らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

犬の老化サイン

2016-11-30 | 情報

ペットに犬を飼っているご家庭が多いと思います。
犬は可愛いですよね。
飼い主である主人の言うことをよく聞いてくれます。
そして、ストレスの溜まった私たちの心を癒してくれます。
愛犬にはいつまでも元気でいて欲しいのですが、犬にも老化があり、寿命があります。
犬の老化は、思った以上のスピードで進行するのだそうです。
そこで今日は犬の老化について調べました。

「犬と人の年齢比較」
下の図のように、犬の年齢は小型犬で人間の4~5倍、大型犬なら7~8倍のスピードで進行すると言われており、一般的に小型犬・中型犬で10歳、大型犬で7歳、超大型犬では5~6歳くらいから、老齢期を迎えるのだそうです。


「犬の老化のサイン」
犬は飼い始めて5年から10年ほど経つと、老化が始まります。
そこで犬の老化の見分け方についてご紹介します。
1.多くの犬は歳を取ると下を向き、とぼとぼ歩くようになります。 これは足腰や首などの筋力が落ち、背中が丸くなるからです。
2.聴覚が衰えます。所謂耳が遠くなってきます。 その症状は、名前を呼んでも反応しなかったり、飼い主が帰ってきたドアの音にも気付かずに寝ていたりします。
3.視覚が衰えてきます。 犬には人間のように老眼はありませんが白内障はあります。眼球が白く濁ってきてものが見えづらくなってきます。
  夜の散歩を嫌がるようになったり、歩いていてものにぶつかるようなことが続いたら要注意です。
4.臭覚が衰えてきます。 臭いが分かりづらくなったり、胃腸が弱ってお腹を壊しやすくなります。
5.適正体重を把握しておくこと。 老化で太りやすくなる場合と痩せていく場合があるので、適正体重を把握しておく必要があります。
6.咳がでやすくなる事もあります。 もし首輪が負担になるようであれば胴周りも同時に締めるタイプのハーネスに替えることも一つの方法です。

「老化を迎えた犬のケア」
老化が進むと犬も人と同様に、体が思うように動かなくなったり、これまでできていた簡単なことができなくなります。
・そんな時は、無理に今までと同じ運動させることはせずに、動きが鈍くてもできる運動に切り替えてあげましょう。
・また、外が好きなワンちゃんなら、だっこしたり、距離を短くするなど負担を軽くして、外に出たい欲求を満足させてあげることも大切です。
・そして、室内で構わないので、それまで以上にスキンシップを取ってあげて不安を取り除いてあげてください。
・体の面だけでなく、メンタル面を充実させるためにも、普段からお友達のワンちゃんとふれあう機会を作ってあげて、メリハリのある生活を送らせてあげるようにしましょう。

 


青丹によし奈良の都は

2016-11-29 | 雑学

昨日まで奈良県の「壺坂・高取を歩く」と題してアップしてきましたが、奈良と言えば奈良時代には日本の首都が置かれた政治の中心地でした。
その奈良時代の貴族であり、歌人である人に小野 老(おののおゆ)がいます。
彼が詠った有名な和歌に、
 「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」 (万葉集巻3-328)
があります。
 意訳:奈良の都は、花が咲き乱れてよい香りでいっぱいになる頃のように、今、繁栄してたいそう盛んであると言う意味です。
 この歌は大宰府(現福岡県太宰府)の地に大宰少弐として派遣されていた小野老が奈良の京を賞讃して詠んだとされる望郷歌、或いは、出張帰りの時に都を懐かしむ
 大伴旅人たちに奈良の華やかな繁栄の様子を報告した歌と言われています。

ところで、この和歌に歌われている「あおによし」の「青丹(あおに)」ですが、これは「なら」にかかる枕詞であることは中学校で習ったのでどなたもご存知のことだと思いますが、では、なぜ奈良が「あおに」なのでしょうか?
今日は青丹(あおに)について調べました。

「青丹(あおに)」は昔、平城(なら)の地の北側の丘陵地帯で良質なものが産出されていたことから生まれた語です。
青丹とは、顔料や化粧料の黛(まゆずみ:眉を書く墨)に使われた青粘土のような暗く鈍い黄緑色のことです。
この場合の青は緑のことで、丹は土を意味し、緑みのある土の色を指しています。

