らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ポンペイ遺跡

2022-07-29 | 旅行

先日、桜島の南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生しました。
気象台は、活動が非常に活発化しているとして、桜島では初めて噴火警戒レベルを最も高いレベル5の「避難」に引き上げました。
その後、火山活動が沈静化し、27日午後8時のニュースでは警戒レベルをレベル3の「入山規制」に引き下げ、有村町と古里町の一部に出していた「避難指示」を午後8時25分に解除しています。
火山の噴火では、過去にはイタリアで大災害をもたらした事例があります。

「2000年ほど前のヴェスヴィオ火山想像図」
今からおよそ2000年程前の西暦79年に、イタリア南部の町「ポンペイ」の北西方向そびえるヴェスヴィオ火山で大噴火が起こり、たった1日で麓のポンペイの街を焼き尽くすという大災害がありました。

今年1月14日~4月3日まで東京国立博物館で特別展「ポンペイ」が開かれていたのでご存じの方もおられると思います。
それに合わせたかのように、2月10日にはNHKBSで映画「ポンペイ」が放送されました。

私は10年ほど前にイタリア旅行でポンペイ遺跡を訪れたことがあるので、この映画に関心があって録画しておきました。
先日、録画していたその映画「ポンペイ」を観たので、今日は10年前を思い出しながらポンペイについて取り上げたいと思います。

・大噴火前のヴェスヴィオ火山とポンペイの街並みの想像図です。(ウィキペディアより)


「ヴェスヴィオ火山」
ヴェスヴィオ火山は西暦79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイの街は埋没しました。
嘗ては標高3000mを超える火山だったそうですが、度々の噴火で山が削られ、現在は1281mになっています。
1880年には山麓から火口まで登山電車が開通し、これを記念して作られた曲がご存じの『フニクリ・フニクラ』です。

・現在の「ヴェスヴィオ火山」です(2012年4月撮影)


「古代都市ポンペイ」
ポンペイ遺跡はイタリア南部のカンパニア州にある広大な遺跡です。
洗練されたローマ帝国の都市として繁栄していましたが、西暦 79 年にヴェスヴィオ山が大噴火したことで、街は大量の火山灰と軽石に埋もれました。
ナポリ湾の近くで発掘されたこの遺跡は、保存状態が良く、自由に探索することができることから、イタリア旅行でも見学コースに組み込まれていました。

ポンペイはヴェスヴィオ火山南東麓(ろく)の肥沃なな土地で、ナポリ湾に近く交通要地でもあったために、古くイタリア先住民のオスク人が集落をつくっていました。
紀元前8世紀にはギリシャの植民者が来住し、前7世紀にはエトルリア人も移住して都市国家に成長し、貴族共和政となったと考えられています。
その後、紛争や戦争を繰り返しながら急速にラテン化、ローマ化が進み、都市参事会制度(下記参照)も整いました。
ローマの富裕者も好んで別荘をつくり、劇場、神殿、バシリカ(市場、裁判所などに使われた施設)、浴場、凱旋門、柱廊、商店が続々と建設されました。
最盛時の人口は1万5000~2万を数え、カンパニアでも有数の壮麗な都市となり、その後も保養地として繁栄を続け、水道や舗装路も整備されました。

しかし、西暦63年2月に大地震に襲われ、住民が不安に陥っていたところ、西暦79年8月24日ヴェスヴィオ火山が大爆発を起こしたのです。
火山から10キロほど離れていたポンペイの街には高温の火砕流や火山灰、火山礫が降り注ぎ、街全体が6~7メートルもの火山灰に埋没し1万人以上が暮らす都市はたった1日で消滅してしまったのです。
(参考)
なお、都市参事会制度とは、北西ヨーロッパの諸都市で成立した制度で、上層市民を中心に同等の権利を持つ無報酬の参事会員(通常12名前後)から構成され,多数決による議決を行った制度です。

「ポンペイ遺跡」
「車道と歩道」
およそ2000年前にすでに車道と歩道が設けられていました。
通り(スタビアナ通り)の両側には家や商店が立ち並んでいました。



「大噴火で亡くなった人のレリーフ」
ヴェスヴィオ火山の大噴火に伴い、発生した二酸化硫黄や硫化水素などの有毒ガスによって、ポインペイでは多くの人が亡くなり、膨大な量の火山灰が降り、人々の上に積りました。
長い年月が経つと、人間や動物の肉体は腐食し、微生物による分解でなくなります。その結果、火山灰の中が空洞化します。
考古学者等はそこに石膏を流し込み、石膏が固化した後、火山灰を取り除くことで人や動物のレリーフができあがります。
この方法によって、往年の人々の顔の表情や容姿、衣服から装飾品までがレリーフで再現されているのですが、その数は1200体に上ると云われています。



「ジュピター神殿跡」
ポンペイ最初の守護神はアポロでしたが、次第にアポロへの信仰心が失われ、ジュピターが最高の神として崇められるようになったそうです。
ジュピター神殿の両側には二つの立派な凱旋門があり、広場全体が回廊で囲まれた、大きくて荘厳なものだったようです。



「フォロ(公共広場)」
ヴェスヴィオ火山の大噴火による火山灰の深さは6~7mにもなり、その重みで建物の屋根は殆ど崩壊し、柱や壁だけが残っているものです。
この壁の奥に太陽の神「アポロ神殿跡」があります。



「メイン道路」
およそ2000年前のポンペイのメインストリートで「アッボンダンツァ通り」です。
全長は約1㎞、車道と歩道に分かれており、飛び石を置いた横断歩道もあります。



