らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

東北紀行(その6)福島・会津若松市

2008-10-31 | 旅行

今日は、会津若松市の「若松城(鶴ケ城)」と「白虎隊」をご紹介します。

会津若松は、藩主・松平容保の居城「若松城(鶴ケ城)」のあるところで、戊辰戦争の一局面で、後に「会津戦争」と呼ばれる激しい戦となった場所です。

「会津戦争」会津藩の処遇をめぐって薩摩・長州を中心とした新政府と旧幕府勢力との間で行われた戦争です。
その背景には、藩主松平容保が京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘したことを受けて、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として追討令を受けることから起こりました。


・「若松城(鶴ケ城)」です。
 若松城は、1384年葦名直盛が東黒川館を作ったのが始まりとされています。
 その後、黒川城となり、伊達政宗や蒲生氏郷が領主として黒川城に入ります。
 1593年に蒲生氏郷が黒川を若松と改め、城の名前も鶴ケ城と命名しました。
 2006年4月6日、日本百名城(12番)に選定されています。


・鶴ケ城から飯盛山を望む
 手前の色の濃い小山が飯盛山です。(ポール後方の山)


・白虎隊が自刃した飯盛山です。


・飯盛山から鶴ケ城を望む。(中央ポールの向こうにお城が見えます)
 白虎隊の少年たちはここからお城が炎上しているのを見て「もはやこれまで」と思
 い、自刃しました。
 しかし、その時点では、まだお城は炎上していませんでした。
 武家屋敷の炎上をお城と勘違いしての自刃だったそうです。


・「白虎隊」自刃の地です。
 白虎隊(15歳~17歳)の少年たち20名はここで自刃しました。
 (会津藩が組織した部隊は他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊がありました。)


・白虎隊士 「飯沼貞吉」氏です。
 20名の白虎隊士の一人でしたが、唯一、一命を取りとめた人です。
 この飯沼貞吉氏によって白虎隊の悲劇が後世に伝えられました。


・自刃した白虎隊十九士の墓です。
 ここを訪れる人たちによって、今でも線香の煙が絶えません。


会津藩 九代藩主 松平容保公は戊辰戦争で自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し次の弔歌を詠まれましたそうです。

  「幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う」  源 容保

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東北紀行(その5)福島県・五色沼の紅葉

2008-10-30 | 旅行

今日は東北紀行(その5)、福島県の「五色沼の紅葉」をご紹介します。

昨日まで、堅苦しい歴史探訪が続いたので、今日は「紅葉」で気分転換したいと思います。

・裏磐梯に行く途中の紅葉です。
 (カメラを「風景モード」にすべきところを「全自動」で撮影したためシャープな映像
  が撮れませんでした。)


・剣が峯付近の紅葉です。
 一面の紅葉は見ごたえがあり、とても素晴らしかったです。


・標高1819mの磐梯山です。
 別名、会津富士とも呼ばれており、富士山に似たきれいな山でした。
 日本百名山の一つとなっています。(南側から見た表磐梯です)


・北側からの磐梯山(裏磐梯)はこのようになっています。
 これは爆裂噴口と言って、1888年(明治21年)7月15日に起きた水蒸気爆発に
 よって、小磐梯山の山頂を含む北側が崩壊したものです。

 この突然の大爆発は一瞬のうちに小磐梯山を吹き飛ばし、麓の村々が土砂に
 埋まり、死傷者524名の大被害を受けたそうです。


・奥羽山脈を望む峠です。
 遠くに霞んで見える奥羽山脈は見事な山並みでした。


・毘沙門沼(五色沼の一つ)からの磐梯山(裏磐梯)です。


・「毘沙門沼」の紅葉です。
 五色沼には「毘沙門沼」のほかに「赤沼」「みどろ沼」「竜沼」「弁天沼」などたくさん
 の沼があります。


・毘沙門沼です。


「五色沼」とは磐梯山の北側(裏磐梯)にある大小数十の湖沼群のことで、緑、
 赤、青など、さまざまな色の沼があります。

 これらは1888年の大爆発によって山体崩壊・岩屑なだれを起こし、崩壊した山体
 が川をせき止めてできたものです。
 その数は数百とも言われています。

 このうち桧原湖の南東にある数十の湖沼群・地域が五色沼と呼ばれているそうで
 す。

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東北紀行(その4)山形市(2)