これが青丹(あおに)色です。


もともとは青丹(あおに)は青土とかいて「あおに」と読んでいました。
青丹は、顔料となる岩緑青(いわろくしょう)を表わす古名であり、奈良が産地として有名でした。
そのため、『万葉集』にも詠われ、「青丹よし」は奈良にかかる枕詞となったということです。


壺坂・高取を歩く(7)土佐街道

2016-11-28 | 趣味

7回に亘ってご紹介しました「壺坂・高取を歩く」シリーズは今回が最終となります。
今日は高取城の城下町「土佐街道」の武家屋敷など、その一部をご紹介します。

「土佐街道」
「土佐街道」は6世紀、大和朝廷の労役で土佐の国からここに召しだされたものの、任務が終わっても帰郷できなかった者が住み着いたことからこの名前になったそうです。
寛永7年(1640年)植村氏が藩主として高取城に入りましたが、山上の高取城では日常生活が不便なため、藩主をはじめ家臣の屋敷は街道筋に移されました。
そして次第に城下町が形成されていき、全盛期には500棟もの商家が並んだそうです。
現在でも連子窓を持った家が並ぶ街並みとなっています。

・土佐街道です。


「植村家長屋門」
案内板によれば、植村家長屋門は文政9年(1826年)の建築で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各四室の部屋がある。
江戸時代には高取藩に仕える中間(ちゅうげん)たちがそれぞれの部屋に住んでいた。
当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主植村氏の住居となっている。



「田塩家武家屋敷」
長屋門をそのまま残す武家屋敷です。
案内板では、300年経っているそうです。格子が横向きの与力窓を二つつけた「長屋門」で、両袖に物見所と馬屋を持つ武家門のある屋敷です。
門を入ったところ、玄関脇に格子をはめた「監視窓」つきの塀があり、表口を警戒する構えは他では見られない珍しい遺構である。



門を入ったところの玄関脇にある格子をはめた「監視窓」つきの塀です。


「松ノ門」
松ノ門は高取城内にあった建築物の一つです。
明治4年の廃藩置県により、高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが数棟は移築されました。
その中の一つ「松ノ門」は明治25年に土佐小学校の校門として移築されました。



「夢創館」
夢創舘は、城下町観光の拠点として、大正時代には呉服屋として栄えていた旧山崎邸を改修し、平成14年にオープンしました。
町の観光案内所無料休憩所として、ギャラリーや資料の展示・地場産品販売など行っています




「人面石」
人の顔に似た石が置かれていましたが、説明板がないので、高取城や土佐街道との関連は不明です。


壺坂・高取を歩いてきましたが、もう少し登山ルートを整備すれば家族連れなどが気軽に行けるよいハイキングコースになるのではないでしょうか?
行政の対応によっては、近い将来、大和路のマチュピチュとして高取城跡に観光客が押し寄せるかもしれません。




壺坂・高取を歩く(6)高取城跡の紅葉

2016-11-27 | 趣味

私たちが訪れた1週間前は、高取城跡の紅葉が丁度見頃となっていました。
そこで今日は城跡の美しい紅葉をご紹介します。

・大天守の石垣と紅葉です。


・小天守跡(左側突き当りの石垣の処)の紅葉です。
 広場では、紅葉狩りに来た家族連れや小グループの人たちがシートを敷き、弁当を食べたり、楽しそうな語らいをしていました。


・本丸の紅葉です。
 紅葉狩りをするため、カメラを担いだ人や子供連れなど、次々と高取城跡へ登城してきていました。


・十五間多門の紅葉です。


・石人夫櫓(左)の紅葉です。


・正面の石垣は太鼓櫓跡です。


高取城跡から10分ほど下った処の山道で、宇陀門跡を過ぎたあたりです。
ここから更に10分ほど行くと「猿石」があります。



「猿石」
猿石は、奈良県高市郡明日香村の梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)西に隣接する吉備姫王(きびひめのおおきみ)墓内にある奇石で、全部で4体あるそうです。
高取城への登山道の途中に置かれている猿石と呼ばれる石像は、もともと上記の4体と同じ場所から掘り出されて、高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたのではないかと言われています。
この猿石は飛鳥時代の製作と考えられており、台石は古墳の石材の可能性があると言うことです。
顔はユニークな人面石像ですが、猿ではなく渡来人を象(かたど)ったものであるといわれています。