「轍(わだち)の後」
スタジア通りにはおよそ2000年前の轍(わだち)の跡が今もそのまま残っています。



「商店跡」
商店の入口扉の溝跡です。一般住宅にはこの溝がなく、これで住宅と商店の区別ができるそうです。



「パン屋」
パン屋の跡です。右がパン焼きがまのようです。



「住宅の玄関」
およそ2000年前の玄関のタイルです。
タイルの奥が家屋で、その奥に庭があったそうです。



「公衆の水道」
顔の口から水が出て、石の中に溜まり、溢れた水は左右の石を削っているところから流れるようになっています。



2000年前と言えば、日本では弥生時代の中期に当たります。
稲作とともに、青銅器や鉄器など金属器が伝わり、銅鏡や銅鐸などが作られ、お祭り宝物として使われるようになった時代です。
この時代にイタリアでは都市国家が出来ていて繁栄していたのです。
古代ローマ帝国の先進性が見て取れますね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野沢菜

2020-08-27 | 旅行

今年のお盆はコロナで帰省自粛が呼びかけられていたことから、帰省を控えた方やオンラインで帰省された方が多かったと思います。
そんな中、非難されるかも知れませんが、我が家では長男一家が自粛要請を知りながら帰ってきました。
途中、長野県を経由して帰省したことから野沢菜漬けを手土産に買ってきてくれました。
そこで今日は野沢菜について調べてみました。

・手土産の野沢菜の袋です。


長野県の名物「野沢菜漬け」は野沢菜を漬けたものですが、この野沢菜と呼ばれる野菜は草丈1mほどに成長する蕪ですが、元々はナニワの名産である天王寺蕪だそうです。
ところが天王寺蕪は1mに成長するような大きな野菜ではありません。
なぜ、小さな天王寺蕪がこのように大きくなって野沢菜となったのでしょうか?

「野沢菜の誕生」
野沢菜は、宝暦年間(1751年~1763年)に、野沢温泉村の健命寺(けんめいじ=曹洞宗)8代目住職の晃天園瑞(こうてんえんずい)和尚が京都遊学の折に、京都・大阪で名産の天王寺蕪の種を持ち帰り、栽培をしたことが始まりとされています。
その種を寺の庫裡裏の畑にまいたところ、蕪が小さく、葉柄が大きい天王寺蕪とは違った蕪が育ちました。
野沢温泉は標高が600メートル近くあり、積雪量の多い高冷地のため、温暖な西国育ちの天王寺蕪が突然変異をおこして野沢菜が誕生したと伝えられています。

・これが天王寺蕪です。(ウィキペディアより)


「野沢菜の由来」
江戸時代や明治時代には、野沢菜は野沢温泉村でしか流通していなかったため、「蕪菜(かぶな)」と呼ばれていましたが、大正時代になると野沢温泉村にスキー場が開設され、スキー客や湯治客がたくさん訪れるようになりました。
その人たちが蕪菜の漬け物の美味しさに感激して「野沢菜漬け」と愛称を付け、それが全国的になって野沢菜、野沢菜漬けという呼び名が定着したと言われています。

・野沢菜です(ウィキペディアより)


今では全国的にその名を知られる野沢菜漬けは、信州を代表する漬物となっていますが、その原点は、ナニワの名産・天王寺蕪ということでした。
ならば、天王寺蕪を漬けても美味しいのかも知りませんが、残念なことに、大阪府民でありながら、天王寺蕪はまだ食べたことがありません。
食べているのは自家栽培している小さな蕪だけですが、それでも蕪は美味しいですね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(13)龍山寺

2019-05-19 | 旅行

JTB[旅物語]が主催する台湾旅行、「たっぷり10都市 はじめての台湾 5日間」のツアーは、今回の「龍山寺」の見学を以って最終となります。
龍山寺は"台北最強のパワースポット”と言われている観光名所です。
その龍山寺をご紹介して「台湾旅行」シリーズを終わりたいと思います。

「龍山寺」
龍山寺は清時代に建てられた台北最古のお寺で、故宮博物館や中正紀念堂などと並ぶ台北の一大観光名所となっています。
この寺院は清時代の乾隆3年(1738年)、大陸福建省泉州から渡ってきた漢民族の移民たちによって創建され、福建普江安海龍山寺の分霊を勧請しました。
その背景には、漢民族が台湾北部へ移民してきた当時、余りにも地の環境が悪く、「三在六亡一回頭」といって、移民してきた10人のうち3人が残り、6人が死亡し、そして1人は帰国すると言うような状態だったことがあるようです。
このようなことから、龍山寺には、「神様に保護していただけるように」という移民たちの切実な想いが込められているのだそうです。



龍山寺は創建以来、約280年経つ台北で最も歴史のあるお寺で、願い事をすればご利益があるとして地元の人からも厚い信頼を受けています。
拜拜の日(旧暦の1日と15日)やお正月は参拝者で境内が埋め尽くされ、身動きもとれないほどの盛況だそうです。

龍山寺の正式名称は「艋舺龍山寺(もうこうりゅうざんじ)」で、艋舺は現在の萬華地区の意味で台北発祥の地と言われています。
伝統的な中国の 四合院宮殿式を採用し、北を背に前殿、本殿、後殿、左右の鐘樓、鼓樓と回廊で「回」の形に構成されています。
道教や儒教の影響を受けていますが基本的には仏教寺院で、本尊には観音菩薩を祀っています。