2008-10-29 | 旅行

山形県の歴史探訪は今日の「最上義光(もがみよしあき)」で最終となります。

・「最上義光(もがみよしあき)」の銅像です。
 山形城主「最上義光」は出羽の戦国大名で、伊達政宗の伯父にあたります。

 最上義光は城下都市の建設に力を注ぎ、城外に商業施設を設定し、工業職人街
 を特設して人口の集中と民生の安定を図りました。

 更に最上川の改修、新田造成、産業の振興を図り、神社、仏寺を保護するなど
 して、民衆教化に寄与し、建築、美術、文学など中央の文物を導入し出羽の国に
 文化の華を咲かせたと言われています。

 現在の山形の都市基盤は最上義光の建設に負うものと言われているそうです。


山形城址、復元された「二の丸東大手門」です。
 山形城は1356年、斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年に初期の
 山形城が築城されました。

 後に、最上義光が慶長年間に城郭を拡大、城下町を整備し、関が原の戦いの功
 で禄を得、出羽57万石(東北一の大大名)の本城となりました。


・この像は、上杉方の謀将 直江兼続が率いる2万3千の大軍をむかえ、自ら陣頭に
 立って敵を撃退し、山形を死守した最上義光が決戦場の富神山にむかって進撃
 せんとする英姿です。


・来年1月から始まるNHKの大河ドラマ「天地人」、「出羽の関が原」と言われて
 いる直江兼続と最上義光の決戦も繰り広げられるそうです。

    どうぞお楽しみに!

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東北紀行(その3)山形市

2008-10-28 | 旅行

東北の歴史探訪3回目の今日は山形市の「立石寺」をご紹介します。

「立石寺」は正式名称を「宝珠山 阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっ
しゃくじ)」と言い、歴然とした天台宗の寺院です。
860年(貞観2年)、清和天皇の勅命によって、円仁(えんにん・慈覚大師)が開基したといわれています。

また、「立石寺」は別称を「山寺」と言います。
「山寺」はこの土地の地名ですが、観光客には通称の「山寺」の名称の方がよく知られているのではないでしょうか?

・立石寺(別称 山寺)の山門です。


・「立石寺」本堂です。


・「立石寺」の根本中堂は国宝となっています。


・立石寺の奥の院です。
 山門から奥の院までは800余段の石段が続いています。
 途中には多くの歴史的建造物や石仏があります。
 その途中にある「蝉塚」は芭蕉の名句を納めて石の塚をたてたものだそうです。


・松尾芭蕉は奥の細道を旅する途中でここに立ち寄りました。
 そして、ここで詠んだ句が有名なこの句です。     
   「閑かさや 岩にしみ入 蝉の声」


・松尾芭蕉の銅像です。
 芭蕉は生涯に亘って日本各地を旅したと言われています。
 そして、最後に西に向かって旅たち、大阪の南御堂で門人たちに囲まれて息を
 引き取ったと伝えられています。
  芭蕉の辞世の句は
    「旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る」
  旅に生き、旅に死した、正に芭蕉らしい句ですね。


・険しい岩間にある「五大堂」です。
 「慈覚大師(円仁)」が五大明王を安置し、仏法の隆盛と天下泰平を祈った道場
 です。
 ここは「立石寺(山寺)」随一の展望台となっています。


(一言メモ)
 童謡で「山寺の和尚さん」がありますが、ここに歌われている山寺は「立石寺」と
 全く関係はありません。
 単なる山寺のイメージで書かれたと言うことですが、一説には福岡県の浮羽に
 ある「大生寺」の和尚さんをモデルにしたとも言われています。

