らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

堺市内散策(その5)百舌鳥八幡宮

2014-01-31 | 地元紹介

堺市内散策の5回目は、仁徳天皇陵から東に約2㎞のところに鎮座している百舌鳥八幡宮をご紹介します。

「百舌鳥八幡宮」
百舌鳥(もず)八幡宮は、第29代欽明天皇(在位539年~571年)の時代に創建されました。
その後、第77代後白河天皇(在位1155年~1158年)の時代に京都府八幡市の石清水(いわしみず)八幡宮の別宮となったと伝えられています。
社伝によれば、神功皇后が凱旋の帰途、この地において幾万年まで天下泰平を祈願されたことにより、当地を万代(もず)と称し、神社を創建してお祀りされたと伝えられています。

・正面参道階段からの拝殿



「拝殿」
ご祭神は応神天皇で、神功皇后、仲哀天皇を配祀しています。
現在の社殿は享保11年(1726年)、拝殿が文政13年(1830年)の建立で、昭和46年に修復されているそうです。



「本殿」
社殿の大きさは府下屈指と言われています。
社域は約1万坪で、境内には若宮社・市杵島社・稲荷社・招魂社・絵馬殿・神庫があります。

・境内西からの拝殿および本殿


本殿右前にある大楠は幹囲り5.2m、樹高25mで樹齢は800年ともいわれている名古木で、府の天然記念物に指定されています。

・御神木の大楠 です。


なお、3月に行われる大相撲大阪場所では、初場所で敢闘賞を受賞した遠藤が所属する追手風部屋がここ百舌鳥八幡宮を宿舎としているそうです。


堺市内散策(その4)大仙公園

2014-01-30 | 地元紹介

今日は仁徳天皇陵の南に位置する大仙公園をご紹介します。

「大仙公園」
大仙公園は南北を仁徳天皇陵(大仙陵古墳)、履中天皇陵(ミサンザイ古墳)に挟まれた位置にあり、園内には小古墳(陪塚)が点在しています。
元々は、寛永年間に幕府代官・高西夕雲と堺の豪商・木地屋庄右衛門によって開発された「夕雲開」と呼ばれる新田だったそうです。

堺市の観光案内によれば、大仙公園は仁徳天皇陵古墳に隣接する33万㎡(甲子園球場約25個分の大きさ)の緑と歴史に包まれた堺市のシンボルパークです。
どら池、芝生広場、児童の森など自然との触れ合い空間や、博物館、茶室、日本庭園などがあり、1989年(平成元年)には「日本の歴史公園100選」に選定されています。

・大仙公園案内図です。


「百舌鳥耳原由来の像」
ここに掲げられている説明によれば、
日本書紀に仁徳天皇が御陵を造営しようとしたとき鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったので、この地を百舌鳥耳原と呼ぶことにしたという神話的な記述があります。
他に地名の諸説には、鹿は天皇に対する土地の精霊だったとする説や、耳は神への捧げものとするための印、百舌鳥は神の使いであるなどの諸説があります。

・仁徳天皇と思われる像です。右手には百舌鳥とまり、左手は鹿の角を握って立っています。

「仁徳天皇御歌」
   
    「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」

    訳:高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだ。

「民のかまど」
この歌に纏わる「民のかまど」という伝説があります。
仁徳天皇は即位されて4年目のある日、難波高津宮から遠くをご覧になられたところ、人々の家からは少しも煙が上がっていないことに気付きました。
天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、3年間、税を免除されました。
税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れましたが、天皇は衣も新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。

3年が経って、天皇が同じ高台に出られて遠くをご覧になると、今度は人々の家々から炊煙が盛んに立つのをご覧になり、一緒におられた皇后に「我は豊かになった。喜ばしいことだ」と申されました。
皇后は「私たちが住んでいる皇居の垣は崩れ、衣服には穴があき、屋根が破れて雨漏りがしているのに、どうして豊かになったと言えるのですか」と問われました。

すると天皇は、「昔の聖王は国民の一人でも飢え、寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。今、国民が貧しいのは自分も貧しいのだ。
国民が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。未だかつて人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と申されました。

