らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

太平洋と大西洋、名称の由来

2019-11-29 | 雑学

昨日の11月28日は「太平洋記念日」でした。
「太平洋記念日」とは、1520年にポルトガルの探検家マゼランが南米大陸最南端の海峡を命からがらに通過し、無事に太平洋に出たことに因んで作られた記念日です。
この海峡は後に「マゼラン海峡」と呼ばれることになります。

「太平洋の名称の由来」
マゼランが海峡を通過して出た時の太平洋は天候がよく穏やかでした。
そして、快適な航海が続いたことに感激し、この海を平和で穏やかな大洋ということから、ラテン語で「Mare Pacificum」(穏やかな海、太平の海)と名付けました。
英語では「Pacific Ocean」ですが、「Pacific」には、穏やかな、静かな、おとなしいなどの意味もあります。
海上の平穏さに因んで「Pacific Ocean」とつけられた英語を日本語に訳すとき、「太平」が使われて「太平洋」になったということです。

「大西洋の名称の由来」
一方、「大西洋」は英語で『Atlantic Ocean』です。
この名称はギリシャ神話の巨人の神様、『アトラス』からで「アトラスの海」又は伝説上の王国『アトランティス』から「アトランティスの海」が語源とされています。

17世紀、イタリア人の宣教師、マテオ・リッチが現在の中国を訪れた際、漢字による世界地図を作りました。
ところが『Atlantic Ocean』を漢字で表すのが、とても難しかったそうです。
さらに「アトラスの海」や「アトランティスの海」という意味は中国の人たちに分かりづらいこともあって、「ヨーロッパ大陸の西にある大きな海」という意味で「大西洋」と表したということです。

太平洋と大西洋の「たい」、読み方は同じ「たい」でも、太平洋は「穏やかな」という意味から「太」が使われ、大西洋は「大きい」という意味から「大」が使われているのですね。
由来を知っておけば漢字を間違えることはなさそうです。


お歳暮を贈る時期

2019-11-27 | 情報

今年もお歳暮のシーズンがやってきました。
我が家では、毎年「K百貨店」のネットショップから贈っているのですが、先日、その手続きを済ませたところです。
同百貨店からはお歳暮の季節になるとカタログが送られてくるのですが、ネットショップ利用者には今回からカタログの送付が廃止となったようです。
カタログがあればパソコンからの入力も比較的わかり易いのですが、今回は入力項目などが分かりにくく、担当者に電話で聞きながら何とか手続きができた次第です。
毎回のことながら、高齢者にはネット通販は分かりにくいですね。

さて、今日はこれから最盛期となる「お歳暮を贈る時期」について調べました。

「お歳暮の起源」
先ず、お歳暮は、日頃お世話になっている方々に対し、1年の締めくくりにお礼の気持ちとして贈るもので、 その起源は江戸時代と言われています。
毎年、盆と暮れの年2回、長屋の大家さんや取引先に対し、「日頃お世話になっています。これからもよろしくお願いします」という意味を込めて、店子(たなこ:借家人)や商人が贈りものを持参したのが始まりの一つといわれています。
それが商習慣と結びつき、現在のような形になったようです。

「お歳暮の現況」
お歳暮は感謝の気持ちと、「これからもよろしくお願いします」という思いを込めて、相手方の家に持参するのが正式な渡し方ですが、現在では宅配便で贈るのが一般的となっています。

「贈る時期」
お歳暮は本来12月13日~20日までに贈るべきと言われています。
その理由は、12月13日は「正月事始めの日(すす払い等)」で、正月の準備を始める日であり、20日以降はどの家庭も年越しの準備で慌ただしくなるためであると言われています。
しかし、すす払いの習慣が廃れたことで贈る時期は前倒し傾向になっており、現在では11月末に贈るのも珍しいことではなくなりました。

贈る時期については地域によって若干の違いがあるようです。
例えば関東地方では12月初旬~31日ごろ、関西地方では13日~31日ごろが多いようです。
届く時期があまり遅くなると迷惑になる可能性もあり、やはり、地方を問わず12月20日ごろまでに届くように手配する方が無難のようです。

「年内に贈れなかった場合」
もし、手配の遅れなどにより年内に届かない場合は、
関東地方では1月7日(松の内)までに、
関西地方では1月15日までに表書きを「御年賀」として贈ります。
その後、立春(2月4日頃)までの間なら「寒中御見舞」として贈ります。
その場合、先方にお歳暮として贈れなかったことをお詫びして、年明けに贈る旨を手紙か電話で一言伝えるのがマナーです。