第二次世界大戦中には、米軍の空襲により本殿が全焼する大惨事だったにもかかわらず、この観音菩薩像だけはまったくの無傷だった為、当時、観音様のお膝元は絶対安心だと信じられ、空襲の度に人々は龍山寺に集まったと言われています。
現在の伽藍(がらん)は1953年に再建されたもので、今も昔と変わらず龍山寺は台灣の人々の心の寄りどころとなっています。



龍山寺は、芸術的価値も高く国の二級古跡に指定されています。
そり返った屋根の上の龍や鳳凰(ほうおう)は色鮮やかな瑠璃細工でできていて、その精巧さは目を見張るものがあります。



「銅雕龍柱」
本殿前方の左右に配された一対の「銅雕龍柱」。
1920年代の作品で、台湾では石製の柱が一般的ですが、台湾唯一の銅製の龍柱だそうです。
立体感溢れる龍が見事に表現されています



「おみくじ」
台灣のお寺でよく目にする赤い三日月型のおみくじ(筊杯)、正確な引き方はちょっと複雑です。
①筊杯(ジャオベイ)を1セット胸の前に持ち、氏名、住所、生年月日、お願い事を神様に伝えます。
②筊杯を手中から地面に落とします。
③落ちた筊杯の表(平面)裏(ふくらみ)の組み合わせを見て、神様の心意を読みます。

  ・聖杯(裏と表)    > 願い事が聞き入れられました
  ・笑杯(両面とも表) > もう一度お願いしてください
  ・怒杯(両面とも裏) > もう一度お願いしてください

※聖杯(裏と表)が出るまで筊杯を落とし続けます。

⑤聖杯(裏と表)がでたらおみくじを引いて、番号を覚えます。
⑥その番号が正しい答えか確認するため、もう一度筊杯を落とします。
⑦聖杯(裏と表)が出たらそれが最終的な答えという意味です。横に設置してある木箱から同じ番号のおみくじを取ります。
⑧笑杯(両面とも表)、怒杯(両面とも裏)がでたら①からやり直します。

ファイナルアンサーを得るまでに、何度も神箸を落とす人もいれば、不思議とすんなりと番号をゲットできる人まで様々なのが面白い台湾版おみくじです。


「鐘鼓樓」
龍山寺の境内の総面積約は1800坪で、御本尊を祀った本殿を中心にして、周囲に前殿、東側の鐘楼、後殿、西側の鼓楼が配置されています。



「龍山寺の神様」
龍山寺には、100以上の様々な神様が祀られいますが、そのためご利益を求めて集まる人が多く、特に旧暦の毎月1日と15日そして正月は指定参拝日となっており大変混みあいます。

龍山寺に祀られている神様の中で女性に人気があるのが安産と恋愛の神様です。
特に恋愛の神様である「月下老人」のところではおみくじを買うと赤い糸がもらえます。この赤い糸を大事にもっていれば結婚相手に巡り合えると言われています。

本殿に祀られているのはすべで仏教の神様です。
そして後殿には主に道教の神様が祀られています。こちらは学問や商売、子宝、恋愛などそれぞれの分野によって分かれています。

学問の神様「文昌帝君」
「文昌帝君」は学業と試験の神様です。
台湾の受験シーズンの5~6月になると、たくさんの受験生やその保護者が詰めかけます。
合格祈願は神様に名前と住所、生年月日を告げて、「○○に受かりますように!」と願い事をし、神様の前にある「准考證影本放置處」に受験票のコピーを投函します。



「關聖帝君」
商売繁盛の神様です。


「中華民国総統府」
ガイドさんが中華民国総統府(ちゅうかみんこくそうとうふ)を示してくれたので撮影しました。
中華民国総統府は、中華民国の元首および首脳である中華民国総統が執務をおこなう官邸です。
この建物は日本統治時代の1919年3月31日に完成した建物(設計:長野宇平治)で、台湾総督府として利用されていました。

第二次世界大戦末期の1945年5月31日、アメリカ軍による空襲によって内部が全焼し中にいた職員の多くが死傷、建物も大きく破損しました。
大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、1948年に蒋介石総統の生誕60周年を記念して修復し、「介寿館」と名を改めたそうです。
1963年、室内の大理石を補充したのに続いて1978年と2001年にも庁舎を大規模に修理をおこなっています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(12)故宮博物院

2019-05-17 | 旅行

「初めての台湾5日間」の旅も、いよいよ最終日になりました。
この日は午前中に「故宮博物院」と「龍山寺」を見学し、午後ショッピングをした後、空路、関西空港に向けて帰国する日程となっています。
そこで今日は「故宮博物院」の素晴らしい文物の一部をご紹介することとし、「龍山寺」については次回に取り上げたいと思います。

「国立故宮博物院」は台北市にあって、中華民国(台湾)の有名な観光地であり、数多くの資料を所蔵しています。
この博物院はフランスの「ルーブル美術館」、アメリカの「メトロポリタン美術館」、ロシアの「エルミタージュ美術館」と並ぶ、「世界四大博物館」のひとつで、 古代から近代まで、約70万点の貴重な資料が収蔵されています。
ただし、常時展示されている文物は有名な宝物を含む、およそ6000~8000点であり、数ヶ月おきに入れ替えられているそうなので、すべての作品を見終わるまでには、最低10年程度は要するということです。

・故宮博物院の全景です。


「故宮博物院の歴史」
故宮博物院の歴史は、清(1644~1912年)の滅亡に始まります。
中華民国は、清朝最後の皇帝・溥儀を紫禁城から追放し、1925年に紫禁城を故宮博物院とします。
これにより人々は歴代皇室と宮廷が所蔵していた貴重な文物を見ることが可能になり、また博物院は中華の文化遺産を末永く後世に伝える施設になったのです。

