、都から勅使がやってきました。
この時、頼朝は46歳です。一介の流人が挙兵してから12年が経っており、名実共に武家の統領に上り詰め、「鎌倉殿、頼朝」は正に得意の絶頂でした。

頼朝が次に考えたことは、嫡男・源頼家を次の「鎌倉殿」にすることでした。
しかしそれは簡単にいくことではありません。
御家人たちにとって鎌倉殿の継承は特別な意味があったのです。
ただ、家の跡を継ぐというのではなく、別次元の、政治的、軍事的な重要な意味合いが生じてくることから、こちらの方が大事だったのです。
従って、鎌倉殿の継承は「頼朝家の血筋でなくても、源氏の血筋の中に器が大きくて、いい人物がいれば、その人を立ててもいいのではないか」と考える人がいても不思議ではないのです。

例えば、頼家以外の源氏として弟の源範頼がいます。範頼は平家追討の現場指揮官でした。
更に、頼朝に匹敵する血筋を誇る甲斐源氏の安田義定などがいるのです。
このため、頼朝はこうした源氏一族よりも頼家が鎌倉殿に相応しいことを示さなくてはならないのです。

・巻狩りの準備を担当した北条時政(頼朝の義父)です。


「富士野巻狩り」
そこで頼朝が思いついたのが「富士の巻狩り」です。
この巻狩りは頼家が鎌倉殿の跡継ぎに相応しいことを示すために約1か月に亘って行われました。
頼朝はこの巻狩りで頼家の弓の腕前を披露し、武人としての能力を広く御家人たちに示そうとしたのです。

この重要な行事の仕切り役に、頼朝は妻・政子の父親・北条時政を指名しました。
時政は挙兵以前から頼朝を支えてきた大恩人で、頼朝が鎌倉を出発する6日前に現地に入り、そこで配下の者たちを指揮して獲物の状況を調べ、更に頼朝が泊まる館の設営など入念に準備を進めていったのでした。

建久4年(1193年)5月8日、頼朝は北条義時を始め三浦義澄、畠山重忠、和田義盛など、挙兵以来の重臣や側近、そのほか大勢の御家人を引き連れて駿河の国の富士野へ向かい、空前の規模で「富士野巻狩り」が催されたのです。

・富士野巻狩りの石碑です。


では、「富士野巻狩り」ではどのようなことが行われたのでしょうか?

「巻狩り」とは
勢子(せこ)が巻き込むように鹿を追い立てていきます。それを下の方で、頼朝や頼家、その幕閣たちが待ち受けて仕留めるのです。
5月16日、頼家は御家人たちが見守る中、生まれて初めての狩りで見事に鹿を射止めました。(ドラマでは、紙で作った鹿でした)

そしてその後、山神・矢口祭が行われます。
これは頼家が頼朝の正当な後継者であることを神に認めてもらう重要な儀式です。
このような一連の流れが「富士野巻狩り」だったようです。

「曽我兄弟の仇討(曽我事件)」
ところが、巻狩りが終わろうとしている5月28日の晩に曽我事件が起きましたが、この続きは明後日に取り上げます。

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「十分」と「充分」の使用区分

2022-06-17 | 雑学

ブログや文章を書いているとき、「十分」と「充分」の使用区分に迷うことはありませんか?
私はその都度、広辞苑を開くのですが、辞書を見ても解りません。
広辞苑には、「十分」は、物事が満ち足りて、不足・欠点のないさま。充分。と説明し、
      「充分」には、「十分」に同じとしています。
そこで今日は、違いが分かりにくい「十分」と「充分」について調てみました。

「十分と充分の違い」
・「十分」
「十分」は、辞書が説明しているように、満ち足りていて、不足がないこと。必要なだけ物事が足りているという意味です。
漢数字の「十」が使われているように、一、二、三~九、十と順番に満たされていき、十になって初めて不足がない状態となったことを表していることから、数や量が満たされていて、客観的に見ても満たされていることがわかる、というニュアンスがあります。

「使い方」
「十分」の使い方としては、数値で一杯になっていく様子を表現した言葉で、見るとわかる量などを表現した言葉ということで、
例えば、「利益が十分にある」「十分に参加者が集まった」などのように、利益や参加者を数値で表現することができる時に「十分」を使用します。