お歳暮は、日頃お世話になっている方へ感謝の気持ちを込めて贈る日本の文化の一つです。
贈る時期やマナーに十分注意しつつ、お世話になった方へ一年の締めくくりとして感謝の気持ちを伝えたいですね。


唱歌「紅葉(もみじ)」

2019-11-25 | ナツメロ

 秋も深まり、大阪でも紅葉が美しい時期となりました。
一昨日、NHKの天気予報の中で、地元のスポット紹介があり、大阪城公園の紅葉を取り上げていました。
その映像は上空から眺める紅葉のパノラマで、とても美しいものでした。
テレビを観ながら思わず唱歌「紅葉(もみじ)」を口ずさんでいました。

そこで今日は、どなたもよくご存じのこの唱歌をお聴きいただき、美しい紅葉の思い出に浸っていただきたく取り上げることにしました。

 
「紅葉(もみじ)」 


「紅葉(もみじ)の歌詞」 高野辰之作詞            
                 岡野貞一作曲

秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの 裾模様

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波に揺られて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦


「もみじ」は、1911年(明治44年)『尋常小学唱歌』として発表されました。
作詞者の高野辰之は、碓氷峠(うすいとうげ:群馬県と長野県の境)にある信越本線 熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、その美しさに惹かれてこの詞を作ったと言われています。




時雨の語源

2019-11-23 | 季節

大阪地方は昨日の夕方から雨が降り始め、夜半には上がったようです。
天気予報によれば全国的に「☂マーク」があったので、ほかの地方でも雨が降ったことと思います。

時雨と書いて「しぐれ」と読みますが、この時期に降る雨は、時に「時雨」になることがあります。
「しぐれ」とは、晩秋から初冬にかけて、降ったりやんだりする雨のことで、風が強まって急に降ったり、すぐ止んだりします。
漢字の「時雨」は、時に降ることから当てられた字ですが、そもそも、「しぐれ」の語源はどこからきているのでしょうか?
調べてみました。

「語源」
時雨の語源には諸説あります。
一つは、「過(す)ぐる」が変化したものという説です。
それによると、時雨はあまり長い時間降る雨ではなく、雨雲が通り過ぎるとすぐに晴れてくることが多いことから、「過ぐる」が変化して「しぐれ」になったというものです。
広辞苑にも「時雨」の項目に、(「過ぎる」から出た語で、通り雨の意)とし、秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨。と説明しています。

他の説としては、「しばし暗し」「しばし暮れる」があります。
この説では、 時雨の時は空が雨雲に覆われて暗くなり、日が暮れたように感じるが、そうなっても短時間のことなので「しばし暗し」「しばし暮れる」が語源だというものです。

更に、3つ目の説としては「風」の古語の「し」と「狂い」が転化した「ぐれ」が合わさって「しぐれ」になったというものです。
この説では、冬の強い北風をともなって降る雨であり、それも時には強い風を伴い、荒れ狂う天候で降る雨であることから、「風」の古語の「し」と「狂い」が転化した「ぐれ」から「しぐれ」になったとするものです。

この他にも多くの説がありますが、正確な語源は解っていないということです。



「時雨の発生概要」(ウィキペディアより)

では、時雨はどのような状況下で発生するのでしょうか?
北西季節風下、日本海上で発生した対流雲が次々と日本海沿岸に達すると時雨が起こり、雲が去るとまた晴れる。
日本海沿岸を始め、日本海岸気候と太平洋側気候の境界域、たとえば京都盆地、長野県、岐阜県、福島県などでは風とともに時雨がやってくる場合がよくあります。

「時雨の特徴」
「時雨」の特徴としては下記のようなことが言えます。
・晩秋から初冬にかけて多いこと。
・日本の各地でみられること。
・朝、昼、夕といった特別の時刻はない。
・細雨ではないが、だからといって雨量は多くはない。そして、やや強い雨を伴い、雲足は速い。
・広い地域に一様に降るのではなく、密集した雲の団塊から降ってくる。
・気温は低めです。
以上のような特徴があります。

