らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ハロウィン

2013-10-31 | 伝統行事

今日はハロウィンですね。
孫も幼稚園でお化けの仮装をして、お菓子の交換をするようです。

ところで、ハロウィンの由来をご存知でしょうか?
今日は日本でもイベント化してきているハロウィンの由来について調べました。

「ハロウィンの由来と起源」
「ハロウィン」の由来は「All Hallows Eve(諸聖人の日の前夜祭)」が短縮された「Hallowseve」で、これがなまって「Halloween」となったそうです。
そして、「ハロウィン」の起源は古代ケルト民族の収穫祭「サウィン(Samhain)」とされています。
古代ケルトでは1年の終わりは10月31日、新年の始まりは11月1日とされており、年末である10月31日の夜には死者の霊や悪霊が子供をさらったり作物を荒らしたりすることから、霊を払い去るためにドルイド(祭司)が火をつけて作物と動物の犠牲を捧げていました。

古代ケルト人と古代ローマ人がブリテン島を征服してから両民族の祭りが組み合わさっていきました。
つまり、古代ケルト民族のドルイド教の収穫祭の行事に、ローマの果家女神Pomonaの祭が加味され、その後、キリスト教が伝来したことで、3つの民族の祭りが合わさって「ハロウィン」という形として祭事が残ったとされています。

「トリック・オア・トリート (Trick or Treat) 」

子供たちがお菓子をもらうために「Trick or Treat」と言う習慣は、古代ケルトの「Souling(ソウリング)」と呼ばれる習慣が由来となっているそうです。
「諸聖人の日」の翌日11月2日は、「死者の日(万霊節)」と呼ばれ、煉獄(れんごく:死者が天国に入る前にその霊が火によって罪を清め浄化されると信じられている場所)にいる死者の魂に祈りが捧げられます。
この「死者の日」には、仮面をかぶった子供たちが歌をうたいながら家々を回って「ソウル・ケーキ (soul cake) 」を乞い、受け取った「ソウル・ケーキ」は亡くなった霊魂を天国に導く儀式に用いるという習慣があったそうで、このケーキを乞う行為がSouling」と呼ばれて、「ハロウィン」における「Trick or Treat」の習慣の由来とされています。

「ジャック・オー・ランタン(Jack-o’-Lantern)の由来と意味」
「ジャック・オー・ランタン」とは、アイルランド及びスコットランドに伝わる鬼火のような存在で”ランタン持ちの男”の意味だそうです。
「ジャック・オー・ランタン」は伝承上の人物で、生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が死後の世界への立ち入りを拒否され、悪魔からもらった石炭を火種にし、萎(しな)びて転がっていたカブをくり抜き、それを入れたランタンを片手に持って彷徨(さまよ)っている姿だとされています。

「日本でのハロウィン」

日本では、2000年頃まではハロウィンは英語の教科書の中、もしくはテレビで知られる程度でした。
しかし、近年、製菓メーカーではハロウィン限定のお菓子を発売するなど、バレンタインデー、クリスマスに次ぐ「第3の商戦」に仕立てようとしているようです。
商魂たくましい日本の菓子メーカーのことでもあり、ハロウィの行事が日本に定着するのはそう遠くないかも知れません。


ジェネリック家電

2013-10-30 | 時事

皆さんは「ジェネリック家電」という言葉を聞いたことがありますか?
「ジェネリック家電」とは、既存の人気家電と性能は変わず、しかも価格が安い後発の家電のことです。
ジェネリック医薬品からもじって名付けられたもので、ノーブランドや知名度の低い会社の家電製品ながら、ナショナルなどの有名ブランドの製品とほぼ同一の性能を持ち、価格が安いことから最近売り上げを伸ばしていると言うことです。

先日、某テレビ局が放送していたので、今日はその一部を簡単にご紹介します。

「ジェネリック家電の人気の秘密」
人気の理由は安さだそうです。
例えばオーブンレンジの場合、ある量販店で大手電機メーカーの最新型オーブンレンジが9万9800円で売られていたのに対し、ジェネリック家電のオーブンレンジは9980円で売られています。
このレンジは温めるなどの機能に絞っていることから10分の1の価格が実現したもので、買い物客の中には、「必要最小限の機能があれば安い方がいい」とか「どのメーカーかは重視していない」といった要望がら製品化となったようです。

