らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

福良雀

2022-01-30 | 季節

「福良雀」、この漢字を何と読みますか?
「ふくりょうすずめ」ではありません。
「ふくらすずめ」と読みます。

「ふくらスズメ」とは、広辞苑では、
①肥えふくれたスズメの子。また、寒気のため全身の羽毛を膨らませたスズメ。
②紋所・文様の一。羽を伸ばしたふくら雀の正面から見た姿を図案化したもの。
③女の髪の結い方の一。以下略。
他5項目まで説明しています。

辞書に説明しているように、「福良雀」は、寒気のため全身の羽毛を膨らませたスズメを言い、家紋や縁起物にもなっています。
そこで今日は「福良雀」について調べました。

「ダウンを着た雀」
福良雀は、冬になると外でまんまるに膨らむ雀のことを言い、見た目がふっくらしていることからその名前が付けられたようです。
これは寒さから身を守るために自分で羽の中に空気の層をつくり、まるでダウンを着たような温かさを作り出す、言わば雀の防寒対策なのです。

・寒さ対策でふくれている「福良雀」です。


「縁起物」
福良雀は、まるまるとした姿から、「豊かさや繁栄を象徴する縁起物」とされています。
雀は元々、「厄をついばむ」とされ、一族繁栄・家内安全の象徴とされており、特に冬の雀はふくふくと肥えふくれたその姿から、食物に飢えることなく子孫繁栄していくようにと願いが込められていることから、縁起ものとしても大変喜ばれているそうです。

更に、縁起が良いということから、お見合い、結納、成人式といった祝い事の際に女性が着る着物の帯の結び方に「ふくら雀」と言われる結び方があったり、福良雀が描かれている着物や帯などもあるということです。

・縁起物の福良雀の置物です。


「伝承」
縁起の良い福良雀には、次のような伝承があります。
お百姓さんにとって、田んぼのお米を食べてしまう雀は迷惑で疎ましい存在でした。
しかし、豊作の年には、お百姓さんも雀が食べる程度のお米に目くじらを立てることはありません。
雀も米を啄んで、ふっくらと太ることができることから、『福良雀がみられると豊作の年』と言われ、福良雀が豊かさの象徴になったという言い伝えがあるということです。

福良雀には、「食べるものに困らないように」「豊かに暮らせるように」という願いが込められているようです。

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スコップとシャベルの違い

2022-01-28 | 家庭菜園

先日、「寒起こし」の記事を書いているとき、スコップで掘り起こすと書きましたが、ネットの記事ではスコップの横に括弧書きでシャベルと書いていました。
私はシャベルと言えば園芸などで使う30㎝ほどの小さなサイズのものと思っていたので、何故、括弧書きで書いているのかと思い調べてみることにしました。

「スコップとシャベルの違い」
1.地域によって呼び名が違う

 スコップとシャベルは東西で呼び方が逆になっているようです。
・関東では、園芸用に使われる小さなサイズのものを「シャベル」、土木作業などに使う大きなサイズのものを「スコップ」と呼ぶことが多いようです。
・一方、関西では、大きなサイズのものを「シャベル」、小さいサイズのものを「スコップ」と呼ぶことが多いということです。

地域によって呼び方の違いが起こる理由は明らかになっていませんが、出身地によっては同じものを見ても「スコップ」と呼ぶ人がいれば「シャベル」と呼ぶ人もいるため、2つの道具の区別が難しくなっています。
私は大きなサイズのものをスコップと言っているので、大阪に居ながら関東派のようです。

2.語源による違い
 スコップとシャベルの2つ目の違いは「語源」によります。
 即ち、シャベルは英語で、スコップはオランダ語が由来になっているのです。
・シャベル・・・シャベルは英語の「Shovel」が語源で、辞書では動力シャベル、小シャベルは「scoop」と説明しています。
・スコップ・・・スコップはオランダ語の「Schop」が語源で、英語ではscoop (スクープ)と言い、小シャベル、すくいさじ、ひしゃくなどの意味があります。
どちらも砂や砂利をすくうための道具という意味では同じです。

3.JIS規格の定義による区別
JIS規格(日本産業規格)では、スコップとシャベルの区別について、
①足をかけるところがあるのが「ショベル(シャベル)」で、
②ないのが「スコップ」としています。