(参考)
なお、「時雨」は、俳句では冬の季語ですが、夏の季語として、「蝉時雨」があります。
蝉時雨(せみしぐれ)とは、多くのセミが一斉に鳴きたてる声を時雨の降る音に見立てた語で、俳句の世界では夏の季語となっています。

 


ボジョレーヌーヴォーの解禁日

2019-11-21 | 季節

今日は11月の第三木曜日で、フランス政府が定めているボジョレーヌーヴォーの解禁日です。
ボジョレーヌーヴォーとは、フランスのブルゴーニュ地方のボジョレー地区で作られた新酒のワインのことを言い、「ヌーヴォー(Nouveau)」とは英語の「new」と同じ「新しい」という意味です。

「解禁日の由来」
ボジョレーヌーヴォーの解禁日が制定されたのは1960年代のことですが、その背景は、ボジョレー地方の新酒がおいしく、大人気であったことから、まだ熟成していない粗悪品が市場に流通するのを防ぐためでした。
そのために、解禁日を定めることにし、その日を11月11日としましたが、その後11月15日に変更されました。

11月11日は、カトリックの祝日のひとつ「聖マルティヌスの日」という「聖人の日」にあたるので、縁起がいいとされていたようです。
しかし、その後、11月11日は「休戦記念日」という別の祝日になってしまい、「聖人の日」ではなくなったことから11月15日の「聖タルベールの日」を解禁日にすることになりました。
ところが、今度は 商人の人たちから異議が申し立てられました。
「もし、11月15日が土曜日や日曜日になると大変だ」という声が上がったのです。

この頃のフランスは土・日はお店も流通業者もほとんどが休みで、販売業者を中心に「土・日と重なった場合に販売チャンスを逃がす」という声が上がったのです。そこで、「曜日を固定しよう」ということになりました。
その結果、「解禁日は木曜日に固定しようという意見が出て、1985年よりボジョレー・ヌーヴォーの解禁日を「毎年11月の第3木曜日」に改定したということです。 

なお、ボジョレー・ヌーヴォーと呼ばれるワインには、赤ワインとロゼワインしかありません。
その理由は、ボジョレー地区で作っている白ワインは、「ボジョレー・ヌーヴォー」として販売できないと法律で決められている為です。

・フランス・ボジョレー地方の場所です。


「販売促進(sales promotion)」
でも、何故、ボジョレー・ヌーヴォーは世界中でこんなに有名になったのでしょうか?
それは、醸造家の「ジョルジュ・デュブッフ氏」の美味しいワインを広めたいという熱い思いからのようです。

ボジョレー近郊でワインを作っていたジョルジュ・デュブッフ氏は、以前からボジョレーのワインの美味しさをもっとたくさんの人に知ってほしいと考えていました。
そこで、1970年代に、パリのオペラ座の近くでボジョレー・ヌーヴォーの解禁を祝うイベントを催したところ、そのイベントは大成功を収めました。
この成功をきっかけに、デュブッフ氏はその後も世界中でさまざまなイベントを仕掛けるようになったのです。
 その結果、ボジョレー・ヌーヴォーは世界的に有名なワインになり、現在に至っているのです。
この功績からデュブッフ氏のことを「ボジョレーの帝王」と呼んでいるということです。

「結び」
ボジョレーヌーヴォーの解禁日が決定された経緯は、解禁日が土・日の休日に重なることを危惧した地元のお店や流通業者の商魂によるところが大きかったようですね。
それにしても、フランスのお店や流通業者の発言力は強いのですね。


吊るし柿

2019-11-19 | 家庭菜園

秋の深まりとともに、この時期の風物詩となっている「正月用の干し柿」のカーテンが各地の柿の産地で見られるようになりました。
私の故郷、岡山でも例外ではありません。
先日、所用で岡山の実家に帰った時、車窓から見る畑や野山には、たわわに実った柿の木があちらこちらで見られました。
柿好きの小生は、吊るし柿にする渋柿が売られていないかと、実家近くの農産物売り場に立ち寄ったところ、残り少なくなっていたものの、西条柿と愛宕柿があったので少し買い求めました。
早速、皮をむいて吊るし柿にしたのでご紹介したいと思います。

