らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

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中国地方の旅(その20)鳥取市・鳥取砂丘

2010-04-30 | 旅行
中国地方の旅シリーズも20回目となりました。今日は鳥取市の鳥取砂丘をご紹介します。

鳥取砂丘は約10万年前に形成が始まった砂丘で、日本三大砂丘の一つに数えられています。
起伏に富んだ美しさから日本を代表する砂丘として知られています。
鳥取砂丘とは、日本海海岸に広がる広大な砂礫地(されきち)で、東西16km、南北2.4kmの広さを持つ代表的な海岸砂丘ですが、一般的には国の天然記念物に指定されている千代川東側の東西2km、南北1.3kmの範囲を指しているようです。
1955年(昭和30年)には国の天然記念物に指定され、更に、2007(平成19年)年には「日本の地質百選」に選定されています。

・雄大な景観の鳥取砂丘です。
ファイル:Tottori-Sakyu Tottori Japan.JPG

鳥取砂丘は中国山地の花崗岩質の岩石が風化し、千代川によって日本海へ流された後、海岸に集まったものが砂丘の主な砂となっており、その海中の砂を海岸に向けて流れ寄せる潮流と、海岸線に堆積した砂を内陸へ吹き込む卓越風の働きで形成されたそうです。
なお卓越風とは、一年とか季節など、ある期間を通じて、一地方で吹く回数の最も多い風向きの風のことを言います。(広辞苑より)



風が吹くたびに変わる風紋や砂簾(されん)は、砂丘における自然が作り出す芸術です。
鳥取砂丘では特に、早朝のまだ誰も足を踏み入れていない砂丘一面に広がる風紋は圧倒的なスケールと美しさがあります。

・風紋が美しい早朝の鳥取砂丘です。(鳥取県HPより)
鳥取砂丘

・早朝の美しい風紋も観光客が入るとこのように乱れてきます。


(参考)
「日本三大砂丘」とは、以下の砂丘が標榜されていますが、どの箇所を組み合わせて「三大」とするかは恣意的で、定説はないようです。
 ・吹き上浜(鹿児島県南西部、薩摩半島西岸にある砂丘海岸です。)
       長さ約50km、最大幅約2.8km、最高地点47mの大砂丘です。
 ・鳥取砂丘
       中国山地の花崗岩質の岩石が風化し、千代川によって日本海へ流された後、海岸に集まったものが砂丘の主な砂となっており、千代川の東側545haの
       広さがあります。
 ・遠州灘砂丘(静岡県南部、小笠郡の西部に広がる砂丘です。)
 ・九十九里浜(千葉県) 
        房総半島東部、太平洋に面して広がる全長約66キロメートルの海岸線です。九十九里浜の由来は、源頼朝の命で6町を1里として、1里ごとに矢を立て
        たところ99本に達したと言う伝承から「九十九里浜」と言われるようになったそうです。(1町は109.09m、1里は36町で、3,927.2mです)
 ・内灘砂丘(石川県) 
        金沢市粟崎から内灘町・かほく市までの、延長約10km、幅約1kmの砂丘です。
 ・庄内砂丘(山形県) 
        長さ35㎞、面積約55k㎡を誇り、日本一の砂丘として知られているようです。

「大山(鳥取県)」
大山は鳥取県から岡山県にまたがる国内有数規模の成層複成火山(同じ場所で何度も噴火を繰り返して出来た火山)で、180万年前から50万年前にかけて噴火
形成されたそうです。
標高は1729m、中国地方の最高峰で、別名、伯耆富士(ほうきふじ)とも呼ばれる美しい山です。
古来より「日本四名山」に数えられており、深田久弥の日本百名山の一つであり、更に日本百景にも選定されているようです。
なお、「日本四名山」とは、富士山、立山、御嶽山、そして大山を言います。


・島根県の美保関から眺めた大山(だいせん)です。




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中国地方の旅(その19)境港市・水木しげるロード

2010-04-29 | 旅行

中国地方の旅シリーズ19回目の今日は、鳥取県境港市にある「水木しげるロード」をご紹介します。

・「水木しげるロード」
「水木しげるロード」は境港市にある商店街の名称で、地元出身の漫画家・水木しげる氏が描く妖怪の世界観をテーマとした観光名所です。
現在放映されているNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で妖怪人気が上昇中であり、休日には観光客が多勢来る観光スポットとなっているようです。

