らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

食べてみたい「殿様カレイ」

2022-08-30 | 雑学

家内のお供で近くのスーパーに買い物に行きました。
魚売り場に行くといろいろな魚が並んでいましたが、どの魚も値段が高くなっていますね。
鯛や秋刀魚、アジは勿論、昔は見向きもされなかったイワシまで値段が高いのにはびっくりです。

その要因は原油価格の高騰がよく言われていますが、それだけではなく、資源の減少による水揚げ量の減少や海上での仕事リスクによる人件費の負担増などがあるのも知れません。
政府は物価上昇目標を2%とにしていることからある程度の物価高は止む得ないですが、こんなに急激に上がると我が家をはじめとする一般消費者の家計には大きな負担になってきます。

「関サバ、関アジ」
ところで、魚と言えば「関サバ」や「関アジ」などのブランド魚がありますが、大分県にはこれらの他に「天下の高級魚」と言われる「殿様カレイ」があるのをご存じでしょうか?

「関サバ」や「関アジ」は大分県と愛媛県の間の海域である「豊後水道」で捕獲されるアジ・サバのうち、大分県漁協佐賀関支店に所属する漁師が一本釣りで獲るもののことを指して使われるブランド魚のことで、高級魚として知られています。
ところが、大分県には更に高級魚と言われる「城下カレイ」別名「殿様カレイ」と言う「天下の高級魚」が獲れるのだそうです。



「城下カレイ(殿様カレイ)」
城下カレイとは、大分県の日出町(ひじまち)にあった日出城(現在は暘谷(ようこく)城址)の南側、つまり別府湾の城下海岸を中心に獲れるマコガレイのことを指します。
その海底には真水が湧き、生息する城下カレイは尾びれが角ばることなく広めで、全体が丸々として頭が小さいうえに、泥臭くないという特徴を持っているということです。

江戸時代、日出藩において特に珍重された歴史を持っており、参勤交代の際には将軍家へ干物を献上し、4年に1度の閏年には端午の節句に間に合うように、生きた「城下かれい」を江戸まで運んだといわれます。このため、別名「殿様魚」と呼ばれていたようです。
「殿様カレイ」は、そのおいしさと希少性から珍重され、庶民は食べることが禁じられ、食べたことが分かれば罰せられたと言われています。

刺身にすると純白で美しい光沢を放ち、コリコリとした食感があり、淡白ながら上品であじわい深いのだそうですが、値段が高すぎて一般庶民には手が届かない「天下の高級魚」だそうです。
それだけに一度は食べてみたいカレイです。

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秋じゃが植え付け

2022-08-28 | 家庭菜園

家庭菜園でも盆明けから秋植え野菜の準備をしなければいけないのですが、今年の夏の異常な暑さから熱中症の危険性もあって、畑仕事をズボラしていたため、全く準備ができていません。
畑は草が伸び放題、トマトやスイカをはじめとする夏野菜の片づけなどは全く手つかず、ズボラをしていたつけが大きく伸し掛かってきました。
8月が終わろうとするこの時期に至っては、一度に片付けることはできないので、植える畝ごとに片付けて畝を立てていこうと思っています。
そんな中、先日、いつもより10日余り遅れて秋植えのじゃが芋を植え付けたのでご紹介します。

「我が家の秋じゃが植え付け」
「種芋」
我が家で植える種芋は5月下旬に収穫したじゃが芋(品種:デジマ)を使用しています。
今回は32個の種芋を植え付けました。

植え付け」
秋の種芋は切らずに丸ごと植え付けます。
私の植え付け方法は、畝幅60cmの畝に深さ10㎝程の溝を2列に掘り、ダイアジノンを蒔いて、株間30㎝で千鳥掛けに植え付けます。
今回はコガネムシの幼虫による被害を防ぐ目的から農薬のダイアジノンを初めて使用しました。