しかし、1937年には、盧溝橋事件から日中戦争が勃発しました。
戦火を逃れるために博物院の文物は避難を余儀なくされましが。そして、さらに戦火が拡大すると、宝物も中国中を大移動することになり、重慶、明、楽山などを転々とし、四川省南渓の李荘に安置されました。

1945年、第二次世界大戦が終結すると、奥地に移されていた文物は南京へと戻されました。
しかし、国共内線で共産党軍が首都南京を脅かすようになり、蒋介石率いる国民党軍は1949年4月、宝物5万箱を台湾に移送したのです。
その年の10月に中華人民共和国が成立し、12月に国民党軍は台湾に移りました。

その後、台湾に移送された文物は17年間倉庫の中で保管されていましたが、1965年に現在地に故宮博物院が完成し、全面的に一般公開され現在に至っています。

「主な展示品」
「翠玉白菜」
翠玉白菜(すいぎょくはくさい)は、翠玉(翡翠)を、虫がとまったハクサイの形に彫刻した美術品で、故宮博物院を代表する名品の一つです。
翠玉白菜の大きさは高さ18.7センチメートル、幅9.1センチメートル、厚さ5.07センチメートルで、手のひらよりやや大きいくらいのサイズです。
原石は、半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、原産地は雲南からミャンマーだと推測されています。

原石には空洞などの欠陥箇所もありますが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされているということです。
上部の緑色で白菜の色を再現していますが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものだそうです。



「肉形石」
肉形石(にくがたいし)とは、清朝時代に作られたとされる長さ5.3センチメートル、幅6.6センチメートル、高さ5.7センチメートルの東坡肉(とんぽーろー;豚の角煮の一種)を模したとされる彫刻です。
素材は、粘土鉱物などを含んだ不透明な六面体の玉髄(ぎょくずい)で、含有物が層状に積み重なったことで生じる縞模様があります。
皮となる面には、豚肉の毛穴や粗い肌触りを表現するとともに、染料がとどまりやすくするため、びっしり小さな穴があけられています。
おいしそうな赤身と脂身の混じった「肉形石」は、「東坡肉(豚の角煮)」にそっくりです。



「毛公鼎」
毛公鼎(もうこうてい)とは権威を象徴する礼器として使用されていたものです。
刻まれている銘は32行、500文字で、世界で最も長い銘文と言われており、内容は、周王が周朝復興に功労があった毛公一族を称えたものになっています。
獣に似せた3本足に楕円形のカメ型という西周晩期の青銅器の特徴を表したこの形は、2800年以上も前のもので、もとは料理に使用したものでしたが、後に権威を象徴する礼器として使用されるようになりました。



「象牙(彫象牙透花雲龍紋套球)」
象牙作品の「彫象牙透花人物套球」は、19世紀に清代の象牙彫刻職人によって制作された直径約12センチの象牙球です。
透かし彫りで幾何学模様が施されており、24もの層からできています。
球体に整えた象牙に中心に向かって穴を開け、直角に曲がった鈎を用いて自在に動く球を一層ずつ掘り出し、さらに各種装飾を施すという、緻密で複雑な手法が用いられています。
受け皿となる象牙の台座にも、繊細な細工が施され、清代後期の象牙工芸品の代表作と言われています。
100年以上の歳月をかけ、親子3代に渡って制作された作品だそうで、その繊細な彫刻と存在感は館内でも群を抜いています。

・ピントが合ってなくて画像が不鮮明ですが、彫刻は素晴らしいものでした。

「翡翠の屏風」
翡翠でできている屏風です。
元々は中国から寄贈されたものであり、昭和天皇のもとにあったそうですが、終戦後に中国に返却されたようです。
48枚の翡翠でできていて、表裏の彫りがまったく同じとなっていますが、これは、裏も表もないということから誠実を表しているそうです。



「黄玉 髄三蓮章」
チェーン部分も含め、一つの石から作られているため、一切の継ぎ目がありません。

・これもピントがあっていなくて不鮮明ですが、見事な彫刻でした。
 

「藍地描金粉彩游魚文回転瓶」
魚が泳ぐ回転瓶です。
外瓶の深い藍地の窓から覗く内瓶のなめらかな白色は、無線七宝(むせんしっぽう)のぼかしによって、生き生きとした游漁の姿が際立ちます。内瓶を回転することで、游漁が4面の窓から遊泳する姿が見えるという仕組みとなっています。

「陶製の童子枕」
「白瓷嬰兒枕」です。
これはパンフレット載ってる有名な枕です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(11)台北圓山大飯店

2019-05-15 | 旅行

台湾旅行4日目の夜を迎えます。
今夜のホテルがこのツアー最後の宿泊となりますが、私たちの一行が宿泊するホテルは「福華大飯店台北」と「台北圓山大飯店」に分かれました。
このツアーを申し込む時には気が付かなかったのですが、最後の宿泊ホテルは前者の標準クラスと後者の豪華ホテルのオプションとなっていたようです。
私たち夫婦は気が付かなかったので標準ホテルだったのですが、ツアー参加者24名の内10名がオプションの豪華ホテルを申し込んでいました。
オプションを申し込んでいた10名を「台北圓山大飯店」まで送迎したことから、豪華ホテルのロビーなどを見学しました。
今日は豪華ホテルの一部をご紹介します。