天皇は引き続き、更に3年間、税を献ずることを許さず、6年が経過してやっと税を課し、宮殿の修理をすることを許しました。
すると人々は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精を出し、昼夜をいとわず宮殿づくりに励みました。
そのため、瞬く間に宮殿ができあがりました。
それ以来、天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と崇めるようになりました。

日本の天皇は、初代の神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んでいます。国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇はその姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれているそうです。

このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を理想として古代から今日まで絶えることなく125代の天皇が続いてきているもので、これは他の国々には見られない日本独自の伝統となっているのです。

・仁徳天皇の歌碑です。


「武野紹鷗(たけのじょうおう)」
ここにある説明によれば、
大和出身の茶人で豪商です。後に堺に移り住みました。
上洛して三条西実隆に和歌を、十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。
堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。
茶道においてはわび茶を好み利休を始めとする多くの門人に大きな影響を与えた。



公園の中央にある「どら池」です。


「陪塚」
大仙公園にはこのような陪塚が5か所ほどあります。この「七観音古墳」はその中の一つです。

・陪塚の一つ「七観音古墳」です。




堺市内散策(その3)仁徳天皇陵古墳

2014-01-29 | 地元紹介

堺市内散策の3回目は「仁徳天皇陵古墳」をご紹介します。

仁徳天皇陵古墳はエジプト・クフ王のピラミッド、中国・秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。

前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています
左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっています。
日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上ありますが、塚廻古墳を除いて、主体部の構造や副葬品のわかっている古墳はほとんどないということです。
この仁徳天皇陵は、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されているそうです。

・仁徳天皇陵古墳です(パンフレットより)


仁徳天皇陵古墳は日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳、南側の履中天皇陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。

・宮内庁管理の「仁徳天皇・百舌鳥耳原中陵」看板です。


・仁徳天皇陵参拝所です。


「仁徳天皇陵・陪冡(ばいちょう)の復原模型」
この仁徳陵を当時の技術で建設するためには1日当たりピーク時で2000人、延べ680万7000人を動員して、15年8ヶ月の工事期間を要すると試算されています。
巨大な墳丘と3重の濠の存在はまさしく大王墓に相応しく、また濠の外側に築かれた陪冡(ばいちょう)(陪塚)と呼ばれる中小の古墳には、各種の墳形があり、古墳時代を象徴していると言われています。

・仁徳天皇陵の250分の1の復原模型です。 孫太夫山古墳を始めとする周りの小さな古墳は陪冡(ばいちょう)(陪塚)で、副葬品などを葬る墓だそうです。


・仁徳天皇陵の周囲に10基以上あると言われている陪冡(ばいちょう)(陪塚)の一つ、銅亀山古墳です。


堺市内散策(その2)反正天皇陵古墳

2014-01-28 | 地元紹介

今日は「方違神社」のすぐ傍にある反正天皇陵古墳をご紹介します。

「反正(はんぜい)天皇陵古墳」
反正天皇陵は百舌鳥古墳群の北端にあり、前方部を南に向けた前方後円墳です。
仁徳天皇陵、覆中天皇陵とともに百舌鳥3陵の一つで、百舌鳥耳原北陵とも呼ばれ、現在は「百舌鳥耳原北陵・反正天皇陵」として宮内庁が管理しています。
墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。
仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうですが理由はよくわかっていません。
墳丘は3段に築かれその形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵古墳より少し新しく、5世紀後半頃に造られたと考えられています。

・「反正天皇陵古墳」です(パンフレットより)


反正天皇陵は現在一重の盾型周濠がめぐっていますが、前方部外周で行われた発掘調査で、嘗て二重濠があったことが確認されています。
陪塚(ばいづか)と推定される2基の古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のない姿の古墳ですが、仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳あるいはニサンザイ古墳に比べ、規模がかなり小さいことから、反正天皇陵とすることを疑問とする意見も少なくないということです。
なお、陪塚(ばいづか)とは、大きな古墳のそばにある小さな古墳で、主に副葬品を納める墓のようです。

