らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

孫のピアノ発表会

2013-03-31 | 地元紹介

〽 なんでこんなに 可愛いのかよ
  孫という名の 宝もの
  じいちゃんあんたに そっくりだよと
  人に言われりゃ 嬉しくなって
  下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔

御存じ、大泉逸郎の「孫」ですが、この歌は祖父母の気持ちをよく表していることから私の大好きな歌の一つです。
今日は親バカならぬ、爺バカを発揮して、孫の話題を取り上げます。

今年幼稚園の年中組になる孫娘は昨年秋からピアノ教室に通っています。
その教室を始めとする和歌山市内のピアノ教室が合同で行うヤマハ音楽教育システムの合同発表会 “わくわくコンサート”が和歌山市民会館小ホールで行われたので聴きに行ってきました。

・“わくわくコンサート”のプログラムです。


孫娘は「幼児科1年目」のクラスに在籍しており、このクラスの5人がプログラム3番目の「ランランピクニック」という曲を数小節ずつ交代で演奏するものです。

・孫が演奏したプログラムの三番目です。


まだ右手だけの演奏ですが、一生懸命弾いていました。

・上のエレクトーンを引いているのが孫です。


自分の弾くパートが過ぎるとよそ見をしていました。



一曲だけの演奏ですが、個人個人の受け持ちパートは4~5回あったように思います。


・演奏が終わると司会者のところに集まります。そして一人ずつ名前を紹介されていました。


出演した23番グループ全ての演奏が終わると、幼児科1年目、幼児科2年目、ジュニア科1年目、ジュニア科2年目の4グループに分かれ、全員が歌と踊りを披露してくれました。

・孫が所属している幼児科1年目の歌と踊りです。


子供たちの素直な表情や一挙一動はとても好感がもてますね。
大泉逸郎の歌ではないですが、「なんでこんなに 可愛いのかよ」と思う気持ちが分かるような気がします。
こんな思いも、孫が7~8歳になるまででしょうね。
爺バカ記事で失礼しました。

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巨人の星

2013-03-30 | 雑学

甲子園球場では球児たちのきびきびとしたプレーにセンバツ高校野球が盛り上がっています。
一昨日は春夏春と3連覇を目指す大阪桐蔭高校が1回戦を二ケタ得点で勝ち上がっています。
一方、プロ野球も昨日から公式戦が開幕し、ひいきチームの勝敗に一喜一憂する毎日がスタートしました。

野球と言えば、昔、テレビのアニメドラマで「巨人の星」がありましたが御記憶でしょうか?
私は時々観ていた程度でしたが、主題歌は今でも歌えます。

   「巨人の星」 主題歌
〽 思いこんだら  試練の道を
  行くが男の  ど根性
  真っ赤に燃える  王者のしるし
  巨人の星を  つかむまで
  血の汗流せ  涙をふくな
  行け行け飛雄馬  どんと行け

巨人の星は昭和43年(1968年)3月30日から昭和46年(1971年)9月18日までよみうりテレビ系で放送されたスポ根ドラマです。
スポ根(スポこん)とは、「スポーツ」と「根性」を合成した語で、日本のマンガ、アニメ、ドラマにおけるジャンルの一つで、このジャンルの作品を「スポ根漫画」とか「スポ根アニメ」、「スポ根ドラマ」と呼んでいるものです。

このアニメドラマは、星一徹と飛雄馬の父子特訓から、ライバル達と出逢い甲子園での激闘、巨人入団後に大リーグボールを開発して更なる激闘、左腕が崩壊し完全試合を達成、父子の闘いの終焉までが描かれています。

・「巨人の星」の星飛雄馬です(ネットより)


「巨人の星 あらすじ」
星飛雄馬は元巨人の選手だった父・一徹のスパルタ教育と大リーグボール養成ギブスによって、正確無比なコントロールト豪速球を誇る投手に成長した。
彼等の夢は巨人軍に入団し、その中で一きわ輝く「巨人の星」となる事だ。
高校進学後、甲子園出場を果たすも不慮の怪我で準優勝に終わり、そのことが原因で起こったトラブルで高校を中退してしまう。
しかし巨人入団への夢を諦めない飛雄馬は自ら入団テストを受け見事合格する。

