らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

小野小町

2015-03-31 | 趣味

今月20日のブログで、世界三大美女の一人「クレオパトラ」を取り上げました。
一般的に世界三大美女と言えば、「クレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ(ギリシャ神話に登場する女性)」ですが、何故か日本ではヘレネに代わって「小野小町」が入って三大美女と言われています。
そこで今日は日本で言われている三大美女の一人、小野小町について調べました。

小野小町は、平安時代前期の女流歌人で、百人一首9番の作者です。更に、六歌仙、三十六歌仙の一人でもあります。
彼女には有名な作品が多数ありますが、その中でも百人一首に載せられた次の歌は有名であり、特に女性には人気が高い作品と言われています。

花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」 (古今集)
 これは、年老いてかつての美貌が色褪せていく自分の境遇を嘆く歌だそうで、その意味は、
 『桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったわ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。』です。


            

絶世の美女として知られている小野小町は、美人の代名詞とも言える人物ですが、平安時代の女性のご多分に漏れず、生没年をはじめその素性はほとんど明らかにされていないなど、その人物像には謎が多いと言われています。

彼女は、百人一首に選ばれた小野篁(おののたかむら)の孫とも言われていますが、多くの学者からは矛盾点が多いため否定されていたり、出生地も諸説あって明確になっていないようですが、その中でも秋田県湯沢市が有力とされているようで、「あきたこまち」などの名前の由来となっています。
そして人物像については、第54代天皇の仁明天皇から、その子である文徳天皇、孫の清和天皇の三代の時代に宮中で仕えていたと言われており、仁明天皇の更衣だったという説もあります。

「伝説」
小野小町の伝説として特に知られているのが、深草少将の百夜通いがあります。
小町に惚れていた少将は、小町から百日間毎日通い続けたら受け入れると言われ、毎日欠かさず小町の元へ足を運び続けましたが、百日目に大雪のため願い叶わず凍死してしまったというものです。
この話に出てくる少将にはモデルとなった人物が存在したと言われており、それは同じく六歌仙にして交流のあった遍昭ではないかと言われているようです。

また、小町は長命であったとも言われています。
しかし、その晩年を描いたエピソードは「乞食となって落ちぶれた」とか、「地方各地を放浪して行き倒れになった」など、美人と謳われた全盛期とは一転して不遇なものが多いようです。
更に、「故郷の東北に帰って静かに隠棲した」とか、「百夜通いで命を落とした少将を弔って90歳近くまで生きた」など、穏やかな晩年を描いた話も少なくなく、非常に謎の多い女性だったようです。

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なつかしのCMソング(タケモトピアノ)

2015-03-30 | ナツメロ

先日、孫のピアノ発表会があったので行ってきました。
習い始めて3年目になりますが、上手に弾けるようになっていたことに驚きました。

演奏は独奏ではなく、一緒に習っている生徒がパートごとに分担して奏でる重奏形式です。
発表は幼稚園の幼児年少クラスから小学校2年生までのジュニアクラスの20組が行いました。
我が子が一生懸命演奏する晴れの姿を残そうと、父兄の方々の俄かカメラマンがあちらこちらの席に見られました。

ところでピアノと言えば、平成9年(1997年)にこのようなCMがあったのをご存じだと思います。
このCMは、当初、関西のローカル限定放映だったそうですが、次第に全国のテレビでCMが放映されるようになったということです。
嘗て、「赤ちゃんが泣き止むCM」として紹介されたことがあったり、平成15年(2003年)には、一企業のCMソングながらヒットチャートの7位に入るなど話題を呼びました。

そのCMとは、そうです、財津一郎のタケモトピアノの歌、「ピアノ売ってちょうだい!」です。
この曲には「タケモトピアノの歌」と「みんなまあるく」の2曲があって、2曲続けて放送されることが多いということです。

