らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

蝉たちの ”喜びの歌”

2021-07-31 | 雑学

今月17日に近畿地方が梅雨明けして以降、大阪南部の熊取では全く雨が降りません。
日中の最高気温は連日35度を超えており、不快指数100%超と言ってもいいような蒸し暑さが続いています。

こうした中、早朝は涼しくて気持ちがいいことから夫婦で散歩したり、犬を連れて散歩したりして、暑い日中を避けた運動不足解消法を実践している方々を多く見かけます。
私も運動不足の解消に毎日早朝ジョギングをしています。
最近では5時45分頃になると、長い地中生活からこの世に生を受けた蝉たちの ”喜びの歌” の大合唱が響き始めます。
この蝉たちは、本格的な夏の到来を待っていたかのように梅雨明けから鳴き始めたのですが、昆虫は季節に敏感に反応するものですね。

「芭蕉の句」
蝉の大合唱と言えば、松尾芭蕉が奥の細道を旅した時、山形県の立石寺で有名な次の句を詠んでいます。

  「閑(しずか)さや 巌にしみ入る 蝉の声」

「ああ、なんて静かなんだ。蝉の鳴き声が岩にしみ入るように聞こえてくる」という意味の句です。

・山寺(立石寺)を訪れた時の写真です。(2008年10月21日撮影)


「閑さとは」
芭蕉は蝉のうるさい鳴き声を何故「閑さや」と詠んだのでしょうか?
調べてみると、ここに詠まれている「閑さ」は、心の中の「閑さ」なのだそうです。

芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わします。頭上には梅雨明けの大空が果てしなくつづいています。
そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとったと言うことです。

・立石寺(山寺)のセミ塚です。


「蝉の生態」
一般に、蝉は幼虫として地中で生活する期間が長く地上では1~2週間の命と言われていましたが、実際は1か月程度生きているようです。
生存が1~2週間ほどという俗説が広まった原因として、成虫の飼育が難しく、飼育を試みてもすぐ死んでしまうことがあげられています。

ところが、2019年に私の故郷、岡山県笠岡市の県立笠岡高校の高校生が独自の調査手法によりアブラゼミが最長32日間、ツクツクボウシが最長26日間、クマゼミが最長15日間生存したことを確認し、広島大で開かれた「中四国地区生物系三学会合同大会」で発表して最優秀賞を受賞し、話題となりました。
この調査のきっかけについては、「そもそもセミの死骸を夏の間に見かけることが少ないのはなぜか」と”短命説”に疑問を持ったことだということです。
そして、幼虫として地下生活する期間は3~17年(アブラゼミは6年)に達し、昆虫としては寿命が長いということです。

蝉の命が1週間程度というのは俗説である、ということを証明したこの高校生、凄いですね。
実際は1か月程度生きているようです。私は認識を改めました。

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13歳の微笑み

2021-07-29 | 時事

”モナリザの微笑み” ならぬ ”13歳の微笑み”が見られました。
美しいですね。 可愛いですね!
やってくれました。
あどけない顔の13歳の少女が世界一に輝きました。

オリンピックが開催されている東京は、新型コロナの感染者数が増加する一方です。
28日に新たに確認された感染者数は3177人で、1週間前の倍以上となり過去最多となっています。
緊急事態宣言下にも拘らず、毎週前の週を上回る日が続いています。

「13歳の微笑み」
そのようは東京で開催されている東京オリンピックで13歳の少女が金メダルを獲得しました。
出場した種目は、この大会から新しく採用された新種目のスケートボードの女子ストリートです。
西矢椛(もみじ)さん13歳がこの競技で見事金メダルを獲得したのです。
13歳での金メダル獲得は日本の五輪史上最年少記録となりました。
これまでは1992年バルセロナ大会競泳女子200メートル平泳ぎの岩崎恭子さんの14歳でした。



