らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

物言えば唇くちびる寒し秋の風

2019-09-30 | 趣味

朝、夕は秋らしくなりましたが、日中はまだまだ暑い日が続いています。
一日も早く秋を感じて頂きたく、季語が「秋」の俳句をご紹介したいと思います。

俳句と言えば松尾芭蕉ですが、芭蕉の数ある秋の句の一つに、「物言えば 唇寒し 秋の風」があります。

この句は芭蕉が純粋に秋の情景を詠んだ句で、その意味は「何かしゃべると冷たい秋の風で唇が寒いことよ」ということなのですが、現在、私たちがこの句について理解している意味は、「人の短所を言ったあとは寒々とした気持ちに襲われる」、「うっかりものを言うと、それが原因となって災いを招く」という風に解釈されているのです。
実際、広辞苑にも、「人の短所を言った後には、淋しい気持ちがする。なまじものを言えば災いを招く」と説明しています。

では、なぜ、秋の自然な情景を詠んだこの句が、このように人生訓のような意味に解釈されるようになったのでしょうか?
調べてみると、この句には前置きがありました。
その前置きとは、「人の短をいふ事なかれ 己が長をいう事なかれ」です。

そこで、改めてこの前置きを置いて句を詠んでみると、
        「人の短をいう事なかれ 己が長をいう事なかれ」「物言えば 唇寒し 秋の風」となります。

こうしてみると、確かに、「人の短所や自分の長所をあげつらって言うと、なんだか虚しい気がする」といった意味に感じてきますね。

この前書きは、 芭蕉が亡くなった2年後の元禄9年(1697年)に芭蕉の弟子の中村史邦 (ふみくに:本名-中村荒右衛門)によって編纂されたものですが、この前置きを加えたことによって、純粋に秋の情景を詠んだ芭蕉の俳句が人生訓のような意味に解釈されるようになり、現在に至っているようです。

この句を是非とも詠んでほしい人が隣の国にいます。
その人は、「告げ口外交」しかできない、かの国の大統領です。
この人は、平気で嘘をつくことから、日本、アメリカには勿論、中国、北朝鮮にもそっぽを向かれ、四面楚歌の状態になっています。
にも拘らず、自分の保身だけを考えて、国民を反日に煽動し、外国に対してもうそを言ったり反日の「告げ口外交」をし、国民に対しては国内経済は順調だと嘘の情報を流しているのです。
この様なことから、この国の経済破綻は時間の問題と言われています。
でも、手を差し伸べる国はどこにもありません。
静かに破綻の道を歩むだけです。

この人にこの俳句を詠んでほしいのですが、このような人にはこの俳句の意味は理解できないでしょうね。
無駄なことでした。 
失礼しました。


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日本は何故「JAPAN」

2019-09-28 | 雑学

英語で日本は「Japan」と言います。
「Nippon」ではありません。
なぜ、「日本」と発音が似ても似つかない「Japan」になったのでしょうか?
調べてみると、この英語表記は勘違いから生まれたのだそうです。

日本を始めてヨーロッパに紹介したのは、皆さんよくご存じのイタリアの商人で旅行家のマルコ・ポーロです。
マルコポーロは1271年から1295年にかけて中央アジア・中国を旅し、その紀行として「東方見聞録」を記しました。
その中で日本を「ジパング」と紹介したのです。
何故、「ジパング」だったのかというと、中国人から聞いた日本の発音「ジペンクオ」を「ジパング」と勘違いしたからです。

マルコ・ポーロは実際に日本に来たわけではなく、中国の人から日本のことを伝え聞いていました。
つまりマルコ・ポーロが聞いた「日本」は、中国語の「日本」だということであり、その中国人は福建語で日本のことを「ジペンクオ」と言ったのですが、それを「ジパング」と勘違いし、そのまま書いてしまったということです。
そこから生まれたのが「Japan」という英語表記なのです。

イタリア語の「ジャッポーネ」、フランス語の「ジャポン」やスペイン語の「ハポン」、ドイツ語の「ヤーパン」なども全てマルコポーロの勘違いから生まれた「Japan」がもとになっています。