「台北圓山大飯店」 の門
ここは戦前の日本統治時代には「台湾神社」があったところだそうで、戦後の国民党政権下で迎賓館へと変貌しました。

・豪華ホテル「台北圓山大飯店」の入口門です。


「台北圓山大飯店」
台北圓山大飯店は1952年に蒋介石夫人である宋美齡氏が建てた、台湾第1号の5つ星ホテルです。
ホテルの説明によれば、このホテルは圓山の中腹に高く聳え、前方は基隆河、後方は陽明山、東は松山、西は淡水が一望できるようです。
本館は中国宮殿様式を取り入れた14階建て建物で、赤い柱と金の瓦の堂々たる優雅な外観をしており、豪華絢爛な雰囲気が芸術的な美しさを際立たせており、台北市のランドマークの1つとなっています。



宿泊していないので内部施設などの豪華さは分かりませんが、ネットによると、居室、ロビー、レストランなど、いずれも古さは感じますが、豪華なだけでなく作りもメンテも行き届いており、欧米の「グランドホテル」以上の印象だと言うことです。

室内です(ネットより)


蒋介石夫人である宋美齡氏と言えば、宋家の三姉妹の中でもっとも長生きした方であり、この「台北圓山大飯店」はその宋美齢が建てた台湾の元迎賓館です。
かつては国際的なVIPだけが宿泊を許された特別な場所で、世界のトップホテルの栄誉に輝いたホテルなのだそうです。
VIP避難用の隠し地下通路等もあって事前に申し込めばそちらの見学もできるそうです。




「台北圓山大飯店」のエントランスです。


「ホテルのロビー」
ロビーには自由に入れるので入ってみました。
バイオリンやピアノの生演奏をしており、私たちが入った時には日本の曲「上を向いた歩こう」をバイオリンで奏でていました。



このホテルは1967年に、アメリカの「Fortune」誌において世界10大ホテルに選定されたそうです。
また翌年には、アメリカの「ホリデイ・マガジン」において「一流ホテル」に入選し、「都会の喧騒に佇むオアシス」と称されました。

圓山大飯店は当時から世界のホテル業界において屈指の存在であり、現在に至るまで各国元首、使節、政府要人、著名人など2000名以上を招待しているそうで、過去には、アメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領、タイのプミポン国王、韓国の朴正熙大統領、日本の佐藤栄作首相、シンガポールのリー・クアンユー首相なども当ホテルに宿泊されたそうです。

・ロビーの正面に掲げられている彫刻です。


更に、イランのパフラヴィー国王や、ヨルダンのフセイン国王、サウジアラビアのファイサル前国王が台湾に来訪の際もこの圓山大飯店に宿泊されたということです。

・ロビーの正面に掲げられている彫刻前からのロービーです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(10)「十分」と「九份」

2019-05-13 | 旅行

台中観光で日月潭湖畔の文武廟を見学した後、バスで4時間ほど北上し、台北市の西に位置する新北市の「十分(じゅうふん)」へ行きました。
途中で、ガイドさんが説明されたポイントを車窓から撮影した画像を2枚ご紹介します。

最初は、1999年9月21日に発生した大地震で地滑りが起きたところです。
特に斜面沿いでは、隆起した軟弱な地面が低い方に崩れ、地滑りが多発して多くの建物や道路などが被害を受けたそうで、このような地滑りした所は20年経っても木が生えないと嘆かれていました。
地震国日本でも共感できるので撮影しました。

・地震で山崩れがあった個所です。


台北101
台北101(タイペイいちまるいち)は、台北市信義区にある超高層ビルで、「101」の名称は、地上101階建てと言うことでこれが由来となっています。高さは509.2m、地下は5階まであるそうです。
建設段階の名称は台北国際金融センター。7年間の工期を経て、2004年に世界一の超高層建築物として竣工しました。
設計は李祖原建築事務所、施工は熊谷組を中心としたJVにより行われた。総工費は約600億元(日本円では2400億円くらいでしょうか?)

・車窓からの「台北101」超高層ビルです。(升を8個重ねている形が特徴だそうです)


「十分(じゅうふん)の天燈上げ」
新北市十分の「天燈上げ」は観光客に人気のスポットです。
台湾ではランタン(天燈)に願い事を書き、空に飛ばすと願いが叶うとされており、十分駅はそのメッカとされている場所です。
十分駅は単線の平渓線が通っており、列車は日中約1時間毎に上下線1本がこの駅を行き交っていますが、列車がいない時間帯には駅から約300mの線路沿いに観光客の入場が許されており、この場所が写真撮影やランタン飛ばし(天燈上げ)を行うポイントになっています。

線路沿いには、飲食店・民芸品店・ランタン店は合わせて140軒あり、これらは線路すれすれの場所に位置しており、列車入線時には写真を撮る人や手を振る人で賑わいます。
ランタンは150元~、日本円にして約600円~(2017.8現在レート)であり、その色によって願い事の種類が分かれています。

・丁度列車が入ってきたので係員が記念撮影してくれました。(顔は隠しておきます)


4人一組でランタン(天燈)に願い事を書き「天燈上げ」を行います。
十分で何故、天燈を上げるのかというと、実は十分は神様の住んでいる場所に一番近い所と言われており、その神様に一番近い場所から天燈を上げると願いが叶うと信じられているのだそうです 。

・このように4人一組で四角いランタンの各面に願い事を書き、中のランプに火をつけて上昇させます。


大きなランタンの右側が私たちの組が上げたランタンです。


十分での「天燈上げ」の後、バスで1時間ほどの所にある「九份」の町へ行きました。

「九份」
九份(きゅうふん)は、台湾北部の港町基隆市の近郊、新北市瑞芳区に位置する山あいの町です。
この町は100年ほど炭坑で栄えた町ですが、現在は食堂や可愛い中華の雑貨やレトロな雰囲気が漂う町として観光客に人気がある観光スポットとなっています。