・境港市の「水木しげるロード」です。


「水木しげるロード」は、水木しげる氏の漫画に登場する「ゲゲゲの鬼太郎」など、妖怪たち80体をブロンズ像のオブジェにして配置し、子供から大人まで触れて楽しめる、延長約800mのコミュニティーロードです。

「水木しげる」は、本名:武良 茂(むら しげる)と言い、鳥取県境港市出身の漫画家です。ペンネームの「水木」は紙芝居作家時代に、当時経営していたアパート「水木荘」から名付けられたそうです。

「水木しげる」の像
「水木しげるロード」にある「水木しげる」の像と「なまけ者になりなさい」の言葉です。
この「なまけ者になりなさい」の言葉は、水木しげるが好んで使う言葉で色紙などによく書かれるそうです。
この真意は、「怠けていても食えるような人間になれ」ということのようです。
水木氏のインタビューでは「なまけ者になりなさい」と言うと、「大抵の人は反発して働き者になるようです」と答えているので、このことを見越していったのでしょうね。


「河童(かっぱ)の泉」
この河童の泉は、平成20年3月30日に妖怪広場内にオープンしたそうです。
ゲゲゲの鬼太郎の小便小僧や、のんびり横泳ぎするねずみ男、「河童の三平」の登場キャラクターなど、9体の妖怪ブロンズたちがくつろぐ妖怪のオアシスです。
訪れる人達にとってものんびり安らぎのできるスポットとなっています。

・「河童の泉」です。


「妖怪神社」
妖怪パワーで願い事を叶えてくれる?神社とか。
右側にある巨大目玉おやじがグルグル回転する「目玉親父、清めの水」で身を清めて参拝すれば、妖怪パワーをもらえるかも分かりませんね。

・妖怪神社です。


以下、「水木しげるロード」に設置されている数体の妖怪たちをご紹介します。

「ゲゲゲの鬼太郎」
ゲゲゲの鬼太郎のゲゲゲは、水木しげるが幼い頃、自分の名前を「しげる」と言えず「ゲゲル」「ゲゲ」と言ったことから着想し、もう一つ「ゲ」をつけて「ゲゲゲの鬼太郎」となったそうです。
また、鬼太郎は民話の「子育て幽霊」を脚色した伊藤正美作の富士会の『ハカバキタロウ(墓場奇太郎)』の紙芝居が原点と言われています。


・「こなき爺(じじい)」
公式設定では阿波国(徳島県)の出身とされています。腹掛けをしており、赤ちゃんのような顔に爺のひげを生やした妖怪です。
年齢は3,100歳で、人や妖怪に抱きつくと石になりだんだん体重が増加していき、その重さで身動きがとれなくなるようです。
実際の伝承ではこの技で人を殺してしまう恐ろしい妖怪ですが、マンガの中では鬼太郎のよき保護者的な存在で、善の妖怪として活躍するようです。


・「ねずみ男」
主人公鬼太郎の悪友です。
人間と妖怪との間に生まれた半妖怪で、善悪の中間に位置するトリックスターです。通称は「ゲゲゲの鬼太郎」に対し、「ピピピのねずみ」だそうです。
なお、トリックスターとは、民間伝承や神話に登場する、いたずらや策略で秩序を乱す一方、新しい状況を生み出す道化師的存在を言います。


・「座敷童子(ざしきわらし)」
主に岩手県に伝えられる精霊的な存在です。
座敷または蔵に住む神と言われ、家人に悪戯を働くそうです。見た者には幸運が訪れ、家には富をもたらすなどと伝承されています。


・「魔女の花子」
「河童の三平」に登場する家出中の魔女です。母親は蜘蛛の祟りで蜘蛛人間になっています。
死神に殺されそうになっていた三平を助け、とても頼りにされているそうです。
この像は、2005年(平成17年)漫才師の宮川大助氏とその娘の松下さゆみ氏のお二人が寄贈したそうです。


・「目玉おやじ」
鬼太郎の父親で、目玉に体の付いたユーモラスな外見をしています。非常に博学で鬼太郎たちをサポートします。身長は9.9㎝、体重33.25㎏
かつて地上を支配していた種族である幽霊族の生き残りで、鬼太郎誕生以前は不治の病である「溶ける病」を患い、ミイラ男のような風貌をしていたそうです。


他にも数々の妖怪が設置されています。
関心のある方は一度訪ねて、実際に触れてみてはいかがでしょうか?