では中国では元々日本を何と呼んでいたのでしょうか?
これには諸説があり、また時代や地域によっても異なりますが、例えば、単に日本を中国語で発音した「リーベン」または「ジーベン」と呼んでいた時代もあれば、「ジッポン」や「ジッパン」と呼んでいた時代もあります。
「ジッポン」の場合は「日(ジツ)、本(ポン)」と読んだようであり、比較的「ニッポン」に近い発音になっていたようです。
 広い国土に多くの民族が住む中国なのでいろいろな呼び方があったようですが、たまたま聞いた福建語の「ジペンクオ」をマルコ・ポーロが勘違いしたことにより、日本の英語表記が「Japan」になったということです。

もし、マルコ・ポーロに、「ジッポン」と紹介していたら、英語表記が「Nippon(ニッポン)」になっていたかもしれませんね。


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「雷」の発生原理

2019-09-26 | 季節

昔から「地震、雷、火事、親父」と怖いものを例えて言われてきました。
この中に「親父」が入っているのは、地震、雷、火事などの災害に匹敵するほど親父が怖かったからです。
年長の男性によって支配される家族制度時代には、家長として権力を持っていたことから怖かった「親父」ですが、現在では、やさしい親父に変身しており、前述の4つの怖いものから「親父」だけ抜け出たような気がします。

でも、地震と雷、火事は依然として怖いものの中に君臨しています。
特に地震については、地震国日本では毎年全国どこかで地震が発生して、甚大な被害が発生しています。
火事も、2か月ほど前には「京アニ」への放火事件もあり、35人もの尊い命が奪われるという痛ましい事件がありました。
失火による火災もあって、生命や財産が一挙に失われます。

では「雷」はどうでしょう?
昔は、落雷によって死亡したり火事になったこともニュースで報じられていました。 現在ではあまりニュースで報じられませんが、それでも年間20名前後の人が落雷事故によって亡くなっているようです。

今日は怖い雷についてその発生原理について調べました。
落雷害の月別件数は、2005~2017年の12年間に気象官署から報告のあった落雷害の数は 1,540件に上り、その内の約30%(468件)は8月に集中しています。
また、発生地域の特徴を月別に見ると、4~10月は太平洋側で多く、11~3月は日本海側で多いという傾向があるということです。

「雷の発生原理」
ところで、雷はどのようにして発生するのかご存知でしょうか?
知っているようで案外知らないものです。
簡単に説明しますと以下のようになります。

雷は大気中で大量のプラス・マイナスの電荷分離が起こって放電する現象です。
・雷雲の発生
 即ち、地表や水面から水蒸気が上昇して雲を作ります。
 雲は高く上がっていくと氷の粒になり、ぶつかり合ったりこすれあったりするようになります。
 すると静電気が発生し、雲の中に溜まっていきます。
 この帯電した雲が雷雲です。

・落雷
 雷雲の中ではマイナスの電気を持った氷の粒が雲の下のほうに集まり、プラスの電荷は上に集まります。
 更に、そのマイナスの電気につられて、地表にはプラスの電気が集まってきます。
 ちょうど磁石のような関係になります。
 そして、雲の下のほうに集まったマイナスの電気と、地表に集まったプラスの電気とが中和しようとして電気が飛んでいきます。
 これが落雷になります。

・雷鳴
 雷の電気は約1億ボルトと言われています。
 この大量の電気がわずか100分の1秒の間に空気中に流れると、流れた部分の空気は瞬時に熱せられて、瞬間的に膨張します。
 いわゆる爆発の状態ですが、この時の空気の振動が雷鳴になります。

雷は、大まかにはこのような流れから発生します。

「雷の語源」
ところで、「雷」の語源はどこからきているのでしょうか?
昔は雷は「神様が鳴らすもの」と考えられていたことから、雷の語源は「神鳴り」と言われています。

この「雷は神が鳴らすもの」という考え方は、日本だけでなく世界中で同じようです。
ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル、バラモン教のインドラなどは雷を操る天の神と考えられていましたし、聖書においても雷鳴を神の意思表示として表現されている部分もあります。
また、雷という言葉が広く使われるようになったのは中世以降で、それ以前は「なるかみ」や「いかづち」が一般的だったそうです。



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暦通りに咲いた彼岸花

2019-09-24 | 

畑の畔道に生えている「ヒガンバナ(曼珠沙華)」が暦通りに、彼岸の中日に開花しました。

今年は残暑が厳しかったので、9月半ば(15日)になっても彼岸花の茎が顔をのぞかせませんでした。
この花は毎年、彼岸の時期には季節を知らせてくれるように、確実に咲いているのですが、「この時期に顔を出さなくて大丈夫かな?」と、少し心配になったものです。
ところが9月16日になると花芽が顔を出し、その後は日に日に茎が伸びて蕾が膨らんできました。