つまり、足をかけて掘ることを目的としているのがシャベル。
足をかけずにすくうことを目的としたものがスコップとなっています。
JIS規格の定義では、関西での呼び方に近いようです。

・JIS規格では大きさに関係なく、足をかけることができるかできないかで区別しています。

「結論」
一般的に、関東では小さいものなら「シャベル」、大きいものなら「スコップ」であり、関西では小さいものなら「スコップ」、大きいものなら「シャベル」と逆になっています。
そのほかにも、砂をすくう部分が平らかであるかどうかで呼び方を変える地域や、どちらもスコップ、どちらもシャベル、と呼び分けをしない地域もあるようです。
一番多い区別方法は「大きさ」のようですが、どちらで呼んでも間違いではないということです。

「シャベルはシャベル? ショベル?」
では、シャベルとショベル、どちらの言い方が正しいのでしょうか?
JIS規格では「ショベル」という単語を用いていますが、英語では「Shovel」と表記し、その発音記号は「(ʃˈʌv(ə)l)(シャヴァル)」のため、発音としてはどちらかというとシャベルに近くなっています。

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昨日は「日本最低気温の日」

2022-01-26 | 季節

1月20日から2月3日までは二十四節気の最後の節気である「大寒」です。
大寒とは、寒さが最も厳しくなる頃であり、「暦便覧」では「冷ゆることの至りて甚だしきときなれば也」と説明しています。
先日、NHKの気象情報で気象予報士の方が寒さの底は大寒のこの時期であると話していましたが、それを裏付けるように、日本最低気温を記録した日が120年前の1月25日でした。
そこで今日は日本の最低気温をについて調べました。

「日本最低気温の日」
日本で最も低い気温を記録したのは1902年(明治35年)1月25日で、北海道旭川市の上川測候所(現在の旭川地方気象台)で観測した「マイナス41.0度」でした。
この最低気温が由来となって、昨日の1月25日が「日本最低気温の日」となったということです。
余談ですが、この日、八甲田山では雪中行軍演習が行われており、199人が雪山で凍え死んだ世界最大級の「八甲田雪中行軍遭難事件」が発生しています。



「幻の日本最低気温」
日本最低気温は、その後、1978年(昭和53年)2月17日、北海道の幌加内町母子里(ほろかないちょうもしり)で、これより0.2度低い気温が記録されていますが、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、旭川の記録が公式の日本最低気温となっています。

公式記録の対象から外れていた理由は、朱鞠内湖(しゅまりないこ)北東の母子里地区の観測は、北海道大学付属演習林近隣の気象観測施設で観測していたことから、この施設が気象庁の観測対象から外れているため、非公式の観測となっているのです。

非公式ながら国内最低気温を観測したことに伴い、国道275号沿いには、この最低記録を記念して造られた寒さをテーマにした公園「母子里クリスタルパーク」に、日本最寒の地を記念するつららをモチーフとしたモニュメントが立っているということです。

「日本最低気温ランキング2位から5位」
 気象庁が公開している「歴代全国ランキング・観測史上最低気温」の2位から5位までは次の通りです。
 2位 マイナス38.2度 北海道 帯広
 3位 マイナス38.1度 北海道 江丹別
 4位 マイナス38.0度 静岡県 富士山
 5位 マイナス37.9度 北海道 歌登

このランキングを見る限り、富士山山頂よりも北海道の方が寒いようですね。

「大阪の最低気温」
一方、比較的暖かいと言われている私の地元、大阪の最低気温はどの位なのか調べてみました。
その結果、1945年(昭和20年)1月28日にマイナス 7・5度を観測しており、これが大阪の最低気温となっています。
大阪も寒い時代があったのですね。

地球温暖化が叫ばれている昨今、日本の最低気温も大阪もこの気温が更新されることはないでしょうね。

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胡坐をかいた大根

2022-01-24 | 家庭菜園

大根は根が真っすぐ地下に伸びているのが普通の姿ですが、たまに、いろいろな形をした大根が現れます。
過去には「悩ましい」大根もありましたが、その後は至って普通の大根ばかりでした。
ところが、先日収穫した大根は久しぶりに「珍大根」が現れたのです。
その名を「胡坐をかく大根」と命名したのでご紹介します。

「胡坐をかく大根」
この大根は茎の途中から根が二股に分かれ、しかも分かれた2本の根が90度に曲がって胡坐をかいたような形をしています。
家庭菜園を初めて20年以上経ちますが、このような大根が出来たのは初めてです。