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中国地方の旅(その18)島根半島・美保関

2010-04-28 | 旅行

中国地方の旅も18回目に入りました。今日は島根半島の美保関(みほのせき)をご紹介します。

美保関町は2005年(平成17年)3月31日に松江市と合併し、現在は松江市美保関町となっています。
古くから海上交通の要所、風待ちの港として栄えた町で、朝鮮半島などとの環日本海交易の拠点として栄えた町です。
また、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、江戸時代には北前船交易の要所として多くの回線問屋などが存在していたようです。
(参考)
 「たたら」とは、初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気を送り込む送風装置の「鞴(ふいご)」のことを「たたら」と呼んでいたことからつけられた名称のようです。

「美保関燈台」
美保関燈台は島根半島の東端に位置する地蔵崎の馬着山にあって、1898年(明治31年)、フランス人の指導により建設された山陰最古の石造灯台です。
構造は、底部直径5.7m、半円形付属舎付の灯台を砂岩の布積で築き、その上にガラスと青銅製ドームおよび斜骨子より構成される灯籠をのせ、総高は14mとなっているようです。

美保関燈台は、1998年(平成10年)には、「世界灯台100選」に選ばれており、「日本の灯台50選」にも選ばれている日本を代表する灯台です。
歴史的文化財的価値が高いので、Aランクの保存灯台ともなり、2007年(平成19年)には、灯台として全国初の国登録有形文化財になっています。

・日本を代表する燈台の一つ「美保関燈台」です。


「地蔵埼」
島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから「美保の碕(みほのさき)」と呼ばれています。
島根半島は、出雲風土記の「国引き伝説」では、この「美保の碕(みほのさき)」は北陸地方から、島根半島の西端にある日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
この日本海に面した美保関の岬に地蔵埼があり、美保関燈台が建っていますが、地蔵崎の名前の由来は、その昔、航海の安全を祈願してたくさんのお地藏さんが、祭られていたことから地蔵埼と呼ばれるようになたそうです。

・大山隠岐国立公園に指定されている、リアス式海岸が美しい地蔵埼です。


「美保神社」
この鳥居の中央約3km先の海上に浮かぶ小島を「沖之御前」、眼下に横たわる島を「地之御前」と言い、共に美保神社の御祭神(俗にえびす様)の事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りをして楽しんだ島として伝えられており、毎年5月5日には美保神社で事代主命と御后(おきさき)の御心霊をこの島から迎える神迎(かみむかえ)神事が行われているそうです。

・鳥居右下の岩礁が「地之御前」と言われている島です。鳥居の正面の海上に小さく白い点のように見える島が「沖之御前」です。


「沖の御前島」
この島は地蔵埼の沖約3kmの海上に浮かんでいる小島で「出雲風土記」には「等々島(とどしま)」と記されているようです。
その昔、美保神社の祭神である事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りを楽しんだところと言われています。
この島の海底には、常に神楽のような響きがあり神意奇瑞な島として今に伝えられているそうです。

・事代主命(ことしろぬしのみこと)が魚釣りを楽しんだところと言われている「沖之御前島」です


「美保関のかなたへ(日本海軍衝突事故)」
この美保関の沖合い32km付近の130mの海底には、戦闘訓練で沈没した2隻の戦艦と乗組員兵士119名が今も眠っているそうです。
これは昭和2年の日本海軍衝突事故によるものです。
事故のあらましは、昭和2年(1927年)8月24日夜、日本帝国海軍戦艦「長門」以下の連合艦隊60余隻が二軍に分かれて戦闘訓練を行っていました。
折りからの台風が接近する中、両軍灯火を消して全速力で実践さながらの訓練をしていたところ、駆逐艦「蕨(わらび)」の艦腹に巡洋艦「神通」が衝突し、「蕨」は裂けて沈没し、92名が艦と共に海に沈みました。
その1分後には駆逐艦「葦(あし)」の艦尾に巡洋艦「那珂」が衝突し、「葦(あし)」の乗組員27名が海に消えました。
この二つの衝突事故は海軍史上空前の事故でしたが、日本海軍は黙秘し続けていたそうです。
半世紀を経て、沈没した駆逐艦「「蕨(わらび)」の艦長のご子息が克明に調査して真相を明らかにしたそうです。

・海軍衝突事故「美保関のかなたへ」のあらましを書いているプレートです。


「隠岐島(おきのしま)」
「隠岐島(おきのしま)」は500万年前の火山島ですが、侵食で火山地形が失われているため火山ではなく火山岩類として扱われています。
島根半島の北約50km沖の海上に浮かぶ島で、後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された島としてよく知られています。
晴れた日には、ここ美保関からよく見えるようですが、この日はかすかに霞んで見える程度でした。