「安い秘密」

メーカーでは自前で製品の設計や製造を行わず、全国の中小企業に委託しています。
委託先となっているのは、かつて大手の電機メーカーの下請けをしていた会社で、家電の部品や製造技術のノウハウを活用すれば、一から開発するよりもコストを大幅に下げられるということです。

「信頼性」
価格が安いだけでは、目の肥えた日本の消費者は納得しないことから、日本メーカーならではの信頼性を全面に打ち出しています。
その1つが、耐久性のテストです。
独自に安全基準を設定し、家電製品を1万時間以上使用し続けても不具合が生じないかなどをチェックしています。
また、コールセンターを設置し、商品の使い方などの問い合わせに応じるほか、修理の依頼にも対応しているそうです。

「消費者の選択」

「ジェネリック家電」は次々にメーカーが参入し、製品の種類も調理家電や美容家電、テレビなど、さまざまな分野に広がっており、扇風機では、大手メーカーを抑えて「ジェネリック家電」のメーカーが国内のトップクラスのシェアを占めるほどに成長しているとのことです。
大手の電機メーカーはこれまで、他社にない新しい機能を開発し、価格が高くても買ってもらえる製品を作ることにしのぎを削ってきましたが、ジェネリック家電の登場で、消費者にとって、「機能」で選ぶか「価格」で選ぶか、選択の幅が広がることになりました。

なお、ジェネリック家電メーカーに勤めている方の中には、大手メーカーを退職した人やリストラになった方、転職や早期退職された方など、大手メーカーで働いていた方が多くいるようです。


シュウメイギク(秋明菊)

2013-10-29 | 

今日は庭に咲いている、「シュウメイギク(秋明菊)」をご紹介します。

シュウメイギク(秋明菊)は、キンポウゲ科イチリンソウ属の耐寒性多年草で、名前にキクが付いていますが、菊の仲間ではなくアネモネの仲間です。
原産地は中国で、日本には古い時代に入ってきて帰化した植物です。
名前の由来は、秋に菊に似た花を咲かせるところからで、別名も、京都の貴船で多く見られたことから「キブネギク(貴船菊)」と言われています。
なお、英語ではジャパニーズ・アネモネ(Japanese anemone)と呼ばれるようです。



日本では本州、四国、九州の山野や里山に自生し、毎年花を咲かせる宿根草です。
葉は根元に集中しており、花の周りには比較的小さな葉だけがつき、秋に、細長い茎先に菊花に似た白または、桃色、淡紅紫色の花のような萼片をつけます。
萼片が散った後に球状の花芯が残り、熟して割れると真っ白な綿毛が現れ、綿毛の中には胡麻粒のような種子が多数あります。



草丈は50cm~1mになり、茎頂から数本の花枝を長く伸ばし、直径5~7㎝の花を一個ずつ咲かせます。


堺市内散策(その7)堺まつり

2013-10-28 | 地元紹介

堺市を歩いた「てくてくろーど」散策は今日が最終回となります。
当日は堺まつりの日と重なっていたことから、祭りのパレードを見ることができました。
今日はその一部をご紹介します。

「第40回堺まつり」
「堺まつり」は、毎年10月の第3日曜日とその前日の土曜日に、堺市のメインストリート・大小路筋(シンボルロード)を中心に開かれるイベントで、主催は堺観光コンベンション協会です。
第1回は昭和49年に開催され、今年が40回目の祭りとなります。
毎年、多くの市民が参加して行われる、市内最大のイベントで、今年は、「1600年の『堺遺産』に出会うまつり」のテーマのもとに、1600年に及ぶ堺の歴史文化と国際交流を表現しています。

「大パレード」
メインストリート・大小路筋で繰り広げられる「大パレード」では、「1600年の堺の歴史・文化」を古墳期~中世~近世~近代~現代の時間軸で再現しており、ふとん太鼓やなんばん衣装行列、火縄銃隊などが行進し、ザビエル公園では、なんばん市が開かれ、南宗寺・大仙公園では、利休のふるさと堺大茶会などが催される、歴史と伝統に彩られた町である堺の魅力がたっぷり味わえる“まつり”となっています。

・パレードの出発地点です。行進しているのは火縄銃隊で、途中では銃声を鳴らします。


「ディズニーのキャラクター」
この大パレードには、「東京ディズニーリゾート30周年“ザ・ハピネス・ツアー”」として、今年もディズニーのキャラクターが参加しました。