それではその2曲をお聴きください。




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苦肉の策

2015-03-29 | 時事

今、沖縄県と国が激しく対立しています。
世界で一番危険と言われている米軍普天間飛行場を名護市辺野古へ移設する問題で、移設に反対を表明して知事になった現在の翁長知事は工事を中止させる方法が見つからず、「苦肉の策」として、「知事の許可を得ずに岩礁破壊がされた蓋然性が高いと思量されることから、県の調査が終了するまで海底面の現状を変更する行為のすべてを停止するよう指示し、沖縄防衛局が指示に従わない場合は、2014年8月に仲井真前知事が出した「埋め立て工事で岩礁を破壊する許可」を来週にも取り消すと申し立てました。
これに対して沖縄防衛局は、行政不服審判法に基づき、指示の取り消しを求める審査請求と、審査結果が出るまで指示の執行停止を林芳正農相に申し立て、農相は「沖縄県知事の指示には正当性がない」とする判断に傾き、30日にも発表する予定と、昨日の新聞は報じていました。

今回の辺野古移設を始め、沖縄をめぐる各種の対立問題について、沖縄問題に詳しい某評論家は、将来沖縄を自国領としたい中国が沖縄県の反対勢力に大量の活動資金をばら撒いて支援していると語っており、既に沖縄には中国の手があちらこちらに伸びてきているのだそうです。

国の安全保障は県に判断を委ねるべき問題ではなく、国が主体的に決めていくべき問題である筈です。
沖縄県知事はポピュリズムを煽るのではなく、沖縄県は日本の国土の一部であること、中国の脅威に対するには辺野古へ移設が最善の方法であることなどを冷静に判断し、国と連携をしながら日本の安全保障に積極的に取り組んでほしいものです。

さて、時事問題はこのくらいにして、今日は「苦肉の策」の語源を調べました。
「苦肉の策」という言葉は、『三国志演義』の「赤壁の戦い」で、劉備・孫権連合軍が曹操軍の艦隊を焼き払うためにとった奇策「苦肉計」が語源だと言われています。

「赤壁の戦い」で赤壁に布陣した連合軍に対し、曹操軍は3倍という兵数でした。
周瑜(しゅうゆ)配下の黄蓋(こうがい)は、この劣勢を前に有力な対抗案を出せないとして司令官である周瑜を罵倒します。
これを咎めた周瑜は兵卒の面前で黄蓋を鞭打ちの刑に処し、これにより重傷を負った黄蓋は、敵である曹操軍に投降を申し出たのです。
一連の出来事は間者が報告していたため、曹操はこれを受け入れて一旦自軍へ招きますが、黄蓋の書面を見て策を看破し、「私を苦肉の計で騙そうというのか」と詰問します。
しかし、孫権軍の使者である闞沢(かんたく)が曹操を丸め込んで黄蓋の投降を成功させたのですが、実はこれは周瑜と黄蓋が曹操を欺くために仕組んだ策略でした。
首尾よく曹操軍に潜り込むことに成功した黄蓋は、艦隊や軍営に放火し、曹操軍を壊滅に追い込んだと言われています。

この故事から、「苦肉の計」とは、自らの体(肉)や味方を苦しめることによって敵を欺く計略のことですが、そこから生まれたと言われる日本語の「苦肉の策」は、「苦」という語からの連想で、「苦し紛れに考え出した手段」、「切羽詰まった状態から逃れるために取る手段」の意味で用いられるようになったと言うことです。

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紀州街道を歩く(その5)

2015-03-28 | 地元紹介

紀州街道を歩くシリーズは今日が最終回となりますが、今回、紀州路を一緒に歩いたメンバー14人は、いずれも現役を退いたOBたちで、歩くことが好きなロートル達です。
しかし、2名の80歳代の人はいくら歩くことが好きとは言え、歩行距離が10㎞を過ぎると多少きつい様で、歩くペースが次第に遅くなり、皆より遅れがちになること、しばしばでした。
それでも予定時間より30分ほど遅れただけで、全員元気に目的地の南海電鉄・泉佐野駅まで歩き切りました。

「岩橋善兵衛生誕地」
岸和田市から貝塚市に入ると「岩橋善兵衛生誕の地」の石碑が建てられているお宅を見つけました。

 