「西条柿」 
私が買ってきた西条柿は岡山では美味しい吊るし柿ができることで知られています。
その由来を調べると、16世紀半ば、毛利氏と尼子氏の覇権争いが行なわれていた頃、西条柿はすでに干し柿として加工され、武士の保存食料として珍重されていたそうです。
本格的な栽培が始まったのは昭和初期からです。
その後、昭和30年代にドライアイスの渋抜き技術が普及するとその品質は飛躍的に向上しました。

西条柿の名前の由来は、広島県東広島市の「西条町」とも、愛媛県の「西条市」ともいわれていますが定かではありません。
しかし、東広島市西条町の名刹長福寺には西条柿にまつわる由縁が書き残されていると言われています。

・これが西条柿です。


「愛宕柿」
愛宕柿(あたごがき)は愛媛県が原産の渋柿で、現在も愛媛県を中心に岡山など周辺地域で作られています。
名前の由来は、京都の愛宕山に奉納されて名前を賜ったという説や、京都愛宕産の柿からという説など諸説ありますが、いずれも京都の「愛宕」が絡んでいるということです。

「愛宕柿の特徴」
愛宕柿(あたごがき)は果実の大きさが300g~350g程と大きめの柿です。
釣り鐘状で先が細く尖っているのが特徴的で表皮は艶のある明るいオレンジ色をしています。
愛宕柿が生産されているのは愛媛県をはじめ徳島県、岡山県、香川県などの瀬戸内周辺がほとんどで、最も多いのは原産地とされている愛媛県で、全国の半分を作っています。



「吊るし柿の作り方」
1.皮むき
・柿のヘタとその周囲、そして全体の皮を包丁とピーラーで剥きました。
2.紐付け
・10個くらいを取り付ける長さのひもを用意し、ヘタを紐の間に通して吊り下げます。
3.殺菌処理
・グラグラと沸騰した熱湯に柿を5~6秒入れて引き揚げます。この処理をすることでカビが生えにくくなります。

・ 愛宕柿の吊るし柿です。一部西条柿が混ざっています。


・西条柿の吊るし柿です。


4.吊るして干すので「吊るし柿」。
・二階の軒下の洗濯竿に通して乾燥させますが、ヒヨドリや蠅がくることから防鳥網で覆います。
5.柔らかくするために揉む。
・1週間くらいして外皮が固くなったら、手袋をして軽くもみます。
・その後、5日~1週間後に再度カキの中心まで柔らかくなるように揉みます。
6.出来上がり
・3週間くらいにすると甘い吊るし柿が出来上がります。

・防鳥網を覆った西条柿の吊るし柿です。


【参考】
「柿の栄養価」
柿は日本で最も古くから利用される果物です。
日本語のカキという言葉がそのまま「Diospyros kaki」と学名になっています。
柿はとても栄養価の高い果物だそうです。
即ち、発ガンおさえる効果 があるといわれている「カロチン」や「ビタミンC」が豊富であり、更に、柿に含まれる「タンニン」は、血管を強くして血圧を下げる効果 が期待できると言われています。
また、風邪の予防や二日酔いにもよいとされています。 



つくね芋の収穫

2019-11-17 | 家庭菜園

先日、つくね芋を収獲しました。
今年は支柱が倒れることなく、順調に育ってくれました。

ツクネイモ(捏芋)はヤマノイモ科ヤマノイモ属に属する中国原産のツル性多年草で、ヤマイモの一種です。
塊茎は不規則な塊状をなし、別名を「ツクイモ」とか「コブシイモ」「イチョウイモ」などと言われています。

・これが支柱に巻いて伸びているつくね芋の蔓です。

収穫するため、蔓を切り取った株です。
この後スコップで深く掘って収穫します。



大きな芋が入っている株は、このように表面の土が割れて盛り上がっています。


これが1株に生ったつくね芋です。
芋の形状は主に塊形・丸形で、長芋と比べると芋の水分が少なく、粘りが強いようです。



つくね芋は、磯辺揚げ、山かけそば、とろろ汁、たこやきやお好み焼きなどの食材として利用できます。
我が家では、すりおろして「とろろ」やお好み焼きなどにして食べています。
なお、栄養価としてはカリウムやマグネシウムなどのミネラルを含んでいるため、高血圧の予防に効果が期待できると言われています。