・参考までに歌詞を書いておきます
 「山寺の和尚さんが、まりは 蹴りたし まりはなし ネコを かん袋に押し込んで
     ポンと蹴りゃ ニャンとなく ニャンがニャンとなく ヨイヨイ」

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東北紀行(その2)山形県米沢市

2008-10-27 | 旅行

今日は「上杉神社」をご紹介します。

山形県米沢市にある「上杉神社」は戦国の名将上杉謙信を祀る神社です。

上杉謙信(初名を長尾景虎)は「越後の虎」「越後の龍」とも呼ばれ、武田信玄との5回に亘る「川中島の合戦」は余りにも有名ですね。

その兼信が越後の春日山城で急死した祭、遺骸は城内の不識庵に仏式に祭られましたが、二代上杉景勝が米沢藩へ移封されたのに合わせ、兼信の祠堂(しどう)も米沢に遷(うつ)されました。
明治になって、米沢藩中興の名君 上杉鷹山公を合祀して上杉神社としたそうです。

・上杉神社の鳥居です。


・上杉神社です。
 平成21年1月から始まるNHK大河ドラマのタイトルが「天地人」で、その主人公は   
 上杉家の家臣として二代上杉景勝を支え続けた直江兼続です。
 当地もドラマに出てくるのではないでしょうか?


・上杉神社の祭神・上杉謙信公の銅像です。
   上杉謙信の辞世
   「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」


上杉鷹山の銅像です。
 上杉鷹山は上杉家第十代藩主で、崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代随一の
 名君として知られています。
 アメリカ第三十五代 大統領 ジョン・F・ケネディは、「政治家で最も尊敬する人は
 上杉鷹山である」
と述懐したことは余りにも有名な話です。


・上杉鷹山が家臣に示した有名な和歌です。
 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」


「伊達政宗」生誕地の標です。
 伊達政宗は戦国時代の武将で仙台藩の初代藩主ですが、誕生地は当地です。
 1567年、ここ米沢城で誕生しました。                                             


(ご参考)
上杉謙信公の家訓16か条をご紹介します。
 ・心に物なき時は心広く体泰(からだやすらか)なり
 ・心に我儘なき時は愛敬失わず
 ・心に欲なき時は義理を行う
 ・心に私なき時は疑うことなし
 ・心に驕り(おごり)なき時は人を教う
 ・心に誤りなき時は人を畏(おそ)れず
 ・心に邪見なき時は人を育つる
 ・心に貧りなき時は人に諂(へつら)うことなし
 ・心に怒りなき時は言葉和かなり
 ・心に堪忍ある時は事を調(ととの)う
 ・心に曇りなき時は心静かなり
 ・心に勇ある時は悔やむことなし
 ・心賎(いや)しからざる時は願好まず
 ・心に孝行ある時は忠節厚し
 ・心に自慢なき時は人の善を知り
 ・心に迷いなき時は人を咎(とが)めず

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東北紀行(その1)山形・上山市

2008-10-26 | 旅行

歴史探訪と紅葉を求めて山形、福島方面を旅しました。
そこで今日から数回に分けてこの旅行記の観光スポットをご紹介したいと思います。

初回の今日は、山形県上山市にある「春雨庵」をご紹介します。

・仮住まいとして沢庵禅師に草庵を寄進した土岐頼行の居城上山城(月岡城)
 です。
 五層天守閣を持つ美しいこのお城は羽州の名城と言われており、今では上山市
 (かみのやまし)のシンボルとなっています。


「春雨庵」は、京都・大徳寺の高僧、沢庵禅師が「紫衣事件」で出羽国・上山に配流されたときに、上山城主・土岐頼行が草庵を寄進したものを禅師がこれを「春雨庵」と名付けたそうです。

