らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

年越し蕎麦の由来

2011-12-31 | 雑学

昨日の大納会では29年ぶりの株安となり、歴史的な円高となった平成23年は今日が大晦日となりました。
大晦日には一家団らんで今年を振り返りながら、年越しそばを食べて、新年を迎える方が多いのではないでしょうか?
そこで今日は年越しそばの由来について調べました。

大晦日にお蕎麦を食べる習慣は江戸時代頃から定着したようです。

その由来については、次のようないくつかの説があります。
(1)そばは長く伸ばして、細く切って食べる食物なので、“細く、長く”と云うことから「健康長寿」「家運長命」などの縁起を担いで食べるようになったとする説。  
(2)金銀細工師が散らかった金粉を集めるのにそば粉を使うために、金を集める縁起で始まったという説。
   そば粉は水に溶けるためそば粉を水で練り、金粉に押し付 けて金粉を集め、水につけると金粉だけが底に沈むのでそば粉が使われた。

この2つがよく言われている説ですが、他にも次のような説があります。

(3)鎌倉時代、博多の承天寺で年の瀬を越せない町人に「世直しそば」と言って、そば 餅を振る舞った所、次の年から皆運が向いてきたため、大晦日に「運そば」を
   食べる習慣が生じたとする説。 
(4)室町時代、関東三長者の一人、増渕民部が毎年の大晦日に1年の無事息災を祝い「世の中にめでたいものは蕎麦の種、花咲き実り、みかどおさまる」と詠い、家人ともども
  蕎麦掻き(そばがき)を食べたのが起こりとする三角(みかど)縁起説。 蕎麦の実が三角形をしている事と帝をかけています。
(5)そばは切れ易いから、旧年の労苦や災厄をきれいさっぱり切り捨てようと「縁切りそば」「年切りそば」と言う説。
(6)一年中の借金を打ち切る意味で「借銭切り」「勘定そば」といい、必ず残さずに食べなければいけないと言う説。
 
以上のような諸説がありますが、年越し蕎麦の御利益は兎も角、家族全員そばを美味しく食べて、新しい年を迎えられることに感謝しましょう。

読者のみなさん今年一年アクセスしていただきありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

来る年が 皆様方にとって よい年となることをお祈り申し上げます。

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「第九」の日本初演奏について

2011-12-30 | 季節

年の瀬が押し迫り、平成23年も今日と明日を残すのみとなりました。
年末の風物詩と言えば、ベートーベン作曲『交響曲第9番』の演奏ではないでしょうか?
特に声高らかに歌われる「歓喜の歌」は、聴いているだけで寒さを吹き飛ばし、気持ちを明るくしてくれるような感動を覚えます。

そこで、今日はこの素晴らしい『第九』の日本初公演について調べました。

ベートーベン作曲『交響曲第9番』が日本で初めて公演されたのは、第1次世界大戦中の1918年(大正7年)6月1日で、徳島の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵による演奏だったそうです。

「日本における“第九”の初演奏」
第1次世界大戦(1914年~1918年)では、日本はドイツと中国の青島で交戦していましたが、その戦いで降伏してきたドイツ人将兵たちを収監するために、日本国内に設けられた6か所の収容所の一つに徳島県鳴門市の「板東捕虜収容所」がありました。

この収容所の所長を務めた会津出身の陸軍大佐・松江豊寿の「博愛の精神と武士の情けをもって」との方針のもとに、この収容所ではスポーツ、演劇、新聞発行などの文化活動が盛んに繰り広げられました。
殊に音楽は複数のオーケストラ、吹奏楽団、合唱団、マンドリンアンサンブルが結成される程の隆盛をみたそうです。

そして、1918年(大正7年)6月1日に演奏された『交響曲第9番』は、「トクシマ・オルケスター」と80名ほどの男性合唱、4人の男性ソロ歌手(?)によって全曲演奏されたと言われ、これが日本における『第九』の初演奏と言われています。