・9月19日の彼岸花です。蕾が一斉に顔を出してきました。

「彼岸花」はヒガンバナ科、ヒガンバナ属の多年草です。
草丈は30㎝~50cmで、花茎が葉のない状態で地上に突出し、その先端に5~7個の花がつき、花が終わる頃に葉が出てきます。

・21日になるとこの様に群をなして伸びてきました。


「彼岸花」の名前は、秋の彼岸の頃に開花することに由来しています。
不思議なことに、この花は彼岸になると必ず花を咲かせます。

・そして22日には蕾が割れて開花が目前の状態となりました。


「ヒガンバナ」は、別名を曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)などと言われ、日本では不吉で忌み嫌われるようですが、欧米では園芸品種として多く開発されているそうです。

・昨日の彼岸の中日には、このように暦通りに咲いてくれました。

柿本人麻呂が「ヒガンバナ(壱師の花」)を詠んだ歌が万葉集にありますのでご紹介します。

  「路(みち)の辺の 壱師(いちし)の花の 灼然(いちしろ)く 人皆知りぬ 我が恋妻を」 柿本人麻呂 
  
  意訳:道のほとりの壱師(いちし:ヒガンバナの別名の一つ)の花のように、はっきりと愛しい妻のことを皆に知られてしまった。  
     うれしいやら、恥ずかしいやら・・・。   



それにしても、彼岸花はどのように季節を感じるのでしょうか?
毎年、どんなに残暑が厳しくても、彼岸の頃には確実に花を咲かせます。
まるで、地獄から閻魔大王が開花を命令しているかのようです。

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秋海棠と芭蕉の句

2019-09-22 | 

今、秋海棠の花があちらこちらで見られます。
秋海棠(シュウカイドウ)は、日本の各地で半野生化していることから、日本原産と思われがちですが、江戸時代に中国から渡来した帰化植物です。

名前の謂れは、バラ科の海棠(カイドウ)に似た花を秋に咲かせていることから、秋海棠(シュカイドウ)の名がつきました。
この植物は、地下に茎基部が肥大した球根をつくります。
初秋に開花したあと、地上部が枯れ、地下に養分が送られて球根が肥大し、地中で冬を乗り越えます。
耐寒性は強く、日本の戸外で楽々と冬越しできる数少ないベゴニアです。
秋になると葉腋にムカゴができ、あたりに自然に落下して繁殖します。

・プランターで咲いている秋海棠です。


その秋海棠の花を、松尾芭蕉は西瓜の色に似ていると見て、俳句を詠んでいます。

   「秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり」

この句は読んだままの通り、「秋口に秋海棠の花が西瓜の実ような紅色の花を咲かせている」という、何の変哲もない句のように感じますが、実はこの句の作られた1690年頃には秋海棠も西瓜も未だ一般庶民には定着していない植物だったのです。
秋海棠は1630年頃に、アフリカ原産の西瓜も1650年頃に中国から渡来したと言われており、その植物同士を、いかにも古くからある日本の植物のように、俳句に詠み込んでいるので、句そのものが非常に斬新でハイカラなものであったと解説されています。

・我が家の秋海棠です。


秋海棠はシュウカイドウ科、シュウカイドウ属(ベゴニア属)に分類される多年生草本球根植物で、ベゴニアの仲間になります。
ベゴニアと言えば高温と低温に弱くてなかなか素人には育てにくいのですが、ベゴニア属の中で唯一、寒さに強くて庭植えで育てられるのがシュウカイドウ(秋海棠)なのです。

我が家の庭でも、秋にできたムカゴがあちらこちらに落下して、たくさん花を咲かせています。
しかし、どの花を見ても、私には芭蕉が感じたような西瓜の色には見えません。
松尾芭蕉という俳人は素晴らしい感性の持ち主だったのでしょうね。

 

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エルトゥールル号遭難事件

2019-09-20 | 時事

今年は(9月16日)トルコと日本の友情の礎となったエルトゥールル号の遭難事件から129年目にあたります。

日本では「エルトゥールル号の遭難」と言ってもご存じない方が多いかも知れません。
ところがトルコではこの事件のことを学校で教えていることから、子供から大人に至るまでよく知っており、国民の皆さんはいたって親日的です。

そこで今日は「エルトゥールル号遭難事件」と、それに対する「トルコの恩返し」について、その概略をご紹介します。
記事が少し長くなりますが、最後まで目を通していただければ幸いです。