・宮内庁が管理する「反正天皇・百舌鳥耳原北陵」を記した標榜です。


「反正天皇」
反正天皇は仁徳天皇の第三皇子として淡路島で生まれたとされています。
第一皇子の覆中天皇と第二皇子の住吉仲皇子(すみのえなかのおうじ)は同母兄。弟は後の允恭(いんぎょう)天皇です。

実父の仁徳天皇が崩御された後に、実兄の覆中天皇を、実兄の住吉仲皇子が焼き殺そうとする事件が発生した際に、覆中天皇の命をうけて住吉仲皇子を誅殺し、覆中天皇が即位すると立太子となりました。

405年に覆中天皇が崩御された後、第18代天皇に即位されました。
そして、河内の丹比に都を定め、戦乱や天変地異のない天下泰平な治世を送り、在位5年の410年に60歳で崩御されますが、古代における大王の王位継承(兄弟間の相続)に重要な前例を開いたことでは知られているものの、天皇の事績としては記すべきものはないということです。

・反正天皇陵 拝所です。



堺市内散策(その1)方違神社

2014-01-27 | 地元紹介

現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー13名と昨日堺市内を散策してきました。
今回はJR堺市駅から南海高野線中百舌鳥駅までの約11㎞、「1600年のロマン百舌鳥古墳群を歩く」というコースです。
今日から数回に分けてご紹介します。

今回歩いたコース図です。
地図の線路記号上部のJR堺市駅から赤い線に沿って中央の仁徳天皇陵へ下り(地図上で)、更にその下側の大仙公園からニサンザイ古墳を通り、終点の中百舌鳥駅(右下)までを歩いたものです。


「方違神社鳥居」
ここに書かれている説明によれば、方違(ほうちがい)神社の起源は古く、崇神(すじん)天皇の勅願により創建されたと伝えられています。
この辺りは摂津、河内、和泉の三国の境に位置しているため「三国山(みくにやま)」「三国のちまた」または「三国ケ丘」と称されました。
三国の境界にあるため方角のない聖地であると考えられ、古来より方災除けの神として参拝者が絶えず、更に、平安時代には熊野詣の通過地点でもあったため、人々は旅の安全を祈ったと言われています。
また、明治元年の京都から東京へ遷都の際には17日間の祈祷が行われたそうです。

・方違(ほうちがい)神社の鳥居です。


「方違(ほうちがい)神社本殿」
社伝によると、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。
これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。
すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされています。



方違(ほうちがい)神社は方角に関する災いを防ぐ「どの方角にも属さない神社」です。
古くは、遠方へ出かける際、その方向が良くないときは、一度別方向に向かってから出かける風習「方違え(かたたがえ)」がありました。
方角の厄を取り除き、神様のご加護を受けられるとして親しまれてきたのが「どの方角にも属さない」方違神社(ほうちがいじんじゃ)だそうです。

この神社は摂津・河内・和泉の3国の国境である三国丘(みくにがおか)に位置したことから、東西南北すべての方位を消滅させる場所とされ、ここに参拝すれば三国の土を踏む、つまり方違えを行ったことと同じ意味を持っていたのだそうです。

・鳥居の脇にきれいに剪定されている「神功皇后御馬繋之松旧蹟」です。



・鳥居の脇に鎮座する神明社です。



地団駄を踏む

2014-01-26 | 雑学

突然、堰を切ったように激しく泣き出子供やむずがる子供がバタバタと足を踏み鳴らす様子を「地団駄を踏む」と表現しますよね。
或いは物事が上手くいかず、思うようにならないもどかしさに「地団駄を踏む」思いをするかもしれません。
「地団駄を踏む」とは、怒りもがいて、或いは悔しがって、激しく地面を踏むことを描写する言葉ですが、今日はこの語源について調べました。

「地団駄(じだんだ)」は、出雲地方でその昔盛んだった古代たたら製鉄からきており、「地踏鞴(じだたら)」が変化した言葉のようです。
踏鞴(たたら)とは、足で踏んで金属の精錬・加工に必要な空気を送り込む大型の送風装置のことです。