・これが「胡坐をかいた」大根です。


(参考)
「大根の根、茎、葉の区分」
なお、大根にも根や茎、葉がありますが、ご存じでしょうか?
葉は見た通り、大根の上についている緑の葉っぱがそうです。そして葉に近い上部が茎で、残りの部分は根になります。

私たちが食べているのは、葉に近く表面がツルツルしている茎の部分とその下にある表面に点々と窪みがある根っこ(主根)の部分です。
根っこには主根と側根があります。
主根は白い部分で、側根は細いひげのような根ですが、スーパーに並ぶときには既に取られて綺麗になっています。
主根の白い部分に点々と窪みがありますが、これが側根が生えていた跡なのです。
従って、食用としているのは「短い茎と長い根っこ」の部位を食べていることになります。


・大根の根と茎と葉の区分です。


「過去の珍大根」
過去には珍しい大根がとれているので併せてご紹介しておきます。

・2014年にとれた「脚線美」です。以下、名称は私が勝手につけた名前です。


・2010年の「ヴィーナス」です。


・2013年の「怪獣の手」です。


・同じく2013年の「ダヴィデ」です。ダヴィデと言っても分からないかも知れませんので、下記にダヴィデ像を載せておきます。


(参考)
「ミケランジェロ広場のダヴィデ像」

この像がミケランジェロの代表作「ダヴィデ像」です。
ダヴィデとは、旧約聖書においてイスラエル王国の二代目の王(在位:紀元前997年~966年頃)で、初代の王サウルの後を受け近隣の諸国を征服併合、エルサレムを陥れて都としイスラエルを統一しました。


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寒起こし

2022-01-22 | 家庭菜園

弊ブログのタイトルは「家庭菜園日記」であるにも拘わらず、最近のアップ記事には菜園関係のものがありません。
そこで、寒い中、久しぶりに畑に行ってきました。
ブログに紹介するようなものを探したところ、収穫が終わって、放置している畝が少しあったので「寒起こし」をすることにしました。

「寒起こし」
「寒起こし」とは、土壌消毒の方法の一つで、寒い冬に土地をスコップ(シャベル)で深さ30㎝ほどのところまで掘り起こし、寒さにさらすことによって病害虫を死滅させるもので、「寒ざらし」とも呼ばれます。

「効果」
その効果についてネットで調べると、土の中に含まれる水分が夜に寒さで凍り、日中には表面が溶けて乾燥します。
それを繰り返すことで土の水はけや通気性が良くなり、サラサラの土になる効果があります。
さらに、米ぬかや堆肥、腐葉土などの有機物を投入すれば有用な微生物のエサになり、野菜の根がよく張るフカフカの土になるということです。

なお、病害虫の被害が深刻な畑では寒起こしの後、薬剤を併用するのがよいようです。
その理由は、薬剤の中には使用後1ヵ月ほどは野菜の栽培を避けた方がよいものがあるため、農閑期のうちに散布をすることがよいとのことです。

私の「寒起こし」は寒風に晒すことを目的に行ったので、堆肥などは投入していません。
春先になって、土の塊が崩れてきた時に堆肥の混入と耕うんをして畝作りをする予定です。

先日「寒起こし」したのは下の画像の3畝です。
・放置していた畝です。(before)                     ・寒起こしした畝です。(after)
   

  

  

「寒起こし」は地味な作業ですが、冬の間の大事な作業の一つです。
クワや耕運機で地表近くを耕すだけでは期待できない効果があるということでした。
菜園をされている方は、試しに寒起こしをしてみては如何でしょうか?

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赤間神宮の「耳なし芳一伝説」

2022-01-20 | 趣味

正月明けから寒い日が続いていることから、畑にはほとんど行っていません。
畑に行かないときは、ブルーレイに撮り溜めしているドラマを観ることにしています。
先日の寒い日には、浅見光彦シリーズの第28作「耳なし芳一からの手紙」を観ました。
この「耳なし芳一」という人物には伝説があるようです。
そこで、今日はその伝説を調べてみることにしました。