やがて1軍入りを果たすが、飛雄馬の小柄な体格ゆえの致命的な欠点(球質の軽さ)を暴かれてしまうが、それに挫ける事なく魔球「大リーグボール1号」や「2号」を生み出し、ライバル達との死闘は繰り広げられた。
そして禁断の魔球「大リーグボール3号」を生み出した事で飛雄馬の左腕は破壊寸前となってしまう。

その最後のマウンドは、対中日ドラゴンズ戦で、後にコーチとなった父と親友との対決だった。
彼等の魔球打倒策を封じ、見事パーフェクトゲームを達成するが、最後の一投の瞬間・ついに左腕は破壊してしまう。
数日後、自ら球界から姿を消した星飛雄馬は、新たな「星」を探しに何処となく去っていくのであった。

この原作者は梶原一騎氏であり、1960年代後半から1970年代まで、彼を始めとする漫画家の「スポ根」マンガは全盛期だったように思います。

昨日から今年のプロ野球公式戦が始まりました。
今年は期待される高校生ルーキー達が一軍登録されて出番を待っています。
星飛雄馬のような「巨人の星」は出現するのでしょうか?

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八百屋お七

2013-03-29 | 雑学

「八百屋お七(しち)」という人物を御存じでしょうか?
「八百屋お七」とは、八百屋の娘・お七のことで、放火の罪で火あぶりの刑に処せられましたが、今日は彼女が鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられた日だそうです。

今から330年前の1683(天和3)年の3月29日、18歳の八百屋の娘・お七が、3日間の市中引回しの上、鈴ヶ森刑場にて火あぶりの極刑に処せられました。
お七は、その前年の天和2年12月28日の大火で、避難した寺で出会った寺小姓の生田庄之介のことが忘れられず、火事になればまた会えると考えて3月2日の夜に放火しました。
当時、放火の罪は火あぶりの極刑でしたが、17歳以下ならば極刑は免れることになっており、奉行はお七の刑を軽くする為に「おぬしは17だろう」と問いますが、その意味がわからなかったお七は正直に18歳だと答えてしまい、極刑に処せられたそうです。

お七が丙午「ひのえうま」年の生まれであったことから、その後、丙午生まれの女子は気性が激しく、夫の命を縮めると言う迷信が生まれ、現在でも信じられています。

・八百屋お七です。(ネットより)


(参考)
「八百屋お七」放火のあらまし
お七は江戸本郷で八百屋を営む父・市左衛門の次女として生まれ、平凡に暮らしていましたが、ある日この八百屋が火事になり、一家は本郷の正仙院に避難します。
ここでお七は生田庄之助という20才の男と出会ってから、たちまち恋に陥ってしまい、寺内で庄之助との逢瀬を重ねていました。
暫くして八百屋の再建が終わると、お七は実家に帰ることになり、今までのように庄之助に会えなくなりました。

会いたい気持ちが抑えられなくなったお七の脳裏に、「もう一度家が火事になればまた会える」と、思いついたようです。
(但し、この説には異説があって、寺の門番の息子でお七の恋を取り持つと言っては小遣いをせびっていた吉三郎が「実家がもう一度燃えたらまたここで避難生活をして庄之助に会える」と、そそのかしたとの説もあるようです。)

お七の頭の中は、生田庄之助に会いたい一心で他の事が考えられなくなっていました。
そして、自宅の物干し台に上がり、油を注いだ柴木に火をつけ再建出来たばかりの自宅を再び火にかけてしまったのです。

火は瞬く間に広がり、自宅だけでなく江戸中が火の海になり死傷者で埋まると言う悲劇が起こりました。
18歳の娘お七が恋心のために犯した放火の罪は余りにも代償が大きすぎ、奉行の計らいも通じず、極刑に処せられたものです。