・32個の種芋を千鳥掛けに置いたところです。


種イモを囲うように4か所にショベルで隙間を作り、化成肥料を一握りずつ施し、更に種芋間にも一握り施します。
我が家では、肥料はこの植え付け時の肥料だけです。
一般的に言われている、芽かき時の追肥は行っていません。

・種芋の周り4か所と種芋間に化成肥料を施したところです。


植え付け後、土を戻して畝を作り直します。
秋植えは気温が高いので植えた直後のマルチ張りは行わず、芽が出た後に張って、除草効果と晩秋の寒さ対策としています。



代わりに暑さ対策として稲わらを敷いておきます。



「秋植えじゃが芋の栽培ポイント」
ネットによると、秋のじゃが芋栽培は次のように書かれています。
・植え付け時期・・・8月下旬から9月上旬
・種芋の品種・・・・デジマ、ニシユタカ、アンデス赤など
・種芋は切らない・・秋ジャガ栽培で使う種芋は、切らずに丸ごと植え付けます。
          植え付け時期の気温が高いため、種芋を切って植え付けると、断面から傷んでくる可能性があるということです。
・植え付ける株間・・株間は25㎝~30㎝に植え付けます。
          春植えより小ぶりに育つため株間はやや狭くてもいいようです。
・芽かき・・・・・・植え付けて1か月もすると複数の芽が出てくるので、太くて優良なものを残し、後は抜き取ります。       
・追肥と土寄せ・・・1回目の追肥は芽かきと同時に行い、併せて土寄せをします。
          追肥の2回目は蕾が付いたころです。
・収穫・・・・・・・葉や茎が黄色く枯れるのが収穫の目安となります。

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雨模様とは

2022-08-26 | 雑学

この夏、雨が少なかった当地(大阪南部)ですが、盆明けからやっと降雨の日や雨模様の日が見られるようになりました。
昨日も昼前に雨模様となった鬱陶しい天気でした。
ところで、この「雨模様」という言葉について、平成22年度と平成15年度に本来の意味を尋ねる文化庁の国語に関する世論調査がありましたので、その結果についてご紹介します。

「雨模様」
皆さんは「雨模様」の本来の意味をご存知ですよね。
ところが、世論調査では本来の意味を回答した人の割合は平成22年度で43.3%でした。
意外と少ないのに驚きました。

「雨模様」を辞書で調べると以下のように説明しています。
・「日本国語大辞典」」では、あめもよう【雨模様】:雨が降り出しそうな様子。あまもよう。雨催(あまもよい)。
・「岩波国語辞典」では、あめもよう【雨模様】:今にも雨が降りそうな空の様子。あまもよう。あまもよい。 ▽雨の降る様子を言うのは誤用。
・「広辞苑」では、あめもよう【雨模様】:雨の降りそうな様子。あまもよい。
と説明しています。

このように「雨模様」の本来の意味は「雨が降りそうな様子」を示す言葉で、元々は「あまもよい」「あめもよい」と言われていました。
ところが、平成22年度の「国語に関する世論調査」では、本来の意味である「雨が降りそうな様子」と答えた人が4割台前半で、本来の意味ではない「小雨が降ったりやんだりしている様子」と答えた人が4割台後半という結果でした。

国語に関する世論調査結果」(平成22年度と平成15年度)
   例文:外は雨模様だ。          平成22年度   平成15年度
(ア)雨が降りそうな様子・・・・・・・・・・・ 43.3%      38.0%(本来の意味)
(イ)小雨が降ったりやんだりしている様子・・・ 47.5%      45.2%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・ 4.8%       9.4%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・  3.2%       6.3%
分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・  1.2%       1.1%

年代別にみると2回とも30代から50代では本来の意味でない方を、20代以下と60歳以上の層では本来の意味の方を選んだ割合が高くなっていました。

「解説」
元々、この言葉は『あまもよい』とか『あめもよい』と言われていました。
ここで言う『もよい』とは、『催す』の意味で、雨を催す、つまり、これから降りそうなと言う意味が模様に変化したものです。
ところが「催す」と言う意味が忘れられ、「模様」を「様子」の意味と捉えたことから、雨が降っている状況をイメージするようになったのではないかという事です。