「日本での年末の演奏」

日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後まもない1940年代後半、オーケストラの収入が少なく、楽団員の人たちは年末年始の生活の困窮状態を改善するため、当時、必ず客が入る曲目であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされています。

1960年代以降、年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在では、師走になると、プロ・アマを問わず、『第九』の公演が開かれるのが当たり前の光景となっています。


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注連縄(しめなわ)作り

2011-12-29 | クラフト

お正月に飾る注連縄(しめなわ)は準備できましたか?
私は先日、地元のNPO法人“グリーンパーク熊取”が主催する注連縄作り講習会に行ってきました。
今日はその模様をご紹介します。

注連縄とは、神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄の事で、一般には新年に門戸や神棚に張っています。
私は、昨年までは市販されている注連縄を飾っていましたが、今年は注連縄作りの講習があることを知り、手作り注連縄を飾ることにしました。

講習会は、参加者48名全員が確実に作れるようにと、3人の受講者に対して2人の指導員がつくと云う親切な催しでした。
費用は材料代だけの負担で、藁を始めとする材料は全てNPOの人が揃えてくれました。

・グリーンのジャンパーを着ている人がNPOの指導者です。


材料は左から、もち米の藁(うるち米より柔らかいそうです)、中央の紙袋の上が細い針金、その下が少し太い針金、緑色が仮止め用のビニール針金、右側のビニール袋の上が水引とその下がユズリハ、ビニール袋は作った注連縄の持ち帰り用です。
この他に橙、裏白、紙垂(かみしで)の用紙も用意してくれました。

・これが注連縄作りの材料一式です。


・先ず、稲わらの根元部の皮をきれいに取り除きます。
・取り除いた藁の皮で、注連縄の中心部を太くするための心棒(アンと云っていました)を3本作ります。
 太さは親指大、長さ約10㎝位のものです。太過ぎや長過ぎは藁からはみ出すので注意します。

・皮を取り除いた稲わらとその皮で作った「アン」です


・稲わらの先端から50㎝くらいまでを木槌で叩いて柔らかくします。
・次に、稲わらの先端から60㎝位のところを、やや太い銅線を3回まわして縛ります。
・銅線から先端部の藁を太さが同じ位になるように3等分します。



・3等分した藁の各々の、銅線から10㎝くらいの個所に心棒(アン)を入れ、各々の藁を右回しに固く巻き、右から左に捻りながら三つ編みに編んでいきます。
・編み終わると、先端部分をビニール針金で仮止めしておきます。
・その後、はみ出している藁や屑をハサミで綺麗に取り除きます。(散髪の要領です)
・仮止めした個所を細い針金を3回まわして縛り、仮止めのビニール針金と差し替えます。



・皮を取り除いた綺麗な藁を15本用意し、5本ずつに分けて、半分に折り曲げ、折り曲げた個所をビニール針金で縛ります。



・竹へらのお尻を割った小道具(右端の竹)で上記の藁を注連縄の中央3か所に差し込みます。
・差し込まれた藁は20㎝くらいの長さに切りそろえます。
・藁の根本部の銅線から13㎝くらいのところを切り落として揃えます。(下の画像の右端です)



次は紙垂(かみしで)を作ります。
・半紙を縦に半分に折り、折った紙の背を上にして8等分になるように右から折ります。



・折った紙を開き、中央の折り筋を残し、その左右の折り筋の上から3分の2を切り、次は下から、そして最後は上から各々3分の2程をハサミで切ります。
・次に、3分の2を切った内側の個所から順に手前に折り曲げます。
・左右の折り曲げが終わると中央部を切り離します。



・切り離した紙垂(かみしで)は左右を入れ替えて、少し開くように上部を重ね、重ねた個所を手前に折り曲げます。
・折り曲げたところにユズリハ2枚を左右にセットし、落ちないようにホッチキスで止めます。