・遠くも霞む島は隠岐島です。





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中国地方の旅(その17)津和野・多胡家と養老館

2010-04-27 | 旅行

中国地方の旅シリーズ17回目は津和野藩筆頭家老の「多胡家」と藩校の「養老館」をご紹介します。

「家老・多胡邸」
多胡氏の発祥は、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)の多胡に住んでいたことからその名を称したと伝えられていますが、出雲多胡氏の発祥は諸説あるようです。
その一つは、文永年中(1264~74年)に出雲郷の地頭となって下向したことからとの説があり、他には、もともと京極氏の被官で、越前守俊英が応仁の乱の功により、石見国(島根県)中野に地を与えられ、出雲に土着したとの説などが伝えられているようです。

多胡家は、津和野藩主亀井家の初代(1618年~)から11代(明治2年)に亘って筆頭家老を務めてきました。
特に、鬼主水と呼ばれた多胡真武は殖産振興業に力を尽くし産業の基礎を築きました。
また、多胡真蔭は仮名手本忠臣蔵における加古川本蔵のモデルと言われ亀井慈親に仕えて功があったそうです。
更に、幕末の多胡真祇(逸斎)は画を谷文晁、桜間青崖に学んで逸作を残しており、特に渡辺崋山と親交があったことも有名だそうです。

・旧津和野藩家老 多胡家表門です。


この門は同家の表門で、三間一戸薬医門の形式をとっており、屋根の構造は切妻造り、浅瓦葺きとなっています。
また、門の左右には番所を構え、格式の高さを示しています。構造や意匠(趣向、デザイン)はともに簡素な造りですが、威厳のある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えている言われています。

多胡家には、多胡辰敬が書き残した家訓があるそうです。
彼は学問、弓馬、算術など諸芸十七か条からなる家訓を記し、「人の用にたつ」人になれ、という実用主義で貫かれたもので、自らそれを実践したと言われ、「命は軽く、名は重い」は有名な言葉となって伝わっています。

・多胡家です。


(参考)
第3代藩主・亀井慈親(かめいこれちか)は、幕府から勅使饗応役を命じられ、指南役の吉良上野介に辱(はずかし)めを受けます。
余りの悔しさに慈親は上野介を斬ろうと覚悟しますが、これを知った家老の多胡外記は、大事に至らぬようにと機転を利かせて事なきを得たと言われています。
(なお、亀井慈親(かめいこれちか)は在職50年の間に14回も饗応役を命じられたそうです)
この時、家老の多胡が上野介に取り入るために使った進物が「小判をカステラのような平らな生地に包み、小判の形をしたお菓子」だったそうです。
これが現在、津和野土産の「源氏巻き」の原型となっているそうです。
もし、この時、家老の多胡外記が止めなければ「赤穂事件」は発生せず、「津和野事件」となっていたかも分かりませんね。

「津和野藩校・養老館」
津和野藩校「養老館」は、天明6年(1786年)8代藩主亀井矩賢(かめいのりかた)により創設され、明治5年まで国学、儒学、兵学、武芸一般などを教え、藩文化の中心として多様な人材を輩出してきたようです。
藩は財政難にもかかわらず、寛政12年(1800年)には藩士から庶民まで範囲を広げ、医学を目指す者に学資を貸与すると言う、現在の留学制度を設けるなど優れた政策を取り入れました。

・津和野藩校養老館の門です。



この藩校養老館では、西周(明治の先哲)、森鴎外、中村吉蔵(劇作家・文学博士)、山辺文夫(東洋紡初代社長)、高岡直吉(県知事・初代札幌市長)など全国に名を馳せた幾多の賢哲を育成し、俊才を輩出した津和野藩校の跡として貴重な文化財となっているそうです。
なお、現在残っている建物は門より左が剣術教場・居合柔術教場、右が槍術教場で、正面の土蔵は書物庫だそうです。

・養老館です。





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中国地方の旅(その16)津和野・太皷谷稲成神社

2010-04-26 | 旅行
中国地方の旅シリーズ16回目の今日は島根県津和野町の「津和野太皷谷(たいこだに)稲成神社」をご紹介します。

「太皷谷(たいこだに)稲成神社」
「津和野 太皷谷(たいこだに)稲成神社」は、霊峰青野山を東に仰ぎ、太鼓谷の聖地を神域と定め、安永2年(1773年)5月15日、石州津和野(現:島根県津和野町)の7代城主 亀井矩貞(のりさだ)が三本松城の安穏鎮護と、住民の福祉多幸を祈願するため、城山の聖地太皷谷(たいこだに)の峯に勧請したのが始まりと言われています。