「史上3番目の最年少金メダル」
今回の西矢さんの金メダル獲得は13歳330日で、1992年バルセロナ大会競泳女子の岩崎恭子さんの14歳6日を抜いて日本人最年少となりました。
IOCによれば、これは世界でも五輪夏季大会史上3番目の若さだということです。
因みに、最も若いのは1936年ベルリン大会女子3メートル板飛び込みのマジョリー・ゲストリング(米国)で13歳268日、次いで、1960年ローマ大会男子舵手付きペアのクラウス・ゼルタ(西ドイツ)で13歳283日です。

「メダリストの名言」
1992年バルセロナ五輪で競泳の200メートル平泳ぎを14歳で制した岩崎恭子さんは当時「今まで生きてきた中で一番幸せ」と名言を残しました。
今回、このことについて問われた西矢さんは「今のところは一番いい思い出です。」と答えていました。

「金メダル争い」
それにしてもコロナ禍で開催が懸念されていた東京オリンピックですが、柔道・水泳・スケートボードで金メダルを立て続けに獲得するなど、日本チームは幸先の良いスタートを切ったことから大いに盛り上がっています。
28日午後7時現在、金メダル争いでも日本12個、中国11個、アメリカ10個と首位を争っています。

「言行不一致の議員」
これだけ盛り上がってくると国会議員の中には言行不一致の人も出てきました。
今回の東京オリンピックは、コロナ渦の最中に開幕することから開催に反対していた立憲民主党の蓮舫議員は、金メダリストを応援するSNSを発信しており、その場の状況によって簡単に言行不一致の行動を起こすことが改めて明らかになりました。

いま、国民はオリンピックで大変盛り上がっています。
この時期になってもまだ中止を呼び掛けている人がいます。
国民全体で東京五輪を盛り上げていこうではありませんか。

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鹿を指して馬となず

2021-07-27 | 雑学

奈良公園には神の使いとされる鹿が放し飼いされています。
この鹿たち、コロナ前は外国人観光客に大変人気があったのですが、今は観光客は見られず淋しがっているようです。

さて、皆様は鹿を見て馬とは思いませんよね。
ところが大昔の中国では、皇帝に鹿を献上して、「これは馬です」と言った権力者がいたのです。
今日はこの鹿と馬に纏わる諺と故事についてご紹介します。

「諺」
「鹿を指して馬となず」という諺があります。
その意味は、人を威圧により無理強いさせること。また、間違いを押し通し、人を欺くことをいいます。
そしてこの故事については次のように伝えられています。

「故事」
秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)の死後、太子の扶蘇(ふそ)を位に付けよという遺言に背いて幼い胡亥(こがい)を二世皇帝に仕立て、政治の実権を収めたのは側近の趙高(ちょうこう)でした。
胡亥は「天下のあらゆる快楽を尽くして一生を送りたい」と言ったほどの愚かな二世皇帝でした。

趙高はこれを巧みに操り、先帝以来の大臣や将軍、それに王子まで次々に抹殺して、丞相(じょうそう=王を助けて国政をあずかる大臣)の位にのぼり、遂には皇位をうかがうほどになりました。
そして、彼は群臣に自己の権勢を試してみようと思い立ち、一計を案じたのです。

ある日、趙高は、二世皇帝に鹿を献上して次のように言いました。
「馬で御座います。いえ、間違いではありません。馬です。」
おかしな事を言うと思った皇帝は、左右の臣下を見回しました。
押し黙って顔を伏せてしまう者もいましたが、趙高におもねり、馬だという者もいました。
しかし、中には「本当は鹿でございます」と答えた者も幾人かいました。

後日、趙高は鹿と答えた者に無実の罪をきせて処刑したのです。
かくして、臣下たちは趙高を恐れ、皆反対しなくなりました。

この故事から、権威の圧力によって無理強いすること、また、自己の誤りを強引に押し通して人を馬鹿にすることの例えにこの諺が用いられるようになりました。
「馬鹿」という言葉もここから出たという説があります。