・注連縄に取り付ける為の橙を針金で十文字に結わえます。



いよいよ注連縄に取り付けます。
・注連縄の中央に裏白、紙垂(かみしで)、橙をセットし、橙に睦び付けた針金で注連縄に結びつけます。



・最後に紅白の水引を橙の上に蝶結びに結んで出来上がりです。





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「御用納め」の由来

2011-12-28 | 季節

今日は官庁の御用納め、民間でも今日で仕事納めとなる企業が多いと思います。
そこで今日は「御用納め」の由来について調べました。

先ず、官庁の仕事納めを何故「御用納め」と云うのでしょうか?
「御用」とは、宮中または政府の用努、用命を言います。
従って、公務に携わる人たちの12月最後の仕事は「仕事納め」ではなく「御用納め」と言い、公務に携わらない民間においては「御用納め」ではなく、「仕事納め」と表現されます。

官公庁の年末年始の休暇は、138年前の1873年(明治6年)1月7日に制定された、官吏の休暇日を定めた太政官布告第2号「休暇日を定ム」の法律によります。
その法律によれば休暇日は
 ・1月1日から1月3日
 ・6月28日から6月30日
 ・12月29日から12月31日
とされており、爾来、この法律が拠り所となって年末年始が休暇となりました。

なお、6月28日から6月30日の休暇については、法律が制定された同じ年の明治6年6月23日太政官布告第221号によって取り消されたため、この休暇は実現することなく消滅したそうです。

現在の、日本の官庁では昭和63年12月13日に制定された法律第91号の「行政機関の休日に関する法律」によって12月29日から1月3日までを休日と定めており、12月28日を御用納めとして、その年の最後の業務日としています。
民間でもこれに準じて、28日或いは29日を仕事納めとしている会社が増加しているようです。

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かまぼこの由来

2011-12-27 | 雑学

スーパーに足を運ぶと色鮮やかな蒲鉾が並んできました。勿論、おせち料理に欠かせない食材の一つです。
今日はその「かまぼこ」の由来について調べました。

「かまぼこの由来」
「かまぼこ」は、古くは細い竹を芯にしてすり身を塗りつけて焼いたものを意味し、その形が「ガマの穂」に似ていることから「蒲の穂」と呼ばれ、更に「蒲穂子(がまほこ)」と言われていたものが訛ったとする説と、「蒲の穂」は「鉾(ほこ)」に似ているため「がまほこ」と呼ばれていたものが「かまぼこ」になったとする説があります。

・これがガマの穂です。(2009年8月撮影)


「板付けかまぼこ」
現在の一般的な「板つけ蒲鉾」は桃山時代に考案されたもので、その登場により、従来の「蒲の穂」型のかまぼこは、切り口が竹の輪に似ていることから「竹輪(ちくわ)」と呼ばれるようになったそうです。



なお、江戸時代になると、一度に大量に処理できることから湯煮することが行われるようになり、江戸では産地と消費地が近いため「蒸し蒲鉾」が、浪速では産地から京都まで運ばれていたため、腐敗を防ぐために、一度蒸したものを更に焼くという製法が採られたそうです。
この名残りで、現在でも関東は「蒸し蒲鉾」が中心であり、関西では蒸してから焼いたものが多いと言われています。

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富有柿の収穫

2011-12-26 | 家庭果樹

今日は我が家の柿の収穫についてご紹介します。

我が家では富有柿をずっと鉢植えにしていましたが、小さな果実しかつかなかったので畑に植え替えました。
今年が3年目になり、初めてまともな柿が収穫できたものです。

・これがその柿の木です。


この柿の木は父が亡くなる3~4年ほど前に接木してくれた形見の柿ですが、来年の父の7回忌を前に漸く実をつけるまでに成長してくれました。

・これが初めて収穫した11個です。


この柿は10日ほど前に収穫したものです。
柿は秋の味覚と言いますが、我が家の柿は冬の味覚と云ってもいいほど遅く収穫できる品種のようです。

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日本最初の「クリスマス」

2011-12-25 | 伝統行事

昨夜は「クリスマス・イヴ(Christmas Eve)」、そして今日は「クリスマス(Christmas ;Xmas)」ですね。
小さな子供さんたちには、サンタさんからのプレゼントが届いたでしょうか?