そこの説明には次のように書かれていました。
岩橋善兵衛は1756年、貝塚脇浜新町で生まれました。
岩橋善兵衛はレンズ磨きを営む傍ら自ら蘭学を学び、寛政5年(1793年)頃、窺天鏡(きてんきょう)と呼ばれる望遠鏡を製作しました。
これは天体望遠鏡としては国内の最初と言われ、非常に精密なものだったようです。
当時の日本で自らレンズを磨き、望遠鏡の製作を専業としていたのは善兵衛だけで、性能や製作数も他の職人を圧倒していたということです。

この後、京都の蘭学者・橘南谿(たちばななんけい)らの下で学び、天体解説書「平天儀図解」などを著しました。
岩橋善兵衛製の望遠鏡は評判が高く、寛政の改暦では徳川幕府の天文方に用いられたのをはじめ、日本地図の作成時には伊能忠敬にも用いられ、更に、紀伊和歌山の徳川家、近江彦根の井伊家、播磨明石の松平家など諸大名や江戸、大阪、京都の学者から天体観測用や軍事・航海目的のため需用が高まったそうです。

・岩橋善兵衛(1756年~1811年)です。(ネットより)


「善兵衛ランド」
貝塚市三つ松には、天文台に博物館を兼ねた「善兵衛ランド」という施設がありますが、この名称は岩橋善兵衛に因んでつけられた名称です。
1992年(平成4年)に開館した「善兵衛ランド」には、市立の公共施設として天文台が設置されており、直径6.5メートルの天体観測ドーム内に、口径60センチのニュートン・カセグレン式反射望遠鏡や口径10センチの屈折望遠鏡2台のほか、太陽プロミネンスや太陽スペクトルの観測装置などが備えられています。

・善兵衛ランド天文台です。(ネットより)


「春日神社」
泉佐野市に入ると春日神社がありました。
当社の説明によれば、光仁天皇の宝亀年間(約1200年余前)に、坂上苅田丸が、奈良の春日神社の神を勧請したのが、春日神社の起源といわれています。
仁明天皇の承和14年、大同皇子高岳親王が、皇太子の後、仏門に帰し、僧となって名を真如と改め、当社の西南に平城寺を建立して当社の宮寺とし、長慶天皇の天授2年、坂上正澄が社殿を造営しました。



「本殿」
豊臣秀吉の根来攻めの時に一旦消失してしまいましたが、その後再建され、佐野の総社とされました。
明治5年、村社となり、明治41年~42年の神社合祀の際には、佐野町域にあった大小29の神社がここに合祀されました。

・春日神社の本殿です。


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紀州街道を歩く(その4)(五風荘)

2015-03-27 | 地元紹介

紀州街道を歩くシリーズ、今日は岸和田城の濠端にある「五風荘」をご紹介します。

「五風荘(ごふうそう)」
五風荘は、旧岸和田城内の新御茶屋跡などに、昭和4年から10年の歳月をかけて造営された広壮な回遊式日本庭園です。
正門は奈良東大寺の塔頭の一つ「中性院」表門を移築したもので、岸和田にゆかりの深い楠木氏の「楠」の字をもじって「南木門」と称されています。
3千坪の敷地には日本建築の粋をこらした主屋と庭園を見渡せる三つの茶室があります。
管理運営は、平成21年(2009年)度から導入された指定管理者制度に基づき、指定管理者に選定された「がんこフードサービス株式会社」が当施設をレストランとして活用しながら管理運営を行っています。

・門には指定管理者の「がんこ」と「五風荘」の看板が設置されています。


「がんこ寿司のキャラクター」
これは関西ではお馴染みのがんこ寿司のキャラクターですが、このモデルは「がんこフードサービス株式会社」の創業者で現会長の小嶋淳司(こじまあつし)氏です。
因みに「がんこ」の由来は、小嶋氏の学生時代のあだ名からだそうです。


五風荘は岸和田城の濠端に佇む回遊式日本庭園ですが、元は岸和田城主岡部氏の新御茶屋跡を、明治維新の後、当地の財閥?寺田利吉氏が10年の歳月をかけて邸宅・南木荘としました。
氏の没後、諡(おくりな)である五風院に因み「五風荘」とその名を変えました。  