怒りもがいたり、悔しがって激しく地面を踏む様が、この装置を使って炉の中に空気を送り込むしぐさに似ていることから、「地踏鞴(じだたら)」と言うようになり、そこから「じだた」→「地団駄(じだんだ)」になったと言われています。

なお、「じんだらを踏む」とか「じんだらをこねる」など、各地に「じんだら」と言う方言が点在しているそうですが、これらも地踏鞴(じだたら)が変化したものだそうです。


下弦の月

2014-01-25 | 季節

私は毎日早朝ジョギングをしていますが、昨朝は雲ひとつない冬の空に美しい下弦の月が現れていました。
ジョギングを終えた後、早速撮影したのでご紹介します。

昨日午前6時54分に撮影した下弦の月です。


上弦の月、下弦の月は子供の頃習ったと思いますが、覚えておられますか?
どちらも半月の状態を言います。
その違いを簡単にご紹介しますと、一般的な定義では、上弦の月は満月に向かう時の半月で、下弦の月は満月が欠けてきて 新月に向かう時の半月です。

上弦と下弦は新月から次の新月までの1朔望月(さくぼうげつ)の中で現れますが、これらの「上」「下」は順序が先・後であることを意味し、1ケ月を3旬に分けたときの上旬・(中旬)・下旬と同じ用法で、太陰暦では、「上弦の月」は上旬に「下弦の月」は下旬に現れます。

つまり「上弦の月」「下弦の月」の上下とは「弓に見立てたときの弦が上を向いているか下を向いているか」ではなく「上に見える弦」なのか「下に見える弦」なのかという時期を表す上下だということで、弦とは半月そのものを表しているのだそうです。


配布と配付

2014-01-24 | 雑学

ブログに記事を書くとき「はいふ」と言う言葉を使うことがあります。
この「はいふ」には「配布」と「配付」があり、どちらを使用すればいいのか迷うことがありますが、皆さんはございませんか?
そこで調べてみました。

この二つの漢字はどちらも配ることですが、厳密には意味が違っています。
【配布】は広く一般の人々に渡す場合に使用するようです。
    「配布」の「布」は「しく」とも読み、「(法律の)公布」「布陣」と使うように【広く行き渡らせる】といった意味があることから、【広く一般に行き渡らせるように配る】時は「配布」の字を使用します。

【配付】は特定の人々に一人一人渡す場合に使用するようです。
    「配付」の「付」は「つく、つける」と読み、「付着」「(免許証の)交付」と使うように【相手の手中にぴたりとつける】ことから【相手に渡す】という意味があります。
     従って【一人一人の手に渡るように配る】時には「配付」を使用します。

なお、法令用語としては、昭和29年11月以降に制定されたものは「配布」に統一されており、新聞やテレビの報道においても、新聞協会の統一基準で「配布」を使うことになっているそうです。

辞書には次のように説明されているので参考までに書いておきます。
広辞苑
  
【配布】ひろくくばりわたすこと。「ちらしを―する」
  【配付】くばりわたすこと。くばりつけること。「資料を―する」

大辞林       
  【配布】(名)広くゆきわたるように配ること。「ビラを―する」
  【配付】(名)銘々にくばりわたすこと。

岩波国語辞典   
  【配布】《名・ス他》広く配ってゆきわたらせること。「びらを―する」「無料―」
  【配付】《名・ス他》銘銘に配り与える(渡す)こと。「教科書の―」

新明解国語辞典 
  【配布】多くの人に行き渡るように配ること。「道を行く人にチラシを―する」
  【配付】関係者めいめいに配って渡すこと。「必要書類を―する」


完璧

2014-01-23 | 雑学

世の中には完璧主義者と言われる方がいます。
完璧主義とは、定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことで、このような思想を持った者や、そのような心理状態の者を完璧主義者もしくは完全主義者と呼んでいます。
しかし、その程度(時間に対する気配りや周囲への迷惑を顧みない状態等)によっては、精神疾患のひとつとされることも多いそうです。(ウィキペディアより)