・収獲したつくね芋です。この中の小さいイモは来年の種イモにします。


稲村の火

2019-11-09 | 雑学

11月5日は 「世界津波の日」でした。
世界各地で地震にともなって津波が発生し、甚大な被害がもたらされています。
記憶に新しい2011年の東日本大震災にともなう大津波を始め、1960年にはチリ地震の津波があり、1976年にはフィリピンで、1998年のパプアニューギニア、1999年のトルコ、2001年のペルー、2004年のインド洋沿岸諸国、そして2009年のサモアおよびトンガ沖など、世界の各地で津波が発生しており、津波の脅威は多くの世界共通の課題となっています。

この様なことから、2015年(平成27年)12月22日の第70回国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議が全会一致により採択されました。
「世界津波の日」の制定の由来となったのは、濱口梧陵の「稲村の火」の精神を全世界に発信し、次世代に過去の災害の教訓を伝えることで、津波防災意識のさらなる向上を目指していくことにあります。

そこで今日は世界津波の日の由来となった「稲村の火」について調べました。

「稲村の火」
稲村の火は、安政南海地震での津波の際に、紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)であった濱口梧陵(儀兵衛、1820-1885)の逸話に基づく故事です。
以下、広川町の「稲村の火の館」よりその逸話をご紹介します。

(逸話)
今から150年ほど前のある冬の朝、広村に地震が起こりました。
いつもと違う海に、村人たちは津波を心配して広八幡神社に避難しましたが、被害がなかったことを喜びあいました。
ところが次の日のお昼過ぎ、あわてて濱口梧陵さんの家にかけ込んできた村人が言いました。
「えらいこっちゃ、井戸の水が枯れているぞ!」

夕方の4時頃のことです。きのうの地震とは比べものにならない大きな地震が起きました。
家が倒れ、かわらが吹き飛びました。ドーッという、大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲がみるみる広がっていきました。

そして、ついに大きな津波が押し寄せてきました。
「にげろ!丘にあがれ!津波が来たぞ!」
梧陵さんは波にのまれながらも必死で村人たちにそう叫んで、広八幡神社へと避難を呼びかけました。
この地震はのちに安政南海地震と呼ばれ、全国で2000~3000人が亡くなりました。

津波は川をさかのぼって家や田畑を押し流したあと、今度はすごい勢いで海へ引いていきました。
あたりはひどいありさまで、おとなも子どもも家族をさがして叫びまわっています。
梧陵さんは、暗やみでどこへ逃げればいいのかわからず、さまよっている人がいるにちがいないと考えました。
とっさに、「そうだ。もったいないが、あの丘の稲むらに火をつけよう」と、積み上げられた稲の束に火をつけてまわりました。



すると、逃げおくれた村人が次から次へと火を目指して丘にのぼってくるではありませんか。
「ああ助かった、この火のおかげや」9人目の村人が避難を終えたそのときです。
さらに大きな津波が押しよせて、稲むらの火も波に消されていきました。
このときの津波がいちばん大きく、この後も何度も津波が押し寄せては引いていきました。

津波で家族や家、仕事を失った村人たちはうろたえるばかりでした。 村を捨てて出て行こうとする人もいました。
梧陵さんは考えました。
「このままでは村がほろびてしまう。広村で生きていける方法はないものだろうか…。よし、浜に堤防を築こう。村人に働いてもらってお金を払い、生活に役立ててもらおう。そうすればきっと、生きる希望もわいてくるはずだ。」

地震のあとの炊き出しで、蔵の米もすっかりなくなっていましたが、梧陵さんは家族や店の人に村を守りぬくための協力を求めました。
梧陵さんの家は、広村と千葉県の銚子というところで昔からしょうゆを造っていました。
店や工場ではたくさんの人が働いていました。  

「濱口梧陵(はまぐちごりょう)」
梧陵は、千葉県銚子市に本社がある現在のヤマサ醤油の当主に当たります。
梧陵は地震の前年に家督を継ぎ、出身地の広村と銚子を行き来していたようで、地震のときは偶々(たまたま)広村にいました。
地震が起きたのは16時半ごろで、冬至に近く日暮れが早い時期です。
梧陵は、高台にある広八幡神社への道を示して住民を津波から避難しやすくするため、自分の田んぼにあった藁の山に火をつけて明かりを灯し、村人を高台に誘導しました。
地震後には、村人に仕事を与えることも兼ねて4年間かけて広村堤防を造り、90年後の昭和南海地震の津波から村を救うことにも寄与しました。

梧陵は地震の後、和歌山県の副知事に相当する職や、郵政大臣に相当する職、和歌山県の初代県議会議長なども務めました。
そして、1885年(明治18年)、世界旅行中にニューヨークで病死しました。

広村堤防の近くには、昭和三陸地震が起きた1933年(昭和8年)に濱ロ梧陵の偉業とその徳を称えた感恩碑が建立され、毎年11月には津浪祭が催されています。
また、津波について学ぶことができる「稲むらの火の館 濱口梧陵記念館・津波防災教育センター」も建設されています。

「ご参考」
和歌山県広川町へ行く機会がありましたら、見学されたら如何でしょうか?

