らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「霜月」の由来

2008-11-30 | 季節

11月は旧暦で「霜月」と言いますね。
そこで「霜月」の由来について調べてみました。

霜月は「霜降り月」の略とする説が有力のようですが、ほかにもいろいろな説が
あるようです。

ご紹介しますと、
・10月の十は満ちた数で一区切りなので上月になり、それに対して下月で「霜月」に
 なったとする説や「神無月」を「上な月」と考えて「下な月」で「霜月」になったとする
 説など、上下の「下(しも)」とする説。
・「食物月(をしものつき)」の略とする説や「摺籾月(すりもみづき)」の意味などの
 諸説があるそうです。
 しかし、これらの説はいずれも有力とされていないようです。  
                                    (語源由来辞典より)
 
一方、英語の11月は「November」ですが、これは「9番目の月」という意味があるそうです。
11月でありながら「9番目の月」の謂れは、紀元前46年まで使われていたローマ暦が3月起算(新年)で、3月から数えて9番目(Novem)ということのようです。

さて、今年もこれまでにいろいろなことが起こりましたね。

思いつくだけでも、総理大臣の突然の辞任凶悪事件の多発三笠フーズに
よる事故米問題、ガソリンや物価の高騰、株価下落、大相撲八百長問題
など暗いニュースが目立ちました。

わずかな嬉しいニュースは日本人4人がノーベル賞受賞をしたことぐらいでしょうか。

あと1ヶ月を残すのみになった今年は、これ以上の暗いニュースは起こらないで欲しいと思います。


「早起きは三文の徳」の由来について

2008-11-29 | 雑学

今日も5時30分に起床し、ブログを書いています。
早起きすると何か良いことはないかと思いつつ書いていますが、未だその気配すら
ありません。
昔から「早起きは三文の徳」という諺があります。
ご存知のように、「早く起きると良いことがある」という意味ですね。
本当なのでしょうか?

そこで、今日はこの諺の由来について調べて見ました。
この言葉については次のような説があるようです。

1.「奈良説」
 昔から奈良の地では「鹿は神の使い」として保護されていました。
 しかし、鹿も何らかの原因で死ぬことがあります。その鹿の死体が偶然に自分の
 家の前で発見された場合、その家主は罰金として「三文」を徴収されるという掟が
 あったそうです。
 そこで各家の主は皆早起きして、自分の家の前を確認しました。
 もし鹿の死体があった場合は、こっそりと隣の家の前に移したそうです。
 移された隣の人も早起きし、死体があればこっそりとその隣に移し、更にその隣の
 人もまたその隣にと順番に移していき、最終的に一番遅く起きた家の家主が罰金
 を払う羽目になったそうです。
 このことから「早く起きると罰金三文を払わなくて良い」。
 即ち「三文得した」と言われるようになったとする説。

2.「高知説」
 昔、土佐藩・山内家の家臣で野中兼山という人が、洪水対策として仁淀川の下流
 に八田堰工事をしたそうです。
 その際、河川敷の堤防の土を固めるため、次のようなお触れを出しました。
   「朝、早起きして堤防を歩いたものに、褒美として三文の金子(きんす)
    を与えるものとする」
 皆は「三文」を貰おうとこぞって早起きをして歩きました。
 このことが言葉の始まりとする説です。

どちらの説も金銭が言葉の始まりとなっています。
では、「三文」とは今の金銭価値でどのくらいになるのでしょうか?

落語の「時蕎麦」から計算すれば約100円といったところでしょうか。
  (時蕎麦における屋台のソバの値段が16文、現在の屋台のラーメンを500円と
   すれば1文は31.25円、3文で93.75円になります)

「早起きは三文の徳」の意味は、「1文銭3枚で、きわめて価の低い意」と広辞苑では説明しています。

しかし、現在の100円は「わずかばかり」のお金でしょうが、昔は罰金を回避する
ために鹿の死体を移したり、早起きしてまで堤防を歩いて貰うほどの金額だったことから考えると、100円よりももっと大金だったのではないでしょうか?