・「充分」
「充分」も、満ち足りていて不足がないことで、基本的には、「十分」と同じ意味です。
「充分」には「十分」のように数や量が満たされているというニュアンスはなく、もっと感覚的・主観的に満たされているというニュアンスがあります。

「使い方」
「充分」の使い方としては、「充分なくらい面白かった」「考え方がわかっただけで充分だ」などがあります。
「面白かった」とか、「考え方」というのは、非常に主観的なものであることから「充分」が使えます。

「結論」
「十分」と「充分」は同じ意味です。
従って、基本的には「十分」を使用し、「感覚的・主観的に満ち足りている」というニュアンスを表現したいときは「充分」を使用する、というように使い分けるとよいようです。

しかし、文科省では「十分」を使うことを推奨していて、「充分」は当て字であるとしています。
更に、公的な文書では「充分」は使えないため「十分」を使う必要があるということです。

「十分」と「充分」は基本的には同じ意味であることから、文科省が推奨しているように敢えて使い分けせず、全てに「十分」を使用する方が無難なようです。

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菊菜に咲いた菊の花

2022-06-15 | 家庭菜園

鍋料理に欠かせない食材の一つに「菊菜」があります。
この菊菜は菊の花を咲かせるのですが、ご存じでしたか?

先日、畑の冬物野菜を植えた畝の整理をしていたところ、菊菜が40~50㎝ほどに伸びて花を咲かせていました。
家庭菜園歴が数十年になる私ですが、花が咲いた菊菜を見るのは初めてです。
何故なら、収穫が終わると次の植え付けのために菊菜の株を早々に片付け、花が咲くまで残さないからです。
勿論、スーパーなどでも花が咲いた菊菜は売られていないので、皆様もご覧になったことはないのではありませんか?

そこで今日は珍しい菊菜の花をご紹介します。

・これが収穫の後に咲いた菊菜の花です。


「菊菜」
鍋料理に欠かせない菊菜はキク科シュンギク属の一年草です。
原産地は地中海沿岸で、日本には室町時代に中国を経て渡来し、西日本を中心に栽培されるようになりました。
戦後、食生活の洋風化に伴って香味野菜としての需要も増加して各地で栽培が広まったようです。
中国では漢方薬として使用されていますが欧米では、キクの香りがあまり好まれないことから、観賞用の植物として栽培されているということです。

「花」
なお、菊菜の花は、・春に種を蒔いた場合は、6月の終わりから~7月にかけて
         ・秋に種を蒔いた場合は、2月の終わりから3月にかけて、収穫せずに置いておくと花が咲くようです。

この花には毒がないので食べられるようですが、菜の花のようにおいしくはありません。
しかし、料理に使ったり、一輪挿しや生け花などで活用する方法もあるので、捨てる前に有効な活用法を考えてみるのもいいのではないかという事です。
私は何も考えずに片付けてしまいました。

・蕾も秋に咲く小菊と同じような形です。


「呼び名」
菊菜は各地で呼び名が異なっているようです。
東日本では春に咲く菊という意味から「春菊」、関西では、葉や花の形、その香りから「菊菜」とも呼ばれています。

そしてその種類は、九州・中国地方では大葉系が、関西では中葉系、そして関東以北では小葉系が主に栽培されているようです。
その三種の特徴は、
・大葉(おおば)種・・・切り込みが浅く、柔らかくてえぐみが少ない。
・中葉(ちゅうば)種・・・切り込みがあって香りが強い。
・小葉(こば)種・・・切り込みが深くて香りが強い。
という事です。

・除虫菊の中央部を黄色に塗ったような菊菜の花です。


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初夏に咲くコスモス

2022-06-13 | 

私の畑では早くもコスモス(秋桜)が咲きました。
コスモスは「秋桜」と書くように秋に咲く花ですが、初夏にも咲くようです。
今日は5月下旬に咲いたコスモスをご紹介します。