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忘れな草

2013-03-28 | 

中世ドイツの伝説です。

「伝説」

昔、騎士ルドルフと恋人ベルタが暖かい春のタべ、ドナウ川のほとりを散策していました。
ベルタは、河岸に咲く青い小さな花を見つけ、ルドルフにその可憐な花を採って欲しいと頼みました。
彼は岸に降りて行き、その花を手折(たお)った瞬間、足を滑らせて急流に巻き込まれてしまいました。
急流に流されながらも、ルドルフは最後の力を振り絞って花を岸辺に投げ、『私を忘れないで』と叫び、そのまま流れに飲まれてしまいました。
残されたベルタはルドルフの墓にその花を植え、彼の最期の言葉をこの花の名前にしました。

この悲恋伝説が由来とされるこの花は"Vergissmeinnicht"(フェアギス マイン ニヒト:忘れな草)と呼ばれ、英名でも、"Forget-me-not"、和名では「ワスレナグサ」と呼ばれています。

その「ワスレナグサ」を先日、長池公園散歩コースで見つけました。



「ワスレナグサ(勿忘草)」はムラサキ科ワスレナグサ属の多年草で、早春に地下茎から芽を出し、やがて小さな青紫の花を咲かせます。
原産地はヨーロッパ、アジアで、日本には明治時代に園芸業者が輸入したのが最初と云われています。



この忘れな草の名前の由来は冒頭にご紹介した伝説の他に別説もあるようです。

「他説」
アダムが楽園の植物すべてに名前をつけ終わると、植物がそれぞれの名を覚えているかどうかを調べて回るため、神はアダムを連れて園内を巡回しました。
しかし、この青い小さな花だけが、うなだれて申しわけなさそうに小声で「忘れました」とお詫びしました。
神は、この小さな花を哀れんで「自分の名を忘れたからとて気にすることはない。しかし、私を忘れてはいけないよ」と慰めて、改めて「忘れな草」の名を与えたとされる説です。



名前の由来は兎も角、忘れな草と言えば、昔、倍賞千恵子や菅原洋一が歌ってヒットした歌に「忘れな草をあなたに」があります。
1番の歌詞を書いておきますので、御存じの方は口ずさんでみては如何でしょうか?

   忘れな草をあなたに
1. 別れても 別れても 心の奥に
  いつまでも いつまでも  
  おぼえておいて ほしいから
  しあわせ祈る ことばにかえて
  忘れな草を あなたに あなたに

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桃の花

2013-03-27 | 家庭果樹

東京を始め各地で満開のサクラ便りが届いています。
近畿では昨日和歌山で満開になったとのニュースが流れていましたが、大阪はまだ5分咲きから7分咲きだと言うことです。
私が住まいしている大阪南部の熊取でもまだ5分咲き程度で、今週の土日から来週初め辺りが見頃になりそうです。

我が家では桃の花が今丁度見頃となっています。
暫く硬い話題が続いたので今日は桃の花で和んでいただきたいと思います。

・ほぼ満開となった桃の木です。


この桃は樹齢27年になる白桃です。
老木ですが毎年たくさんの蕾をつけ、果実を生らしてくれます。

・桜も綺麗ですが、ピンク色の桃の花もとても綺麗です。


蕾の先が赤色からピンクに変わると翌日には開花します。



桃には古くから邪気を祓う力があると考えられています。
古事記には、イザナギノミコトが桃を投げつけることによって鬼女(黄泉醜女:よもつしこめ)を退散させ、その功績により、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたと記されているそうです。
桃から生まれた桃太郎が鬼を退治すると言う『桃太郎』の民話は、この古事記の記述が元になっていると云われています。

・傍で見る桃の花は美しく艶やかで、桜とは違う魅力があります。



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至誠惻怛(しせいそくだつ)

2013-03-26 | 雑学

現役時代の同期30名が集合した先日の同期会では、司会者の求めに応じて、詩吟を披露する人や、ハーモニカ演奏をする人、第46回政経文化画人展で「芸術議員連盟副会長賞」を受賞したW君の絵画の話、陶芸で個展を開いたM君など、リタイア後の同期諸君の活動状況が紹介されました。
そのような中で、独身時時代に寮で相部屋だったO君が「至誠惻怛(しせいそくだつ)」と言う四文字熟語を披露してくれました。