そうだとすれば、この諺の説明では、当時の「三文」という金銭を現在の説明で余りにも低い価値観で捕らえているように思います。
皆さんはどのように感じられますか?


キウイ栽培(その4)収穫と完熟の目安

2008-11-28 | 家庭果樹

11月も終盤になり、キウイの収穫時期となりました。

当ブログの「キウイ栽培シリーズ」は5月20日の「キウイの花」から始まり、今日の「収穫」で最終となります。

今日は「収穫」と「完熟の目安」についてご紹介します。

「収穫」
 収穫時期は11月頃で霜が降りる前と言われています。 
 収穫方法は、キウイを握り、果実との付け根を親指で押すと簡単に取れます。
 我が家では、今年は40~50個の収穫がありましたが、その中には十分肥大した
 ものや、やや不十分なものなどがありました。


・肥大化が不十分な原因は、短い枝の摘果ができていなかったことです。
 今年は枝の長短にかかわらず、全ての枝に3個の実を残しました。


「追熟の方法」
 我が家では、買い物でもらうビニール袋にりんごと一緒に入れて結んでおきます。
 結び目のところに隙間が出来るので、袋に穴を開けなくても大丈夫です。
 (りんごの他にバナナを入れても追塾するようです。)


「完熟の目安」
 指で押してみて、耳たぶくらいに柔らかくなった頃と言われています。
 日数では、10日~2週間くらいで食べられるようになると思います。

・下の画像は1週間くらい経過していますが、少し柔らかくなった(耳たぶより固い)
 程度のキウイです。
 まだ果肉のグリーンの色が薄く、未熟の状態です


・適熟果になると果肉の色が濃くなり甘味が増します
 下の画像くらいに濃くなった頃が適熟果です。 これで11日経過したところです。
 このくらいに熟すると甘味が増してきます。
 反対に過熟果すると果肉の色が黄色く変色し始めて味が落ちてきます。


・追熟時の温度は15℃~20℃くらいの室内で行うとよいそうです。
 温度が低いと追熟の進行が遅く、糖度が上がりにくいといわれています。


「干し柿」とその甘味について

2008-11-27 | 家庭菜園

白い粉を吹いた干し柿は甘くて美味しいですね。
その干し柿は渋柿から作られていることはご存知ですよね。
では、干し柿にすると何故渋い柿が甘い柿に変わるのでしょうか?

今日は私の「干し柿作り」と、その甘味の正体についてご紹介します。

1.干し柿作り
・干し柿用の渋柿です。


・この渋柿の皮をむきます。
 皮をむいた柿は紐に結んで、熱湯の中に入れて殺菌します。


・殺菌後、軒下に吊るして、寒風にさらします。
 4~5日で乾きますので、よく揉んで柔らかくします。
 そのままにしておくと乾燥し過ぎて固くなります。


・正月用の串柿も一串だけ作りました。
 串柿は10個の柿を両端に2個、真ん中に6個を配して竹串に刺し、寒風にさらし
 て作りますが、一般的に「いつもニコニコ(2個、2個)中睦(6つ)まじく」との意味を
 込めていると言われています。 
 しかし、元々は、三種の神器の一つで ある剣を表しているそうです。
 下記をご参照ください。

(参考)
鏡餅は三種の神器を表しています
 三種の神器とは、皇位のしるしとして古来から伝わっている三つの宝物で、
 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、
 八咫鏡(やたのかがみ)
をいいます。
 一般には、お正月の鏡餅として神様にお供えする特別な縁起物として庶民に普及
 したようです。
 その鏡餅において、ダイダイ八尺瓊勾玉を表しており、串柿天叢雲剣を、
 重ね餅は、八咫鏡を表していると言われています。


・1週間から10日ほどで渋が抜けて甘い干し柿が出来上がります。
 我が家ではこのくらいに乾いたところで取り込み、1個づつラップに巻いて冷凍
 保存をしています。


2.渋柿を干すと何故甘くなるのでしょうか?
 柿の渋の元は「タンニン」という物質だそうです。
 この「タンニン」には水溶性のものと不溶性のものがあり、渋みの正体は水溶性
 