故事では、その後、各地に反乱がおこり、趙高は二世皇帝を殺して扶蘇の子、子嬰(しえい)をたてて三世皇帝としましたが、今度は自分がその子嬰に殺される羽目になったのです。


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恙なきや

2021-07-25 | 雑学

異例ずくめの ”2020 東京オリンピック”が開幕しました。
今回の五輪は、コロナ禍によって1年延期になった他、メインスタジアムにあたる国立競技場の建て替え問題に始まり、大会エンブレムの盗用疑惑、大会組織委員会のトップ交代、開幕直前になって、楽曲担当の小山田圭吾さん、ショーディレクターの小林賢太郎さんと重要な役目を担う2人の辞任、解任が相次ぎ、不安に包まれた開会となりました。

しかし、これまでのような盛り上がりには欠けた感がありましたが、1824台のドローンを使った地球の創造で日本のテクノロジー力を発揮したことや、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんの歌舞伎十八番に数えられる演目「暫(しばらく)」を披露し、日本の伝統芸能文化を世界に示したことなど、全体に日本的な演出が施されていて、大変良かったように感じました。

今回はコロナ禍での開催となっています。
海外五輪選手の中にはPCR検査が陽性となって、泣く泣く出場を諦めなければならない人もいます。
五輪開催には反対する人もたくさんいることから、これ以上、選手や大会関係者にコロナ感染者が出ないことを願いつつ、テレビの前で応援したいと思います。

・1824機のドローンが創造した地球です。


「聖徳太子没後1400年」
さて、オリンピックとは関係ありませんが、今年は聖徳太子が世を去ってから1400年という節目の年にあたります。
聖徳太子と言えば、冠位十二階や憲法十七条を制定し、推古天皇の摂政として、遣隋使を派遣して大陸の文化や制度を積極的に取り入れたことで知られています。
また、日本に仏教を広め、法隆寺や四天王寺などを建立した人物としても有名です。

その聖徳太子が1410数年前の607年に、第2回遣隋使で隋の煬帝(ようだい:第2代皇帝、在位604~618年)にあてた国書の中に「日出づる処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と言う有名な文言があります。
これを読んだ煬帝は、「蛮夷(ばんい:野蛮な異民族))の書、無礼なる者有り、復(ま)たもって聞する勿(なか)れ」と激しく怒ったと言われています。
今日はその「恙なき」について調べてみました。

「恙とは」
恙なきの「恙(つつが)」とは、いったいどのような意味なのでしょうか?
「恙」とは人の腹の中に入って人の心を食うという害虫のようです。
古代の中国人は、よくよくこの虫に苦しめられたらしく、人の健康を問う時に「恙なきや」と挨拶する様になったと言われています。
その語源は、一説には、ダニの一種である「ツツガムシ」とも言われおり、これにやられると高熱を発し、死亡率が極めて高く、昔は相当の被害があったことから、ツツガムシ病に罹らないでいる意味から、無病息災のことを「恙なし」と言うようになったと言うことです。

「恙」を広辞苑で調べると、①病気などの災難。やまい。わずらい。②ツツガムシの略。と説明しており、「恙(つつが)ない」は「恙(つつが)」が「無い」ことから、「病気ではない」と言う意味になり、無事である。息災である。異常がない。ということになります。

現在では、「恙(つつが)ない」と言う言葉を聞くことは殆どありませんが、「ツツガムシ病」は毎年全国で数百人程度発症しているそうです。
ハイキングなどのレジャーを楽しんだ1~2週間後に、もし原因不明の高熱が続いたら、一応「ツツガムシ病」を疑った方がいいかもしれません。
手当てが遅れると重篤になる事も考えられるということです。

新型コロナの感染者は50歳代以下が9割以上を占めています。
希望者全員にワクチン接種が終わるまで、十分ご留意の上「恙なく」お過ごしください。

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埒が明かない

2021-07-23 | 雑学

皆さんは埒(らち)が明かなくてイライラしたことはありませんか?
私は第2の職場で経理を担当していた時、取引銀行の窓口で少し無理なお願いをしたのですが、窓口担当者は融通が利かず、イライラしたことがあります。
そのうち、「君では埒が明かないから、支店長を出してくれ」と言ったところ、担当課長が出てきて依頼事項を処理してくれました。

「埒が明かない由来」
このように「埒が明かない」とは、物事が解決しない、事態が進展しない、決着がつかない、という意味なのですが、では、「埒」とは一体、何のことでしょうか?