・自転車のまち堺ならではの、子供による一輪車の曲芸です。


「ふとん太鼓」
ふとん太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことです。
5枚前後の赤いふとん状のものが載っており、その下は中央部に太鼓が備え付けられています。
重さは1.0t~2.0tで、約60~70人ほどが神輿のように勢いよく担ぎます。

・パレードに参加したふとん太鼓です。


「ザビエル公園」
ザビエル公園はフランシスコ・ザビエルが堺を訪問した時、ザビエルをもてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡と言われる地に、昭和24年(1949年)に開設された公園で、面積は約1万5千平方メートルです。
昭和24年(1949年)はザビエルの来航400年記念の年にあたり、園内に「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうちょく:よい行跡)」碑が建立されたことから「ザビエル公園」の通称が使われるようになりました。

・「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑です。


「なんばん市」
ザビエル公園では屋台が出店して、世界の食材の飲食ブースや、地場産品即売会(刃物、和菓子、線香、昆布、織物など)、企業PRブース、各種団体によるステージが行われていました。

・公園内に設けられたステージでは雨が降る中、子供たちの中国舞踊が披露されていました。


7回にわたって堺市の“てくてくロード”散策をご紹介しましたが、まだまだ見るところがたくさんります。
機会があればまた歩いてみたいと思っています。


堺市内散策(その6)堺伝統産業会館

2013-10-27 | 地元紹介

堺市は、百舌鳥古墳群に代表されるように、数多くの御陵・古墳があり、5世紀にはこの古墳群をつくるための道具を製造する人々が集まってきて、鍛冶技術が発展する基礎ができたといわれています。
今日はそのような堺の伝統産業を集めた「堺伝統産業会館」に展示されている一部をご紹介します。

「堺伝統産業会館」
堺伝統産業会館は平成23年10月にオープンした堺の伝統産業を一堂に集めた施設です。
刃物、線香、注染和晒(ちゅうせんわざらし)、緞通、昆布、自転車、和菓子などの体験・学習・展示コーナーの他、堺の逸品、名産品を販売するショップ、さまざまな珍しい刃物やプロ用刃物を展示・販売する堺刃物ミュージアムなどがあります。
ここでは、プロの料理人の約9割が使用しているといわれる伝統の堺打刃をはじめ、堺のさまざまな伝統産業に触れることができます。



「タバコ包丁」
16世紀にポルトガルよりタバコが伝わり、国内でタバコの葉が栽培されるようになると、タバコの葉を刻む「タバコ包丁」が大量に必要となり、天正年間(1573年~)にはタバコ包丁が堺で作られるようになりました。
この堺製のタバコ包丁は、輸入品のタバコ包丁より切れ味が優れていたことから、徳川幕府は堺極印(きわめいん)を附して販売したために、堺刃物の切れ味と名声は全国各地へと広がりました。
このように、堺刃物のルーツは「タバコ包丁」であり、産業としての発展の基礎もこの時期に確立したと言われています。

・これがタバコ包丁です7.


「刀 光正(銘)」
加賀四郎 作の刀です。(初代:応永(1394年)~寛正(1465年)頃、二代:永正(1504年)~元亀(1570年)頃)
室町時代(1392年~1573年)に加賀の国から堺に移住し、山の上(宿院 御旅所の東辺り)で、一族・一門で刀や刃物類を打ち始めました。
堺刃物鍛冶の祖と言われています。

日本美術刀剣保存協会の鑑定書には次のように鑑定しています。
 1、 刀 銘 光正(泉州)、
      長 2尺1寸7分
 




「火縄銃(江戸中期)」
銘  表:大和守
   裏:摂州住榎並屋伊兵衛作

銃身には雲竜の毛彫りを施し、台裏には矢紋の飾り金具があります。



・火縄銃の名称図です


「堺の町の傘入らず」の言い伝え
この辺りは大きな商家が立ち並ぶ通りで、道筋には「尾垂れ」と呼ばれる長いひさしが道を覆うように建てられて、雨の日でも傘なしで歩けたそうです。
明治になって馬車が流行し、通行に不便なので切り落とされたということです。