エルトゥールル号遭難事件は、1890年(明治23年)9月に和歌山県串本町沖でオスマン帝国(現トルコ)のフリゲート艦「エルトゥールル号」が沈没し、587人が亡くなった海難事故です。

「エルトゥールル号遭難事件の概略」
オスマン帝国(現在トルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は、日本の皇族、小松宮ご夫妻(明治天皇の甥)のイスタンブール訪問に応えるためと、両国の友好関係の発展と相互理解を期待して派遣された艦船で、1889年(明治22年)7月、イスタンブールから11ケ月をかけ、1890年(明治23年)6月に日本に到着しました。
一行は皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。

そして3ヶ月余後の1890年(明治23年)9月16日、帰路についたエルトゥールル号が当日の夜半、和歌山県串本町大島の樫野崎付近にさしかかった時、折からの台風による強風にあおられて岩礁に激突しました。
座礁したエルトゥールル号は機関部が浸水して水蒸気爆発を起こして沈没し、司令官オスマン・パシャを始めとする乗組員587名が死亡または行方不明となる大惨事となったのです。

このとき、樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、十数メートルの断崖を這い上って灯台守に遭難を知らせました。
灯台守から通報を受けた大島村(現串本町)樫野の住民たちは総出で救助と生存者の介抱にあたりました。
漁業で生計をたてている村人たちは貧しい生活をしており、台風で出漁できず、食料の蓄えも僅かでしたが、それにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリにいたるまで供給するなどして、献身的に生存者たちの回復に努めました。
この結果、収容された69名が救出され生還することが出来たのです。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島町長に伝えられ、町長は神戸港の外国領事館に救助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配すると共に、県を通じて日本政府に通報しました。
知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられています。

こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、10月5日に品川港から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールに送り届けられました。

エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国に大きな衝撃を呼びましたが、新聞を通じて大島島民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は、遠い異国の日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれています。

 ・トルコ軍艦遭難慰霊碑です。 (2015年10月撮影)


「トルコの恩返し」
この海難事件から95年後の1985年(昭和60年)、イラン・イラク戦争勃発時、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行いました。
これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、救出のための自衛隊を送り込めませんでした。

更に、民間航空会社もイラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとして救出のための飛行機を飛ばすことができませんでした。
そこで、政府は
各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せる余裕はありません。
この様な事情から、イランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えようとしていました。

しかし、イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続けました。
そして、トルコ大使館に辿り着き、救援の要請をしたところ、トルコ大使館の当時の大使イスメット・ビルセル氏は、
「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」 
と答えて、要請を快諾してくれたのです。

この時、トルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やし、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたと言われています。
それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時のことでした。
自国民より日本人を優先して救助してくれたトルコ政府のおかげで、日本人250人は全員無事に避難できたのです。

事情を知らない日本のマスコミは一様に「なぜトルコが?」と首を掲げていたようです。
左系の某新聞に至っては、「日本が対トルコ経済援助を強化しているからでは」とか、「これで恩を売った事にする気ってことか」などと的外れな報道をしていたということです。

1992年から '96年まで駐日大使を務めたネジャティ・ウトカン氏は、産経新聞のコラムにて1世紀近くも前の 「エルトゥールル号遭難事件」を採り上げ、ただ一言、「我々はこの恩義に報いただけなのです」とのみ伝えたそうです。

このようトルコの日本に対する親近感は、日本のトルコに対するそれよりも断然深いのが現状です。
私たち日本人はトルコに対する認識を再考する必要がありそうです。

長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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明日ありと思う心の仇桜

2019-09-18 | 雑学

9月も半ばを過ぎ、彼岸が目前に来ているというのに、残暑厳しい日が続いています。
この様に暑いと体が思うように動かず、一日一日を漫然と過ごしてしまいそうになりませんか?
そのような方に、今日は浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が9歳の時に詠んだ歌をご紹介したいと思います。

   「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」

意味は、桜の花が、明日も咲いているだろうと安心していると、夜中の嵐で散ってしまうかもしれない。人生もそれと同じで、明日はどうなるかわからないから、頼みにしてはいけない、という世の無常を説いた戒めです。
「仇桜」とは散りやすい桜の花のことで、はかないもののたとえです。