・このように狭いアーケード街となっており、観光客でごった返していました。


「阿妹茶楼(あめおちゃ)」
この茶房は「千と千尋の神隠し」のモデルとなったと言われている茶芸館です。
九份を代表する老舗茶芸館で豎崎路の階段道沿いに位置し、 瓦屋根に連なる赤提灯が魅せる独特な雰囲気を醸し出すお茶屋の「阿妹茶楼(阿妹茶酒館)」は、 かつての金鉱工場をリノベーションし再生しています。
こちらでは、お茶の時間を楽しむのはもちろんのこと、食事を楽しむことも可能です。
以前、宮崎駿
監督作品の「千と千尋の神隠し」の湯婆婆の油屋のモデルになったと噂され、 店側も全面的にそうPRしているため、常にジブリ映画ファンや日本人観光客に人気のお店となっているようです。



「阿妹茶樓」
湯婆婆の屋敷のモデルになったとも言われている阿妹茶樓(あめおちゃ)です。
阿妹茶樓(あめおちゃ)の入り口の横に飾ってあるこのお面は、カオナシのモデルになっているとか、いないとか。



湯婆婆の屋敷のモデルとなったと言われている「阿妹茶楼(あめおちゃ)」の建物です。



「阿妹茶楼(あめおちゃ)」から眺めた基隆港です。


炭坑に使われたトンネルです。
宮崎駿監督の千と千尋の神隠しにもトンネルが登場しますが、このトンネルがモデルとされているそうです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(9)台中観光「日月潭」「文武廟」

2019-05-11 | 旅行

旅程4日目の午前は前回に続き台中市の観光で、台中州庁と日月潭湖畔を見学しました。

「台中市政府庁舎(旧台中州庁) 」
台中州庁(たいちゅうしゅちょう)は、かつて日本統治時代に官公庁として使われた建築物で、完工後はまず台中州の庁舎として使用され、第二次世界大戦後は台中市の行政機関(台中市政府)として使われました。
現在は市の市定古蹟に登録されていますが、最初に使われたのが日本統治下だったため、古蹟の名義も中国語での一般的な用法の「州政府」ではなく、日本語由来の「州庁」のままとなっています。
この庁舎は現在も行政機関として使用されており、中では職員の人たちが仕事をしていましたが、観光客は仕事の邪魔にならないように見学することが可能となっています。
日本では考えられない観光施設ですね。

・台中州庁舎の正面玄関です。


綺麗に整備された台中州庁舎の中庭です。


「日月潭」
日月潭(にちげつたん)は、台湾南投県魚池郷に位置する湖で、ダムを除くと台湾で最も大きな湖です。
名前の由来は、湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこのように呼ばれています。

日月潭は、「阿里山」「太魯閣渓谷」と並ぶ、台湾を代表する景勝地で、海抜787mにある台湾最大の淡水湖です。
台湾の英雄「蒋介石」も愛した人気の観光スポットで、その神秘的な湖面の美しさは、世界中から観光客が訪れる人気スポットとなっています。

この地には以前、故蒋介石総統の別荘「蒋公行館」がありましたが、1999年9月21日に発生した、台湾中部を震源地とする大地震で倒壊しました。
行政院は、この地を日月潭観光発展の起爆剤とするため、同地を国際観光ホテル予定地への地目変更を許可し、約20億元(約55億円)を費やして、ギネスブックの記録を上回る黄金を多用した高級リゾートを完成させたのだそうです。

・右側中央の岡の上の建物が故蒋介石総統の別荘「蒋公行館」です。


文武廟は日月潭の湖畔の中でも少し高い場所に位置しているので、文武廟の美しい屋根越しに日月潭の絶景を拝むことができます。

・文武廟から眺めた日月潭です。


「文武廟」
文武廟(ぶんぶびょう)は台湾で最も大きな湖として有名な、日月潭の北側の湖畔に位置する大きな廟で、学問の神、孔子と武の神、関羽、岳飛を祭っている寺院です。
黄色の屋根に赤い柱、各殿の門扉に描かれた極彩色の絵など、中国的な豪華さを感じさせます。

・文武廟です。



建立は1938年で、1975年に再建されました。
中国宮殿式の廟としては台湾で最大級のものだそうです。



建物は山門側から奥に行くほど高くなっていて、順番に「拝殿」「式聖殿(正殿)」「大成殿(後殿)」の三層構造になっています。
一番手前の「拝殿」は主要な祭祀を行う場所で、その次の「式聖殿」に三国志などでおなじみの「関聖帝君(関羽)」や「岳武穆王(岳飛)」が祀られており、一番奥の「大成殿」には儒教の創始者「孔子」が祀られています。



廟は前殿、中殿、後殿の三殿様式になっており、前殿は文廟で文の神である孔子が、中殿は武廟で武の神である岳飛や関羽が祀られています。

・拝殿です。


・彫刻が施されている美しい大成殿の天井です。


「大成殿」

正面入口の扁額には「大成殿」と書いてありますが孔子廟のことです。中央祭壇(孔子像)

この龍の彫刻も美しく、特に海外からの観光客に人気のスポットとなっています。


・中央祭壇。孔子像が祀られています。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(8)台中観光 「宝覚寺」

2019-05-09 | 旅行

逢甲夜市を散策後、宿泊したホテルは「永豊桟酒店」で、3泊目にして初めて「酒店」ホテルに泊まりました。
多分、このホテルは中国系の人が経営しているのかも知れませんが、「酒店」ホテルも部屋は広く、ダブルベッドがツインに並んでおり、「飯店」ホテルと何ら変わっているところはなく、ツアーにしては立派な部屋を用意してくれていました。
さて、今日は台湾第3の都市、台中市内観光から「宝覚寺」をご紹介します。