堺市内散策(その5)千利休

2013-10-26 | 地元紹介

堺「てくてくロード」散策、5回目の今日はも千利休屋敷跡と与謝野晶子の生家跡をご紹介します。

「千利休屋敷跡」
千利休(せん の りきゅう)は戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人で、わび茶の完成者として知られており、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の三宗匠と称せられました。

ここの掲げられている説明によれば、堺の豪商・屋号・魚屋(ととや)の長男として生まれた与四郎(幼名)は、初め北向道陳(きたむきどうちん)に茶湯を学んだが、更に道陳の師・武野紹鴎(たけのしょうおう)に師事し、遂に「わび茶」を大成させました。

千 与四郎は茶名を千宗易と言い、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇(おおぎまちてんのう)より利休居士の号(こじごう)を賜った。
天正15年(1587年)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席を設けるなど、天下一の茶人として茶器などにも種々工夫を凝らし、わび、さびの境地を切り開いた。

その後、天正19年(1591年)2月、秀吉の怒りをかい京都から追放されて堺に謹慎していましたが、京都に呼び戻され同月28日切腹させられました。
この屋敷跡には利休が茶湯に常用していたと言われる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目(2畳くらいの広さの平台で、官位の高い公家や大将などが座るのに用いる)の茶席がある。

・千利休屋敷跡です。


「椿井」
掲げられている椿井由来記によると、この地は江戸後期から明治中期までこの場所で酒造業を営んでいた加賀田 太郎兵衛が居住した場所です。
そして、嘗ては千利休の居宅や侘びた庵のあった場所でもあります。

「椿の井」という利休が産湯を使ったという井戸があり、ここに加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て、大徳寺の大綱和尚(大徳寺435世)を迎えて茶室開きをした時、和尚は利休の昔を懐かしむ心の茶室の銘として「懐旧」と名付け利休居士にちなむ茶蹟としました。

・屋敷跡に残る、千利休が茶湯に常用していたと言われる「椿井」です。


「与謝野晶子生家の跡」
与謝野晶子は明治11年(1878年)、菓子商・駿河屋の三女として甲斐町に生まれ、明治33年(1899年)、与謝野寛(鉄幹)と出会い、家を出るまでの22年間を堺で過ごしたそうです。
明治・大正・昭和を短歌とともに生き「情熱の歌人」と呼ばれ、同じ文学者鉄幹の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。
明治34年(1901年)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、浪漫主義の代表作となっています。

・与謝野晶子生家の跡


「歌碑」
甲斐町の生家跡には「海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女(おとめ)となりし 父母の家」の歌碑があります
 
  意訳:潮の遠鳴りをかぞえながら過ごした日と、 父母に慈しまれて育ったふるさとの家を思い、海がしきりに思われるのです。

・歌碑です。




堺市内散策(その4)妙国寺

2013-10-25 | 地元紹介

堺市の「てくてくろーど」散策、4回目の今日は「妙国寺」をご紹介します。

妙国寺(みょうこくじ)は堺市の中央部にある日蓮宗の寺院です。
1562年(永禄6年)に戦国武将・三好義賢(実休)が日(にっこう)上人に命じて開いたとされます。



妙国寺は、日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受けて栄華を極めましたが、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣兵により火を放たれ、灰燼に化しました。
江戸期に再建されてからも再び1945年(昭和20年)の堺大空襲により消失しましたが、昭和48年に三たび再建されています。

・本堂です


「徳川家康の歌碑」
徳川家康は本能寺の変が起こった時、妙国寺に泊っていましたが、日上人の機転で三河に逃げ帰ることができました。
家康がこの地から伊賀越えをして岡崎に帰った話は有名ですが、大坂夏の陣の際にも妙國寺に宿泊していたと伝えられております。
当寺には家康の歌碑が建てられています。
 「妙なりや 國にさかゆる そてつぎの ききしにまさる 一もとのかぶ」

・徳川家康の歌碑です。(ネットより)


妙国寺は千利休寄贈の六地蔵灯篭や瓢箪型手水鉢がある日本唯一の「蘇鉄の枯山水」庭園として、更に、堺事件の土佐藩士切腹の地でも有名です。

(参考)
堺事件とは、慶応4年(1868年)2月15日、当時は外国に対して開港となっていなかったにもかかわらず、フランス軍艦の水兵100名が堺に上陸し、市内を闊歩し、婦女子を追い回すなどの傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対し、互いに言葉も通じず、両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すに至りました。
本事件は国際問題となり、フランス側に賠償金の支払いと関係者の切腹を求められ、妙國寺境内において11名が自刃したものです。