雨模様の本来の意味は、「雨が降りそうな様子」ということで、未だ雨が降っていない時に使う言葉です。
「雪模様」と言う言葉もありますが、こちらも同様です。
間違って使用しないように気をつけたいものですね。

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下関とフグ

2022-08-24 | 雑学

甲子園球場で繰り広げられていた高校野球は、一昨日、宮城の仙台育英高校と山口の下関国際高校の間で決勝戦が行われました。
どちらが勝っても初優勝だったのですが、結果は8対1で仙台育英高校が東北勢で初めての優勝を飾り、優勝旗が白河の関を超えました。
仙台育英高校の皆さんおめでとうございます。

健闘むなしく準優勝に終わった下関国際高校の皆さん素晴らしい戦いぶりでした。
敗れたとはいえ準優勝です。
学校には胸を張ってご報告してください。
お疲れさまでした。

さて、下関国際高校がある下関と言えば、昔からフグが有名です。
でも何故、下関がフグの町となったのでしょうか?
今日はその経緯について調べてみました。

「フグは6000年前から食べられていた」
日本人はふぐ料理が大好きだと思いますが、6,000年前の縄文時代の人たちも他の魚や貝とともにふぐを食べていたようであり、貝塚からたくさんのふぐの骨が出土しているということです。

「フグ食禁止令」
しかし、そのフグも食べることを禁止された時代がありました。
それは豊臣秀吉の時代です。
安土桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本各地から下関(九州の唐津という説もあり)に集まった兵士たちの中に、フグを食べて中毒死する兵士が相次ぎました。
ふぐに毒があることを知らない兵士たちが、ふつうの魚のように調理して内臓まで食べてしまったようです。
慌てた秀吉は、立て札にふぐの絵を描かせ、「この魚食べるべからず」とふぐ食禁止令を出したと言われています。

禁止令は江戸時代になっても続き、各藩でふぐ食禁止の取り締まりが行われました。
中でも武士への罰則はとても厳しく、ふぐを食べて中毒死した場合には、家禄没収・家名断絶の厳しい処分が下されました。

しかし、ふぐ料理が発展したのもこの時代です。
運が良ければ美味満喫、運が悪ければ死という、まさに死を覚悟してのふぐ食でした。
そのおいしさから、幕末の志士をも魅了する食材であったフグは、厳しい取り締まりの中でも、おいしさのあまりこっそりと広がっていたようです。



「ふぐ食解禁」
明治時代になっても全国的にふぐ食は禁止されたままでしたが、それを解禁したのは、松下村塾で学び、初代総理大臣になった伊藤博文でした。
1888年(明治21年)、伊藤博文は下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)に宿泊しました。
その日は時化で魚がまったく取れず、困り果てた女将さんは、打ち首覚悟でふぐをお膳に出したのだそうです。

ところが、ふぐを食べた伊藤博文はそのおいしさに感動し、山口県知事にふぐ食解禁を働きかけました。
その結果、山口県下ではふぐ食が認められたのです。
こうして、春帆楼はふく料理公許第一号店になり、下関はフグと共に発展していきました。

「フグと言えば下関」
ふぐ食解禁の舞台になった下関は大正時代からふぐの集積地になりました。
そして、ふぐ食が盛んになったことから、「下関といえばふぐ」が定着しました。
戦後、下関がふぐの漁獲量日本一になった時期もありましたが、次第に漁獲量が減少し、今では水揚げ量トップ3にも入っていません。
それでもふぐの街と言われるのは、下関が日本一のふぐの集積地になったからです。