壺坂・高取を歩く(5)高取城跡

2016-11-26 | 趣味

今日は日本三大山城の一つ、高取城についてご紹介します。
高取城は、標高584mの高取山の山頂ににある国内最大規模の山城です。

これが威容を誇っていた高取城ですが、明治6年(1873年)に廃城となりました。しかし、明治20年(1887年)頃まで天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたそうです。


奈良産業大学が、高取城CG再現プロジェクトで昔の高取城を再現している写真です。
高取城は元和元年(1615年)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在も石垣や石塁が残されています。
高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少なく、山城でありながら小天守まである貴重な城です。



高取城は、日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられています。
高取城は三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切は5ヶ所あります。
現在、楼閣などは消滅していますが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構で、国の指定史蹟となっています。



高取城址の石碑ですが、ここから本丸まではまだ長い道のりでした。


「高取城」
高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城です。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきました。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城でした。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳が技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備されました。

・本丸の石垣です。
本丸の石垣はひと際高く見上げるほどですが、その前にある巨木は、その大きさから城がまだ現役だった頃から植えられていたと推測されており、今や城を圧倒する高さまで成長しています。


「壺坂口門跡」
城内の道は敵を防ぐために入り組んで造られています。
何度も石垣に囲まれた曲がり道を進まされ、容易に天守閣に近づけないような造りになっています。
それも当然のことで、この高取城は江戸期に作られた城主の権威を示すものとして造られたというより、天然の要害を利用して造った実践向きの本格的な山城なのです。
関ヶ原の戦いの直前に、東軍についた本多氏は西軍の大軍に囲まれますが、この高取城に頼って戦い、陥落することは無かったそうです。



「大手門跡」です。



壺坂・高取を歩く(4)五百羅漢遊歩道

2016-11-25 | 趣味

「壺坂・高取を歩く」と題して連日アップしています。
私たちは標高300メートルの丘に建つ壺坂寺を後にして、標高584メートルの高取山頂に残る高取城跡を目指して険しい山道を登りました。
高取城跡は日本三大山城の一つと言われている典型的な山城ですが、その詳細については明日アップすることにします。
今日は、高取城跡に上る山道である「五百羅漢遊歩道」をご紹介します。

・「五百羅漢遊歩道」を経て、高取城跡へ辿る分かれ道です。


この分かれ道から「高取城跡」方面へ暫く行くと、香高山の大きな岩山いっぱいに彫られた石像群『五百羅漢岩』があります。

「五百羅漢」
五百羅漢は室町時代に作られたとされ、山肌に無数の仏様が掘られています。
山肌に掘られた仏様は20ヶ所ほどに散在していますが、地元では五百羅漢としてあがめているそうです。
五百羅漢とはインドの仏典に出て来るお釈迦様の500人の弟子のことを指します。
これらの五百羅漢は高取城を築城した際につくられたとする説が有力なのだそうです。



「阿羅漢」
阿羅漢とは、仏教の修行の最高段階、また、その段階に達した人のことで、たくさんの石仏が並んでいました。



「十一面尊」
五百羅漢の周辺の岩に三尊像や、五社大神、来迎如来、施無畏像、護法大黒など、たくさんの磨崖仏が刻まれています。
その磨崖仏の一つ、十一面尊です。
十一面尊は観世音菩薩の代表的な変化身「六観音」の一つで、六観音においては六道のうち修羅道の衆生を救う存在とされています。

・風雨にさらされて風化が激しく、仏様のお姿がよく分かりません。


「三社尊」
この三社尊も磨崖仏の一つです。
三社尊の「三」は仏教の三尊から来ているのかも知れません。
三尊仏とは、西方極楽浄土の三尊で、阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式です。
観音菩薩と勢至菩薩は,菩薩と称されていますが、阿弥陀仏の化身ということで仏と解釈され,三尊仏と称されるそうです。