調べてみると、「埒(らち)」とは、馬場の周囲に設けた柵のことでした。
この柵が開くのが「埒を明ける」で、柵が開かないのが「埒が明かない」です。

その語源は、賀茂の競べ馬(くらべうま)が由来とする説と春日大明神の祭礼が由来とする二つの説があります。
競べ馬説とは、毎年、5月5日に行われた京都・賀茂神社の競べ馬の見物人が馬場の柵(埒)の開くのを待ちくたびれて「埒が明かない」となったとする説。
一方、春日大社説は、奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の周りに柵を作り、翌朝、金春太夫(こんばるだゆう)が中に入って祝言を読むまでは誰も柵の中に入れなかったことから、柵(埒)があかないことには物事が先に進まないという意味になったとする説です。

なお、「埒」の言葉の由来から「らちがあく」の「あく」は「開く」のように思えますが、正しくは「明く」の字を使いますので、注意が必要です。

・京都・上賀茂神社の競べ馬(くらべうま)神事です。


「埒を含む言葉」
参考までに、「埒」のつく言葉には次のようなものがあります。
・「埒を明ける」「埒を付ける」といえば、物事に決まりをつける。はかどる。の意味。
・「埒を越える」といえば、法や掟(おきて)を破る、道理に反するの意味。
・「不埒(ふらち)」は、道理に外れていて、けしからぬこと、という意味。
・「埒外(らちがい)」は、ある物事の範囲の外、という意味。
・「埒内(らちない)」は、ある物事の範囲の内、という意味になります。
ドラマで織田信長のセリフに「埒もない」がありますが、その意味は、順序が立たない、取りとめもない。つまらない、ということです。

・各競馬場の埒とは、各コースの柵のことで、内側の柵を内ラチ、外側の柵を外ラチといいます。


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見苦しい白鵬のかち上げ、張り手

2021-07-21 | 時事

18日の大相撲名古屋場所千秋楽では、横綱白鵬と大関照ノ富士の14戦全勝同士の相星決戦となり、白鵬が小手投げで勝って45回目の優勝を果たしました。
休場明けで進退をかけて臨んだ白鵬は全勝優勝で見事に復活を果たしたのですが、その内容については凡そ横綱相撲とは程遠いものでした。

千秋楽の白鵬は最後の仕切りで、照ノ富士をにらみつけ、立ち上がると、乱暴なレスリングのエルボーようなかち上げをかまし、右、左、さらに左と大振りの張り手の後、強引な左小手投げの連発で勝ち、そして、右腕を振り下ろすガッツポーズをし、鬼の形相で雄たけびを上げたのです。

・千秋楽の白鵬のエルボー(かち上げ)です。


白鵬は前日の14日目にも、正代戦の立ち合いで、徳俵ぎりぎりまで下がる奇策を演じています。
八角理事長は「奇襲は弱いものがやるもの。44回も優勝を重ねている横綱のやることではない」と苦言を呈しています。

解説者の北の富士氏も「今までは白鵬の理解者と自負してきたが、この日を限りに止めることにした」と言い、更に「愛層が尽きた。44回も優勝をしてもまだあのような汚い手段で優勝したいのか」と憤慨していました。