の「タンニン」だそうです。
 不溶性の「タンニン」はいくらあっても渋みを感じません。
 従って、渋を抜く方法は、水溶性のタンニンを不溶性に変えればいいのです

 一般に渋抜きの方法に炭酸ガスやアルコールを使っていますが、これらを使うこと
 によって柿に異常呼吸をさせ、水溶性のタンニンを不溶性に変えているそうです。 
 (異常呼吸をさせると何故タンニンの性質が変わるのかはよく分かりません。)

 柿に異常呼吸をさせる方法には、この他に皮をむいて寒いところで風にさらし、
 ゆっくり干していく方法もあるそうです。
 この方法で渋を抜いたのが干し柿です
 
 柿には甘柿、渋柿ともにタンニンと甘味成分が含まれています。
 干し柿の甘さの秘訣は、干すことによって水溶性のタンニンが不溶性に変わり、
 渋みが隠れて元々持っている甘みが前面に出て、甘い柿に変貌するという訳
 です。

 つまり、渋柿と甘柿の違いは甘味の量や有無の違いではなく、タンニンの性質の
 違いによるものという訳です。

ご理解いただけましたでしょうか?


風見鶏の館

2008-11-26 | 旅行

自治会のバスツアーでは、北野地区の異人館散策もコースにありました。
今日は数ある異人館のうち、よく知られている2つの館ををご紹介します。


風見鶏の館
 この館はかつて神戸に住んでいたドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏の自邸
 として、明治42年に建てられた建物です。
 レンガ張り、木造2階建ての西洋建築物で、重厚なレンガ造りの外観と尖塔の上に
 立っている風見鶏が特徴です。
 その風見鶏から「風見鶏の館」と呼ばれているようです。

 1977年(昭和52年)10月からのNHK連続テレビ小説「風見鶏」で全国的に有名に
 なり、現在では異人館を代表する建物となっています。

 1978年(昭和53年)1月には国の重要文化財に指定されています。


・1階には玄関ホール、応接間、居間、食堂、書斎などがあります。
 ここは居間です。

 
・食堂です。


・食堂の暖炉の上にある写真がトーマス氏です。


・2階には夫妻の寝室、子供部屋、客用寝室、朝食の間などがあります。
 ここは子供部屋です。


(参考)
「風見鶏の館」の構造
  ・木造2階建、外壁煉瓦張り、半地階、塔屋付、寄棟造、スレート葺
  ・建物面積  1階   230.14㎡
          2階  230.60㎡
  ・延床面積        891.03㎡ (含、地階、屋根裏部屋 430.29㎡)
  ・敷地面積      607.30㎡


・萌黄(もえぎ)の館
 明治36年(1903年)にアメリカ総領事ハンター・シャープ氏の邸宅として建築され
 ました。
 昭和19年に(1944年)に小林秀雄氏(元神戸電鉄社長)の住宅となり、昭和55年
 (1980年)に国の重要文化財に指定されています。
 長らく「白い館」と呼ばれていましたが、昭和62年(1987年)からの修理で建築
 当時の淡いグリーンの外壁に復元されて、「萌黄の館」の名前が付けられました。

・大きな楠に囲まれて建てられている萌黄の館です。


・1階には応接間、食堂、書斎などがあります。
 ここは応接間です。


・2階には東寝室、西寝室、子供部屋、化粧室のほかに使用人室が2間設けられて
 います。
 ここは寝室です。


(参考)
「萌黄の館」の構造
  ・木造2階建て、寄せ棟造り、桟瓦葺
  ・建物面積 1階  192.91㎡
          2階  190.43㎡
  ・延床面積      383.34㎡
  ・敷地面積      803.66㎡

神戸の山の手に位置する北野地区の異人館通りには、この他にもシュウエケ邸
(英国人)、パラスティン邸(ロシア人)、旧パナマ領事館、プラトン装飾美術館など
たくさん見学するところがあります。

「おしゃれな街神戸」に一度行かれてみては如何でしょうか?