この歌は、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人がまだ若松麿だったころ、その幼名を捨て、9歳で(治承5年:1181年)得度したときに詠んだ歌です。
幼くして父母を亡くした若松麿が出家を願い出て剃髪しようとしたとき、いたいけな姿を見守る周囲の一人が「時間も遅いし明日にしてはどうか」という言葉に対する返答でした。 

若松麿(後の親鸞)は、「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んで、明日もまだ咲いていると思っている桜も、夜中に嵐が来て散ってしまうかもしません。
「人の心もいつ変わるとも知れず、せっかくの決意も一夜で霧消してしまうかもしれません。どうぞ情けはお捨てになって、髪を剃ってください」と頼み、剃髪をしてもらい出家しました。
9歳とは思えない、幼き若松麿の偉大なる決意が詠まれています。


「マハトマ・ガンジーの名言」
同じような言葉を,インドの偉人で、インド独立の父と呼ばれている・マハトマ・ガンジーも残しています。

    「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」です。

世の中や人生、何時どんなことが起こって、どうなるかわかりません。
未来のことを思い煩い、何も行動をせず、思い悩んで月日が過ぎることだけは避けよう。
人間いつ死ぬかわからない。 明日死ぬと思って、思い切って生きよう。 そして、魂は永遠に生き続けると思い、努力を怠らず、常に学ぶ姿勢でいよう。

宗教的な教えのような気もしますが、言っていることはその通りです。
明日からやろうでは遅いのです。
今この瞬間を無駄にすることなく、今から始めましょう。

今日取り上げたお二人の教えが皆様の人生において良き参考になれば幸甚です。

 

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明太子の由来

2019-09-16 | 雑学

博多の名産として知られている「明太子」は、今では日本人にはご飯のお供としてすっかりお馴染の一品になっています。
この明太子はタラの子なのになぜ明太子というのでしょうか?
そこで今日は明太子の由来について調べました。

「明太子の起源」
タラコを加工して食べる食文化は17世紀ころに朝鮮半島で広まったようです。
当時、朝鮮半島では、スケトウダラの卵を塩辛にして食べていたそうです。
この塩辛に唐辛子を加えるようになったのが、明太子の起源と言われています。

明太子が日本に入ってきたのは昭和初期のことで、その頃の明太子は唐辛子やにんにくをまぶした韓国風の辛子明太子でした。
朝鮮半島と交流のあった福岡を中心とする北九州や下関などでは、そのころから日常的に明太子を食べるようになったようです。



この明太子はタラの子なのに、なぜ明太子なのかというと、それは韓国食品であることに由来します。
日本の明太子には「スケトウダラの卵巣に唐辛子を主原料とする調味液などで味付けしたもの」という定義があります。
このスケトウダラのことを韓国語で「明太(ミョンテ)」と言い、福岡当たりでは昔から「タラ」のことも「タラコ」のことも「めんたい」と呼んでいたそうです。
明太子の名称については、明太子メーカーの老舗、(株)ふくやの創業者川原俊夫氏が、明太の子だから「明太子」と名付けたと言われています。

朝鮮で育った川原氏は、第二次世界大戦後日本に引き上げてきた際、明太子を日本中に広めたいと思い、昭和24年ころから日本人の味覚に合うよう独自に調味して、博多の中洲で販売したところ、これが大好評を得ました。

川原氏は明太子を普及させるために、明太子の製造法を企業秘密とせず、知りたい人には喜んで教えたそうです。
その甲斐あって福岡を中心に明太子メーカーが続出しました。
競争が激化する中でますます味に磨きがかけられ、博多を代表する味にまで上り詰めたのです。

昭和50年(1975年)には、新幹線が博多まで伸びたおかげで明太子輸送が容易になり、博多土産として全国に広がり、国民の間に明太子が浸透していき、現在に至っているということです。

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三すくみと三つ巴の違い

2019-09-14 | 雑学

先日、日経新聞に次のような記事が載っていました。

見出し・・・「英 離脱 三すくみ」
 「前文」 〝イギリスのEU離脱問題で、英国議会は離脱を3か月延期する法律が成立する一方、ジョンソン首相による2度目の解散総選挙の提案が否決された。それでもジョンソン政権は10月末の離脱にこだわり、実現への奇策も取り沙汰される。イギリスの政治空白でEUも身動きが取れず”。