「蘇鉄」
戦国時代、遠い南の国から運ばれてきたという妙國寺のソテツは当時大変珍しがられ、天下統一を果たした織田信長も羨望の的だったそうで、その権力をもって安土城へ移植させてしまいました。
ところが、そのソテツは毎夜、毎夜、「堺へ帰ろう、妙国寺へ帰ろう」とすすり泣くのだそうです。
激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口から鮮血が流れ、、大蛇のごとく悶絶しました。
さすがの信長も気味が悪くなり、当寺に返還されたとされています。
痛めつけられたソテツは今にも枯れそうになりましたが、日上人が読経したところ回復しました。
ここから「蘇鉄」という名がついたと言われています。

・境内にある樹齢1,100年の大蘇鉄は国指定の天然記念物となっています。(ネットより)



堺市内散策(その3)本願寺堺別院

2013-10-24 | 地元紹介

2週間ほど前に大阪のメインストリートに面した「南御堂(本願寺難波別院)」と「北御堂(本願寺津村別院)」をご紹介しましたが、堺にも本願寺の堺別院がありました。

「本願寺堺別院」
「北の御坊さん」として親しまれている西本願寺堺別院は、文明8年(1476年)に蓮如が堺の樫木屋町に建立した「信証院」に始まります。
蓮如は遣明貿易などで繁栄し始めた堺で、新しい時代の担い手である商人や手工業者に布教するため信証院などに幾度となく滞在しています。
その後、享保13年(1728年)に、現在地に本堂を落慶しましたが、寛政10年(1798年)の火災で表門と鐘楼を残して焼失しました。

・山門です。
 山門の前左の石柱には「明治天皇聖跡」、右側は「蓮如上人御蒨蹟(せんせき)」と彫られています。
 これは明治10年に、堺県重要物産天覧のため、明治天皇が臨幸されていることからですが、何れの殿堂において御休息せられたかは不明ということです。


「本堂」
現在の本堂は、文政8年(1825年)に再建されたもので、堺市に現存する最大の木造建築とされています。
廃藩置県に伴って明治4年から10年間(1871年~1881年)は、本堂と境内の土地が堺県庁として貸与され、堺別院は宿院町に移転していました。
県庁使用後は、浄土真宗本願寺派へ返還されましたが、大阪府は堺県庁跡として史跡に指定しています。 

・本堂に向かって右に親鸞聖人、左に蓮如上人の銅像が建てられています。


「鐘楼」
鐘楼に釣られた梵鐘は、元は大坂夏の陣後の堺復興を進めた堺奉行・長谷川藤広が念仏寺に寄進したもので、元和3年(1617年)の銘をもち、年代が明らかな市内最古の貴重な梵鐘となっています。

また、境内には堺出身の歌人・与謝野晶子の歌碑のほか、高さ20m、幹の周り3.65mもある銀杏の巨木が、この寺の歴史を語るかのように根をおろしている。





堺市内散策(その2)山口家住宅

2013-10-23 | 地元紹介

堺市の「てくてくろーど」散策、2回目は「山口家住宅」をご紹介します。

「山口家住宅」
山口家は江戸時代、近隣農家の庄屋を務め、奉行所と町方・村方を繋ぐ役割を担っていました。
山口家住宅の主屋(おもや)は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられたもので、国内でも現存する数少ない江戸時代初期の町家のひとつとして国の重要文化財に指定されています。
敷地内には主屋の他に安永4年(1775)建築の西土蔵、寛政12年(1800)建築の北土蔵があります。




江戸時代には、「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」と共に「堺の建て倒れ」と例えられたように、堺衆は建物に贅(ぜい)を凝らしたと言われていますが、山口家の建物はその名残りを示すものの一つのようです。
この建物は約950㎡の敷地に建ち、15の部屋を持つ2階建てで、1階の太い梁のかかった広い土間が特徴の建物であり、建築手法から元和元年(1615年)ごろの建築と推定されています。

・山口家住宅の間取りです。(ネットより)