多分、白鵬には「誰も俺を処分なんてできない」というおごりがあるのでしょう。
嘗ての朝青龍と同じです。
親方や協会、相撲関係者はなめられたものです。

「後(ご)の先(せん)」
白鵬が度々使用する張り手やかち上げも、確かに相撲の技として認められています。
しかし、横綱が使う技ではありません。横綱は受けて立つ相撲を取らなくてはいけません。
白鵬が尊敬している双葉山は「後の先」を実践していたのです。
「後の先」とは、「受けて立つ」ことなのです。
相手が先に動く、そして双葉山がそれを迎え撃つという形になります。
先に相手が仕掛けたにもかかわらず、相手にそのまま攻め込まれるのではなく、先手を取って来た相手を制して勝つ、これが横綱相撲なのです。




「因縁の二人」
白鵬と照ノ富士には、2017年に日馬富士が起こした暴行事件を仕組んだ白鵬と、事件当日に膝が悪いのに正座をさせられた大関という、ただならぬ因縁があります。
このためでしょうか? 白鵬の千秋楽の相撲は喧嘩喧嘩でした。

「品格」
この白鵬の土俵上の振る舞いに関して厳しい意見と苦言が相次いで示されました。
矢野弘典委員長は「武道にはありえない。見苦しく、美しくなく、多くのファンのひんしゅくをかったのではないか。白鵬は勝つためには手段を選ばないという思いを抱く人が多かったのでは。横綱は大相撲の象徴なのだから」と断じました。

また、「品格」についても強い疑念を突きつけました。
今場所も場所を通じてみせた立ち合いの張り差しや、特に14日目の大関正代戦では土俵際まで下がって立ち合う異様な行動、更に、千秋楽の全勝対決では照ノ富士の顔面を狙ったプロレスの「エルボー」のような強烈なかち上げ、そして、ガッツポーズや雄たけびで感情をむきだしにしたのです。

都倉委員は「アウト・オブ・ザ・クエスチョン(論外)」とし、山内委員は「14、15日目はあり得ない。問題外。なにも語ることはない」と一刀両断にしました。

ボクシングやアイスホッケーなどではエルボー・ブロー(ひじ打ち)は反則となっています。
白鵬のかち上げは完全にエルボーであり、他のスポーツでは反則技なのです。
しかも自分の右腕にはプロテクターとして肘用サポーターをつけています。
このような卑怯な手を横綱が使っていいのでしょうか?

張り手もそうです。
下位力士は横綱に対して張り手は恐れ多くて使えないでしょう。
であるならば、横綱が使うべきではありません。
白鵬のかち上げを禁止し、横綱としての品格を保ち、堂々と受けて立つ横綱相撲を取るよう、厳重に指導してほしいものです。

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洞ヶ峠を決め込む

2021-07-19 | 雑学

「洞(ほら)ヶ峠を決め込む」という慣用句があります。
ご存知のように、その意味は、対立している両者のどちらに味方しようかと形勢をうかがうことを言います。

「語源」
この語源は、天正10年(1582年)信長を討った明智光秀と、信長の後を継がんとする豊臣秀吉との間で、有名な山崎の合戦が行われた時、大和郡山の城主・筒井順慶は、洞ヶ峠(山城国=現京都)と河内国=現大阪との境)に陣取り、戦況を見下ろして、光秀の敗色が濃くなった頃、山を下って秀吉側に加担したという故事からです。

「故事」
天正10年(1582年)、本能寺の変の直後に主君織田信長を討った明智光秀の軍と信長の重臣羽柴秀吉の軍が山城国の山崎において激突した山崎の戦いがありますが、この時、明智・羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名筒井順慶は、一度は明智側に従って山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めながらも、最終的にはどちらに付くか日和見をしたとの伝説があります。
この故事から、日和見する事を「洞ヶ峠」あるいは「洞ヶ峠を決め込む」と表現するようになりました。
筒井順慶のこの行動は、秀吉側から見れば手柄になりますが、大いに世人の嘲笑を買って、遂には日和見の代表と言われるようになったと言うことです。