明石海峡大橋へのクルーズジング

2008-11-25 | 旅行

私が住んでいる住宅地では毎年自治会のバスツアーがあります。
今年は、神戸方面が企画され、一昨日、参加してきました。

コースは、灘の酒蔵(菊正宗酒造記念館)見学、明石海峡大橋へのクルージング、そして北野地区の異人館散策です。

この内、今日はクルージングで撮影した、海上からの雄大な明石海峡大橋をご紹介します。

「神戸ポートタワー」です。
 この塔はクルージングが出航するメリケンパークの神戸港中央突堤にあります。
 1963年に建設された展望用タワーで、世界初のパイプ構造の建築物です。
 和楽器の鼓を長くしたような外観が特徴で、その形状から「鉄塔の美女」とも称
 され高層建築物のモデルの一つになっているそうです。


・クルージング船「ルミナス神戸2」です
 神戸メリケンパーク オリエンタルホテルから乗船します。
 この船はフランスの豪華客船「ノルマンディ号」をイメージして造られたそうです。


明石海峡大橋の全景です。(左側が神戸市、右側が淡路市です)
 この大橋は神戸市垂水区と兵庫県淡路市を結ぶ世界最長の吊り橋です。
 全長3,911m、中央支間1,991m、主塔の高さは海面上298.3mだそうです。
 当初計画では全長3,910m、中央支間1,990mでしたが、阪神淡路大震災で地盤が
 ずれて1m伸びたそうです。
 1998年(平成10年)4月5日に共用開始となりました。


橋の中央付近からの明石海峡大橋です。(見えている町は神戸市です)
 主塔に架かっているメインケーブルは片側1本の計2本を使用しています。
 ケーブル1本に36,830本のワイヤーを使用し、1本のケーブルの直径は112.2cmで
 約6万トンの加重を支えるそうです。


主塔の基礎部分です
 海峡の深さは50m以上あり、岩盤は水面下90m以上の位置にしかないため、その
 上にある砂礫層に「フィルターユニット」と呼ばれる1トン以上の石を10mの高さで敷
 き詰めて基礎を置いているそうです。


淡路側のアンカーブロック(橋台・アンカレイジ)です。
 直接基礎といって、荷重を良好な地盤に伝達する形式だそうです。


神戸側のアンカーブロック(橋台・アンカレイジ)です。
 直径85m、深さ63.5mの地下連続壁工だそうです。



真下から見た明石海峡大橋の底面です
 補鋼桁が均等に組まれています。


明石海峡大橋は1988年(昭和63年)5月の着工から、1998年(平成10年)4月の共用開始まで10年の歳月がかかりました。
現在、本州と四国を結ぶ連絡橋は3本ありますが、最も交通量が多いのは、この橋を通る「神戸淡路鳴門自動車道」といわれています。

なお、「明石海峡大橋」という名前ですが明石市には接していません。


勤労感謝の日の由来について

2008-11-24 | 時事

真冬並みの寒さに見舞われた「小雪(しょうせつ)寒波?」もどうやら峠を超え、昨日は平年並みの気温に戻り、各地の行楽地では大勢の人出で賑わったようですね。

今日は「勤労感謝の日」の振替休日で、一昨日から今日まで、今年最後の三連休という方が多いのではないでしょうか?

そこで今日は「勤労感謝の日」が何故11月23日なのか、その由来について調べて
みました。

・先ず、勤労感謝の日とはどのような日なのでしょうか?

 「勤労感謝の日」とは国民の祝日の一つで、祝日法では
   「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」 ことを趣旨として、
 1948年(昭和23年)公布・施行の祝日法で制定されました。
 もともと戦前の「新嘗祭」の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改めたものです。

・では何故11月23日なのでしょうか?