「 稲村の火の館 濱口梧陵 記念館 」
〒643-0071 和歌山県有田郡広川町大字広1500番地 TEL 0737-63-1122(代)  
                        FAX 0737-62-2407

開館時間
・午前10時〜午後5時 (⼊館時間は午後4時まで)

休館日
・毎週月曜日(祝日の場合はその翌平日)11月5日の世界津波の日は開館
・年末年始(12月29日~1月4日)


近畿と関西の違い

2019-11-07 | 地元紹介

先月、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」で、近畿と関西の違いについて出題していました。
回答者は誰だったか忘れましたが、その違いを答えられなくて「ボート生きてぇんじゃないよ~」と叱られていました。

チコちゃんは知っているということで、チコちゃんの回答を聞くと、「今は、近畿は国内用 関西は海外用 知らんけど」でした。
その後で専門家の解説があって、近畿は、7世紀後半に生まれた律令制度で定められた「五畿七道」が元につけられたこと。
関西は、関東という言葉と大きな関係があるということでした。

読者の中にはテレビをご覧になった方もいらっしゃると思いますが、チコちゃんの回答で分かりましたでしょうか?
私は解説を聴いただけでは理解できなかったので、改めて調べてみることにしました。

「近畿」
近畿の「畿」は天皇のおられる都のことを言います。
中国では,古くから天子のいる都を「畿」と称し,その周辺地を畿内と呼んだそうです。
広辞苑でも、近畿は、(皇居の所在地に近い国々の意)畿内とその付近の地方。と説明しています。

「畿内」
では畿内とはどこを指すのでしょうか?
日本では、五畿内を畿内と言います。
五畿とは、律令制において都のあった大和国を中心として山城国、河内国、和泉国、摂津国の5ヵ国を指します。
現在の都道府県で言うと、奈良(大和国)、京都(山城国)、大阪(河内国・和泉国)、兵庫(摂津国)にあたる地域が五畿で、この4府県を中心としたエリアが嘗ての畿内ということになります。

「律令制」
では律令制とはどのような制度なのでしょうか?
「律令制(りつりょうせい)」とは、大宝律令・養老律令に規定された諸制度で、律令格式によって運営され、規定された政治体制です。 
 7世紀の後半、近江令(存在を否定する説もある)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂を通じて基礎が固められ、701年(大宝1)の大宝律令の制定・施行によってほぼ完成された制度です。
以後、この体制が大きく変質する10世紀ごろまでの間を特に律令制の時代または律令時代と称し、この時期の国家を律令国家と呼んで前後の時代とは区別しています。

「現在の近畿」
結論として、近畿とは、江戸時代以前の日本の政治、文化の中心であった畿内とその周辺であり、現在では、京都、大阪の2府と三重、滋賀、兵庫、奈良、和歌山の5県からなる、所謂、近畿地方とされる区域です。


「関西」
次に、関西ですが、これも広辞苑によると、
①近江逢坂関以西の地
②鎌倉時代以降、鈴鹿、不破、愛発(あらち)の3関以西の諸国、即ち、畿内5国と近江、伊賀、および山陰、山陽、南海、西海の諸道の称。
③箱根関以西の地
④現今では東京地方を関東と称するのに対して京阪神地方を言う。
と説明しています。

辞書が説明しているように、嘗ては、関西は「関」の西、即ち、関所の西の国を意味し、「関所」の東の国である関東に対して使われた言葉です。
関所は、古くは北陸道・愛発(あらち)関(現:福井県)、東山道・不破関(現:岐阜県)、東海道・鈴鹿関(現:三重県)の三関以西を言っていましたが、平安時代に越前・愛発(あらち)関が廃止されて、代わりに近江国・逢坂関が置かれると、これより西が「関西」と認識されるようになりました。