御祭神は、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)で、歴代城主の信仰厚く、衣食住の大祖神、開運厄除、産業発展、福徳円満の守護神として崇敬されています。
就中(なかんずく)、願望成就、商売繁盛、盗難・紛失物手戻りなどの霊験はあらたかといわれ、衆人のあまねく知るところだそうです。

・太皷谷(たいこだに)稲成神社の本殿です。


稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本における神の一つで、稲荷大明神とも言い、お稲荷様・お稲荷さんの名前で親しまれています。
稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼び、京都の伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本山となっているそうです。

・弥栄神社に隣接して太皷谷(たいこだに)稲成神社の参道があります。


太皷谷(たいこだに)稲成神社は、江戸時代から五穀豊穣、商売繁盛の神様として祀られてきた稲成神社です。
稲荷神社の「稲荷」は、稲が生える(いねなり)が転じてイナリとなり稲荷(いなり)の字を当てるようになったといわれていますが、太皷谷(たいこだに)稲成神社に限っては願望成就の「成る」をもって「稲成」としており、日本全国数万ある稲荷神社でもこのように書くのは太皷谷(たいこだに)稲成神社だけのようです。

・1000本の鳥居のトンネルが続く参道です。


太皷谷(たいこだに)稲成神社は日本五大稲荷の一つに数えられているそうです。
なお、三大稲荷とか五大稲荷の決め方は地域によって異なっており、津和野での五大稲荷神社とは、次の5神社を言っているそうです。
  ①竹駒稲荷神社(宮城県岩沼市)
  ②祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)
  ③笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
  ④伏見稲荷神社(京都府)
  ⑤太皷谷稲成神社(島根県津和野町)



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中国地方の旅(その15)津和野・弥栄神社

2010-04-25 | 旅行

中国地方の旅シリーズも15回目になりました。昨日から島根県の津和野町をご紹介しています。
今日は津和野町の弥栄神社(やさかじんじゃ)を調べました。

「弥栄神社(やさかじんじゃ)」
弥栄神社は、正長元年(1428年)三本松城主 吉見氏が祇園社の分霊を太鼓谷山に勧請したのが始まりとされています。
(勧請とは、神仏の来臨を請う事、または神仏の分霊を請じ迎えて祀ること。)

永享9年(1437年)、三本松城主の吉見弘信が社地を下元原(現在地)に鎮座し、三本松城の鬼門を守る社としました。
弥栄神社は創建時より「滝本祇園社」という社名だったそうですが、慶応3年(1867年)に現在の社名に改めたそうです。

・弥栄神社(やさかじんじゃ)の鳥居です。


弥栄神社に伝わる古典芸能神事に鷺舞があります。
鷺舞は、主として八坂信仰の神社に奉納される伝統舞踊で、ここ津和野町および京都の八坂神社で奉納されるものが有名です。
津和野町のものは「津和野弥栄神社の鷺舞」として、平成6年(1994年)に国の重要無形民族文化財に指定されています。

津和野の鷺舞は、古くから京都の祇園会で演じられていたものを、室町時代に大内氏が山口の祇園会にこれを移し、さらにこれが津和野の弥栄神社の祭礼にも伝えられたものと言われています。
後に、これが一時中絶状態となったそうですが、江戸時代初期に、今度は京都の祇園会の鷺舞を直接移し伝え、それが今日まで継承されているそうです。

同様の鷺舞は他にも数ヶ所伝承されているそうですが、古来からの伝統的な姿が最もよく継承されているのは、ここ津和野の鷺舞とといわれています。
この鷺舞は、毎年7月20日(ご神幸の日)と27日(ご還幸の日)舞われるようです。

                                                                                                                ・優雅な白鷺の舞です。(津和野観光協会HPより)
写真



















・弥栄神社(やさかじんじゃ)です。


弥栄神社(やさかじんじゃ)の境内には樹齢540年を超える御神木の大ケヤキがあり、天然記念物になっているます。

・天然記念物となっている境内の大ケヤキです。




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中国地方の旅(その14)津和野・森鴎外旧宅

2010-04-24 | 旅行

中国地方の旅シリーズも14回目に入りました。今日は島根県津和野町の森鴎外旧宅をご紹介します。

森 鴎外は本名を森林太郎と言い、文久2年(1862年)1月19日に石見国鹿足郡津和野町(現:島根県津和野町)に津和野藩医 森 静泰の長男としてこの家に生まれ、明治5年(1872年)に10歳で上京するまでここで過ごしたそうです。