この完璧という言葉の「璧」とは、環形に磨き上げた上質の玉器のことだそうで、傷のない完全な「璧」という意味から、何ひとつ欠点がなく優れてよいこと、完全無欠のことをいいますが、その由来は、中国の戦国時代に、「和氏(かし)の璧」を貸さなかった秦の昭王と藺相如(りんしょうじょ)が命がけで戦い、ついに璧を持ち帰ったという故事に基づくそうです。

その由来となった故事とは次のようなものです。
趙(ちょう)の国の恵文王(けいぶんおう)は、「和氏の璧(かしのへき)」という宝の玉を持っていました。
秦の国の昭王(しょうおう)は、その璧(へき)をなんとかして手に入れたいと思っていました。

ある日、昭王は趙に使者を送り、「和氏の璧」と「15の都市」とを交換するよう申し入れました。
しかし、恵文王はその申し入れを信用することはできませんでした。

そこで、恵文王は重臣を集めて使者として派遣することを相談をしたところ、藺相如(りんしょうじょ)という者が
「使者として秦に行くのにふさわしい者は私のほかにはいないでしょう。私を使者として派遣してください。
申し入れどおりに15の都市が手にはいれば「璧」を置いてきますが、都市が手に入らないときには無傷のまま「璧」を持ち帰って来ます。」
と言いました。

藺相如は「璧」を持って秦へ向かいました。
そして国王に「璧」を差し出すと昭王は大変喜びました。

しかし、「15の都市と交換する」という約束のことは全く知らん顔であったことから、藺相如は「その璧には小さな傷があります。それを王様にお教えいたします。」と言って「璧」を取り返し、部屋の後ろの柱のところまで下がって言いました。
「恵文王は、あなたに敬意を表して、私に璧を持たせ使者として使わせたのです。しかし、あなたは璧を手にしても15の都市と交換するという約束を果たす意思がないものと見受けられます。それゆえに、璧を取り返しました。
もし、このことをお許しにならないのであれば、私は自分の頭とともにこの璧を柱に打ち付けて砕いてしまいます。」と。

それを聞いた昭王は、驚いて、「約束は守る。」と言いました。
しかし、藺相如は、昭王はもはや信用することはできないと確信し、家臣に璧を持たせ趙に帰らせました。
璧は完全なまま恵文王のところに戻りました。

冒頭にも書きましたが、完璧主義と言えば理想的なように思えますが、その度が過ぎると精神疾患のひとつとされることも多いということなので、敢えてそれを追求しない方がよいのかも知れませんね。


日の出、日の入り

2014-01-22 | 季節

1年で最も昼間が短いと言われる冬至から今日で1カ月が経ち、日没が随分遅くなったように感じます。
そこで今日は大阪の「日の出」と「日の入り」の時刻と冬至から1カ月経過してどのくらい昼間が長くなったのか調べました。

冬至の日は、北半球では太陽の南中高度が最も低く、1年の間で昼の長さが最も短く、夜が最も長くなる日で、暦便覧でも「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明しています。
しかし太陽の出入り時刻については、一年で「日の入り」が一番早い日は、冬至よりも半月ほど前、「日の出」が一番遅い日は、冬至よりも半月ほど後になります。

国立天文台の資料によれば、大阪の1年で最も遅い日の出は1月5日から1月11日までの7時6分で、最も早い「日の入り」は11月30日から12月10日までの16時47分となっています。

冬至の日の大阪の「日の出」時刻は7時2分、「日の入り」時刻は16時52分なので、昼間の時間は9時間50分でした。
そして今日1月22日の「日の出」は午前7時2分、「日の入り」は17時17分となっており、昼間の時間は10時間15分で、この間25分昼間が長くなったことになります。
僅か25分日没が遅くなっただけで随分昼間が長くなったように感じます。

これからは日毎に1分~2分昼間が長くなるようです。
寒い日が続いていますが、僅かずつでも昼間が長くなると春の足音が聞こえてくるようで、何となく気持が明るくなってきます。

(参考)
お住まいの県庁所在地の日の出、日の入り時刻を知りたい方は下記へアクセスしてみてください。
   国立天文台 暦計算室 各地のこよみ
   http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/