らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

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最後のブログ

2017-12-31 | 趣味

今年もまた大晦日がやってきました。
小生がブログを始めて11回目の大晦日です。

小生が「らいちゃんの家庭菜園日記」と題して、ブログを始めたのは平成19年(2007年)12月5日でした。
当初の記事は、趣味の一つである家庭菜園の話題を中心にアップしてきましたが、1年過ぎると次第にネタ切れになって家庭菜園の話題から離れていきました。
その後はお花や時事問題、地元の話題などを取り上げ、最近では、雑学や旅先の名所旧跡などをアップしてきましたが、それもいつしかマンネリ化してきたことに気付きました。
読者の皆様も新鮮味のないことに気付かれていた事と思いますが、それでも10年間続けているとアクセス数も少しづつ増加し、最近では毎日600人から700人ほどの方々がアクセスして頂くようになりました。
そして、昨日までの10年間の累計延べ閲覧ページ数(PV)と、延べパソコンからのアクセス数(IP=訪問人数)は下記のように181万人を超えていました。
   ・延べPV(閲覧ページ数)・・・6,673,416頁
   ・延べIP(訪問人数)・・・・・・・1,819,869人

そして、その人たちからは貴重なコメントをたくさんいただきました。
中には辛辣なコメントもありましたが、それらのコメントを励みに10年は頑張ってブログを続けようと、今日まで拙い記事をアップしてきました。
そしてブログ開始後10年1ヶ月となる今日、平成29年(2017年)12月31日を以ってひとまずこのブログを休止することとしました。

毎日、弊ブログを読んで頂いている皆さまには誠に心苦しいのですが何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。
そして、10年間に亘り御愛読いただいたことに心から感謝と御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

今後は引き続き家庭菜園に注力しつつ、ブログに替わる何かを見つけたいと思っています。
そうは言っても、暫く休止の後、不定期にブログを書くことがあるかもしれません。
その時にはまたよろしくお願い申し上げます。

明日は平成30年(2018年)の幕開けです。
来る年が皆さま方にとってよいお年であることをお祈り申し上げて、最後の記事とさせていただきます。
有り難うございました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

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韓国へブーメラン

2017-12-30 | 時事

韓国がまた慰安婦問題を再燃させてきました。
たかり国家、嘘付き国家と揶揄されている韓国のいつもの手口とはいえ、何度日本から金をせしめれば気が済むのか?
この問題は丁度2年前に国家間で最終的かつ不可逆的に解決しているではないか。
この事はアメリカを始め世界も認めていることなのだ。
その時の約束に従って日本は謝罪もし、金銭も支払っているが、一方の韓国は慰安婦像の撤去をするどころか、更に慰安婦像を増設しているのはどういうことなのか。

もし、韓国が日本の立場だったらどのような対応をするのか?
恐らく、報道規制を敷いて、そのような事実をはないとして無視し、国民にも知らせないことは想像に難くない。
その良い例があるので紹介したい。
嘗てから言われているところの、ベトナム戦争時における韓国兵によるレイプ事件である。
タイトルは「韓国に世紀の大ブーメラン」と言うものです。
これはロンドンの民間団体がベトナム戦争時の韓国兵による強姦問題を取り上げたユーチューブです。

「内容」
2017年9月12日、イギリスの市民活動家.ピーター・キャロル氏の呼びかけでロンドンで民間団体「ライダイハンのための正義」が設立された。
「ライ」はベトナム語で「混血」、そして何と英語では「嘘(lie)」、「ダイハン」は韓国を意味します。
韓国はベトナム戦争(1960年~75年)当時、アメリカを支援して、延べ34万人の兵士を送り込んだ。だが、彼等は現地で多くの強姦事件や民間人虐殺を繰り広げた。
ライダイハンとは、韓国兵による強姦などによって生まれた子供たちのことであり、ベトナム戦争終結後、殆どが置き去りにされた。
その数は推計で数千から3万人とも言われています。韓国政府はこれまで、この問題に関する公式な謝罪や賠償などは一切行ってこなかった。
それどころか、これに触れること自体韓国ではタブーとされてきた。
それが今、支援団体の設立によって国際社会にさらされようとしているのだ。