・森鴎外旧宅の門です。


森 鴎外は、明治14年、19歳で東京大学医学部を卒業後、直ちに東京陸軍病院の軍医に任命され、明治17年に、彼は軍陣衛生研究のためドイツに留学し、明治21年に帰国しています。
その後、軍医総監 陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)となる一方、文学者としても活躍し、明治・大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されています。
鴎外は死に臨んで、「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す」と遺言し、大正11年(1922年)7月9日、60歳で永眠したそうです。

・昭和44年10月29日、国の指定文化財になっている森鴎外の旧宅です。


この建物は、嘉永6年(1854年)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられており、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されていましたが、昭和29年(1954年)森 鴎外の33回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されたそうです。

・室内です


「鴎外先生詩碑」という石碑がありました。
この詩碑は鴎外の「釦鈕(ぼたん)」の詩を佐藤春夫の筆により建立されたものだそうです。
日露戦争中、激戦となった「南山の戦い(1905年5月25~26日:遼東半島(中国)南山)」でなくしたカフスボタンを惜しむ詩だそうです。

・「鴎外先生詩碑」には釦鈕(ぼたん)の詩が刻まれています。


 「舞姫」の詩  (森鴎外)
   釦鈕(ぼたん)
  南山の たたかいの日に   
  袖口の こがねのぼたん         
  ひとつおとしつ                  
  その釦鈕(ぼたん)惜し   

  べるりんの 都大路の
  ばっさあじゅ 電灯あおき
  店にて買いぬ 
  はたとせまえに

  えぼれっと かがやきし友         
  こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ)     
  はや老いにけん               
  死にもやしけん               
  
 20年前、ベルリンで買ったコートの釦を、日露戦争の戦場でなくしてしまった。
 その頃はまだ若かった。肩章(えぼれっと)を付けていた友人の将校も、
 黄金色の髪をなびかせたあの少女も、今では年老いたか、亡くなったかもしれない。
 この詩は、ドイツ留学中に「エルシ」という女性との恋を詠ったのではないかといわれているそうです。


  はたとせの 身のうきしずみ
  よろこびも かなしびも知る
  袖のぼたんよ
  かたはとなりぬ

  ますらおの 玉と砕けし
  ももちたり それも惜しけど
  こも惜し釦鈕(ぼたん)
  身に添ふ釦鈕(ぼたん)

 20年前の思い出を知る釦を戦場で失ってしまった。
 この戦争で多くの人命を失ったことは惜しいことだが、
 そのときにこの釦を失ったことは、自分の青春を失った思いで、とても惜しい。


            

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中国地方の旅(その13)萩市・菊屋家住宅

2010-04-23 | 旅行

中国地方の旅シリーズ13回目は、萩市の「菊屋家住宅」をご紹介します。

菊屋家は、摂津の国(現大阪)住吉大社の歴代宮司、津守(摂津守)国量朝臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった家柄です。
町人となった菊屋家は、毛利輝元が萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町造りに尽力しました。
菊屋家は、関が原の戦いくらいまでは津守姓でしたが、後に石川姓・菊屋姓に改めたようです。

菊屋家住宅は江戸初期の建築で約400年の歴史があり、現存する商家としては最古の部類に属し、大型の町屋としてその評価はきわめて高いそうです。

・白壁が美しい「菊屋家住宅」す。


「菊屋家住宅」は萩藩の御用達を勤めた豪商「菊屋」の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられました。
従って、先祖代々、常に御用屋敷としての体面整備に配慮して、屋敷建物を維持してきたようです。
この住宅の主屋は極めて古く、全国的に見ても最古に属する大型の町屋としてその価値が高く評価され、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されています。

・菊屋家の御成門です。


菊屋家は慶長9年(1604年)毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領しました。
また、阿古ケ浜に藩士や足軽衆のために家を建てて住まわせたので、それ以降、阿古ケ浜を菊ケ浜と称するようになたそうです。
その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され、藩の御用達を勤めてきたそうです。

・菊屋家の長屋門です。


約2000坪の敷地のうち、現在約3分の1が公開されていますが、この庭もその一部です。突き当たりの土塀の向こうには広い庭が残っているようです。

・菊屋家書院の庭です。


美術品や貴重な資料等が数多く展示されています。

・主屋の書院です。


この古びた柱時計は、伊藤博文が初洋行の際のアメリカ土産だそうです。
130年以上経っている今も週1~2回ゼンマイを巻くだけで正確に時を刻むようです。



菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍などが展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。