・「春雨庵」です。


沢庵和尚は、「春雨庵」で3年過ごした後、赦免されて江戸に戻り、東海寺を開山します。

・沢庵和尚です。


お馴染みの「沢庵漬」は沢庵和尚が考案したといわれており、その発祥地は当地といわれています。
見学者に試食用の「沢庵漬け」が置かれていました。

・「沢庵漬」発祥地の碑です


沢庵和尚が上山で3年間過ごした居室です。


(一言メモ)
沢庵和尚(1573年12月24日ー1646年1月27日)の名前で知られている沢庵宗彭
 
(たくあん そうほう)は江戸時代の臨済宗の名僧です。
 生まれは但馬国・出石(現兵庫県豊岡市出石町)です。
 「紫衣事件」で出羽国・上山に流罪となりました。

・「紫衣事件」
 江戸幕府は、朝廷と寺院との関係を弱めるため「寺院法度」などを定め、締め付
 けを厳しくしていきました。
 1627年、後水尾天皇は幕府に諮らず、僧の最高法衣である紫衣着用の勅許を
 与えますが、幕府はこれを法度違反として無効としました。
 これに反発した大徳寺の元住職である沢庵は幕府に抗議しますが、幕府は権力
 で押さえつけ、沢庵禅師を出羽国・上山に流罪としました。

 

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皇后陛下のお誕生日

2008-10-20 | 雑学
今日は皇后陛下(美智子さま)のお誕生日です。
皇室典範における敬称は「陛下」なので、皇后陛下とさせていただきました。

皇后陛下は昭和9年(1934年)10月20日、日清製粉の正田英三郎・冨美様ご夫妻の
長女として誕生されました。

昭和34年(1959年)4月10日皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めて民間出身の皇太子妃となられました。

結婚が決まったときの記者会見で皇太子様の魅力について問われ、
 「とてもご誠実で、ご立派な方で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて
  行かれる方だと言うところに魅力を感じました」
と答えられ、当時この言葉は流行語にもなりました。
清楚で知的な美智子様の姿は絶大な人気を集め、ミッチー・ブームが起きました。

    皇后陛下、お誕生日おめでとうございます

私たち日本国民は心からお祝い申し上げます。


(ご参考)
・今上天皇(きんじょうてんのう)の誕生日は1933年(昭和8年)12月23日です。



「お詫び」
  いつも当ブログを見ていただきありがとうございます。
  誠に勝手ながら、明日21日から25日まで休ませていただきます。
  26日から再度書き出す予定にしていますので、引き続き宜しくお願い致します。

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孫の日

2008-10-19 | 雑学
10月第3日曜日(今年は今日19日)は「孫の日」だそうです。

「孫の日」とは、1999年(平成11年)7月、日本百貨店協会が孫へのプレゼントで
消費を喚起し、併せて売り上げの拡大を図ることを目的に制定しました。

「敬老の日」から1ヵ月後となる10月第3日曜日をその日としたようです。
バレンタインデーとホワイトデーの「秋バージョン」と言ったところでしょうか。

制定された経緯は別として、お孫さんと触れ合う良い機会です。
この日のプレゼントをキッカケに、お孫さんとおじいちゃん、おばあちゃんがコミュニケーションを深める日になればいいですね。


「気分転換」
 孫といえば、大泉逸郎が歌ったヒット曲がありましたね。 
 歌詞が素晴らしいので書いておきます。ご存知の方は口ずさんでください。

    ・なんでこんなに 可愛いのかよ        
     孫という名の 宝物                
     じいちゃんあんたに そっくりだよと       
     人にいわれりゃ 嬉しくなって          
     下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔 
     
    ・もみじみたいな 小さな手でも
     今につかむよ 幸せを
     仕事いちずで 果たせなかった
     親の役割 代わりの孫に
     今は返して 今は返して いるところ
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「神無月」と出雲大社