「ドラマのあらすじ」
ルポライターの浅見光彦(中村俊介)は歴史探訪と観光スポットの取材で山口県の下関を訪れました。
帰途につく高速バスの車中で、浅見は池宮果奈(松本莉緒)という女性と出会います。
浅見の一列前の座席に、赤間神宮の耳なし芳一堂で見かけた古老が座ったのですが、浅見と果奈が話していると、古老が「あ、あの女にやられた!」と断末魔の声を振り絞りながら、崩れ落ちていきました。
古老は、東京・田園調布在住の永野仁一郎(勝部演之)という名前で、永仁産業の元社長です。彼の死因はアルカロイド系の毒物による急性心不全でした。

所持品には、一通の封書があり、裏には「耳なし芳一」の五文字が、中には便せんが一枚入っており、「火の山で逢おう」と書いてありました。
永野の妻・依江(池内淳子)は、浅見の母の雪江(野際陽子)の女学校時代の先輩で、雪江の憧れの人でした。

永野の遺品の手文庫から差出人が「耳なし芳一」と書かれた三通の封書が見つかりました。
各便せんには、それぞれただ一行「七分の三」「七分の四」「七分の五」と書いてあったのです。
浅見光彦は母の雪江や果奈と共に山口県を訪れ、差出人が「耳なし芳一」と書かれた手紙の謎や殺人事件の真相を追うというドラマでした。

・赤間神宮内 の芳一堂です。(ネットより)

「耳なし芳一(ほういち)伝説」
源平合戦の最後の地・壇ノ浦の戦いで入水した、幼い安徳天皇を祀っている赤間神宮は、源平合戦で敗れた平家一門を祀る塚があることでも有名です。
そして赤間神宮は、怪談「耳なし芳一」の舞台でもあります。
耳なし芳一は、赤間ヶ関阿弥陀寺(現在の赤間神宮)に住んでいた盲目の琵琶法師です。
この伝説は、あまりに美しいその調べに平家の亡霊が聞きに来るという話です。

赤間ヶ関阿弥陀寺に芳一という盲目のお坊さんがいました。
芳一は師匠を凌ぐほどの琵琶の名手で、とくに「平家物語」の壇ノ浦の合戦の弾き語りは真に迫ったものがあり、聴く人の心をとらえて離さないほどでした。

ある夏の日の夜、身分の高い方からの使者がやってきて、琵琶の演奏を聞きたいとの申し出があり、芳一は使者に連れられて大きな屋敷に向かいました。
芳一はそこで要望に応じて壇ノ浦の合戦を一心に弾き語ったところ、大勢の人々のむせび泣く声が聞こえてきました。
弾き終わると女の人の声がして、「今晩から3日間ここで弾き語ってほしい。このことは誰にも内緒にするように」と言われたのでした。

朝になり、お寺に戻った芳一は、夜中に居なかったことの理由を和尚さんに問われましたが、約束通り何も答えませんでした。
不審に思った和尚さんは、お寺の坊さんに夜中にこっそりと出かける芳一の後をつけさせました。
すると、何ということでしょうか?
安徳天皇のお墓の前で一心不乱に琵琶をかき鳴らす芳一の姿を見つけたのでした。

平家の亡霊にとりつかれていることを知った和尚さんは、これは一大事と、芳一の身体中に経文を書き、何があっても決して声を出してはならないと告げたのです。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士(平家の怨霊)が芳一を迎えに来ました。
しかし経文の書かれた芳一の体は、怨霊である武士には見えません。

呼ばれても芳一が返事をしないでいると怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば・・・」という独り言が聞こえるのです。
怨霊は芳一を探し回った挙句、写経をし忘れた耳のみが暗闇の中で見えました。「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳以外、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、出来る限り上様の仰せられた通り、証としてこの耳を持ち帰る他あるまい。」と言い、芳一の頭から耳だけをもぎ取ったのでした。
それでも芳一は身動き一つせず、声を出しませんでした。
怨霊はそのまま去って行きました。

 明け方になり帰って来た和尚は、両耳をちぎられて血だらけになり意識のない芳一の様子に驚きました。
そして、昨夜の一部始終を聞いた後、芳一の身体に般若心経を写経した際に、小僧が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに初めて気付き、芳一に、見落としてしまった自らの非を詫びたのです。

その後、平家の怨霊は二度と現れず、芳一の耳の傷も無事に癒えました。
この不思議な出来事が世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになったのです。
やがて琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたということです。