下関には全国で唯一、ふぐを専門に取り扱う市場の「南風泊市場(はえどまりしじょう)」が設置されました。
この市場はふぐのセリや毒のある部分を除く解体作業、加工など、ふぐの取引に関することに特化した市場です。
こうして下関は、ふぐ取扱量が全国一位の街となり、現在に至っています。

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人懐っこい「シオカラトンボ」

2022-08-22 | 家庭菜園

先日、畑の草取りをしていると、シオカラトンボが飛んできました。
しゃがんで草を取っていた私のすぐ傍に来て、籠の縁に止まったのです。
その籠は、取った草を入れるために私の横50センチほどのところに置いていたのですが、シオカラトンボは私を恐れることもなく、その縁に止まって翅を休めていたようです。

撮影のために立ち上がってスマホを出しても逃げる様子はなく、むしろ撮影に協力するかのように、向きを変えたり、翅を羽ばたいたりしてくれました。
このシオカラトンボはしばらく止まっていましたが、私が草を取り始めると飛んでいきました。
数日前には置いていた麦わら帽子に止まったこともありましたが、シオカラトンボって意外と人懐っこいトンボなのですね。

・籠の縁に止まったシオカラトンボです。


「シオカラトンボ(塩辛蜻蛉)」
シオカラトンボの生態を調べてみました。
シオカラトンボはトンボ科に属する昆虫で、湿地帯や田などに生息する中型のトンボです。
平地の湿地やため池にいるごく普通な種で、市街地などにも広く見られるため、日本では最もよく親しまれているトンボだということです。
体長は50-55mm、後翅の長さは43mm前後の中型のトンボで、雌雄で大きさにはあまり変わりありませんが、老熟したものでは雄と雌とで体色が著しく異なっているようです。
雄は老熟するにつれて体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となります。
一方、雌や未成熟の雄では黄色に小さな黒い斑紋が散在するので、俗にムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)とも呼ばれます。

・前の画像より14~15cm前に進んで休んでいるシオカラトンボです。


「名前の由来」
シオカラトンボは漢字では「塩辛蜻蛉」と書きますが、食品の塩辛とは関係がありません。
成熟したシオカラトンボのオスは、腹部背面が灰青色で、少量の白粉を生じており、塩が吹いているように見えることからこの名付けられたようです。

成虫は春の中頃から初秋までの4月~10月にかけて活動することから、まだ暫くの間はこのような体験ができるかも知れません。
家庭菜園の楽しみの一つになりました。

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3つ叱って5つ褒める

2022-08-20 | 雑学

先日の夕刊のコラムに次のような記事が載っていました。

「コラム」
学生に甘い先生と辛い先生、どちらが好ましいか?
続いて、湯川秀樹博士の「甘さと辛さ」を比較したエッセーが記されており、それによると、思ったより良い点をつけてくれた先生には学生が好感を持ち、ひいてはよく勉強するようになる場合が多い。よって「点の甘い方が教育的効果は大きそうに私は思える」とありました。

更に続けて、
  「3つ叱って5つ褒め、7つ教えて子は育つ」
という子育ての要諦を溶く諺を紹介していました。
この意味は、「子を育てるには叱るのは少しにして、ほめたり教えたりすることを多くするのがよい」ということです。
昔から「子供は褒めて育てる」と言いますが、正にこの諺を言い伝えているようです。

「二宮尊徳の名言」
褒めて育てる名言は二宮尊徳にもあります。
昔、小学校の校庭には二宮金次郎(尊徳)の像が必ず立っていました。
彼の銅像は背中に薪を背負い、両手で本を開いて勉強している姿でした。

そんな二宮金次郎(尊徳)が残した名言は、
 「可愛くば 五つ教えて 三つほめ 二つ叱って 良き人にせよ」
です。
この意味は、「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず良いところを三つ見つけて、それを褒める。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という意味です。