「至誠惻怛(しせいそくだつ)」という熟語は初めて聞く言葉だったので調べてみました。
この言葉は河井継之助が幕末期の儒家・陽明学者のひとりである山田方谷(やまだほうこく)に師事した際、方谷から贈られた王陽明(1472-1529年)の一節だそうです。

・山田方谷です(ネットより)


「至誠惻怛」
「至誠惻怛(しせいそくだつ)」の「至誠」は極めて誠実なことで真心を意味し、「惻怛」というのは痛み悲しむ心の意味です。
即ち、この熟語は、まごころ(至誠)と痛み悲しむ心(惻怛)があればやさしく(仁)なれる。そして目上には誠を尽くし、目下にはいつくしみをもって接するのです。心の持ち方をこうすれば物事をうまく運ぶことができると言います。
つまり、この気持ちで生きることが、人としての基本であり、正しい道なのです。
孔子、孟子の教えを会得してなお足らざるところが、この「至誠惻怛」(しせいそくだつ)の教えと解するが良いと。

「山田方谷(やまだほうこく)」
山田方谷と言う名前を初めて聞いたという方が多いと思いますが、この人は幕末、15代将軍・徳川慶喜の主席老中である備中松山藩主・板倉勝静を助けながら、「貧乏板倉(備中松山藩:現岡山県高梁市)」と言われた藩をわずか8年で、財政再建を行うとともに、教育改革、軍政改革等を行った、政治家・実践派の財政家なのです。
また、板倉勝静が主席老中になると、江戸へ出て将軍・徳川慶喜を助け、「大政奉還」の上奏分などを起草した江戸幕府の政治顧問でした。
更に、大正天皇の侍講(じこう:東宮職の進講を司る職員)である三島中洲(みしまちゅうしゅう)や「峠」(司馬遼太郎著)の主人公である河井継之助、宮中顧問官で明治三大文宗の一人である漢文学の泰斗(たいと:その道の権威者)・川田甕江(かわたおうこう)ら優れた人材を育てた教育者であり、幕末期を代表する陽明学者だったようです。

なお、山田方谷の藩政改革は江戸時代の藩政改革で有名な上杉鷹山をはるかに凌ぐ真の改革者とも言われており、後日改めてご紹介します。

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難波神社

2013-03-25 | 地元紹介

地下鉄御堂筋線の本町駅から南へ300mほど行ったところに難波神社があります。

この神社の創建は反正天皇(はんぜいてんのう)元年(406年)と伝えられ、主祭神は仁徳天皇、配祀は素盞嗚尊(すさのおのみこと)、倉稲魂尊(うがのみたまのみこと)です。
難波の名称がつけられていますが、昨日ご紹介した生國魂神社(難波大社)とは別で、昔は当地を上難波村と言っていたことから、この神社を「上難波神社」又は「仁徳天皇社」と称していたようですが、1875年(明治8年)に現在の「難波神社」に改められたそうです。



御由緒によれば、反正天皇(はんぜいてんのう)が大阪府松原市に柴籬宮(しばがきのみや)を開かれたとき、父帝の仁徳天皇をご祭神として創建されたと伝えられています。
その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)に現在地に遷座しました。

・本殿は、先の大戦の空襲で全焼し、1948年(昭和23年)より仮宮となっていましたが、1974年(昭和49年)に再建されたのだそうです。


「御神木」
御神木の楠は、樹齢400年以上、幹3.2m、高さ12mです。
戦災で火傷を負いながらもたくましく生き抜いた市内中心部で最古の楠だそうで、昭和43年(1968年)には大阪市の保存樹第一号に指定されています。



「十四柱相殿神社(じゅうよんばしらあいどのじんじゃ)」
この神社は境内の東南隅にある末社で、以前は数社に分れてお祭りしてあったようですが、火災、模様替え等により末社の移転、併合が行なわれ、1888年(明治21年)に鉾蔭(ほこかげ)神社、安邦(やすくに)神社の祭神を六柱相殿神社へ合祀して、十四柱相殿神社と改称したそうです。