今日は日本におけるクリスマスの始まりについて調べました。

「クリスマス」
クリスマス(Christmas ;Xmas)とは、キリストを意味するギリシャ語の「Xristos」と祭日を意味する「mas」から成っている言葉で、キリストの降誕祭の事です。
この事から、略して「Xmas」と書くこともあり、元は、太陽の新生を祝う「冬至の祭」がキリスト教化されたものだそうです。(広辞苑より)

「日本におけるクリスマスの始まり」
「日本におけるクリスマス」は、1551年(天文20年)に周防の国・山口(現在の山口県山口市)でフランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教活動を行ったのがキリスト教が広まるきっかけとなり、翌1552年(天文21年)12月9日(陽暦12月24日)には、当時山口で布教活動を行っていた宣教師コスメ・デ・トーレスらが司祭館に日本人信徒を招き、宣教師らによって讃美歌が歌われ、クリスマスを祝わったのが日本での始まりとされています。
キリスト教はその後、江戸時代に幕府が徹底的に弾圧したことから明治の初めまで全く受け入れられることはありませんでした。

日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、その頃からクリスマス商戦が始まったことが大きな契機となり、1928年(昭和3年)頃には日本の年中行事となって普及していったそうです。
現在では宗教に関係なく、お祭り的歳末商戦として個人消費が最高に盛り上がる年末の一大行事となっています。

・日本でのクリスマスの始まりとされている「山口サビエル記念聖堂」です。施設名はサビエルと濁らないそうです。
 この建物は1991年(平成3年)に失火により焼失したため、1998年(平成10年)に再建されたものです。


(参考)
「サンタクロースの起源」
子供さんにプレゼントを配ってくれるサンタクロースは、キリスト教の聖師父である奇蹟者・聖ニコライ(ニコラウス)の伝説が起源とされています。
聖ニコライ(270年ころ~345年)はキリスト教の司教(主教)で神学者だそうです。

「クリスマス・ケーキの由来」
クリスマス・ケーキの由来は、イエス・キリストの誕生日を祝うためのバースデーケーキです。
また、キリスト教の人は、この日パンを食べ、ぶどうジュースを飲んでキリストの生誕を祝うそうです。

「クリスマスツリーの起源」
クリスマスツリーはドイツに起源があると言われています。
モミの木に住む小人が村に幸せを運んでくるという信仰から、花、卵、ローソクなどをモミの木に飾り、その周囲を踊りで囲み、小人にいつまでも木に留まってもらう祭りがあり、これがクリスマスの起源と考えられているそうです。

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カネノナルキ(金のなる木)

2011-12-24 | 

鉢植の「カネノナルキ(金のなる木)」が昨年に続き花を咲かせました。

「金のなる木」とは、ベンケイソウ科クラッスラ属の多肉植物です。
原産地は南アフリカで、日本には昭和初期に渡来したようです。
和名は「カゲツ(花月)」と言いますが、「オウゴンカゲツ(黄金花月)」とも呼ばれています。



「名前の由来」
「金のなる木」の名前の由来は、栽培業者が販売促進のために、五円硬貨の穴を頂芽に通して固定し、若枝が硬貨の穴を通ったまま成長するようにして硬貨が生ったように見せかけ、一種の縁起物的な販売方法をとったためとする説や、葉が丸っこく分厚い形でお金のように見えることからとする説があります。
英語でも、硬貨に似ていることから”Dollar plant” と言われているそうです。



「花の咲かせ方」
花を咲かせるためには、1年を通して水やりを控え、出来るだけ日光に当てます。そして、夏を過ぎたら絶対に切り戻しをしないことと、真冬の厳しい寒さ(0℃以下)や霜に当てないようにすることです。