褒めるだけでは駄目になるし、叱るだけでも相手が駄目になる。
二宮尊徳は、この配分によって人は良い人材に育つと言っているのです。

・山本五十六の名言です。


「山本五十六の名言」
更に山本五十六も名言を残しています。
山本 五十六といえば、大日本帝国海軍軍人で、太平洋戦争開戦時の際の連合艦隊司令長官を務めた人です。
彼は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦をはじめとした歴史的にも有名な作戦を指示したことでも有名ですが、アメリカと日本の実力差を熟知していたことから、最後まで戦争に反対していたと言われています。

その山本 五十六が生前、口にした数々の名言の中でも、特に有名なのが
やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ
です。

現代風に言えば、
「先ず、自分がやって見せて、しっかり説明をして理解してもらい、その後、実践させてみる。そしてそれを褒めてやらなければ、人を動かす事はできないよ」
というところでしょうか。

山本 五十六は軍人として多くの部下を統率してきた経験から、この名言は「いかにして人を動かすか」の本質を身につけた貴重な言葉であり、多くの経営者や指導者の格言としても知られています。

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積乱雲3兄弟

2022-08-18 | 雑学

当地(大阪南部熊取町)では、昨日未明に久しぶりに本格的な雨が降りました。
カラカラに乾いていた畑はたっぷりと雨が浸みこみました。
このような雨は約1か月ぶりくらいだったのではないでしょうか?
これで畑の作物も一息つけます。

ところで、7日が立秋で、暦の上では秋になっていますが、日中の暑さは連日35度前後の猛暑が続いています。
数日前までは、空を見上げると真夏の特徴的な雲「積乱雲(入道雲)」が毎日見られ、依然として夏真っ只中と言った日々でした。
早く秋の気配が感じられる気候になってほしいと思っているところです。

ところで、突然ですが「丹波太郎」と言う名前をお聞きになったことがありますか?
丹波哲郎の家族ではありませんよ。
丹波太郎には弟がいて、次男を「山城次郎」と言い、三男を「比叡三郎」と言います。
今日はこの3兄弟をご紹介したいと思います。



「積乱雲(入道雲)3兄弟」
丹波太郎、山城次郎、比叡三郎の3名は、実は、人の名前ではなく、京都で発生する入道雲の名前なのです。
積乱雲と呼ばれる入道雲は、夏に雷を起こし、激しい夕立を降らせます。
京都では、この積乱雲が現れる方角ごとに雲を擬人化して、名前がつけられているようです。
今日ご紹介する3名は積乱雲の名前なのです。

「長男:丹波太郎」
先ず長男の丹波太郎は、京都盆地から見て北西に位置する丹波高地から、京都市内に流れ込んでくる積乱雲のことを言います。
愛宕山の方から底が黒い雲が顔をのぞかせたら、長男のお出ましです。
雷を伴い、いわゆるゲリラ豪雨をもたらして、大暴れするおそれがあります。
長男は一番高い山を越えてくることから威力も一番激しく、京都盆地では衰えず、大津市まで進んで豪雨をもたらすこともあるということです。

「次男:山城次郎」
次男の山城次郎は京都の南東、奈良盆地で発生し、山城地域を通って北進する積乱雲(入道雲)のことです。
夏の高気圧が張り出し、かつ東シナ海付近に低気圧がある時にやってきます。
このとき、上空5000メートル付近は南~南東の風が吹き、奈良県北部で発生した積乱雲が流れてくるのだそうです。

「三男:比叡三郎」
三男の比叡三郎は北東の比叡山や比良山系でわき立ち、南へ攻めてくる積乱雲です。
この積乱雲も次男と同じく、夏の高気圧が張り出し、かつ東シナ海付近に低気圧がある時に、滋賀県南部で発生した積乱雲が流れてくるのだそうです。