・苔に覆われて仏さまのお姿がよく分かりませんがこの石に三尊が掘られています。


「冥救地蔵」
このお地蔵さんも磨崖仏の一つです。

・こちらもお姿がよく分かりませんが、この岩にお地蔵様が掘られた形跡は確認できました。


五百羅漢の横の険しい山道を登るメンバーたちです。




壺坂・高取を歩く(3)壺坂霊験記

2016-11-24 | 趣味

壺坂寺の3回目は有名なお話に「壺坂霊験記」を取り上げたいと思います。

壺坂霊験記とは、「日本感霊録」の中に、壺阪観音の信仰によって開眼されたという説話がありますが、これをもとに創作されたのが浄瑠璃「壺坂霊験記」で、目の不自由な沢市が開眼したというお話です。

この「壺坂霊験記」は、浪花亭綾太郎が浪曲で演じて、彼の名声を不動にした出世作でもあります。
〽 妻は夫をいたわりつ
  夫は妻に慕いつつ
  頃は6月中の頃
  夏とは言えど片田舎
  木立の森もいと涼し

お聞きになったことがありますでしょう!
浪花亭綾太郎は浪曲で演じていますが、今日は中村美津子が歌う「壺坂情話」をお聴きいただきたいと思います。



壺坂寺に伝わる『壺坂霊験記』は、盲目の夫「沢市」の開眼を祈る妻「里」の純愛が沢市の目をあけさせると言う夫婦愛の物語で、日本を始め世界各地の公演の中で大いなる賛辞を得たと言われています。

「壺坂霊験記」
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていました。
沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしでした。
そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていたのです。
というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたのです。
「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴えました。
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責めるのです。
そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまったのです。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまいました。
しかし、二人の切ない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼したのです。




壺坂・高取を歩く(2)壺坂寺

2016-11-23 | 趣味

昨日に続き壺坂寺をご紹介します。

壺坂寺のご本尊は、十一面千手観世音菩薩で、眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきました。
明治の初め、盲目の夫・沢市とその妻・お里の夫婦の物語の人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演されてから、歌舞伎、講談、浪曲などの演目にもなり、壷阪寺の名は大きく世に広まっていきました。
なお、壷坂霊験記については明日、簡単にご紹介します。

高取城跡へ行く上り道から眺める壺坂寺の全景です。
三重塔の左側、大きな屋根が「礼堂」、その左が本堂の八角円堂です。

・壺坂寺の全景です。


「禮堂」
右側の建物が「礼堂」で、国の重要文化財に指定されています。
この御堂は本尊を礼拝するために建てられました。
礼堂は寺の創建当時から建てられていたと伝わっています。
度々の焼失で再建を繰り返した後、江戸時代に模様替えなどの大改築がなされて、規模も縮小されているそうです。

「八角円堂」
左側の建物は八角円堂で、創建は大宝3年(703年)です。
「八角円堂」は「本堂」であり、堂中心に南法華寺の本尊、「十一面千手観世音菩薩」が祀られています。
現在の本堂は江戸時代の建立と言われており、日本で初めて建立された八角堂ではないかという学説もあるようです。

・奥、右側の建物が「礼堂」、左側が「八角円堂」です。


 「天竺渡来大観音石像」
全長20m 全重量1200t の大観音石像です。
この天竺渡来大観音石像は、インドハンセン病救済事業の縁でインドから招来したものだそうです。
 インド国民の協力と南インドカルカラの三億年前の古石がインド政府や様々な方の支援で提供され、延べ7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作されたということです。
20mの巨岩は動かすことも、運ぶことも不可能なので66個に分割して彫刻し、日本に運ばれて組み立てられ、巨岩を支える土台には数万巻の写経と土台石が埋納されており、胎内には数万巻の写経と胎内石が納められているそうです。

・観音さまは美しい紅葉に囲まれて優しく微笑んでおられます。


・燃えるような真っ赤なモミジがとても印象的な壺坂寺でした。



壺坂・高取を歩く(1)壺坂寺

2016-11-22 | 趣味

一昨日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー14名と、紅葉が美しい奈良県の「壺坂・高取コース」を歩いてきました。
今回は「壺坂霊験記」でお馴染みの壺坂寺から日本三大山城の一つ「高取城址」を歩くコースです。
今日から数回に分けてご紹介します。