御祭神は向って左側が豊臣秀吉公、菅原道真公、楠 正成公、徳川家康公
           中央が豊受姫(とようけびめ)大神、天照皇大神、應神天皇
           右側が水波能女(みずはのめ)大神、春日四柱大神、猿田彦大神、迦具土(かぐつち)大神だそうです。


17日からご紹介している大阪の名所史跡は今日で終わりますが、大阪市街の中心部にこのようにたくさんの神社が鎮座しているとは知りませんでした。
地元の歴史に一段と関心が湧いてきたように感じます。

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生國魂神社

2013-03-24 | 地元紹介

谷町9丁目近くに、初代の天皇である神武天皇が自ら大神をお祀りし、国土平安を祈請されたとされる生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)があります。
今日は地元で生玉(いくたま)さんとして親しまれているこの神社をご紹介します。

「生國魂神社」
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は「難波大社(なにわのおおやしろ)」の尊称をもって広く朝野の信仰を集め、明治には官幣に列せられるなど、国土の守護神、そして大阪の総鎮守として崇敬されている神社です。

社伝によれば、
初代神武天皇が九州より東征の旅に発たれ、瀬戸内海を通り、航海の終着地点である難波津(後の石山碕=現在の大阪城付近)に着岸された際、その地に国土の平安を願い天皇自ら「大八洲國の国魂(日本列島のそのものの御神霊)」である生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神をお祀りされたのが創祀と伝わっています。
本殿の高さが20mもある生國魂神社(難波大社)は、平安時代には出雲大社、熊野大社と並ぶ3大社のひとつとして崇敬されたそうです。



「生國魂造」
本殿は、「生國魂造」という他に類を見ない建築様式になっています。
本殿と幣殿を一つの流造りでふきおろし、正面の屋上に千鳥破風・すがり唐破風・千鳥破風の3破風をすえているものです。
なお破風(写真で金色のマークがついているように見える部分)とは、屋根が強風で飛ばないように抑える役目を果たしているもので、「生國魂造」では屋根があまりに大きいために3つあるそうです。

・生國魂神社HPより


「生国魂神社拝殿」
社殿は明治45年の『南の大火』、1945年(昭和20年)の戦災による消失、1950年(昭和25年)の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返しています。
現在の社殿は1956年(昭和31年)に建立されたもので、生島大神・足島大神を主祭神とし、相殿に大物主大神を祀っています。



「皇大神宮」
天照皇大御神をお祀りしています。



本殿の脇には11社の境内社がありますので、その内の一部をご紹介します。
「浄瑠璃神社」
浄瑠璃神社は、近松門左衛門を始め、文楽関係諸霊をお祀りする文楽の守護神として信仰されています。
近松門左衛門の「曽根崎心中」はこの神社が舞台となっているそうです。



「鞴(ふいご)神社」
鞴神社は、鞴(ふいご)の神・鍛治の神を祀り、製鉄、機械工具などを扱う金物業界の守護神として篤く崇敬されています。



「家造祖神社」
家造祖(やつくりみおや)神社は、家造の祖神をお祀りする全国唯一の神社です。
大阪城築城の際にも御神徳を発揚され、現代では特に建築関係者に篤く崇敬されているようです。


井原西鶴像
「好色一代男」等を著した井原西鶴は俳人としても有名で、当社の境内で一昼夜をかけて矢数俳諧を行い、一人で4000句を詠みあげたそうで、その偉業をたたえ、南坊跡に西鶴の座像が建てられました。

・西鶴は1680年(延宝8年)5月、「生玉神社南坊」で一昼夜独吟四千句を興行したそうです。後ろの碑は「南坊」の所在跡を示す石碑です。


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四天王寺(2)

2013-03-23 | 地元紹介

昨日に続き四天王寺をご紹介します。

四天王寺の伽藍配置は大陸の影響を色濃く受けた「四天王寺式伽藍配置」といわれるもので、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式となっており、日本では最も古い建築様式のひとつだそうです。