今でも使えるといわれている江戸時代の古地図が展示されています。



菊屋家住宅は、御上使の本陣を命じられたり、藩の御用宅に借り上げられたりした、歴代藩主の信任が大変篤い住宅だったようです。

歴史の街「萩市」には、まだまだ数多くの観光スポットがありましたが、スケジュールの都合上、私達の旅は次の津和野に行きました。
明日は津和野をご紹介します。



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中国地方の旅(その12)萩市・毛利家別邸

2010-04-22 | 旅行

中国地方の旅シリーズ12回目の今日は萩市の「毛利家別邸」をご紹介します。

「厚狭(あさ)毛利家 萩屋敷長屋」
厚狭毛利家(あさもうりけ)は、毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、山陽道の宿場であった厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に知行地(8,370石)があったことから厚狭(あさ)毛利氏と呼ばれていました。

萩の屋敷は、萩城大手門の南100mに位置し、面積約15,500㎡の広大な敷地を誇っていましたが、現在は、安政3年(1856年)に10代藩主元教の時に築かれたこの長屋のみが残っており、主屋などは明治維新後に解体されています。
屋根は入母屋造り、本瓦葺きで、桁行51.5m、梁間5mの長大な構造をしており、現在、萩に残っている武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。
昭和43年(1968年)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などが展示されているようです。

・国の重要文化財に指定されている厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋です。


「毛利家別邸の表門」
元は、明治時代に14代藩主毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門です。
大正10年(1921年)、別邸と共に毛利家 萩別邸の門として市内の東田町に移築されましたが、その後、昭和49年(1974年)に現在地に移築されました。

規模は雄大で、桁行10.9m、梁間3.8m棟高5.2mで、屋根の両端には鯱の原型と言われる鴟尾(しび)が乗せられています。
門の左側は潜門になっており、更に両脇には内側に向かってのぞき格子を持たせた10㎡の広さを持つ土間が付属しています。
このような形式は、萩の門のとしては異色のものだそうです。
現在は萩青年の家の表門になっています。

なお、鴟尾(しび)とは、古代の瓦葺宮殿・仏閣の大棟の両端に取り付ける装飾で、瓦・銅または石で造り、現在のしゃちほこや鬼瓦の原型です。

・毛利家別邸の表門です


「毛利氏の誕生}
毛利氏とは、武家の一つで、本姓は大江氏です。家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖としています。
苗字の毛利は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市周辺)に由来します。
「毛利」の元来の読み方は「もり」ですが、後に「もうり」と読まれるようになったそうです。

鎌倉時代末期から南北朝初期にかけて越後国(新潟県)から安芸国(広島県)へ移ったあと山名氏および大内氏の家臣として栄え、戦国時代には戦国大名への脱皮を遂げて、中国地方最大の勢力となりました。
しかし、関が原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられ、周防国と長門国の2ヶ国に減封されましたが、江戸時代を通じて安泰でした。
江戸末期には長州藩から数々の優秀な志士が現われ、明治維新を成就させる原動力となりました。



「毛利輝元」
毛利輝元は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人で、長州藩初代の藩主です。
毛利元就の長男、毛利隆元の嫡男として天文22年(1553年)1月22日に安芸国(現広島県)に生まれました。
1563年(永禄6年)に父隆元の急死により11歳で家督を継承しました。
尼子家残党の蜂起や宇喜多直家との争いを経て織田家と敵対関係に入りましたが、本能寺の変により急遽織田側の重臣・羽柴秀吉と講和し、以後、秀吉軍の傘下に入り、後に五大老に一人となりました。

・毛利輝元の墓所です。


「天樹院墓所」
天樹院墓所は毛利家の墓所の一つで、毛利元就の長男隆元の子(長男)である輝元(1553年1月22日生まれ)、輝元の妻、殉死した家臣の長井治郎左衛門の墓石があります。
以前は輝元の本邸があったところですが、輝元の没後に輝元の法号である天樹院が菩提寺として建てられました。
明治2年(1869年)に天樹院は廃寺となり、墓所のみが残っています。