「現在の洞ヶ峠」
洞ヶ峠は現在でも残っています。
1966年に枚方バイパス(京阪国道)が開通しましたが、1990年代初頭までは峠の周囲は雑木林で照明設備も少なく、昼夜問わず寂しさを感じさせていました。
しかし、その後、峠周辺の様子は一変しました。
住宅地や学校が建設され、交通量が多いことからアミューズメント施設やファミリーレストランなども続々と建設されたのです。

・現在の洞ヶ峠交差点です。(ウィキペディアより)


「風見鶏」
「洞ヶ峠を決め込む」とは、自分に確たる信念がなく、形勢を見て分のいいほうに付き従うことですが、日本では、同じような意味を持つ言葉に「風見鶏」と言う言葉もあります。
風見鶏は、鶏をかたどった風向計で、主にヨーロッパの教会堂や住宅の屋根の上に取り付けられていますが、風向計としてよりも魔除けとして取り付けられることが多いということです。

風向を見るための「風見鶏」の起源ははっきりしませんが、雄鳥が悪魔を追い払うためとも聖ペテロの標識であるからともいわれています。
風見鶏という言葉は、元々は「風に向かって雄々しく立つ」という肯定的な意味で用いられていました。
しかし日本では、戦後の政界で中曽根康弘元首相が「風向き次第で態度がすぐ変わる風見鶏」と揶揄されたため、日和見主義という意味合いを持つようになりました。
その後は中曽根氏に限らず、態度がすぐ変わる政治家が批判的に「風見鶏」と呼ばれることが多くなったのです。

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日本三名園の選定基準

2021-07-17 | 雑学

先日の雨の日に、録画しているNHKの番組、『絶対行きたくなる! ニッポン不滅の名城「岡山城」』を観ました。
私の故郷であることから、このお城が名城たる所以を詳しく知ることが出来ました。
この岡山城に隣接する形で、日本三名園の一つ「後楽園」があります。
何回も訪れた庭園ですが、岡山城の大名庭園が何故三名園になったのでしょうか?
今日はその由来について調べてみました。

「日本三名園」
日本三名園とは、ご存じのように、金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園の三庭園をいいます。
兼六園は加賀藩前田家の、後楽園は岡山藩池田家の、そして偕楽園は水戸徳川家の大名庭園です。
何れの庭園も池を中心として、その回りを周回できるという池泉回遊式の庭園となっています。

この「三名園」という言葉は、明治37年(1904年)に外国人向けに発行された写真集に初めて使われており、それ以前の記録は発見されていないことから、日本の庭園に興味を示す外国人に日本の魅力をアピールするために作られたのではないかということです。

「選定基準」
ネットによると、三名園の選定は、次のような基準だろうと考えられています。
  (1) 「小石川後楽園」や「六義園」のような庭園であること。
  (2) 大都市は除外すべきであること。
  (3) 今も整備がされている庭園であること。

三名園の選定にあたっては細かく比較検討の論議を重ねたものではなく、東京府政にかかわる誰か大モノの一声で方針が決まり、決定したのではないかと考えられています。
何故なら、誰かが言わねば東京に、あるいは、東京と京都に集中するからです。

その大モノとは誰でしょうか?
強圧的で発言力がある薩長閥の人物ではないか?
例えば、岡山の初代県令であり東京府知事の薩摩藩士・高崎五六か、あるいは五六の息がかかった人物かもしれません。

そして、選定に当たっては、名園を持つ水戸藩江戸上屋敷地の庭園、小石川後楽園が除外となれば、水戸の「偕楽園」になり、それに名園で名高い「兼六園」もスンナリ決まったのではないか。
問題は残りの一つですが、ここで、高崎五六(或は息のかかった人物)とともに、元水戸藩主徳川昭武の意向が強く反映されたと考えられるということです。