今回の集合場所は近鉄南大阪線の壺阪山駅です。
壺阪山駅は大阪天王寺区の近鉄阿倍野橋駅から急行で50分ほどの奈良県高市郡高取町にあって、歩くコースはこの駅から壺坂寺を経由して標高584メートルにある高取城跡を巡る約11㎞です。
午前10時10分の集合時間には参加者14名が揃ったことから壺坂寺に向かいました。

・集合場所の壺阪山駅です。


「壺阪寺」
奈良県高市郡高取町にある壺坂寺は正式名を南法華寺(みなみほっけじ)といい、真言宗系の単立寺院で山号は壺阪山、一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られています。
長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた名刹で、西国六番札所となっています。
創建は大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んで祀ったのが始まりといわれています。
36堂60余坊の大伽藍は4回の火災で焼失し、現在の建物は文政10年(1827年)に建立されたものです。
本尊は千手観音で、「日本感霊録」のなかにこの壺阪観音の信仰によって開眼されたという説話があって、これをもとに浄瑠璃「壺坂霊験記」が創作され、一躍有名になりました。

・駐車場から眺めた壺坂寺の伽藍です。


「天竺渡来 大釈迦如来石像」
この石像は総高15m(身丈10m、台座5m)の天竺渡来大釈迦如来石像で、平成19年に開眼され、境内に鎮座しました。
御前立には、
・十一面千手観音菩薩像 身丈3.3m 台座1.5m
・文殊菩薩石像 身丈3m 台座2m
・普賢菩薩石像 身丈3m 台座2m
が鎮座しており、文殊菩薩は釈迦如来の「智慧」を、普賢菩薩は「行」を、観音菩薩は「慈悲」を表しています。

この石像は、インドでの奉仕活動の縁から始まった国際交流・石彫事業の一環で製作され、21世紀初頭より、世界中で起こった暴力や中傷などによって痛んだ心を癒やすため建立されたそうです。

・境内に鎮座している大釈迦如来石像です。


 「三重塔」
室町時代の明応6年(1497年)の建立で、構造は三間、本瓦葺、総高23 mです。
当初は、奈良時代に建立されたそうですが、2度の大火で焼失し、明応6年(1497年)に再建されたのが今の塔です。
軒の出は深く、屋根の勾配は緩やか、純和様でまとめられた古色美しい三重塔と言われています。

・国の重要文化財に指定されている三重塔です。


当日は、曇り空ながら、紅葉が見頃であったことから、大勢の観光客で賑わっていました。

・紅葉が美しい壺坂寺です。



ショウガ栽培

2016-11-21 | 家庭菜園

4月下旬に植え附けたショウガの一部を収穫しました。
初めて挑戦したショウガ栽培ですが、初めてにしてはまずまずの出来具合かな?と思っているところです。

初めてだったので、栽培はネットで調べた方法に従って行いました。
それによると、ショウガは乾燥を嫌う作物なので、夏は株元にワラや刈草でマルチして土の乾燥を防ぐ事。
また適度な日陰を好むことから、真夏の強い日差しがある時期は、日除けをして直射日光から守ること、と書かれていました。
そこで、我が家では初夏から初秋までの間、寒冷紗を覆って直射日光を防ぎ、時々水やりをして乾燥を防いでいたのです。
その甲斐あって、茎はこのように元気よく生長してくれました。

・これがショウガの茎です。


初めての収穫で掘り起こしたショウガです。白い色のショウガが新ショウガ、色の黒いのが種ショウガです。
新ショウガは種ショウガの上に4~5個連なってできていました。



早速、新ショウガを甘酢漬けやつくだ煮、ショウガ湯などにして食しています。
収穫した中から、病気や霜の影響を受けず、比較的水分が少なく堅いものを選定して、来年の種生姜用として保管する予定です。



「ショウガの効果・効能」
生姜の効果・効能の中心となるのはショウガオールという体を温めてくれる成分とジンゲロールという免疫力を高める成分で、
・ショウガオールは、血行を良くして体温を高め、脂肪や糖の代謝を促進してくれるのでダイエットしたい方に適しており、また、血液サラサラ効果もあるので、生活習慣病の
 予防にも役立ちます。
・ジンゲロールは、免疫細胞である白血球を増やして免疫力を高めてくれるので、風やインフルエンザにもかかりにくくなると言うことです。
・他にも冷え性の改善や胃の弱い方には胃の健康にもよいそうです。