我が家では、鉢は南側の玄関先に置き、夏の直射日光によく当てました。そして、土が乾燥しても水やりを控え、冬になって気温が低下すると、昼間は太陽に当て、夜は室内に入れるなど、前述の「花の咲かせ方」を忠実に実行しました。
その結果、11月には蕾がつき、12月中旬頃に花が咲き始め、現在では6分~7分位まで花が開いてきました。

管理さえ間違わなければ比較的簡単に開花させる事が出来る植物です。

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天皇陛下78歳の誕生日

2011-12-23 | 時事

天皇陛下は今日78歳の誕生日を迎えられました。
私たち日本国民は天皇陛下の御誕生日を心よりお祝い申し上げ、陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。

今年は東日本大震災の視察や外国大使との懇談など陛下のお仕事が余りにもお忙しく、蓄積した疲労から気管支炎が悪化して入院されました。
先月24日に18日ぶりに退院され、今月6日から国事行為を再開されていますが、報道によれば、今年は体調に配慮して誕生日の記者会見は取り止めになり感想文で人々からの気遣いに感謝を述べられたそうです。

・これまで訪問した地域を示された日本地図をご覧になる天皇陛下と皇后さま (写真は読売新聞より)(宮内庁提供)
     

天皇誕生日は第二次世界大戦までは「天長節」と呼ばれており、その始まりは奈良時代、光仁天皇(775年)の時だそうです。
戦前は天皇は神様として崇められており、その誕生日は「祝日」として扱われていました。

しかし戦後、天皇は神様ではなく「日本国民統合の象徴」という新しい意味を持つようになり、その事を受けて、天皇を神格化した行事ではなく、天皇の誕生日を純粋にお祝いし、国民と天皇との距離を縮めることを目的とした日として「天皇誕生日」が設けられました。

1948年からは、毎年宮中で祝賀の儀・宴会の儀・茶会の儀・一般参賀という催しが行われるようになり、現在も皇居の二重橋の門が開放されて、陛下は一般参賀者に答礼されています。

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冬至の「日の出」と「日の入り」時刻

2011-12-22 | 季節

今日12月22日は二十四節季の一つ「冬至」です。

昔から“冬至 冬中 冬初め”という言葉があります。
これは、冬至は暦の上では“冬という季節”の中間点ですが、実質的な冬はこれからで、むしろどんどん寒くなることを言い表した言葉です。
大阪地方でも漸く冬らしくなりかけたところであり、本格的な冬の訪れは年明けの1月から2月にかけてとなります。
従って、冬至とは、本格的な冬支度の始まりの日という捉え方が大阪・泉州地方では一般的のようです。

今日は冬至の日における「日の出」と「日の入り」の時刻について調べました。

冬至の日は、北半球では太陽の南中高度が最も低く、1年の間で昼の長さが最も短く、夜が最も長くなる日で、暦便覧でも「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明しています。
しかし太陽の出入り時刻については、一年で「日の入り」が一番早い日は、冬至よりも半月ほど前、「日の出」が一番遅い日は、冬至よりも半月ほど後になります。

国立天文台の資料によれば、冬至の日の大阪の「日の出」時刻は7時1分、「日の入り」時刻は16時51分となっています。
そして、1年で一番「日の入り」が早い日は今日より半月ほど早い12月1日~10日の16時47分で、一番遅い「日の出」は半月ほど遅い来年1月5日~12日の7時6分となっています。
なお、今日の大阪の「日の出」は午前7時1分、「日の入り」は16時51分です。そして、夏至の「日の出」は午前4時45分で、「日の入り」は19時15分であり、この6ヶ月間に「日の出」は2時間16分遅くなり、「日の入り」は2時間24分早くなっています。
従って、大阪では夏至と冬至の6ヶ月間に4時間40分昼間が短くなったことになります。

(参考)
お住まいの県庁所在地の日の出、日の入り時刻を知りたい方は下記へアクセスしてみてください。
   国立天文台 暦計算室 各地のこよみ
   http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/


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