・天樹院墓所です。






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中国地方の旅(その11)萩城跡と萩の偉人たち

2010-04-21 | 旅行

中国地方の旅シリーズの11回目は萩城跡と萩ゆかりの偉人について調べました。

萩城は、関が原の戦いの後、毛利輝元が慶長9年(1604年)に築城に着手し、4年後の同13年(1608年)に完成しました。
萩市街の西北隅の指月山(標高143m)の麓に位置したことから、山名をとって指月城とも呼ばれたようです。
文久3年(1863年)4月に山口に移るまで、259年間に亘ってここで政務を執っており、周防・長門(いずれも現・山口県)両国政治の中心であったそうです。

・萩城跡の天守台(左端の石垣)と指月山(標高143m)です。


本丸には高さ14~5mの五層の天守閣がありましたが、明治7年に建物の全てが解体され現在はその台座のみが残っています。
昭和26年6月9日に国の指定史跡となっています。

・萩城のCGの復元図です。




















・現在は指月公園(しづきこうえん)として整備されている萩城跡です。


・萩の城下町です。
36万石の城下町・萩は今でも当時の町並みが色濃く残っています。
萩藩士や豪族の家が建ち並ぶ通りを歩くと時代劇に出てくるような風景を目にします。
  
    ・江戸屋横丁です。              ・青木家の旧宅です。

      

・真っ直ぐな道が東西南北に碁盤の目のように並んでいる城下町の一角です。


・当時の大きな屋敷跡の石垣が続いています。


・平日とあって訪れる人は殆どいませんでした。


「高杉晋作旧宅」
高杉晋作は、天保10年(1839年)に萩藩士 高杉小忠太の長男として生まれ、安政4年(1857年)に松下村塾に通い始めました。
吉田松蔭からは「有志の士」として将来を嘱望されていたそうです。
松蔭の死後、江戸修行や自ら試撃行と称した東北修行の旅で、松蔭の師である佐久間象山らと出会い成長していったようです。

高杉晋作は奇兵隊を組織しましたが、その経緯は、文久3年(1863年)5月、下関海峡で四国連合艦隊の攻撃を受け、萩藩兵力の弱体振りをさらけ出したことによります。
奇兵隊は、少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵を悩まし、常に奇道を持って勝ちを制することから奇兵隊と呼び、身分を中心に編成された封建軍隊とは異なり、身分を問わず有志の集まりで、力量中心に編成された新しい軍隊でした。
奇兵隊は、その後の倒幕戦争においても諸隊の中核として明治維新に大きな歴史的役割を果たしました。

・高杉晋作誕生の地です。


敷地内には高杉晋作の写真や書などが展示され、産湯に使った井戸があります。
また自作の句碑や初代内閣総理大臣伊藤博文が晋作のことを詠んだ歌碑があります。

 ・自作の句碑  「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ 神や知るらん」  高杉晋作

 ・高杉晋作のことを詠んだ伊藤博文の歌碑 
           「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」

・高杉晋作の旧宅です。



「木戸孝允(きどたかよし)旧宅」
木戸孝允は天保4年(1833年)6月26日、石高20石の萩藩医・和田昌景の長男としてこの地に誕生しました。
8歳で石高150石の桂家の養子となり、江戸に出るまでの約20年間はこの家で過ごしたそうです。
名は孝允ですが、初名は桂小五郎、33歳の時、藩命により木戸貫治、翌年、木戸準一郎と改めたようです。

・木戸孝允誕生地です。


17歳の時、藩校の明倫館で吉田松陰に学び、慶応2年(1866年)には坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結びました。
明治新政府では、特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしました。
これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と呼ばれています。

・木戸孝允の旧宅です。



「田中儀一誕生地」
説明板によれば、田中義一は文久3年(1863年)藩主の六尺(駕篭かきのこと)である田中家の三男としてここで生まれました。
13歳の時、新堀小学校の受業生(代用教員)に登用され、のち陸大に進学したそうです。
大正7年以降、陸軍大臣、ついで大将に進み、再び陸軍大臣になりました。
大正14年に政友会総裁に就任、昭和2年に内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣を兼任しました。

・僅かなスペースに田中義一誕生地の石碑が建っていました。



「月輪山円政寺」
月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年(1254年)山口に創建された大内氏代々の祈願所でした。
慶長9年(1604年)頃に山口から萩に移転され、毛利氏の祈願所となりました。
境内には十二支彫刻の欄間で知られている金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる点で貴重な寺となっているようです。
伊藤博文は11歳の頃、住職の恵運に諭されて読み書きを習い、高杉晋作も子供の頃にはよくここで遊んだと言われています。

・円政寺の山門です。


・「高杉晋作、伊藤博文 両公幼年勉学之處 円政寺 金毘羅社」の石碑があります。





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