「秋桜」
コスモスの和名は「秋桜(あきざくら)」といい、日本らしい名前ですが、実は明治初めに“渡来”した外来種です。
容易に栽培でき、丈夫で手間がかからないので、明治の末には全国的に広まりました。
原産地はメキシコで、栄養分が少ない乾燥した土地を好むことから、秋に咲いた後の種から、翌春にはあちらこちらに自然に発芽して増えていきます。

私の畑に咲いているコスモスも、昨年の種から発芽したものです。
まだ草丈50~60㎝ほどの短い茎に薄紫の花を咲かせています。



「コスモスの名前の由来」
コスモス(cosmos)」という花の名前の由来は、ギリシャ語で「秩序」や「調和」を意味する「kosmos」で、規則正しく花びらが並ぶ様子から、この名前が付けられました。
また、英語で宇宙のことを「cosmos」とも言いますが、こちらも秩序によって調和を保っている宇宙のことを、哲学者のピタゴラスが「cosmos」と呼び始めたのだそうです。

・早くも咲いたコスモスの花です。


「秋桜をコスモスと読む由来」
コスモスは外来種なので、和名が「秋桜」であっても、それを「コスモス」とは読みません。「あきざくら」と読みます。
では、なぜ「秋桜」と書いて「コスモス」と読むようになったのでしょうか?
それは、昭和52年(1977年)に山口百恵が歌った「秋桜」という歌謡曲が大ヒットしたからなのです。
この曲は嫁ぐ娘が母を思う気持ちを、当時18歳の山口百恵が歌いましたが、作詞作曲をしたさだまさしが曲のタイトル「秋桜」を「コスモス」と読ませたのです。

私の畑で早くも咲いた「秋桜」。
しかし、「秋桜」と書くより、初夏に咲いたことから「初夏桜」と書いて「コスモス」と読みたい、季節外れの「初夏桜(コスモス)」です。

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「もんじゃ焼き」の起源

2022-06-11 | 雑学

昨日から外国人観光客の入国手続きが2年2か月ぶりに再開されました。
テレビでもそれに関連するニュースが報じられていましたが、その中に浅草の「もんじゃ焼き店」をインタビューしていた映像がありました。
そこの店主によると、コロナ前は外国人観光客から「もんじゃ焼きが美味しい」との評判を得てよく売れたそうです。
今回、2年2か月ぶりに外国人観光客の受け入れを再開することについて、大いに期待しているという事でした。
私はもんじゃ焼きを食べたことがないのですが、今日は「もんじゃ焼き」について調べてみました。

「もんじゃ焼き」
もんじゃ焼きは東京・下町の庶民料理として人気があり、東京の方にはすっかりおなじみの料理だそうです。
大阪のお好み焼きと同じように、出汁で溶いた小麦粉を具と混ぜて焼きますが、お好み焼きより水分が多く、焼いても固まらないためヘラですくって食べるのが特徴だということです。



「もんじゃ焼きの起源」
「もんじゃ焼き」の起源は安土桃山時代に千利休が作らせていた茶菓子の「麩の焼き(ふのやき)」にまで遡ります。
「麩の焼き」とは小麦粉の薄い皮に砂糖や山椒味噌を塗って巻いた菓子で、巻物状に巻く形が仏教の経典に似ている事から仏事用の菓子として重宝されました。
江戸末期になると「麩の焼き」の味噌の代わりに餡を巻いた「助惣焼(すけそうやき)」になります。
明治時代になってからは「助惣焼」を元に、庶民が縁日や屋台などでうどん粉などを溶いて焼き、軽食として口にしていたものに、思い思いに文字や模様などを描いて「文字(もじ)焼き」と呼ばれていたものが、いつしか「もんじ」と変わり、「もんじ」が「もんじゃ」へと変化していったと考えられているようです。

「発祥地」
発祥地については月島や浅草などが「我こそは」とアピールしているそうですが、その違いは、月島が具材を描く囲んだ「土手」に生地を流し込むのに対し、浅草などはこうした土手を作りません。
「もんじゃ焼き」は、各地で自然に発生した江戸っ子料理が現在の観光資源に発展したと考えられるという事です。

粉物料理は大阪のお好み焼き、タコ焼きが有名ですが、東京では発祥が地元の「もんじゃ焼き」の方が有名で親しみがあるようですね。

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