2008-10-18 | 雑学
10月は旧暦の呼び名「神無月」ですね。

「神無月」の語源を調べてみました。

「神無月」の由来には諸説あるようです。
1.「神無月」は、神を祀る月であることから、「神の月」とする説が有力とされてい
  ます。
  「神無月」の「無」は「水無月」の「無」と同じく、「の」を意味する格助詞「な」という
  ことのようです。

2.中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなく
  なることから「神無月」になったとする説があります。
  出雲国では反対に「神有月・神在月(かみありつき)」と呼ばれるようです。

4.その他の説では、雷の鳴らない月で「雷無月(かみなしづき)」が転じて「神無月」
  になったとする説。

5.新穀で酒を醸す月なので「醸成月(かみなしづき)」が転じて、「神無月」になったと
  する説があります。
                             以上 「語源由来辞典」より


出雲大社に神が集まるのは何故?
古事記や日本書紀には大国主命を始め、出雲系の神々が日本中で活躍していた
 ことが描かれています。
 このことから神々が出雲に集まるのは、里帰りや奉公するためといわれているよう
 です。

・その目的は、一般には縁結びの相談のためとされています。
 そのため、かつて佐渡には10月の縁談を避ける風習があり、北九州では神が
 出雲に向かう日(10日)と帰ってくる日(17日)には、未婚の男女がお籠りする風習
 があったそうです。 
 また、出雲に行くのは大国主神系の「国津神」だけであると言う説や、天照大神
 始めとする「天津神」も出雲に行くという説もあります。

・その中で「留守神」と呼ばれる留守番をする神も考え出されるようになりました。
 一般に「留守神」には「恵比須神」が当てられ、10月に「恵比須」を祀る恵比須講
 を行う地方もあるそうです。
                                (ウィキペディアより)

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貯蓄の日と神嘗祭(かんなめさい)

2008-10-17 | 伝統行事

今日、10月17日は「貯蓄の日」ですが、ご存知でしたか?
金融機関にお勤めの方、お客様に教えてあげてください。悦ばれますよ。

さて、「貯蓄の日」ですが、その由来は「神嘗祭(かんなめさい)」に因むそうです。

「神嘗祭(かんなめさい)」は、ご存知のように伊勢神宮と宮中の祭礼ですね。

・「神嘗祭」について極めて簡単に説明しますと、
 その年の稲の収穫を伊勢神宮にお供えし、感謝する式典で、毎年10月15日から
 25日まで行われます。

 宮中においては天皇がその年の新米を伊勢神宮に奉納します。
 昔は「神嘗祭」が来るまでは、その年の新米は誰も口にしない風習だったよう
 です。

「神嘗祭」から「貯蓄の日」が制定された経緯
 「神嘗祭」は農耕民族にとってとても重要な区切りの日であることから、1952年に
 日本銀行貯蓄増強中央委員会(現、金融広報中央委員会)が「神嘗祭」の中で
 内宮の奉幣が行われる17日「貯蓄の日」と定めたのが由来となっています。

 現在多くの国民は労働の対価として金銭をもらうようになっていますので、給料が
 いわば収穫物です。
 日本銀行が勤労の収穫物であるお金を無駄遣いせずに大切にしようという意味を
 込め、制定した記念日が「貯蓄の日」というわけです。


「貯蓄の必要性」について
 ・将来の収入の変動。特に減少に備えるため。
 ・高額商品などは一度にもらえる給料で買えないので、貯めてから買う必要がある
  こと。 (サブプライムローンに見られるように、ローンは危険な一面もあります)
 ・急病などに備え最低でも1年分、できれば2年分の生活費程度は貯蓄が必要で
  あること。

(参考)          
 平成19年度:年齢・階級別貯蓄額             (厚生労働省HPより)
 ・1世帯あたりの平均貯蓄額        1,143.0万円
 ・貯蓄がない世帯は全体の          10.2%
 ・貯蓄があっても200万円未満の世帯    17.5%

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