全敷地面積33,000坪、甲子園球場の3倍の広さをもつ四天王寺の境内には、聖徳太子を祀っている「太子殿」や、近畿三十六不動尊第一番の霊場の「亀井不動堂」、日本庭園の「極楽浄土の庭」など、たくさんの見どころがあります。


「中門(仁王門)」
中門は中心伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)をまつっていることから一般に「仁王門 」とも呼ばれています。
東側(右側)が那羅延(ならえん)金剛力士、西側(左側)が密迹(みっしゃ)金剛力士で、大仏師・松久朋琳(まつひさほうりん)・宗琳(そうりん)両師の作です。

・この中門から五重塔、金堂、講堂まで一直線に伽藍配置がされており、回廊はこれを囲む形式となっています。

                                                                                        

「中心伽藍回廊」

四天王寺の廻廊は仁王門の左右から出て講堂の左右に取り付き、閉じています。
柱は法隆寺廻廊の柱と同じくエンタシス様式(中央部でややふくらんでいる胴張り)となっています。

「北鐘堂」
北鐘堂の正式名は「黄鐘楼(おうしきろう)」といいます。
往時はこの鐘の調べにあわせて、近くの石舞台で天王寺雅楽が舞われたと伝えられており、雅楽などの基本の調を黄鐘調ということから、この鐘堂を黄鐘楼と言うそうです。
また、この鐘の音は祇園精舎の鐘の音と同じ響きを持ち、回向する時にこの鐘をつくと、その音があの世まで響き、極楽に居る先祖の心が和むと云い伝えられています。

・「北鐘堂」です。


「見真堂」
境内にある見真堂(けんしんどう)は浄土真宗の祖である親鸞聖人を顕彰して建立されたお堂です。
露座の親鸞聖人(見真大師(けんしんだいし)の御像は堂横に安置されているそうです。


「弘法大師修行像」
八世紀末、弘法大師空海は「四天王寺」に借住し、西門から夕日を眺めて瞑想する「日想観」を行いました。
「日想観」とは、西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法で、阿弥陀如来の極楽浄土を想念(そうねん)する観法(かんぽう)だそうです。



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四天王寺(1)

2013-03-22 | 地元紹介

先日、現役時代の同期会で久しぶりに大阪へ出かけたので、17日から市内の神社や史跡をご紹介しているところですが、6回目の今日は「四天王寺」をご紹介します。

「石鳥居」
四天王寺のこの鳥居は、元は木造でしたが、鎌倉時代の永仁2年(1294年)に四天王寺の別当であった奈良・西大寺の忍性(にんしょう)によって石の鳥居に建て替えられたと伝えられています。
その後、室町時代・江戸時代に補修されており、当時のまま残っているのは柱だけだそうです。

お寺に鳥居?
奇異に感じますか?
実は元来、鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたものであり、神社に限ったものではないそうです。

・この石鳥居は、吉野の銅の鳥居、安芸の宮島の木の鳥居と並んで日本三鳥居の一つに数えられており、重要文化財にも指定されています。


鳥居中央に掲げられている扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあり、これは『 お釈迦さまが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意です。
更にこの額は箕の形をしており「チリトリ」のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を表していると言うことです。



「四天王寺」
四天王寺は1400年前の推古天皇元年(593年)に建立されました。
『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願され、勝利の後、その誓いを果すために建立したと伝えられている、日本初の本格的な仏教寺院です。

・手前から金堂、五重塔、仁王門と一直線に並んでいます。


「西大門(極楽門)」
この門は極楽浄土への入口とされ、彼岸の中日には石鳥居の西側の海に沈む夕日を拝する聖地として、多くの人々の信仰を集めてきました。
往時は鳥居のすぐ外まで海で、ここから西海に沈む夕陽を拝し、その彼方にある極楽浄土を想ったと言われています。



「五重宝塔」
度重なる戦火転載により焼失しましたが、その都度再建を重ねました。
現在の塔は昭和34年(1959年)に8度目の再建がなされたものです。
塔の高さ39.0m、本瓦葺、鉄筋コンクリート造りですが、木造建築の優美さを伝え、飛鳥時代の創建当時の姿を再現しているそうです。
聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたことから、この塔を「六道利救の塔」と言うそうです。



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