京都市は、全国的に見ても夏の雷が多く、昔からこれらの積乱雲3兄弟が、それぞれ名前の方角から京都をめがけて来襲し、激しい集中豪雨をもたらすことから、突然の雷雨に注意を促しているということです。
もし、この太郎や次郎、三郎らに遭遇して土砂降りの雷雨になってしまったら、なるべく頑丈な建物の中に入って、彼らが去るのを待ってください。
たいてい20~30分ほどで通り過ぎてくれるという事です。

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慶事は奇数、弔事は偶数

2022-08-16 | 雑学

今日のタイトル「慶事は奇数、弔事は偶数」とは、一体何のことなんだ?
と思われたのではないでしょうか?
実は、ご祝儀などを包むときの金額のことなのです。

一昨日、長男一家が盆休みで帰省しました。
その長男の孫娘が今月14歳になることから誕生祝を渡したのですが、その時、奇数金額か偶数金額かを調べたので、このタイトルでブログを書くことにしました。

「偶数額と奇数額」
日本では昔からのしきたりに縁起を担いでいるものが多く、祝儀・不祝儀の数字もこれに当てはまります。
行事や祝いごとに関する数字には奇数がよく使われており、慶事のご祝儀にも奇数の金額を包むのが一般的ということです。

ただし慶事の奇数の中にはいくつかの例外もあります。
例えば2万円は偶数ですが、夫婦一対になぞらえて結婚祝いには良しとされています。
8万円も同じ偶数ながら、末広がりで次第に栄えていくことを意味するのでおめでたいとされています。
逆に奇数でも9万円は「苦」を連想させる忌み嫌われる数字なので、お祝い事にはタブーとなっています。

因みに友人や知人の結婚披露宴に招待されたら大体2~3万円を包むと相場が決まっています。
但し、2万円の場合は2で割り切れないように1万円と五千円札2枚と包む地域もるようです。
また地域によって仕来たりが違うので、最終的にいくら包めばよいかは、なるべく地域の知人に確認を取りそれに沿った方が無難ということでした。

私の孫には奇数金額を渡しましたが、もらう本人は奇数、偶数のどちらでもいいので、多い金額が欲しいという思いのようでした。

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床の間は何のため

2022-08-14 | 雑学

お盆で、ご子息やご令嬢、お孫さんたちが帰省されて、久しぶりの再会を喜び合われたことでしょう。
中にはお客様も来られたご家庭もあるかと思います。
皆さまはお客様が来られたらどちらの部屋にご案内されますか?
床の間があって、座卓が置かれている部屋でしょうか?
それとも応接セットが置かれている洋室でしょうか?
最近では後者の応接セットのある洋室にお客様をお通しするご家庭が多いのではないでしょうか?

そのためかどうかわかりませんが、最近の建売住宅や新築住宅には床の間が作られていない家が目立ちます。
我が家の隣地に数年前に建築された戸建て住宅は若い夫婦が建てたものですが、完成時の内覧会で見学したところ、床の間は作られていませんでした。
そこで今日は床の間にはどの様な意味合いがあるのか調べてみました。

「床の間の本来の意味や目的」
昔ながらの家や田舎にある大きな一軒家など、いわゆる日本家屋にはほぼ床の間があります。
床の間とは、床を一段高くし、正面の壁に書画などの掛け軸をかけ、床板の上に置物、花瓶などを飾るところです。

「床(とこ)」とは、座る場所や寝る場所のことを指し、殿様など身分の高い人が座る場所を一段高いところにしていたのが始まりと言われています。
床の間はお客様をおもてなしする最上の部屋に作られ、床の間を背にする人が最も身分の高い人と言われています。
江戸時代には、領主など自分よりも身分の高いお客様を迎え入れるために、庶民の家にも床の間が作られるようになってきました。

また、床の間に装飾を施すことにより、自分の権威を演出していたそうですが、時代の流れとともに目的は変わり、現在では掛け軸や生け花などを飾って、お客様をもてなす部屋という位置づけになってきています。