水戸藩の小石川後楽園の名の継承を岡山の池田茂政に委ねたのは昭武であり、その昭武はパリ万博(1867年)に将軍慶喜の名代として赴き、そこでは日本を代表して日本庭園を紹介しています。
そのようなことから、日本の名園を選定する上で、昭武に相談をしないはずなないと考えられているのだそうです。
更に、天皇のお耳に入ったかどうかは分かりませんが、天皇としても明治17年の岡山行幸では「後楽園」に御宿泊されていることから肯(うなず)かれたことと思われるとされています。

しかし、審議の記録が見当たらないことから、正式な手続きにもとづいたものかどうかは疑問であり、更に、この時代は全てが国策だったことから、然るべき人物を交えて、それなりの基準を設けて、決めたものと思われるということです。

・岡山の後楽園です(ネットより)


「選定要素」
なお、下記三要素も選定時に考慮されたのではないかと言われています。
①「雪月花」に由来
中国の唐の時代に、白居易(白楽天)という著名な詩人がいました。
その白居易の詩の中に、自然の美しい景色を示す「雪月花」という言葉があります。
雪月花とは、四季の自然の美の代表的なものとして、冬の雪、秋の月、春の花を言い、優美な眺めを表す言葉です。

日本三名園には、それぞれの庭園のポイントを見事に表した「雪・月・花」に基づいてつけられた別名があります。
即ち、雪景色が綺麗に見られる庭園として「雪の兼六園」、月が綺麗に見ることができる庭園として「月の後楽園」、梅の花の名所として「花の偕楽園」という表現で、これも選定要素の一つではないかと言われています。

②他にも三名園の共通点として、兼六園は「前田家」の、後楽園は「池田家」の、偕楽園は「水戸徳川家」の、いずれも力を持った元 大大名が所有していた庭園だということ。

③更に、三名園にはもう一つ共通点があるのです。
園内に大きな池があり、園内を回遊しながら鑑賞を楽しむ庭の形式「回遊式庭園」であることです。この回遊式庭園は日本の庭を代表する型となっています。

今回、三名園の選定基準を調べてみた結果、正式な手続きにもとづいたものかどうかは疑問であること。
そして、然るべき人物の意向が強く反映されて決められたのではないか、ということです。
もし、現在選定するとすれば、この三名園に優るとも劣らない美しい庭園は全国に存在しており、難しい選定になるのではないかと思います。
そうなると、矢張り、大モノの意向が強く反映されるのでしょうか?


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「八百万の神々」とは何人?

2021-07-15 | 雑学

昨年から今年にかけては、全国の皆さんは神様に何回もお願いしたのではないでしょうか?
「家族がコロナに感染しませんように!」「コロナが早く収束しますように!」「早く元の生活に戻れますように!」など、コロナの早期収束を祈願したことと思います。
私もそんな思いで何度かお願いしました。

日本には八百万(やおよろず)の神々がおられます。
中にはコロナに強い神様もおられるかも知れません。
どうか、一日も早く収束するようにお力をお貸しください。

ところで、八百万の神とは一体どのくらいの数の神様なのでしょうか?
今日は八百万の神様について調べました。

「八百万の神」
日本の神話に登場する天照大神や大国主命の名前はよく知られており、あたかも人間のように描かれていますが、れっきとした神様です。
そのほか「古事記」や「日本書紀」などに出てくる神々だけでも300神を超えると言われています。
更に日本では古代から様々なものに神様が宿ると考えられてきました。
山、川、森、風と言った自然をつかさどる神様を始め、田畑や道など村落を守る神様、かまど、台所のような家の中にあるものに宿る神様など多種多様です。
トイレにまでも守り神がいるとされています。

自然は人間に豊かな恵みをもたらす一方で、時には猛威をふるいます。
荒れ狂う自然を目にした人々は、それを神の怒りと信じ、畏れ敬うようになっていきました。
日本の信仰はこの様に万物を崇める、所謂、世界の全ての事物に霊魂や精神が存在すると信じることから始まったと考えられています。