ロンドン市内で開かれた同団体の設立イベントには、ジャック・ストロー元外相も出席した。
公式サイトには、設立趣旨として次のように書かれています。
「混血の子供たちはライダイハンとして知られ、今日でも日陰の生活を送っている。我々はこのような形で食い物にされた全てのベトナム人女性のため、ライダイハンの子供たちのため、そして、彼らが当然受けるべき存在の認知と尊重のために闘う」

更に、同団体のメンバーで英国人ジャーナリストのシャロン・ヘンドリー氏はレイプ被害者やライダイハンの子供たちへの聞き取り調査を英紙に寄稿した。
そこで韓国軍司令官の家で食事を作る手伝いをしていた10代の女性がレイプされた事例や子供たちが学校で“犬の子”と呼ばれて差別を受けている実態をレポートしている。
ヘンドリー氏は、韓国政府は決して韓国兵が行った行為を認めず、調査すらしない。と韓国政府の姿勢を批判している。

以下、詳しくは下記のURLをクリックしてその動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=-pWZTIqnl_g


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神社の御神体

2017-12-29 | 季節

お正月が間近になったので神社に関する事を調べて取り上げています。
今日は神社に参拝しても目にすることができない「御神体」について調べました。

仏教寺院では複数の仏像が安置されている場合もありますが、仏殿の中央に安置されている仏様が御本尊なので、参拝者はこの仏像に向かって手を合わせます。
ところが、神社では何処を見回しても仏像のような神様の姿をかたどったものが見当たりません。
しかし、仏教のご本尊に相当する御神体はあるのです。

御神体は拝殿の奥にある本殿に納められており、周期的に御開帳がある仏教のご本尊とは違って、一般の参拝者は殆ど目にすることができません。
宮司ですら、滅多に見ることはないとも言われています。

では、御神体とはどのようなものなのでしょうか?
ご神体は、元は自然物が主体だったようですが、最も一般的に祀られているのは鏡だそうです。
ただし、神社によって様々なものが御神体となっています。
例えば、剣、勾玉、石、御幣(ごへい:神に捧げるもの)、弓矢など種類はさまざまで、アワビの殻やサメの歯が御神体と言う神社もあるそうです。
時には、神の姿を描いた絵画や彫刻が御神体とされているところもあるようですが、これは仏教の影響を受けて造られたもののようだということです。

その他、山や滝、木などの自然物を御神体としている場合もあります。
例えば、奈良県の大神(おおみわ)神社は三輪山が、和歌山県の熊野那智大社は滝が御神体となっています。
一般的に目にすることが出来ない御神体も、こうした自然物が御神体であれば容易に目にすることができます。

ところで、重要かつ神聖なものである御神体は神様そのものではなく、あくまでも神霊が招き寄せられて乗り移るもの、所謂、依代なのです。
剣や勾玉、樹木や岩石などの御神体は神霊の依代として祀られているのです。
従って、御神体は「依代(よりしろ)」「御霊代(みたましろ)」とも呼ばれています。

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神様へのお供え物

2017-12-28 | 季節

神社やお寺でお馴染みのさい銭箱は、神様に願い事をする時に、或いは祈願成就のお礼として奉る賽物(さいもつ)の金銭を受ける箱ですが、賽物として金銭を奉納するようになったのは、貨幣経済が発達してからのことで、元々は穀物や酒、布、武具などを奉納していました。

神様へのお供え物は、季節ごとの行事や祭りに見られるように、米、野菜、果物、魚介類、菓子、酒など、さまざまな食べ物が供えられていますが、こうした食べ物の中で、最も重要視されたのが米です。

米は神様とかかわりのある行事の際には姿形を変えて登場し、大切な役割を果たしています。
例えば、正月に飾る鏡餅、祭りや神前結婚式で使われるお神酒(みき)、彼岸の時に作るおはぎなど、全て米を原料にした食品です。
更に、弁当の定番になっているおむすびも、元は神様に供えるための食べ物だったと言うことです。

このように神様に米が供えられた背景は、古代の人々は米を神から授けられた穀物だとみなし、そのために大きなパワーを秘めた神聖な食べ物として扱ったからと言われています。
特にその年の最初に収穫した稲には強い力が宿ると考え、最も大切な供物とされました。

ところで神様に供えた食べ物は、行事が終わった後、人間がいただきますが、これを「直会(なおらい)」と言います。
この直会もまた、神事の一部になります。
神様が召しあがった食事には、神様の力が宿ると信じられており、直会にはその神のエネルギーを体に取り込むと言う意味があるのです。

供物は神と人とを繋ぐ存在であり、神棚からの御下がり物のおむすびも餅も、実は有難い食べ物になるのです。

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鳥居をくぐる時の作法

2017-12-27 | 季節

クリスマスが終わり、今年も今日を含めて後5日となりました。
神社や寺院では新年を迎える準備で慌ただしい事と思います。

各ご家庭でも、しめ縄や門松、大掃除などの準備をされていると思いますが、これら新年の準備は12月28日までに終わらせるのが良いとされています。
そして、すす払いは、昔は12月の13日までに終わらせると歳神様が御利益をもってきてくれると言われていましたが、現在では、これも13日~28日頃までに行なうのが主流となっています。
あと6日で新年です。
準備万端整えて、お正月には、歳神様を気持ちよくお迎えしたいものですね。

「鳥居」
ところで、初詣に行かれる神社には鳥居があります。
この鳥居は基本的に2本の柱と2本の横木によって構成されるシンプルな構造になっていますが、そのベースになっているのは「神明(しんめい)鳥居」と「明神(みょうじん)鳥居」と呼ばれる2種類です。
その違いは、直線的で質素なスタイルが神明鳥居で、曲線を用いているのが明神鳥居です。
普段は何気なくその下をくぐり抜けているかも知れませんが、鳥居は俗世界と聖域を分ける神社の門なのです。
従って鳥居をくぐることは、聖域に入ると言うことから決められた作法があります。

「鳥居をくぐる時の作法」
・帽子は必ず取ること。
・鳥居をくぐる前は軽く一礼する。この礼のことを神道では「一揖(いちゆう)」といい、一揖とは、浅いお辞儀を一回することをいいます。
 なお、「揖」は浅いお辞儀
      「礼」は30~45度の角度のお辞儀
      「拝」はおよそ90度のお辞儀
・立つ位置は鳥居の中央より左で、くぐるときは左足から踏み出します。
 参道を進むときは参道の中央を進んではいけません。参道の中央は「正中」といって、神様が通る道なので、我々が通るところではないのです。

・左が神明鳥居、右が明神鳥居です。


「狛犬」
もう一つ神社でお馴染みのものに狛犬があります。
狛犬は参道や拝殿の前に一対で置かれている神獣の像で、片方が「阿(あ)」の形に口を開き、もう一方は「吽(うん)」と口を結んでいます。
その狛犬には魔除けの意味があると言われていますが、しかし、最初から神社にいたわけではありません。
当初は宮中の魔除けのために使われていたものが、平安末期になって神社を守るようになったということです。

狛犬のルーツは遥か遠く、インドやメソポタミアに遡ります。
これらの地域では、王を守護するためにライオンの像を置く風習があったようです。
それが中国に渡って獅子に変化し、朝鮮半島を経由して日本にも伝わったとみられていますが、獅子に馴染みのなかった日本ではこの神獣をイヌと捉えたようであり、そこから狛犬と言う名になったようです。

「絵馬」
更に、絵馬を奉納することがあると思いますが、絵馬には干支や縁起物などが描かれる事もあり、馬だけではありません。
それなのに何故、絵馬と言うのでしょうか?
実は、古代には生きた馬を神社に奉納していたようです。
それが木製や紙製の馬になり、やがて板に描いた馬に変化して行きました。
つまり、絵馬は生きた馬の代わりに神へ捧げる品っだと言う意味を持っているということです。

初詣で神社にお参りする時、参考にして頂けたら幸甚です。

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岸和田城と五風荘

2017-12-26 | 趣味

一昨日、現役時代のOBの会である「歴史探訪同好会」のメンバー8名と忘年会を開きました。
場所は岸和田城のすぐ傍にある「五風荘」です。
そこで今日は岸和田城と五風荘をご紹介します。

「岸和田城」
岸和田城の歴史は古く、楠木正成が甥の和田高家に岸和田古城を築かせたのが始まりとされます。
その後、信濃泰義によって現在地に移築されたとしています。
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、江戸時代には徳川家康の妹の子である岡部宣勝が入城し、岡部氏13代の居城となりました。
有名な「岸和田だんじり祭り」は岡部氏3代・長泰の時代にはじまったといわれています。
内堀石垣の下部には犬走りを見ることができます。



「岸和田城の犬走り」
犬走りはこのように石垣の外側に沿ってつづく細い通路のことを指しますが、城の防衛という観点では城壁に取りつきやすくなるため非常に不利な構造となります。
しかし岸和田城では、石垣に用いられた石の多くが「和泉砂石(いずみさがん)」という強度の弱い石であったため、石垣を補強するために設けられたのではないかと考えられています。
なお、岸和田の地名は、「岸」と呼ばれていた当地に和田氏が城を築いたことによって「岸の和田」と呼ばれ、「岸和田」へ変化したと言われています。

・岸和田城の犬走りです。


「岸城(きしき)神社」
岸城神社は天照皇大神、素盞嗚尊、品陀別命(ほんだわけのみこと)の三柱を御祭神とし、創建年代は不詳ながら往古より かつての和泉国南郡岸和田村のうち現在の宮本町・上町・五軒屋町の産土神として祀られてきました。
桃山時代、豊臣秀吉より岸和田3万石を与えられた小出秀政が、岸和田城内に社殿を築造しました。
江戸時代はじめの元和5年(1619年)に岸和田城主となった松平康重が、 寛永年間(1624年~1643年)に新たな社殿を建立し、春日大明神・愛宕大権現・天満天神の三社を勧請した。
その後、岡部宣勝が6万石で岸和田城主となり、万治4年(1661年)、宣勝は廃壊していた社殿を修復、 彫物などで美しく飾り立てて再建した。
以後、岡部氏代々の崇敬が厚く、氏子も宮座を組み祭祀を務めたそうです。



「五風荘(ごふうそう)」
五風荘は岸和田城の濠端に佇む回遊式日本庭園ですが、元は岸和田城主岡部氏の新御茶屋跡を、明治維新の後、当地の財閥、寺田利吉氏が10年の歳月をかけて邸宅・南木荘としました。
氏の没後、諡(おくりな)である五風院に因み「五風荘」とその名を変えました
2400坪を超す広大な敷地には格調高い主屋を始め、山亭、八窓亭、残月亭の三茶席が設けられており、優美な庭園が見事な景観を映し出しています。
なお、庭園は一般に開放されており自由に散策できます。



五風荘の管理運営は、平成21年(2009年)度から導入された指定管理者制度に基づき、指定管理者に選定された「がんこフードサービス株式会社」が当施設をレストランとして活用しながら管理運営を行っています。

・庭園から眺めた主屋です


茶室「山亭」
山亭は形の美しい自然石を礎石とし、その上に茶室が建てられているそうです。



茶室「残月亭」
池に張られている紐は白鷺から鯉を守るために引かれているものです。
その奥の建物は茶室「残月亭」です。



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手締めの由来

2017-12-25 | 雑学

宴会や会合などが終わった時に「手締め」と呼ばれる拍手を行うことがあります。
一般的に「お手を拝借!」と言った掛け声に合わせて何気なくやっていますが、実は「古事記」にその由来らしき表現が登場する由緒ある動作なのだそうです。
「古事記の中に、大国主命が国譲りを行う際に「拍手を打って国譲りを承諾した」と言う記述が出てきますが、この「承諾して柏手を打った」ことが転じて「うまく物事がまとまって手を打った」という意味で手締めが行われるようになったと考えられています。

手締めは日本の風習の一つで物事が無事に終わったことを祝って、その関係者が掛け声とともにリズムを合わせて打つ手拍子のことで、江戸時代の落語会で真打や襲名披露で手締めが行われていたようです。
その後、1876年に東京証券取引所が発足して以降、日本中に手締めを行う習慣が広まったと言われています。
今では祭りや商談、株主総会などの終わりによく行われています。

手締めの種類は大きく分けて、一本締め、三本締め、一丁締めの3つがあります。
「一本締め」・・・「お手を拝借」「ィヨーオッ」 全員で手拍子 「シャシャシャン シャシャシャン シャシャシャンシャン」と手を叩く回数が10回のものを言います。
                   
「三本締め」・・・「お手を拝借」「ィヨーオッ」 全員で手拍子 「シャシャシャン シャシャシャン シャシャシャンシャン」
                     「イヨッ」 全員で手拍子 「シャシャシャン シャシャシャン シャシャシャンシャン」
                    「もう一丁」 全員で手拍子 「シャシャシャン シャシャシャン シャシャシャンシャン」
          「三本締め」は、一本締めを3回繰り返すパターンです。
          三本締めの1回目は主催者へ向けて、2回目は来賓・来客へ向けて、3回目は残念ながらその会に不参加となった方へ向けて
          行われるものと言われています。

「一丁締め」・・・「お手を拝借」「ィヨーオッ」 全員で手を叩く 「パンッ」
          「一丁締め」はパンっと一度だけ手を叩きます。「一本締め」と区別するために「関東一本締め」とも呼ばれているようです。

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セアカゴケグモに注意

2017-12-24 | 地元紹介

私の住宅地では、今日、各家庭が一斉溝掃除を行います。
今日都合の悪いご家庭は事前に済ませていますが、我が家でも都合により昨日行いました。

我が家の溝蓋の裏では2012年以降、毎年2~4匹のセアカゴケグモが見つかっています。
今年はいない事を願いながら溝蓋を開けたところ、残念ながら3匹見つかりました。
その都度駆除していますが、一向に絶滅できません。
何処から出て来るのでしょうか?
いやな害虫が棲みついたものです。

・溝蓋内側で見つかったセアカゴケグモです。寒さのためか、全く動かなかったので、ショベルで押しつぶして駆除しました。


セアカゴケグモは平成7年(1995年)11月に日本で最初に大阪府高石市で発見されて以降、日本各地へ分布域を広げていき、今年(2017年)4月現在、青森県、秋田県、長野県を除く44都道府県で確認されているようです。
確認されている44都府県の皆さん、ブロックや溝蓋、墓石の隙間などを触る時は、手袋をするなどして毒グモに咬まれないよう十分注意してください。

・セアカゴケグモと卵です。これも駆除しました。



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天皇誕生日

2017-12-23 | 時事

今日は天皇誕生日で祝日です。
今上陛下は平成31年(2019年)4月末日で御退位されることから、12月23日の天皇誕生日は今年と来年のみとなります。
2019年5月1日からは皇太子さまが新天皇に御即位されるので、新しい天皇誕生日は2月23日に替わります。
その結果、2019年は天皇誕生日の祝日がなくなり、2020年2月23日が新天皇陛下の最初の天皇誕生日となり、この日が新しい祝日となるのです。
従って、2019年は年間の祝日が1日少なくなります。

ところで、天皇誕生日に限らず、昔は祝日には国旗が掲げられていましたが、最近では掲げるご家庭が少ないようです。
国旗に対する国民の意識が変わったのでしょうか?

それは兎も角、国旗を掲げる時、旗竿の最頂部に金の玉が飾られていますが、この玉は何を意味しているのでしょうか?
調べてみると、古事記や日本書紀に、神武天皇の東征の際、熊野から大和に抜ける山中で神武天皇の持つ旗が付いた弓の先に八咫烏(やたがらす)が止まったと言い伝えられていて、金の玉はこの鳥を象徴しているとされています。

天照大神から道案内として遣わされたとされる八咫烏とは、熊野の神々の遣いだそうです。
伝承によると、千代包(ちよかね)という猟師がイノシシを追いかけている内に道が途絶えて何処へ行く事も出来なくなりました。
その時、八咫烏が出てきたのです。
八咫烏が先に立って静かに歩き始めたので漁師が怪しんでついていくと、この鳥は大平野と言うところで色を変え、金色に見えたと言いいます。
後に、ある人がこの事について、「金の鳥は太陽である。金の鳥は天上に遊ぶと言われており、それがこの鳥である」と言ったと言うことです。

因みに金の玉の正式名称は「頂華(ちょうげ)」といい、通信販売で日の丸3点セットとして売られているそうです。

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崇徳院

2017-12-22 | 趣味

NHKの朝ドラ「わろてんか」を観ていると、時折「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」という和歌をナレーションの小野文恵アナウンサーが紹介しています。
ドラマでは「崇徳院」という演目の落語のシーンの時に出てくるのですが、実は、この和歌は小倉百人一首第77番に選ばれていて、第75代崇徳天皇が詠まれた歌なのです。

「崇徳天皇」
では、崇徳院とはどのようなお方なのでしょうか?
崇徳院(すとくいん:1119年~1164年)とは、鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で天皇の位を譲り受け、1141年までの18年間、第75代崇徳天皇として在位し、後に近衛天皇に譲位の後、鳥羽上皇の本院に対し新院と呼ばれた方です。
鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立し、保元の乱の争いになりますが、敗れて讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。

・崇徳院が詠まれた小倉百人一首第77番の和歌です。


では、「わろてんか」のシーンに度々出てくる「崇徳院」とはどのようなお話なのでしょうか?
落語の演目『崇徳院』は、小倉百人一首77番の崇徳院の和歌を題材にした、町人の恋模様を描いた滑稽噺です。

       「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)
       意訳:傾斜のために速くなり、岩に当たって二手に分かれている川の流れが、やがてひとつに合流するように、今別れ別れになっているあなたとも、
           またいつか逢いたいと思っています。
(参考)
『落語「崇徳院」のあらすじ』
商家の若旦那が食欲と体力を失い、重病になった。
医者から「医者や薬では治らない気の病で、思いごとが叶えばたちどころに治るが、放っておくと5日もつかどうか」と言われた店の主人は、出入りの職人・熊五郎を店に呼びつけ、「座敷へ行って、若旦那に『思いごと』を聞き出して来い」と命じました。
若旦那は消え入りそうな声で、熊五郎に以下のような事情を告げたのです。

20日ほど前、若旦那が高津さんへ参詣し、茶店で休んでいると、歳は17~8の、水のたれるような美しい娘が店に入って来たのです。
若旦那は娘に一目ぼれをしてしまいました。
娘は茶店を出るために立ち上がる際、膝にかけていた茶帛紗(ちゃぶくさ)を落とし、気づかず歩き出しました。
それを見た若旦那が急いで拾い、追いかけて届けると、娘は短冊に、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」と、和歌の上の句だけ書いて若旦那に手渡し、去って行きました。
若旦那は、下の句の「われても末に あはむとぞ思ふ」を思い出して、娘の「今日のところはお別れいたしますが、いずれのちにお目にかかれますように」という意志を読み取ったのです。
しかし、娘がどこの誰なのかわからないので、会うことがかなわずに困っていたのです。

熊五郎はこの事情を、店の主人に報告しました。
主人は「3日間の期限を与えるから、その娘を何としても捜し出せ。褒美に蔵付きの借家を5軒ゆずり渡し、借金を帳消しにして、それと別に礼金を支払うから」と熊五郎に懇願するのです。

熊五郎は、やみくもに街じゅうを走り回るうちに、はじめの2日間を無駄にしてしまいました。
熊五郎の妻はあきれかえり、「人の多く集まる風呂屋や床屋で「瀬をはやみー」と叫んで反応を見ればいい」と提案し、「娘を探し出せなければ、実家へ帰らせてもらう」と言い放ちます。
熊五郎は街じゅうの床屋に飛び込んでは「瀬をはやみー」と叫びますが、客がひとりもいなかったり、ある客の「うちの娘はその歌が好きでよく歌っている。別嬪だし、高津神社にも足しげく通っている」という話を聞くうちに幼い子供であると判明したりするなどして、結局有力な手がかりが得られないまま日暮れを迎えます。

数十軒の床屋をめぐるうち、剃れる髪もひげもなくなった熊五郎は、次に入った床屋の店主に「いっそ植えてほしい」と悲鳴をあげるのです。
そんな中、ひとりの職人風の男が、「急ぎで頼む」と割り込んできました。

男は「出入りしている店の娘が重い恋わずらいになり、今日明日とも知れぬ身だ。お茶の稽古の帰りに神社の茶店へ立ち寄った際、さる若旦那に気を取られて茶帛紗を忘れ、その若旦那に届けてもらったとき、あまりの名残り惜しさに、崇徳院の歌の上の句を書いて手渡して以来、枕が上がらなくなったそうだ。自分は、娘の父親から『店じゅうの者でその若旦那を捜し出してくれ。はじめに見つけた者には大金を与える』と命じられたひとりで、これか遠方・紀州方面へ行くのだ」と店主や常連客たちに語って聞かせるのでした。

これを聞いた熊五郎は男につかみかかり、「やっと見つけた。お前の出入り先の娘に用があるのだ。うちの店へ来い」と叫ぶと、すぐに店へ戻って褒美がもらいたい男は「いや、先にこっちの店へ来い」と言い返し、つかみ合いになります。
はずみで床屋の鏡が床に落ちて割れてしまい、店主が「どうしてくれる」と怒ると、熊五郎は、「割れても末(=月末)に 買わんとぞ思う」
という落ちで落語が終わるのです。

 

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