「宝覚寺」
宝覚寺(ほうがくじ)は、台中市北区にある臨済宗妙心寺派の寺院です。山号は鷲屏山、金色の弥勒大仏像(布袋さん)で有名なお寺で、日本統治時代の昭和3年(1928年)に建立されました。

旧正殿は鼓楼式建築で、日本式寺廟建築の伝統的な要素を残しています。
この建物を保護するため、周囲に大型のコンクリート建造物を建築し旧殿を包み込んでおり、日本の中尊寺金色堂と同様、外側を大きな白い建物で覆っているお寺となっています。

・白いコンクリートの建造物の中に木造の旧正殿があります。


「本尊」
御本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ:釈迦如来のこと)です。


「笑う大仏さま(布袋様)」
本堂の右手奥に、金色の大仏様が鎮座しています。
大仏といっても、日本の大仏様とは違って、大きなお腹に袋を持ってニコニコ笑っている「布袋様」です。

台湾では、「布袋様」は「弥勒仏」の化身だったというのが通説で、この大仏様も台湾では「弥勒仏像」と呼ばれているそうです。
足元には「皆大歓喜」の文字が彫られており、皆が喜んでいられるように、という願いがあるようです。



「英魂観音亭」と「霊安故郷」の建立由来記



「英魂観音亭」
英魂観音亭」という観音堂です
日本国、陸海軍、軍人、軍属として戦場に散った台湾戦没者三万三千余柱の英霊の鎮魂慰霊碑です。


「霊安故郷」
強制的に南方の戦地に出征させられた台湾人が日本人として使命感を持って、自ら出征した人の慰霊塔です。
題字の「霊安故郷」は李登輝元総統の揮毫です。


「日本人墓地」
これは日本統治時代に台湾で亡くなられた日本人の方々の共同墓地で、その数は1万4000名とも言われています。
第二次世界大戦の敗北で、以前の共同墓地が廃棄されそうになったとき、「宝覚寺」の方が慈悲の心でここに移設していただいたようです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(7)台中市「逢甲夜市」

2019-05-07 | 旅行

前日に落石事故があったことから、タロコ渓谷の観光は中止しとなり、入り口まで行って引き返した後、私たちは旅程に従って、花蓮駅から在来線の特急列車で台北に行きました。
台北では、免税店で買い物をした後、台中市までをバスで移動したのですが、その間、台北市、桃園市、新竹市など台湾の市街風景を眺めながら3時間ほどのバスの旅を楽しみました。

・台北の駅ビルです。


「ザ グランド ホテル (圓山大飯店)」
バスの窓越しに眺めた「ザ グランド ホテル (圓山大飯店)」です。
円山大飯店(えんざん/まるやま-だいはんてん)は台北市に位置する中国建築が特徴のホテルで、台湾神宮の跡地に建設されており、台北のランドマークになっています。
かつては、世界の10大ホテルに選ばれる程の最高級ホテルで、外国の要人の方だけしか泊まれなかった由緒あるホテルだそうです。
詳細については旅程の5日目にご紹介します。



「逢甲夜市(ほうこうよいち)」
台北から3時間弱バスに乗って台中市に着いた頃には日が暮れており、その足で逢甲夜市を散策しました。
逢甲夜市(ほうこうよいち)は、台湾第三の都市・台中市の西屯区に位置する観光夜市で、1963年設立されたそうです。
ここの夜市は台湾最大の夜市の一つと言われています。

「夜市」
夜市(よいち、よるいち)は、主に中華圏や東南アジアを中心に存在しており、夕方から真夜中に営業する屋台、露店、雑貨、売店、移動販売などの集合体をいいます。
特に熱帯や亜熱帯地域においては、昼間の暑さを避けて比較的快適な夜に人々が外出するために夜市が発展しているようです。
お寺、大学、駅、公園、川沿いなどを中心に発展している事が多いということです。



「夜市の由来」
隋や唐の時代、市場は厳格な規制を受けており、官吏の管制で開店や閉店時間が決められていました。
その後、晩唐の時代に長安の崇仁坊で夜市が始まったと言われており、後に、洛陽、開封、揚州などに発展して行ったようです。

夜市は、東南アジアの熱帯および亜熱帯地域では、昼間の高温を避けるため夜市が自然に発展していき、庶民の憩いの場・生活の場として愛されていますが、特に台湾では夜市が観光資源として重要な役割を果たしています。
しかし、国が豊かになり、道路占有や食品衛生に関する法律が整備され、人々の嗜好も変化していく中、かつて日本の大都市から屋台が姿を消してしまったような事が起こる気配もあるということです。



「夜市の種類」
・「観光夜市」
観光夜市に明確な定義は無いが、国内外を問わずに多くの人を集めようとする夜市の事で、夜市の入り口の門に「○○観光夜市」と書かれていることがあります。
観光客が多く集まる大型のものから、地域に密着した小型のものまで幅広く、
台湾では、・南部台湾の中正夜市
       ・中部台湾の逢甲夜市
       ・北部台湾の公館夜市や師大夜市
などがあります。

・「屋台夜市」
屋台を中心とした夜市で、夕刻になると、道の両脇に屋台が次々と現れ、通りが夜市となります。

・「学生夜市」
学生を対象として学校の周りに発展した夜市を指します。
学生の授業時間、休憩時間、休日(夏休み、冬休み、連休、期間テストなど)に合わせて営業します。
交通の便が良く、規模が大きくなると、普通の観光夜市と遜色ない物もあるということです。