また、宗教や道徳など、異国から入ってきた宗教に由来する神様もいます。
例えば、大黒天様(元来ヒンドゥー教の主神の一つ)や庚申様(こうしん:中国より伝来した道教に由来する庚申信仰)などがこのタイプの神様です。

更には、人間を神様に昇格させたケースもあります。
昔の人々は天変地異や疫病のような不幸が続くと、非業な最期を遂げた人が怨霊になって災いをもたらしていると考えました。
そこで、その人間を神様として崇めることで、怨念を鎮めてもらおうとしたのです。
その代表的な人物が菅原道真です。
無実の罪で大宰府に流された道真は、今や学問の神様として多くの人々の信仰を集めています。

このように、日本では古くから自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから、八百万の神と言われるようになったと考えられています。
この八百万とは、具体的に神様の人数を表しているのではなく、「たくさん」という意味で使われているのです。

八百万の神々の中にコロナを収束させる神様がいらっしゃったらいいのですが・・・。


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スイカ収穫の目安

2021-07-13 | 家庭菜園

今月の9日にスイカの初収穫をしました。
昨年は収穫直前で蔓が枯れたことから失敗のスイカ栽培でしたが、今年は何とか収穫まで漕ぎ着けました。
スイカ栽培では収穫時期の判断が難しいので、今日は私が実行している「収穫の目安」についてご紹介したいと思います。

「収穫の目安」
私がスイカを収穫する時は以下の4点を確認しています。
①受粉後、5日~6日するとピンポン玉より少し大きめの幼果になるので、その日を書いた札を立てておきます。
 (もし5~6日経っても、この大きさにならないようであれば、もう少し様子を見ますが、多分、受粉が失敗したと思われます)
②その立て札の日付から35日目くらいになったところで、叩いて音を確かめます。
 (音はスーパーに行って、売られているスイカを叩いて覚えます)
③次に、スイカが生っている蔓の最初のヒゲが枯れていることを確認します。
④そして最後にスイカが畝と接しているお尻の部分が黄色に変色していることを確認します。
この4点を確認すれば、経験則から収穫時期の到来ということになります。

「収穫目安の実例」
今年のスイカ栽培は4月下旬に苗を植え付けました。
その後、順調に生長し、6月1日に初めて雌花が咲きました。
そして人工授粉した後、6月5日にはピンポン玉くらいの大きさになったことから、その日を書いた札を立てました。

・6月5日の立札と7月9日時点のスイカです。


その後、炭疽病やアブラムシなどの予防のため農薬散布を2~3回行いました。
そして、立札から34日目になる7月9日に、上記収穫目安に書いた、 ②の音の確認と、③の蔓のヒゲの枯れ具合を確認しました。

・赤い丸の中のヒゲが枯れていることを確認します。


更に、目安④のスイカと畝が接しているお尻の部分が黄色になっていることを確かめます。
黄色が濃くなっていると、間違いなく熟れています。

・このくらい黄色に変色していればOKです。


「初収穫は10.4kg」
目安の4項目を確認後、受粉から39日目となる7月9日に今年最初のスイカを収穫しました。
持ち上げた瞬間、その重さにびっくり、おそらく10㎏は超えているだろうと思いました。
家に帰って計ってみると、その大きさは直径27㎝、高さ25㎝、重さ10.4㎏の見事な大玉スイカでした。

・初収穫は10.4kgありました。


そして、私の収穫目安が正しいかを確認すべく西瓜を切ってみると、下の画像の通りよく熟れており、収穫時期はぴったり合っていました。

・収穫時期がぴったり合っていたスイカです。


今年は6月下旬から雨模様の天気が続き、7月に入ると1週間余り毎日雨が降りました。
このため、西瓜の畝が水没寸前までなったことが度々あり、根腐れを起こしていないかと心配しましたが、蔓が枯れることなく収穫までたどり着きました。
今年は10個くらいスイカが生っていますが、初収穫が10㎏を超えたことから満足できる、うれしい収穫のスタートとなりました。


コメント (3)
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