 先述した「新嘗祭」は、1872年(明治4年)までは旧暦11月の2回目の卯の日
 行われていたようです。
 1873年(明治5年)に新暦(太陽暦)が導入されると、そのままでは新嘗祭が翌年
 の1月になって都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うことに
 しました。その日が1873年では11月23日でした
 そして翌年1874年(明治6年)からも11月23日に固定されるようになったようです。

 この経緯からもお解かりのように、たまたま日本が太陽暦を導入した11月の2回目
 の卯の日が11月23日だったということで「新嘗祭」がこの日に決まり、そして翌年
 からこの日に固定されて現在の「勤労感謝の日」になっているだけのことです。
 従って、この11月23日という日に何ら深い意味はありません。

 更に、祝日法第3条によって、日曜日と重なった場合には翌日が振替休日となり、
 今日がその日に当たって三連休となったということです。

由来についてお解かり願いましたでしょうか?


二十四節気の「小雪」とは

2008-11-23 | 季節
昨日、11月22日は「小雪(しょうせつ)」でした。

「小雪」とは、二十四節気の一つで、「冷え込みが厳しく小雪がちらつき始める頃」という意味です。
天門学的には天球上の黄経240度の点を太陽が通過する瞬間を言います。

暦便覧にも「冷ゆるが故に 雨も雪となりて くだるが故 也」とあります。

この頃から西高東低の冬型気圧配置が多くなり、雪の季節を迎えます。
北海道では根雪になり、関東、東海では初氷が見られるようになるといわれています。

今年の「小雪」は暦どおり、日本列島は西高東低の冬型気圧配置に見舞われました。
このため、全国的に真冬並みの寒波に襲われ、各地で吹雪になったり、初雪を観測したようです。

私が住んでいる大阪南部でも真冬並みの冷え込みとなり、木枯らし1号が吹き、雷雨もあって、大荒れの天気となりました。

この風で庭の桃の木の葉っぱが殆ど散ってしまいました。
今年はこの落ち葉を集めて腐葉土を作りたいと準備しているところです。

・葉っぱが殆ど散った桃の木です。



大山祇神社と鶴姫伝説

2008-11-22 | 旅行

岡山方面の旅3回目は、尾道から愛媛県・今治に通じている「瀬戸内しまなみ海道」の中ほどに位置する大三島に行ってきました。

今日はこの島に鎮座する「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」「瀬戸内の
ジャンヌ・ダルク」
と呼ばれる「鶴姫」伝説をご紹介します。

「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」
 「大山祇神社」は瀬戸内海の芸予海峡の中央に位置する大三島の楠群に覆われ
  た境内に鎮座しています。

 御祭神は天照大神の兄神に当たる大山積大神で、全国の山祇神社・三島神社の
 総本社となっています。
 平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されています。

 山の神、海の神、戦いの神、として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社で、
 源氏、平家を始め多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため全国の甲冑
 の約8割がこの神社に集まっているそうです。

・大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)の明神鳥居です。
 柱は根をやや外に張って安定感を強くし、笠木・島木の両端が上に反り、額束
 (がくづか)・楔(くさび)のあるのもで、最も普通の形の鳥居です。


・神門です。


・大山祇神社の拝殿です。


・御神木の大楠です。


・乎知命(おちのみこと)御手植の楠
 御島(大三島)に祖神・大山積大神を祀った乎知命(おちのみこと)の御手植の楠
 と伝えられ樹齢2600年で古来、御神木として崇められているそうです。
 (乎知命(おちのみこと)は御祭神(大山積大神)の子孫に当たるそうです。)


・能因法師(のういんほうし) 雨乞の楠(天然記念物)
 日本最古の楠で樹齢3000年といわれています。
 900年前の後冷泉天皇御代に伊予国守・藤原範国(のりくに)は能因法師を使者と
 して祈雨のため参拝させました。
 その時「天の川  苗代水に  せきくだせ 天降ります 神ならば神」と詠じ、
 幣帛(へいはく)に書付け祈請したところ、伊予国中に三日三夜雨が降ったと伝え
 られています。


・鶴姫伝説
 「瀬戸内のジャンヌダルク」と呼ばれる鶴姫は戦国時代、三島水軍を率いて周防・
 長門(現・山口県)の守護大内氏の軍勢と戦い、18歳で亡くなったと伝えられてい
 ます。