「かまど(お竃(くど)さん)」
土間には大きさの異なる5つの竃が当時のまま残っています。
釜ごとに焚く物が異なっていたそうで、左側の大きな釜は常にお湯を沸かしていたのだそうです。

・大きなものから小さなものへと並ぶカマドは「へっついさん」とも呼ばれます。(へつい(竃)とは、かまどを守る神さまのことです。)


「主屋の土間」
正面に見える3室は江戸時代初期に建築された、当時のものだそうです。



「茶室」
堺は茶の湯の伝統があり、山口家にも江戸後期に茶室と水屋、待合が設けられました。
この茶室は江戸中期から後期に増設されたようです。


「庭園」
左奥の木は樹齢200年のハゼの木です。
手前の水を張った枡には、中央にも枡を作っており、「枡枡(益々)繁盛するように」との願いが込められているそうです。



「駕籠」
空中に吊るされている駕籠は、当家の何代目かのお嬢さんが輿入れの際に使用された「かご」との事です。





堺市内散策(その1)てくてくろーど

2013-10-22 | 地元紹介

先日、雨が降る中、堺市内を散策してきました。
これは、来月に予定されている「熊野古道を歩く」ための足慣らしを兼ねた散策で、同好会のメンバー6名と歩いたものです。
当日は「堺まつり」も催されていたのでその模様も含めて、今日から数回に分けてご紹介します。

「てくてくろーど」
堺市内中心部では『てくてくろーど』と名付けて、要所要所の路面に案内板を設置し、進行方向を示す工夫がなされていました。
堺市の駅や公園などの観光案内所で発行している「堺めぐりMAP」を貰い、「てくてくろーど」の標識に従って歩くと、容易に目的地に到達できます。

 ・「てくてくろーど」の道標です。この道標が曲がり角や施設の前に造られています。


「旧鉄砲鍛冶屋敷町跡」
ここに掲げられている説明によれば、
『この辺りは第2次世界大戦の戦災を免れたため、江戸後期を偲ばせる古い街並みが残されています。
この井上邸は、堺にただ一つ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷で、現在は4棟の切妻造り平入りの建物からなり、建物の総間口は12間半にわたっています。
最初は表口3間半で店の間を全部土間とし、奥の方の左半分を土間、右手を6畳と4畳半の2室を設けた簡単なものでしたが、その後、北に座敷を継ぎ足し、更に南の家を次々と入手して鍛冶場を広げ、大座敷を設けたものと考えられています。
江戸初期から末期にわたる鉄砲鍛冶の生活の実態を知る上で貴重な建物となっています。』

・鉄砲鍛冶の井上邸ですが、現在は非公開となっています。
 

「浄得寺」
この浄得寺は天平年間(740年頃)、行基により建立され、通称は海船御堂と呼ばれています。
この海船御堂の名は、海船の浜(現在の北旅籠町西)にあったことからそのように呼ばれているそうです。
浄得寺は南北朝の争乱の時期に焼失し、1431年(永享3年)本願寺第6世門主巧如の孫、了圓により真宗寺院となりました。
1598年(慶長3年)に現在地に移転し、真宗大谷派(東本願寺を本山とする)の寺院として存在しています。



なお、浄得寺は敕願寺であるため、屋根瓦には菊の御紋が、寺を囲む塀には5本線が施されており、寺院としての格の高さを物語っています。

・菊の御門が入った浄得寺の屋根瓦です。


「月蔵寺」
創建は明応4年(1495年)で、当時は京都本山頂妙寺の末寺として、本光坊と称したと伝えられています。
その約50年後の天文2年(1543年)に堂宇を建立して、妙国寺の中本寺として青陽山 月蔵寺に改称したそうです。
開創以来120年を経た慶長20年(1615年)4月28日、大坂夏の陣の余波を受け、豊臣方家臣の放った火により焦土と化しました。
その後18世紀中頃までに本堂・妙見堂・庫裏などが相次いで再建されて寺観が整備され、後年の修復再建を経て現在に至り、平成21年(2009年)に開創以来515年を迎えたそうです。



「月蔵寺山門」
現在の山門は、本柱の後方に控柱2本を建てて切妻屋根にかけた医薬門で、大型のものに属し、第26世心王院日元の代、嘉永3年(1850年)に当時の御殿医であった廣岡氏・巴氏の寄進で再建された、江戸末期を代表する遺構とされています。

・月蔵寺の山門です。