今日は寒い冬にぞっとするような怪談話になりました。
お風邪をひかれないようにしてくださいね。

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江戸の大火災「振袖火事」

2022-01-18 | 雑学

昨日1月17日は、6434名が亡くなり、46万世帯以上が被災した阪神淡路大震災から27年になる追悼の日でした。
そして今日1月18日は、今から365年前になりますが、1657年(明暦3年)の『明暦の大火(振袖火事)』が起こった日です。
この火災では、江戸城天守閣を含む江戸市街のほとんどを焼失するという大火であり、ローマの大火・ロンドンの大火と共に世界三大大火とも呼ばれています。
そこで今日はこの火災について調べました。

「明暦の大火(振袖火事とも)」
『明暦の大火』は「振袖火事」とも言われ、明暦3年(1657年)1月18日、19日の両日にわたって江戸で起こった大火です。
この火事は18日の午後2時半すぎに本郷丸山町の本妙寺から出火し、おりからの大風のため翌19日にかけて本郷、湯島、駿河台、神田橋、一石(いちこく)橋、八丁堀、霊岸嶋(れいがんじま)、佃島から深川、牛島新田に延焼しました。
19日も風はやまず、小石川新鷹匠(しんたかじょう)町から出火、小石川、北神田から江戸城本丸、二の丸、三の丸を延焼しました。
さらに同日夜、麹町五丁目より出火、桜田一帯、西の丸下、京橋、新橋、鉄砲洲(てっぽうず)、芝に及びました。
火元は三か所で、類焼地域は江戸全市に及び焼死者は10万人を超えたということです。

・振袖火事の焼失範囲です。


「火事の原因」
この大火は「振袖火事」とも呼ばれており、次のように伝えられています。
・おきくの死
上野の神商(品格を供えた大商人)・大増屋十右衛門の娘おきくは、花見の時に美しい寺小姓を見初め、小姓が着ていた着物の色模様に似せた振袖をこしらえてもらい、毎日、寺小姓を想い続けていました。
そして、恋の病に臥せったまま、明暦元年1月16日、16歳で亡くなってしまいました。
寺では法事が済むと、仕来たり通り振袖を古着屋へ売り払ってしまいました。

・お花の死
その振袖は本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花の手に渡ったのですが、それ以来お花は病気になり、明暦2年の同じ1月16日に死亡しました。

・おたつの死
振袖は再び古着屋を経て、麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつの手に渡ったのですが、おたつも同じように、明暦3年の1月16日に亡くなったのだそうです。

明暦元年、2年、3年と3年続けて、いずれも1月16日に振袖に手を通した娘が亡くなったのです。
怖いですね。

おたつの葬儀に、十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦もたまたま来ており、三家は相談して、因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにしました。
しかし、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったということです。

・振袖火事です(ウィキペディアより)


「世界三大大火」
この「振袖大火」は「ローマの大火」「ロンドンの大火」と共に世界三大大火とも言われています。

・ローマの大火
西暦64年7月19日、大円形競技場周辺のスラム街から発生した火災は、次々に延焼して大火となり、ローマの町の半分以上を焼き尽くしました。
その火は6日間(8日間ともいわれる)にわたって燃え続け、完成したばかりの宮殿をも炎に包み込んだのです。

・ロンドンの大火
1666年,英国ロンドンシティで起こった大火災です。
9月2日プディング・レーンのパン屋から出火し,7日までにシティのおよそ5分の4を焼きつくしました。
被災家屋は1万3000戸,セント・ポール大聖堂を始め89の教区教会、ギルド・ホールなどの公共施設も被災しましたが、人命の損失は極めて軽微であったということです。

冬は火災が多発する季節です。
平成20年中の火災を原因別にみると失火が全体の65.6%を占めているということです。
タバコの火の不始末や、ストーブなど、火の元には十分気を付けて頂き、火事を起こさないよう防火意識を高めましょう。

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阪神・淡路大震災の歌「しあわせ運べるように」

2022-01-16 | 時事

今年もまたこの日がやってきました。
明日、1月17日は阪神・淡路大震災から27年になります。

私は震災の被災者ではありませんが、当時、私が勤めていた会社の神戸地区の支店では数名のご家族が被災しました。
更に、震災当日に、大阪南部の熊取の高台から大阪湾を挟んで、赤い炎や黒煙が立ち上る神戸の街を目撃したこともあって、この震災には特別な共感を覚えるのです。
そのようなことから、この時期になると震災応援歌のこの曲をご紹介することにしています。