新聞記事は、イギリス議会、ジョンソン政権、EUがともに身動きできないような状態になっているとして、「三すくみ」の表現を用いて報道していたのです。

三者が対立する構図には「三すくみ」のほかに「三つ巴」という言葉もあります。
今日はこの二つの言葉の違いについて調べました。

「三すくみ」
三すくみは、三竦 とも書き、3つの物が、互いに得意な相手と苦手な相手を1つずつ持ち、それで三者とも身動きが取れなくなるような状態のことを言います。

・三すくみのイラストです。(ネットより)


つまり、三すくみとは、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つという関係です。
語源は、《「関尹子(かんいんし)」三極》からで、蛇はなめくじをおそれ、なめくじは蛙 (かえる) をおそれ、蛙は蛇をおそれること。
つまり、ヘビはカエルを捕食し、カエルはナメクジを丸呑みにする 。ナメクジはヘビを溶かしてしまうのです。(迷信です)

この三者が同時に出くわすと、獲物と天敵がそれぞれに存在しているため、三者ともすくんで動けなくなり、身動きがとれなくなってすくみあがってしまいます。
これが「三すくみ」の謂れです。

 「三つ巴」
 一方、三つ巴とは、三者が絡み合って対立することを言いますが、名前の由来は、元々、紋所・文様の名前で、三つの巴を同じ方向に長く尾を引くように組み合わせたものをいいます。
三つ巴文様の形が、いかにも三者が「組(く)んず解(ほぐ)れつ」格闘するさまに見えることから、この文様を例えて言われるようになりました。

・三つ巴紋です(ネットより)


巴は鞆絵(ともえ)とも書き、鞆の側面を図案化した文様です。
鞆とは、弓を射るときに、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐ、丸い革製の具です。
巴を一つないし三つの円形に配したものをその数によって「一つ巴」、「二つ巴」、「三つ巴」といいます。 

・鞆です(ネットより)

 
日経新聞がイギリスのEU離脱問題を ”三すくみ状態”と報道した離脱期限は10月末に迫っています。
この問題は世界経済に影響を及ぼすだけに、三すくみ状態がどのように解消されるのか、注目したいと思います。

 

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鳥取県と二十世紀梨

2019-09-12 | 雑学

秋の味覚の一つ、二十世紀梨がスーパーの売り場に並び始めましたね。
果物売り場には、先月下旬に「幸水」梨が、今月に入って「豊水」梨、そして最近になって「二十世紀梨」と並び、いよいよ梨の最盛期が到来したようです。
いずれの品種もみずみずしくておいしいですよね。

二十世紀梨と言えば鳥取県の特産品として有名ですが、不思議なことに、この梨は鳥取県が原産地ではないようです。
そこで今日は鳥取県と二十世紀梨について調べることにしました。

調べてみると、二十世紀梨が発見されたのは19世紀の明治時代でした。
しかもそのルーツは鳥取県ではなく、千葉県松戸市の民家のゴミ捨て場に生えていた梨の木だったのです。

美味しそうな二十世紀梨です(ネットより)


「梨の木発見の経緯」
明治21年(1888年)の夏、13歳の松戸覚之助少年が、たまたま遊びに訪れた千葉県松戸市の親せきの家で、しかもゴミ捨て場に生えていた小さな梨の木を発見したのです。
その梨は、それまで食べていた茶色い皮の梨とは違い、淡い緑色をしていて、いかにも美味しそうでした。
そこで、どんな味がするのだろうかと松戸少年が一口食べたところ、水分が多く、とろけるような甘さが口いっぱいに広がり、それまで食べていたパサパサとした触感の梨とは全く違っていたそうです。

この後、その梨の木は松戸市の果樹園で育てられたのですが、やがてこの話について、鳥取県の北脇永治が注目することになります。
北脇氏はかねてから鳥取県の農家に稲作以外の農作物の栽培を奨励したいと考えていました。

そこで、1904年(明治37年)にその梨の苗木を10本購入すると、本格的な栽培を始めたのです。
そして、苦労と研究を重ねた末に、ついに品質にばらつきのないジューシーな梨を作ることに成功し、その名前を「20世紀には梨の王様になる」という願いを込めて「二十世紀梨」としたそうです。

この梨はその願い通りに爆発的に売れるようになりました。
また、急な斜面でも育てられることから県内で栽培農家が増え、生産量は飛躍的に伸びました。
その結果、今では、生産量日本一を誇るまでになり、まさに鳥取県を代表する果物となったということです。

驚きましたね。
鳥取県の特産品である二十世紀梨は、千葉県の松戸市で発見された無名の梨の木だったのですね。

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