「床の間の役割」
床の間には「客人をもてなす」という大切な役割があります。
床の間に季節の花や掛け軸、書画を飾ることは、お客様をおもてなしする心のあらわれであり、現在では、そのことが最大の目的となっているようです。
また、床の間のある方が上座となり、来客者には床の間に近い方へ座って頂くのがマナーとなります。

「床の間の成り立ち」
室町時代、社会が公家から武家へと移り変わると、建築様式も寝殿造りから書院造りへと変化していきました。
書院造りが確立する過程で、身分の上下を表す「上段の間」と「下段の間」ができました。
上段の間には君主が着座し、家臣と対面します。
家臣は1段低くなっている下段の間に着座し、家臣の中でも身分の高い者ほど上段の間に近い所へ着座する事ができました。
この上段の間が「床の間」へと変化を遂げるのですが、床の間に近い方を上座とするのは、この時の習わしから来ています。
やがて家臣が忠誠心を表すため、君主が着座する上段の間を自身の自宅にも取り入れるようになりました。

床の間はお客様をおもてなしする部屋であり、日本家屋において特徴のある作りとなっています。
大事なお客様は床の間のお部屋でおもてなししたいですね。

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富士山の山頂は何県?

2022-08-12 | 雑学

昨日は「山の日」で祝日でした。
登山をされた方も多いと思います。
中には富士山に登られた方もいらっしゃるでしょう。

静岡県と山梨県にまたがる標高3776mの日本一高い山、富士山。
富士山には静岡県側から見る「表富士」と山梨県側から見る「裏富士」があります。
どちらから眺める富士山も観光客には人気で、両県にとっては重要な観光資源となっています。
2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という名称で世界文化遺産にも登録されており、日本だけでなく世界的にも有名な山となっています。

富士山には、飛鳥時代の663年に修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が伊豆の島から夜に海の上を走ってやってきて富士山に登り、朝には戻っていった、という伝承や、聖徳太子が甲斐の黒馬に乗り、空を飛んで駆け上がったといった伝承が残っています。
それから現在に至るまでの約1360年もの間、多くの人が山頂を目指して富士山に登っていますが、私は宝永火口まで行っただけで、山頂には一度も登ったことがありません。



「富士山頂は何県?」
ところで、富士山を分かつ県境は国土地理院の地図によって定められているのですが、でも山頂はどちらの県になるのでしょうか? 
結論から言えばどちらの県にも属しません。
実は富士山の山頂は現在「富士山本宮浅間神社」の所有と言うことになっています。

「富士山本宮浅間大社」
富士山本宮浅間社の御由緒によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。
第11代垂仁天皇はこれを憂い、垂仁天皇3年(紀元前27年)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められたことが、浅間大社の起源とされています。

古来、噴火を繰り返す富士山は「神が宿る山」として畏れられ、遙拝の対象として敬われました。
激しく吹き上げる火焔は怒る神の姿であり、荒れた富士山を鎮めるために山麓に浅間大神を祀ったのが、富士山本宮浅間大社であり、山頂は麓にあるこの神社の奥宮です。
従って、所有地と言うよりも飛び地の境内と言った解釈が相応しいかも知れません。

「山頂の所有権の推移」
山頂についてはその所有権を巡って古くから争いが繰り返されています。
江戸時代には甲斐と駿河の間で幕府を巻き込んでの争いに発展しました。
明治時代においては一度、浅間神社の管理になっていたものを政府が太政官布告などによって国有地としています。
昭和49年(1974年)には静岡県、山梨県、浅間神社の3者で所有権を巡って裁判が起きました。
そして、最高裁の判決で浅間神社の所有権が認められました。

裁判から30年後の平成16年(2004年)12月、富士山8合目以上の土地約400万平方メートルのうち約96%に当たる385万平方メートルが神社の私有地であることを認める「譲与処分書」が国と神社の間で取り交わされて一件落着しました。
富士山頂は国が「無償譲与」と言う形で神社に譲渡し、名実ともに浅間神社の土地になったという訳です。

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