「震災応援歌:しあわせ運べるように」
「しあわせ運べるように」は、阪神大震災をきっかけに生まれ、四半世紀を経た今も歌い継がれている曲です。
この歌は、神戸市立高羽小学校の音楽教諭、臼井真さん(60)が被災直後の喪失感の中で、自らを鼓舞するように10分間で書き上げた曲です。
現在では、東日本大震災の被災地を始め、日本各地や外国の被災地でも大切に歌い継がれている曲となっています。
どうぞお聴きください。

「しあわせ運べるように」   作詞、作曲:臼井真


「参考」
「阪神・淡路大震災」は、平成7年(1995年)1月17日、午前5時46分に淡路島北部を震源として発生し、神戸や阪神地区、淡路島に大きな被害をもたらしました。
地震の規模を示すマグネチユードは 7.3で、揺れの大きさは「震度 7」、震度1以上の揺れの範囲は、東は福島県の小名浜、西は長崎県の佐世保、北は新潟、南は鹿児島までの広い範囲に及び、被害は死者数6434名、被災世帯は46万世帯以上と報道されていました。

阪神・淡路大震災から27年経って震災を知らない世代が増えています。
当時の記憶や教訓をどう受け継ぎ、どう伝えていくかが、いま課題になっています。
この歌を通じて、後世に語り継がれていくことを期待したいと思います。

 

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尖閣諸島は日本の領土

2022-01-14 | 雑学

今日、1月14日は沖縄県石垣市が条例で定めた「尖閣諸島開拓の日」です。
そこで今日は日本固有の領土である尖閣諸島について調べました。

「尖閣諸島開拓の日」
尖閣諸島開拓の日とは、尖閣諸島が1895年(明治28年)1月14日に日本政府によって日本領への編入を閣議決定されたことを記念して、沖縄県石垣市が2010年12月17日に「尖閣諸島開拓の日」を定める条例案を可決したことにより定められました。

「尖閣諸島が日本領に編入された日」
尖閣諸島は1895年(明治28年)1月14日に日本政府によって日本領への編入が閣議決定されました。
この時には、中国は何ら異議を申し立てていません。
それどころか、1920年(大正9年)5月20日には、沖縄県八重山郡尖閣列島で中国人遭難者を救助したとして、中華民国駐長崎領事から沖縄県石垣村の漁民へ感謝状が送られているのですが、この感謝状でも「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と書かれており、中国は尖閣諸島が日本の領土であることを認めているのです。

「福建省漁民遭難救助」
1919年(大正8年)、尖閣諸島の魚釣島付近で遭難し、同島へ避難した中国福建省漁民の男女31人(子供を含む)を古賀善次氏等が現地で救助しました。
その後、遭難者は石垣島に収容され、石垣村役場が救済し、全者を中国へ送還たのです。
1920年(大正9年)5月20日(感謝状の日付)、長崎駐在中華民国領事は石垣村長の豊川善佐、玉代勢孫伴らに感謝状を送っており、外務省の記録からは7通の感謝状が送られたことが判明しています。
これらの感謝状には、遭難場所が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」(現在の魚釣島)と示されています。

・これが1920年5月20日中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」で中国人遭難者を救助したとして沖縄県石垣村の漁民へ送られた感謝状(左)と訳文(右)です。(石垣市HPより)
   

このように尖閣諸島は1895年(明治28年)1月14日に日本政府によって日本領への編入を閣議決定しており、1920年(大正9年)5月20日には、中華民国駐長崎領事から中国人遭難者を救助したとして、沖縄県石垣村の漁民へ送られた感謝状でも日本の領土であることを認めているのです。
しかし、ご存知のように近年は中国が領有権を主張して、海警局の公船が領海への侵入を繰り返しています。

「中国が主張を始めた年」
中国が尖閣諸島を自国の領土だと主張し始めたのは1968年(昭和43年)、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の海洋調査で、周辺の海底にイラクに匹敵する埋蔵量の石油資源が眠っている可能性を指摘してからです。
その主張の根拠は、1970年(昭和45年)12月、中国が尖閣諸島とセットで「南シナ海の大陸棚に主権を擁する」という勝手な理由です。