「逢甲夜市」
「逢甲夜市(ほうこうよいち)」は私立総合大学である逢甲大学前の商店街として始まったことから「学生夜市」でしたが、今では家族連れや国内旅行の団体さん、外国人ツアーなど様々な人々であふれかえっている「観光夜市」となって逢甲商圏をつくり、現在、台湾一大きな夜市となっています。
私たちが散策した当日も観光客であふれかえっていました。

・賑わう夜市です。


・豚の丸焼きロールやハムのネギ巻き、かわいいイチゴ飴などなど、色々な物が売られています。 
 でも、ガイドさん曰く、生物は食べない方がいいですよ!お腹をこわすかも知れませんから。 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾旅行(6)花蓮「太魯閣(タロコ)」

2019-05-05 | 旅行

北回帰線を見学の後は、今日の宿泊地である花蓮市に行きました。
ホテルは「花蓮煙波大飯店」で、この日のホテルも「大飯店」でした。

今回の台湾旅行において、出発前日の4月18日午後2時ごろに、台湾の花蓮県でM6.4の大地震が発生し、その震源地が花蓮市のタラコ渓谷付近でした。
この地震では17人が負傷しており、更に、4月19日にはタロコで韓国の観光客が乗った観光バスに落石があり、バスの屋根に大きな穴が開いて乗客が負傷すると言う事故があったことなどから、タロコ観光を実施するかどうかツアーを主催した日本と台湾の旅行会社が真剣に検討したようです。
結局、安全を最優先して渓谷の観光は中止となり、渓谷の入り口で引き返すことになりました。
そこで、「太魯閣(タロコ)渓谷」内容についてはネットから画像を拝借してご紹介します。

・韓国の観光バスに落石があった記事を載せている現地の新聞です。


「太魯閣(タロコ)」
太魯閣(タロコ)と呼んでいますが正式には太魯閣国立公園のことです。
太魯閣国立公園は台湾中部、花蓮県の山部にあり、南北に約38Km、東西に約41Km、総面積は9万2000ヘクタールに及びます。
そして、一番の見どころは、太魯閣渓谷です。
花蓮県を流れる立霧渓が太魯閣の大理石を侵食して形成された渓谷には高山、断崖、滝など豊かな自然美を見ることができます。

「名前の由来」
その昔、德魯古族人「Taruku」が中央山脈を東に向かって移動している際、高く険しい渓谷の姿が気に入ったため、そこに残り、泰雅族(タイヤル族)の人々と一緒に暮らしていました。
時が過ぎ日本統治の際、日本人は「Taruku」という音を発音出来なかったため「Taroko」という音に修正し、「大魯閣」という漢字を当てたようです。この漢字には勇者の開拓精神という意味があるそうです。
その後、国民党が台湾に来た後「太魯閣」と漢字を変更し現在に至ります。(名前の由来には諸説あります)

「タロコ渓谷入口」
太魯閣観光の出発地には中華風の赤い門が立っています。
この門には「東西横貫公路」と書かれています。この路は花蓮と台中結び、標高3000mを越える中央山脈を通る壮大な路となっています。
この路を右に折れればビジターセンターが、そのまままっすぐ行くと太魯閣渓谷に続きます。

・この入口までは行きましたが、これから先は危険と言うことで、私たちはここから引き返しました。


・ガイドさんの説明によれば、原住民の酋長の石像だそうです。


「タロコ渓谷」
タロコ渓谷は約4~5百万年前、フィリピン海プレートに属するルソン弧とユーラシアプレートの衝突によりユーラシアプレート上の堆積物が圧縮、隆起して山脈が形成され、台湾が序々に姿を現しました。
タロコ峡谷を通る中部横貫公路は手作業で岩を削って開いた道路だそうです。
1956年7月7日着工、連日5~6千人を動員し、台風や地震、豪雨の危険に曝されながら、死傷者の続出、機材の破損を乗り越えて、建設工費4億3千万元、3年9ヶ月と18日の歳月を費やして、ようやく1960年5月9日全線開通しました。

「燕子口(えんしこう)」
峡谷が最も狭まったところがこの燕子口です。
対岸の岩肌には水の浸食による無数の穴が開いていて、イワツバメが毎年この峡谷に飛来するため、この穴で巣作りをすると言い伝えがあります。

・これ以降の画像はネットより借用したものです。


・画像はネットより借用したものです


「大断崖」
大断崖は峡谷の両側にそびえ立つ高さ200mもの一枚岩です。
この岩は、横幅はなんと1.2kmにも及び、ここは道路建設で最大の難所でもありました。

太魯閣国立公園の大理石峡谷は、もっとも美しいと言われている場所で峡谷最大の見どころだそうです。
 湾曲した峡谷は幅が更に狭くなり、岩壁の大理石の美しい褶曲模様、断層、節理などじっくり鑑賞する事ができ、そして断崖絶壁の大理石狭谷の間を縫う様に美しい川が流れ、かつて人を寄せ付けなかった大自然の驚異が実感できるようです。

・画像はネットより借用したものです


「長春祠(ちょうしゅんし)」
断崖に沿って通る東西横貫道路建設は難航を極め、212名の関係者が殉職しました。
その霊を祀っているのが太魯閣国立公園入り口の近く、絶壁を背に建てられた中国風の建物、長春祠です。
この辺りは崩落しやすい地層のため、落石によってこれまでにも二度も全壊しており、現在のものは1997年に再建されたものです。

・画像はネットより借用したものです


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする