らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

仁徳天皇「民のかまど」伝説

2023-03-31 | 地元紹介

北朝鮮が何度も、何度も日本海に向かってミサイルを発射しています。
2022年に北朝鮮が発射した弾道ミサイルは50発を超え、2012年に金正恩政権になってからの最多を記録したそうです。
北朝鮮専門家によると、ミサイル1発の費用はおよそ3~4億円、射程距離が長いものだと10億円にもなるということです。
核開発にも力を入れている北朝鮮は、その莫大な費用をどこから入手しているのでしょうか?

一方で、北朝鮮の国民は苦しんでいます。
食べるものがなくて飢餓で死んでいく人々が絶えず、住民の生活水準が比較的高い開城(ケソン)市でさえ、毎日数十人が餓死しており、住民からは「ただ人間らしく生きたい」と飢餓に苦しむ声が上がっているという事です。
国民が飢餓に苦しんでいる状況下に、なぜ、何億円もするミサイルを製造し、発射するのか?
権威主義国の為政者、金正恩氏は民の苦しみを考えないのか?
国民は金一族の奴隷として搾取する対象としか考えていないのでしょうか?

「仁徳天皇陵」
民と言えば、日本では1700年ほど前に仁徳天皇が民の生活の苦しさから、租税の免除を発したとの伝説が残っています。
その伝説は後に記すとして、その前に仁徳天皇陵についてご紹介します。

仁徳天皇陵古墳はエジプト・クフ王のピラミッド、中国・秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。
前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。

・仁徳天皇陵古墳です(パンフレットより)


・仁徳天皇陵参拝所です。


「民のかまど」伝説
仁徳天皇は即位して4年目のある日、難波高津宮から遠くを見渡して、人々の家から少しも煙が上がっていないことに気付きました。
天皇は「民のかまどより煙が立ち上らないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、3年間、税を免除しました。
税を免除したことから朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。
天皇は衣も新調せず、茅葦屋根は破れて雨漏りがあり、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。

3年経って、天皇が同じ高台に出て遠くを眺めると、今度は人々の家々から炊煙が盛んに立つのをご覧になり、一緒にいた皇后に「我は豊かになった。喜ばしいことだ」と言いました。
皇后は「私たちが住んでいる皇居の垣は崩れ、衣服には穴があき、屋根が破れて雨漏りがしているのに、どうして豊かになったと言えるのですか?」と問うと、天皇は、「昔の聖王は国民の一人でも飢え、寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。今、国民が貧しいのは自分も貧しいのだ。国民が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。未だかつて人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と言ったのです。
「6年間税を免除」
天皇は引き続き、更に3年間、税を献ずることを許さず、6年が経過してやっと税を課し、宮殿の修理をすることを許しました。
すると人々は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精を出し、昼夜をいとわず宮殿づくりに励みました。
そのため、瞬く間に宮殿ができあがりました。
それ以来、天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」と崇めるようになりました。

日本の天皇は、初代の神武天皇以来、国民を「おおみたから」と呼んでいます。国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇はその姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。

「仁徳天皇御歌」
   「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」
  意訳:高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家からは煙がたちのぼっている。民のかまども豊かに栄えているのだ。

・仁徳天皇の歌碑です。


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ペンペン草(ナズナ)

2023-03-29 | 

1月7日の「人日の節句」に七草がゆを食べられましたか?
日本では昔から人日の節句に春の七草を入れたお粥(七草粥)を食べて無病息災や長寿を願う風習があります。
この「七草がゆ」は、今では日本の文化として定着しています。

因みに、春の七草とは、
「せり、ナズナ、ゴギョウ、はこべら、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」
の七種を言います。



「ぺんぺん草(ナズナ)」
その春の七草の一つに「ナズナ(薺)」がありますが、このナズナは別名をペンペングサと言い、昔は冬の貴重な野菜でした。
今ではこの草は野道や田畑にごく普通に生えている雑草であり、七草粥で食べる以外は無視されている存在になっています。
私もこの時期、伸びてきた他の雑草と一緒に草刈り機で刈っているところです。

今、この野草の「ナズナ(薺)」が開花し、畑の畦道一面に白い小花を咲かせており、ぺんぺん草の名前の由来となっている三角形の実(種)をつけ始めています。

・畦道一面に咲いている「ナズナ(薺)」の花です。


ナズナはの花は5㎜ほどで4枚の十字形をしており、種は平たく三角形なのが特徴です。
色は白色で、花後にできる果実は扁平で三角形をしています。

・花の下に見える三角形の果実が三味線の撥(ばち)に似ていると言われているものです。


「名前の由来」
・「ペんぺん草」と呼ばれる名前の由来は、 実(種)の部分が小さな三角形をしており三味線のバチに似ているからとか、 実(種)の部分を引っ張って伸ばし、振り回して遊ぶとペンペンという音がするからなどという説があります。
別名、三味線草という名前も、実が三味線のバチに似ているためと考えられています。

・また、ナズナという名前の由来にも諸説あります。
一説には、 春に花を咲かせた後、夏には枯れてしまうため「夏無(なつな)」とか、 愛らしい小さな花が咲くため撫でて愛でる「撫で菜」からついたとも言われています。

・畦道一面に咲いているペンペン草です。


「慣用句」
慣用句に「ペンペン草も生えない」がありますが、これは、荒廃した場所で育つ「ナズナ(薺)」でさえも生育しない様子から、転じて、何も残っていない状態や、一切合財が残らない状態を揶揄した表現で用いられているものです。

「ぺんぺん草」という名前からは、食べられる野草とはとても想像できませんが、早春の若芽については例外であり、その健康効果として利尿、解熱、止血作用などが期待できるということです。

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誤解しやすい言葉「割愛する」

2023-03-27 | 雑学

誤解しやすい言葉に「割愛する」があります。
皆さんはこの言葉についてどのような意味だと思われますか?
実は、「国語に関する世論調査」では,65%以上の人が本来の意味ではない「不必要なものを切り捨てる」と答えていました。
では、本来はどのような意味の言葉でしょうか?
調べてみました。

「割愛」
「割愛」を広辞苑で調べてみると、  ①相執を断ち切ること。②惜しく思うものを思い切って手放したり省略したりすること。
と説明しています。

「割愛する」は,本来,惜しいと思っているものを,思い切って捨てたり省略したりすることを言います。
元々は仏教用語で,人や物事に対する愛着の気持ちを断ち切ることを言いました。
従って、不必要なものを切り捨てるとか、単に省略する、という意味ではありません。

「国語に関する世論調査」
令和3年度と平成23年度の「国語に関する世論調査」で,「説明は割愛した。」という例文を挙げて,「割愛する」の意味を尋ねたところ、結果は以下のとおりでした。(下線を付したものが本来の意味。)

 質問:「説明は割愛した。」は次のどの意味か?
〔全 体〕
                   令和3年度    平成23年度
(ア) 不必要なものを切り捨てる・・・・・・・・・・65.3%・・・・・・・・・・・・ 65.1%
(イ) 惜しいと思うものを手放す・・・・・・・・・・23.7%・・・・・・・・・・・・・17.6%(本来の意味)
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4.5%・・・・・・・・・・・・・・1.7%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・・5.0%・・・・・・・・・・・・・・ 3.3%

・年代別の回答結果
 年令別の回答結果は以下の通りです。
  ・令和3年度                          ・平成23年度


調査の結果は、全ての年代で辞書等で本来の意味とされてきたものとは異なる(ア)の「不必要なものを切り捨てる」を選択した人の割合が、本来の意味とされてきた(イ)の「惜しいと思うものを手放す」を上回っています。
中でも、30 代以下では(ア)を選択した人と(イ)を選択した人との割合に 50 ポイント以上の差がありました。

「本来の意味」
「割愛する」とは、本来は「惜しいと思うものを手放したり省略したりする」意味であり、「不必要なものを省く」ことではではありません。
元々は仏教用語で「悟りを開くために邪魔になる愛着やこだわりを断ち切る」ことから来ているのです。
「愛着を断ち切る。恩愛や煩悩を捨て去る。」「惜しいと思うものを思いきって捨てたり、手放したりすること。」即ち、愛着が割かれることが「割愛」のもともとの意味なのです。

従って、ただ単に「省略する」という意味ではなく「本当は省略したくないのだが事情により残念ながら省略せざるを得ない」というニュアンスになります。
使用する時は気を付けたいですね。

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岡山の方言「はしる」

2023-03-25 | 地元紹介

岡山の方言に「はしる」があります。
「Run」の走るではありません。
ひりひり痛むとか沁み込むような痛みの時に使います。
岡山県出身の私は故郷を離れて半世紀以上になり、すっかり忘れていた言葉なのですが、先日、新聞のコラムに載っていたので、懐かしい方言をご紹介したく取り上げました。

「コラム」
コラムには、次のように書かれていました。
広島出身の知人から「歯がはしって辛い」との理由で会食を欠席したい旨の連絡がSNSグループに回ってきた。「お大事に」と即座に反応したのが岡山県人。中国地方特有の言い回しで歯がズキズキ痛むのである。
「痛みが走る」は共通語だが、「火傷(やけど)がはしる」など、具体的な患部が「はしる」のは方言的な用法だ。突き刺すような激しい痛みを表すのにはぴったりの表現だと言う。
(中略)
ところで、激しい歯の痛みにおそわれると、我慢できずに歯医者へ走って行きたくなるほどだが、そんな語源説は何処にも見当たらなかった。

「使用例」
コラムに「具体的な患部が ”はしる”のは方言的な用法だ」と書かれているように、「はしる」は岡山の方言で「沁みる」とか「沁みて痛い」という意味で使用されます。
私が子供のとき、怪我して傷口にヨードチンキ(赤チン)を塗られた時、痛みをこらえて、
「うー、はしる~!」
のようによく言ったものです。
この「はしる(痛み)」は消毒液を塗られた時、傷口から沁み込む痛みで、どのような痛みなのかは年配の方なら想像がつくと思います。

「語源」
「はしる」の語源は『走る』なのだそうです。
 これは消毒で周辺を走り回りたくなるような痛みを感じることを表現しており、標準語だと「沁みる」に相当します。

「言葉は国の手形」という諺があります。
岡山県で現在でも「はしる」が使用されているのかどうかは知りませんが、もし、使用されていないとすれば、故郷の手形が一つなくなったことになり、少し寂しさを感じます。

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イチゴ栽培(摘蕾・摘花)

2023-03-23 | 家庭菜園

私のイチゴ栽培におけるその後の管理状況をご紹介します。
先月28日に銀マルチを張り、今月3日にはトンネルハウスを設置して以降、気温の上昇と共にアスカルビー2畝とアキヒメ1畝、それにトヨノカ3畝の6畝は順調に生長しており、各株には毎日花が咲いていることから筆による人工授粉をしています。
そして先日、摘花、摘蕾、葉かきの管理作業を済ませました。

「人工授粉」
咲いた花には筆で毎日人工授粉を行っています。
受粉をしないと変形のイチゴができることからこの作業は欠かせません。
ミツバチが飛んできてくれればこの作業は不要なのですが、当地では未だ飛んでいません。

・大まかに摘蕾した畝です。


「摘蕾」
摘蕾とは、まだ蕾の状態のものを取り除くことです。
最初に出てきた蕾は、株元から細い花柄がひと塊となって伸びており、これらは大きな果実にはならないことから、この蕾を取り除いています。

・株元に蕾が密生していたり、小さな葉が蕾を覆ったりしている株です。


「葉かき」
葉かきとは、いちごの古くなった葉を整理することです。
葉かきの効果としては、
① 古い葉をかいて、次に出てくる葉を促進すること。そうすることで太くしっかりした株になります。
② 葉がたくさんあると日当たりや風通しが悪くなり、イチゴが病気にかかりやすくなること。
等です。
古い葉をとることで生育が良くなって、病気も減り、結果的に収穫量が増えることになります。

・手前の2株は、上の画像の株を葉かきと摘花した後の株です。


「摘果・摘花」
摘果・摘花の効果としては、
① 小さい果実や生育の悪い果実を摘み取ることにより、残した果実に栄養を十分に与え、株への負担を減らします。
② 摘花・摘果することで実が大きくなり、品質が安定します。
摘果せずにそのままにしておくと株に負担がかかるので、2番花が小さくなったり、株が弱くなったりします。

・摘花、摘果・葉かきしたイチゴです。


私の現在のイチゴ栽培の管理は、朝夕のトンネルハウスの開閉と次々咲いてくる花への人工授粉を毎日行うことです。
2~3週間後くらいにはイチゴに色がつき始める見込みです。
その前に野鳥やアライグマなどの被害防止のため、防獣、防鳥網を張って収穫を待ちます。

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春の晩飯あと三里

2023-03-21 | 季節

今日21日は春分の日です。
春分の日は一般に昼と夜の長さが同じと言われていますが、冬至の日と比べると昼の時間が随分長くなりました。
そこで今日は春の日長について調べました。

「諺」
春の日長を言い表した諺に「春の晩飯あと三里」があります。
この意味は、春は晩飯を食べたあとでも三里の道を歩けるほど日が長いということです。

一里は4㎞なので、三里という事は12㎞になります。
この距離は、時速4㎞で歩けば3時間、時速5㎞ならば2時間24分かかります。
晩飯の後、3里を歩くのは無理としても、1時間程度歩けば1里余り歩けます。

「大阪の昼間時間」
大阪の冬至の日(12月22日)の「日の出」は7時1分、「日の入り」は16時51分で、昼間の時間は9時間50分でした。
春分の日の今日は「日の出」が6時01分、「日の入り」は18時10分で、昼間の時間は12時間09分です。
冬至から今日まで、昼間の時間は2時間19分長くなり、日の入りは1時間19分遅くなりました。

「晩飯の後1里」
日の入りが遅くなった時間だけ、晩飯の後、ウォーキングが出来そうです。
夕方がお忙しい方は、晩飯を少し早くして、或いは、晩飯を遅らせるなどして、日長になった夕方の散歩を心がけては如何でしょうか?
当地でも夕方から散歩をする年配のご夫婦の姿を見かけることがあります。

(参考)
なお、お住まいの県庁所在地の日の出、日の入り時刻を調べたい方は下記へアクセスしてください。
   国立天文台 暦計算室 各地のこよみ
   http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/

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国友一貫斎の「阿鼻機流大鳥秘術」

2023-03-19 | 雑学

NHKの連続テレビ小説「舞いあがれ」は今月末が最終回になります。
このドラマはヒロイン舞ちゃんのお父さんが飛行機のねじを造ることを目指していたのですが、志半ばにして亡くなりました。
その遺志を継いで、お母さんと舞ちゃんがお父さんの夢を実現しようと日々奮闘していくドラマなのです。
残りあと2週間となったドラマはどのような展開を見せてくれるのでしょうか?

ドラマではヒロインの舞ちゃんが子供の頃、お父さんが江戸時代の発明家・国友一貫斎について話すシーンがありました。
 父:この人おもろいんやでえ。
 舞:くにとも いっかんさい(国友一貫斎)?
 父:そうや。江戸時代の発明家なんやけど、飛行機のこと考えてたんやで。

更に、一昨日のシーンでも、舞の大学時代のサークルの刈谷先輩から国友一貫斎の「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術」について話すシーンがあったのです。
舞が刈谷先輩からもらった名刺には、会社名に「(株)アビキル」と書かれていました。
これを見て舞いは、
 舞 :「国友一貫斎の飛行機ですか?」
 刈谷:「そう「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術」、流石やねぇ。」

刈谷先輩は空飛ぶ車を開発していたのです。
そして、会社名となっている「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術」は国友一貫斎が書いた飛行機の設計図だったのです。

そこで「国友一貫斎」とは?
「阿鼻機流大鳥秘術」とは? 
について調べてみることにしました。

・国友一貫斎肖像画(長浜城歴史博物館蔵)です。(ネットより)


「国友一貫斎」

国友一貫斎は、安永7年(1778年)近江国の国友村(現滋賀県長浜市国友町)の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれました。
9歳で父の名を継いで国友藤兵衛と名乗り、一貫斎と号しました。
幼少のころからの父の厳しい教えを受け、17歳で父のあとを継ぎ、腕の良い鉄砲鍛冶として活躍しました。

一貫斎は鉄砲作りの名工にとどまらず、発明家としても数々の業績を残しています。
江戸から帰った一貫斎は、新しい知識と自らの独創的なアイディアで次々とすばらしい発明をしたのです。
気砲(空気銃)、懐中筆(万年筆)、玉燈(ぎょくとう:経済的で明るい照明器具)などを発明し、更に、製作した望遠鏡で月・星・太陽を観測しながら50倍の天体望遠鏡を完成させると共に観測記録を残しました。
特に太陽の黒点の観測記録は、世界の天文史学上大切な資料とされています。

・鳥型一人乗り飛行機「阿鼻機流大鳥秘術」の設計図です

「鳥型一人乗り飛行機ー阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術」
その一貫斎が書き記した飛行機の詳細な図面が「阿鼻機流大鳥秘術詳細図」です。
一貫斎の家から見つかった設計図は、紙10ページにわたる冊子で、部品ごとの作り方が絵と共に記されているそうです。
例えば翼とみられる部分は「ひのき板を削り、なめし皮にて縫うなり」と板を薄く削って動物の皮を使う方法が記されており、また、翼を胴体部分に取り付ける説明では、「両羽のしつけ、ことのほか難しきものなり」と注意点も書き込まれているということです。
この図面通り組み立てると巾13メートルほどの鳥形の一人乗り飛行機になりますが、この飛行機は実際には飛び立つことはなく、実用化には至らなかったという事です。

この設計図の全体図には「阿鼻機流 大鳥秘術(あびきる・おおとりひじゅつ)」という名前が記されており、この「あびきる」は、ラテン語で小鳥を指す「AVICULA」が語源と推測されているということです。

・上記詳細図で作られた一人乗り飛行機です。(CGより)


一貫斎が考案した鳥形の飛行機について、長浜市によると、残念ながら実際に飛ぶことはできませんが、見つかった設計図は国内最古のものだそうです。
一貫斎は更に、日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡も製作しています。
そして、自作の望遠鏡を用いて天体観測を行った日本の天文学者の先駆けの一人でもあり、「江戸のエジソン」、「江戸のダ・ヴィンチ」、「日本のものづくりの先人」と評されています。

250年ほど前の日本にも偉大な発明家がいたのですね。

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お花見の起源

2023-03-17 | 季節

暖かくなってきましたね。
大阪の桜の開花発表は未だですが、東京では3月14日にソメイヨシノの開花が発表されました。
東京のサクラの開花発表は、去年より6日、平年より10日早く、1953年(昭和28年)に統計を取り始めてから、2020年と2021年と並んで最も早くなりました。
満開については、民間の気象会社は1週間後の今月21日頃、日本気象協会は10日後の24日と予想しています。
そこで今日は花見の起源について調べてみました。

「花見の起源」
お花見の起源は奈良時代までさかのぼります。
・梅の花見
この頃のお花見の主役は桜ではなく、遣隋使が中国から持ち帰った梅の花で、お花見は貴族独自の文化でもありました。
京の都の貴族は自分の邸宅に梅園を設け、梅を眺めつつ歌を読む風流なお花見を楽しんでいたそうです。
・桜の花見
平安時代に入ると遣唐使制度が廃止されたことをきっかけに、お花見の主役は桜へと移り変わりました。
この頃から「花」と言えば桜のことを示すくらい日本人は桜好きになり、サクラの花見のルーツとなりました。

「日本最古の花見」
日本最古のお花見が開催されたとされているのは812年と言われています。
京都の神泉苑(しんせんえん)というお寺で嵯峨天皇が「花宴の節」をおこない、歌や音楽を楽しんだと伝わっています。
そのため神泉苑は「お花見発祥の地」として今なお親しまれており、平安時代の趣を感じる庭を眺めながら桜見物を楽しむことができます。

・熊取の昨年の桜です。


「醍醐の花見」
貴族だけではなく、各地方の武士に花見の文化が広まったのは鎌倉時代以降です。
派手好きとして知られる豊臣秀吉は700本の桜を醍醐山に植え、1,300人もの客を招待して「醍醐の花見」を開いたといわれています。
秀吉のこの醍醐の花見から、豪華絢爛な花見は、桜を見ながら宴会を楽しむというスタイルへと変化していきました。

江戸時代になると、お花見も庶民に広く浸透するようになりました。
現在も花見スポットとして有名な浅草(隅田川堤)や飛鳥山の桜は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が植えたものだと伝わっています。

なお、三色の団子が串に刺さった「花見団子」が食べられるようになったのも江戸時代からで、この団子のピンク色は「桜」で春を、白色は「雪」で冬を、緑色は「ヨモギ」で夏を表現しています。
秋はないので「飽きずに」食べられるなんていう洒落も利いており、いかにも江戸らしいと言われています。

お花見の楽しみ方は少しずつ変化しながら現在に至っていますが、昔から日本人に親しまれてきた日本の花見文化は、今では世界各地からお花見目的で観光客が訪れるようになってきました。

「世の中は三日見ぬ間に桜かな」
桜は開花から1週間ほどで満開になります。
江戸時代の俳人、大島蓼太の句に「世の中は三日見ぬ間に桜かな」があります。
この句は、三日間外出しなかったら桜の花がすっかり咲きそろっている、即ち、いつの間にか桜が咲いていたということを詠んだものなのです。
「いつの間にか満開になり、いつの間にか散ってしまった」とならないように、コロナ対策を十分にして、3年振りに制限のないお花見をお楽しみください。

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怖い和菓子「切腹最中」

2023-03-15 | 情報

東京に「切腹最中」という怖い和菓子があるそうです。
物騒な名前ですが、この最中の由来にはある有名な事件が関わっているようなので調べてみました。

「浅野内匠頭切腹事件」
今から322年前の昨日、即ち、元禄14年(1701年)3月14日、江戸城・松の廊下で刃傷事件が起きました。
現在では映画やドラマでよく上演されている忠臣蔵、その発端となった「赤穂事件」です。

「田村右京太夫の上屋敷跡」
江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主・浅野内匠頭は即日切腹を言い渡され、奥州一関藩の上屋敷・田村右京太夫の屋敷で切腹しました。
その屋敷があった場所がJR新橋駅と地下鉄三田線 御成門駅の中間あたりなのですが、その場所に和菓子屋「新正堂」が創業し、浅野内匠頭の切腹に因んで「切腹最中」を考案したのだそうです。
この最中を売り出したのは、新正堂3代目の社長渡辺仁久(よしひさ)氏で、渡辺社長は常々「地元、新橋ならではのお菓子を作りたい」と考えていたことから、1990年に『切腹最中』を考案し発売しました。



「周囲の猛反対」
この最中は、今では新橋の名物ですが、はじめから順風満帆だった訳ではありません。
「祝い事やお土産につかわれるお菓子に「切腹」の名称は縁起でもない」と家族や周囲は猛反対しました。

それでも諦めきれない三代目社長は、お菓子と共にアンケート用紙を配って、アンケートを実施したのです。
そして、119人の意見を集計した結果118人がNOでした
その理由は、美味しさは認めるものの、名前がダメとのことで、「OK」と言ってくれたのは、たった一人だったそうです。
かと言って、「忠臣蔵最中」の名称ではピンとこず、矢張りこれは「切腹」しかないと、諦めきれずに機会をうかがっていたところ、その2年後に根負けした家族のお許しをもらい販売に踏み切ったのが1990年のことでした。
社長の「これを世の中に出したい」という気持ちがついに実ったのです。

「お詫び用でヒット商品に」
ヒット商品となったきっかけは、顧客に損をさせた営業マンが、「切腹最中」を持ってお詫びに行ったところ相手が上機嫌になったのですが、その話が広まったことと、たっぷり入った餡のおいしさもあってヒット商品になったということです。
このこと以来、お詫びの品としても有名になった『切腹最中』は、今では部下と腹を割って会話をしたいビジネスマンや、結婚式の引出菓子にも使われているという事です。

社長の熱意によって生まれた「切腹最中」は、「腹を切る覚悟」という意味を込めてビジネスツールにも使われ始めており、今では老舗の和菓子屋「新正堂」の人気商品になっているという事です。

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トルコ軍楽「ジェッディン・デデン」

2023-03-13 | 趣味

先日、撮り溜めていたドラマの中から「阿修羅のごとく」を観ました。
ドラマは4姉妹の男性関係を巡って次第に阿修羅と化していくものですが、ドラマの内容はさて置き、このドラマのテーマ曲にトルコの軍楽「メフテルージェッディン・デデン(祖先も祖父も)」がありました。
この曲は皆さまもお聴きになったことがあるのではないかと思いますが、私の好きな曲だったので本日取り上げることにしました。

・阿修羅像です。


「トルコ」
まず、トルコは古代遺跡や博物館から、美味しい料理まで見どころがたくさんありますが、音楽もまた魅力の1つです。
日本ではクラッシックのトルコ行進曲や江利チエミのウスクダラ、庄野真代が歌う「飛んでイスタンブール」などの「トルコをモチーフにした曲」がヒットしました。

そしてトルコと言えば、嘗てオスマン帝国というイスラム王朝がありました。
オスマン帝国(1299年~1922年)は1299年ごろオスマン1世によって建てられた国で,東ヨーロッパ・西アジア・北アフリカを支配した大帝国で、強大な軍事力を持っていました。
なかでも先鋭部隊として重要な位置にいたのが、親衛歩兵軍団「イェニチェリ(Yeniçeri)」です。
スルタン(君主)の護衛や首都の警備をつとめ、さまざまな特権を有し、時には体制に影響を及ぼすこともあるほど有力なエリート集団でした。
そのイェニチェリが有していたのが「メフテル(メフテルハーネ)」で、きらびやかな衣装に身を包み、行進しながら演奏する軍楽隊です。

「トルコ軍楽メフテル」
メフテルは、トルコ系民族のルーツとされる中央アジアや、現在のトルコがある西アジアの伝統の音楽を元に、オスマン帝国にて独自に発展したものです。
戦争に同行し、演奏で敵を威嚇して、味方の士気を上げる役割を担っていました。
平時には、宮廷での儀式や祭礼の際にも用いられています。

メフテルの楽曲で有名なのは「ジェッディン・デデン」です。
行進の足並みに沿う、規則正しい4拍子系のリズムや、勇猛なメロディが特徴です。

「ジェッディン・デデン(Ceddin Deden)」
ジェッディン・デデン(祖先も祖父も)は、アリー・ルザ・ベイ(1881年-1934年)の作曲によるトルコの軍楽曲です。
オスマン帝国やトルコ共和国における伝統的な軍楽を一般にメフテルといい、オスマン帝国の常備軍(カプクル、イェニチェリ)において独自の発展を遂げた音楽の体系です。
オスマン軍は自軍の士気向上や威嚇のために軍楽隊(メフテルハーネ)を連れて戦争に赴き、平時にもメフテルを宮廷などの儀礼に用いていました。

モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ行進曲」は、メフテルを意識して作曲された楽曲として知られています。
また18世紀前半には、西欧諸国も軍楽隊を持つようになりましたが、その起源はメフテルを真似たことに始まり、現在のブラスバンドの楽器の基本編成にもメフテルの影響が見られるということです。

ではお聴きください
「トルコ軍楽(メフテル)「ジェッディン・デデン Ceddin Deden 」(イスタンブール軍事博物館の演奏です。)

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