・この伝説のあらましは次のとおりです。
 鶴姫は大山祇神社の神官・大祝家の娘として1526年(大永6年)に生まれました。

 1541年、京都進出を志す中国地方の覇者大内氏は瀬戸内の島々を攻め立てて
 いました。
 鶴姫の大祝家は神官だったので戦に出ずに三島城を守っていましたが、次兄の
 安房が三島城の陣代で戦場に赴き、伊予の国を守っていた河野一族と連合して
 迎え撃ちました。激戦の中、次兄の安房は戦死しました。

 その後、祭職を守っていた長兄に代わって、三島城の陣代で戦場に赴いた鶴姫は
 恋人の安成と共に勇敢に戦い、次兄の仇を見事に討ち取ちました。

 2年後の1543年6月、大内氏の軍勢と再び激しい戦闘が繰り広げられました。
 父より賜った紺絲威の鎧を身につけた鶴姫は見事に戦いを勝利に導きました。

 戦いが終わって三島城に引き上げたときに恋人の安成の姿はありませんでした。
 鶴姫は深い悲しみを抱き、このときに詠んだ歌が

 「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」です。

 そして、鶴姫はこの一首を残し、夜中に一人で恋人が消えた海へと舟を漕ぎ出し、
 母の形見の鈴を胸に恋人の後を追いました。

 鶴姫は悲しみのうちに、わずか18歳の若さで海に身を投げたと言われています。

・鶴姫ロードにある鶴姫像です。


・日本に現存する唯一の女性用鎧の持ち主が鶴姫です。
 この鎧を大山祇神社では所蔵しています。他の鎧と違って、胸の部分が膨らみ、
 ウェストが引き締まっており、女性らしい美しさを漂わせているのが特徴です。

・鶴姫の鎧です。

     


「八つ墓村」のふるさと探訪

2008-11-21 | 旅行

昨日から岡山方面の旅をご紹介しています。
今日は高梁市成羽町の「吹屋ふるさと村」にある広兼邸をご紹介します。

広兼家は大野呂の庄屋を勤め、二代目の元治が享和~文化年間(1801年~1817年)にかけて、小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み、巨大な富を築いたそうです。

その富によって建てられた広兼邸は、江戸後期の裕福な庄屋の邸宅としての構えをよく伝えていると言われています。
現在は成羽町の重要文化財として保存されています。

広兼邸は、横溝正史の長編推理小説「八つ墓村」のロケ地となったところで、映画では多治見家として使用されたそうです。


・広兼邸です。
 この武者返しのような石垣は1810年(文化7年)の建築で、現在約半分が土に覆わ
 れているそうです。
 城郭を思わせる構えは、当時の富豪を偲ばせています。


・広兼邸への入口です。
 1977年(昭和52年)10月の松竹映画「八つ墓村」のロケ地となり、多治見家として
 使用されました。
 金田一耕助役を渥美清が演じた映画で、この入口に続く階段は春代(山本陽子)
 が辰弥(萩原健一)を出迎えた階段です。


・入口の不寝番部屋です。
 右側の植木の所に見える戸が開いている部屋は門番部屋です。
 この部屋より更に右側には、下男部屋、番頭部屋、下女部屋、厩、農作業場など
 の小部屋が続いています。


・庭園です。
 この奥には水琴窟や茶室、離れ座敷、土蔵、厩(うまや)などがあります。


・水琴窟です。
 水琴窟は日本庭園の特殊技法の一つで、江戸時代、文化・文政(1810年)の頃、
 庭師により考案されたものと言われています。
 構造は、地中に小洞窟を造り、その中に水滴を落とし、そこから発生する滴水音
 を洞窟の壁面に反響させるものです。


(参考)
・小泉銅山は808年(大同3年)から開発されたと伝えられています。
 享和・文化年間には広兼氏が経営し、明治42年(1909年)閉山となりました。
 その後、大正年間に再開されましたが、1963年(昭和38年)に廃坑となりました。

・広兼邸の面積は下記のとおりです。
   敷地    2,581㎡
   建物 
    本宅     323㎡
    離れ座敷  117㎡
    長屋     103㎡
    土蔵     153㎡
    楼門       8㎡