鎌倉時代には近江、伊賀の2国および畿内5国(大和,山城,摂津,河内,和泉)、さらには山陽・山陰・南海・西海各道の31国、計38国を指していましたが、明治維新以降は、江戸時代以前と比べて「関西」を指す範囲は固定化され、大阪を中心とした京阪神とその周辺地域を指すことが殆どとなります。

現在では関西についての明確な定義はありません。
京阪神地域だけなのか、周辺の県も該当するのか、あるいは徳島や福井まで含むのか、漠然と西日本を指して使われることもあるようで、決まっていないというのが現実です。

行政上の書類などフォーマルな場では「関西」という表現を避け、「近畿」の語が使われる傾向にあります。
この場合は前述した「近畿」と同じく、京都・大阪・兵庫・奈良・滋賀・和歌山・三重の2府5県を指すとされています。

「参考」
なお、外国人は「近畿」を勘違いするそうです。
それは英単語に「Kinky(キンキー)」があり、その意味が「性的異常の変態」とか「風変りな」などの意味があることからです。
このため近畿大学は英語表記では「KINDAI UNIVERSITY(近大大学)」を使用しているそうです。


文化の日の由来

2019-11-05 | 時事

一昨日の11月3日(日)は「文化の日」でした。
文化の日とは、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨の国民の祝日で、昭和23年(1948年)に制定されました。
この日には、日本での文化の発展に寄与した人々や文化功労者に勲章や褒章が授与されます。
今年秋の受章者は4113人(内女性は411人)と報道されていました。

ところで、11月3日は、嘗ては明治天皇の誕生日で休日でした。「日本国憲法の公布日」でもあります。
文化の日と明治天皇の誕生日、日本国憲法の公布日が同じ11月3日なのです。
これらの記念日には何か関連があるのでしょうか?

そこで今日はこれらの関係について調べることにしました。

「明治節」
11月3日は、もともと明治天皇の誕生日であった「明治節」と呼ばれる祝日だったのです。
明治天皇が崩御された後、明治天皇の誕生日であった11月3日を祝日として残したい、という国民の声が非常に多かったために「明治節」という祝日が成立しました。
しかし、日本が太平洋戦争で負けた後、GHQは日本の弱体化を狙い、天皇や神道に関わるものを徹底的に排除し、明治節も廃止されてしまいました。

「日本国憲法の交付日」
戦後、明治天皇の誕生日である明治節はどうしても残しておきたいという意図が日本政府にあったため、日本国憲法の公布を意図的に11月3日にして、それを祝日にしたと言われています。
つまり11月3日は、形式上は日本国憲法の公布日を祝ったものですが、明治節を復活させることが祝日の本来の意味なのです。

その背景は、近代日本の礎を築かれた明治天皇の偉業を永遠に伝えていくため、そして天皇と一体になり国の近代化に尽力された偉大な先人たちに感謝し、その精神を忘れないために、11月3日を明治天皇の誕生日として祝日にしたいという多数の署名を伴う請願運動が発生したためです。

「文化の日の由来」
11月3日は昭和21年(1946年)に日本国憲法が「交付」された日です。
この日本国憲法は平和と文化を重視したものであるとされるため、昭和23年(1948年)に「文化の日」として国民の祝日に制定されました。

「文化の日の行事」
文化の日には、日本での文化の発展に寄与した人々に文化勲章が授与され、また文化功労者や各種褒章の受賞者の伝達式などが行われます。
文化勲章は1937年に制定されました。
元々、旧暦の正月である紀元節(2月11日)や昭和天皇の誕生日であった4月29日などに表彰式が行われてきましたが、「国民の祝日に関する法律」が制定された昭和23年(1948年)以降、毎年11月3日の文化の日に贈られるようになりました。

「文化の日」には、授与式だけでなく、文化庁主催による芸術祭が開催されていたり、普段有料のイベントやコンサート、博物館や美術館の入館料が無料になったりします。

文化の日は、さまざまな日本の文化を大切にする象徴の日ですが、この日はハッピーマンデーという休日を月曜日にして土~日の3連休にする対象にならず、毎年11月3日です。
これは、この日が明治節を復活させることを本来の意味としているからであり、今年はたまたま3連休になりましたが、来年の文化の日は火曜日、再来年は水曜日となり、連休にはなりません。 残念ですね。