中国政府は、1992年(平成4年)に「中華人民共和国領海および接続水域法」を公布した際に、尖閣諸島は中国の領土に属すると一方的に制定し、さらに、2012年(平成24年)には声明を発表して、その中で魚釣島およびその付属島嶼の領海基線を公布しました。
また、2013年(平成25年)には一方的に東シナ海上空に「防空識別区」を設定し、尖閣諸島空域があたかも「中国の領空」であるかのように表示しました。
2008年(平成20年)以降は、継続的に中国政府の船舶が尖閣諸島周辺海域に派遣され、頻繁に領海侵入するなど、日本への挑発的行動を繰り返しています。

イラクに匹敵する埋蔵量の石油資源が眠っている可能性が指摘されると、途端に自国の領土であると主張し始め、武力を背景に、自国に都合のいい理由をつけて現状を変更しようとする、何とも浅ましい中国の横暴は決して許されるものではありません。
我が国の固有の領土である尖閣諸島を守るためにも、私たち一人一人がこの問題に関心を持っていただきたいと思います。

なお詳しくは2012年11月の外務省文書「尖閣諸島に関する基本的立場と事実関係」にリンクしておきますのでご参照ください。

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泣きつき商法に注意

2022-01-12 | 消費者問題

コロナ禍での苦境を口実にして、経営を助けてほしいと涙ながらに購入を促す「泣きつき商法」の手口が増えており、国民生活センターでは 注意するよう呼び掛けています。

先日の新聞では、次のように報じられていました。
観光地に出向いてカニなどの魚介類を購入する人が減少している状況に便乗して、消費者の自宅へ電話をかけて「魚介類の産地を観光で訪れる人が減り、経営が苦しい。助けてほしい」などと消費者の関心を引き、強引な勧誘や嘘を言って魚介類を購入させる手口だそうです。

【事例1】
九州北部の60歳代の女性は昨年11月、漁業関係者を名乗る男から電話で「コロナ禍で海産物の売り上げが低迷している。どうか助けてほしい」と泣きながら求められ、エビとカズノコが入ったセットを1万5000円で購入することにしました。
しかし、届いたのは安価なホッケやホタテでした。
代金引換のため、女性は宅配業者に支払ったのですが、後に、男に返金を求めて電話すると、つながらなかったということです。

【事例2】
断ったにもかかわらず、魚介類を送ると言われた。
遠方の業者からは「25年前に旅行で当地に来られた際、魚介類を購入された名簿があったので電話しました。現在、コロナの影響で困っているので魚介類を買ってください」との電話があった。
何度も断ったのに、業者は「送ります」と言って電話を切った。
もし届いたらどうすれば良いか。(2020年11月:70歳代 女性)

他にも同様の相談事例がたくさんあります。

「消費者へのアドバイス」
・おかしいと感じたら「すぐに」「きっぱりと」断りましょう。
 電話をかけてくる業者は、「新型コロナウイルスの影響でお客が減少している」「助けてほしい」などと消費者の関心を引き、魚介類の購入を勧めてきますが、
 連絡先を言わない、話の内容に嘘があるなど、不審な点があった場合には相手と話し込まずに、きっぱりと断りましょう。

・業者からの電話で契約をした時は、クーリングオフができます。
 業者からの電話勧誘によって契約をした場合、特定商取引法に定める「電話勧誘販売」に該当します。
 もし、業者からの電話で魚介類の購入を承諾してしまっても、特定商取引法に定める書面を受け取った日から数えて8日間は、クーリング・オフ(無条件解除)をすることができます。

・一方的に送り付けてきた商品については、令和3年7月6日の特定商取引法改正により、消費者は直ちに処分することができるようになりました。
 金銭を支払う義務は生じません。また、仮に消費者がその商品を開封や処分しても、金銭の支払いは不要です。
 事業者から金銭の支払いを請求されても、応じないようにしましょう。
 支払い義務があると誤解して金銭を支払ってしまったとしても、その金銭については返還を請求することができます。

・不審に思った場合や、トラブルに遭った場合は、最寄りの消費生活センター等に相談しましょう。
 今後も、魚介類に限らず、新型コロナウイルスによる苦境を口実にした電話勧誘が行われる可能性があります。
 少しでもおかしいと感じたら、早めに相談してください。

「相談窓口」
・消費者ホットライン:「188(いやや)番」へ電話してください。
 最寄りの市町村や都道府県の消費生活センター等を案内する全国共通の3桁の電話番号です。

被害者の多くは高齢者の方々です。
悪質業者は次々と新しい手口を考えて皆さんの財産を狙っています。
くれぐれもご注意ください。

コメント (1)
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