広大な敷地には格調高い主屋を始め、山亭、八窓席、残月席の三茶席が設けられており、優美な庭園が見事な景観を映し出しています。
なお、庭園は一般に開放されており自由に散策できるほか、主屋では食事も楽しむこともできます。

・五風荘の主屋です。


案内板によれば、「日本建築の粋を集めた主屋の屋敷からは見事な庭園が見渡せ、落ち着き感のある池や優美な造形を見せる山亭、雪見灯篭など、その配置の妙は不思議と見る人の気持ちを和ませます。」とのことです。



茶室「山亭」です。
特に山亭は形の美しい自然石を礎石とし、その上に茶室が建てられているそうです。


「蛸地蔵(たこじぞう)」
岸和田城を跡にして再び紀州街道に戻り、15分ほど歩くと「蛸地蔵」があります。
蛸地蔵は正式名を天性寺(てんしょうじ)と言い、岸和田市にある浄土宗の寺院で、山号は護持山、院号は朝光院です。
ご本尊は阿弥陀如来と地蔵菩薩で、この地蔵菩薩が蛸地蔵と通称されているものです。
また、南海電鉄では最寄駅に蛸地蔵の駅名を採用しています。

・タコ地蔵・天性寺です。


「蛸地蔵の由来」
蛸地蔵天性寺は元亀元年(1570年)に建立された日本最大級の地蔵堂です。
蛸地蔵縁起によれば、次のように書かれています。
本尊の地蔵菩薩は古くから岸和田の守本尊とされたが、戦乱を免れるため当時の領主により堀の中に入れられていました。
後の天正年間、岸和田城が根来・雑賀衆に攻められ落城の危機となった時、数千の蛸と一人の法師が現れ城を救ったと言われています。
数日後、堀から矢傷や弾傷を負った地蔵菩薩が発見され、法師は地蔵菩薩の化身であったことが分かりました。
地蔵菩薩は城中の別殿に安置されたが、民衆が参拝できるように天性寺に移されました。



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紀州街道を歩く(その3)岸和田城

2015-03-26 | 地元紹介

紀州街道を歩くシリーズの3回目は岸和田城をご紹介します。

昨日ご紹介した「紀州街道本町一里塚」から5~6分歩くと岸和田城の傍に辿り着きます。
岸和田城は三層の小さなお城ですが、その優美な城閣は街のシンボルとなっています。
私たちの一行は紀州街道から少し逸れて、お城に立ち寄ってきたので、今日は岸和田城を特集でアップします。

「岸和田城」
岸和田城の築城は、南北朝時代まで遡ります。
和泉国守護であった楠木正成が甥(弟、楠木正李の三男)の和田高家(にぎたたかいえ)を当地に派遣して、建武元年(1334年)前後に、今の城よりも東側の「岸」と呼ばれていた地に岸和田古城を築かせたのが始まりと言われています。
岸和田と言う地名は、「岸」という地名と和田高家(にぎたたかいえ)の苗字の和田が合わさって、岸和田と呼ばれるようになったと言われており、岸和田古城もいつの頃か、岸和田城とよばれるようになったということです。
また、岸和田城は別名を千亀利城(ちきり城)とも呼ばれていますが、「ちぎり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形が、「ちぎり」に似ているためそのように呼ばれるようになったそうです。



「岸和田城主」
天正13年(1585年)には、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅により、秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に大改修しました。
以降、岸和田城主は、小出氏3代、元和5年(1619年)からは松平(松井)康重・康映、寛永17年(1640年)からは岡部氏がつとめました。
寛永17年(1640年)、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)し、さらに城を大改築して近世城郭を築き上げ、以後、明治維新まで岡部氏が13代に亘って岸和田藩を統治しました。



文政10年(1827)に天守閣が落雷で焼失し、維新期には櫓・門など城郭施設を城主が自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外残っていないそうです。
岸和田城は、本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されていますが、現在の天守閣は昭和29年建造された3層3階の模擬天守です。
なお、城跡は昭和18年府指定史跡に指定されています。



「大手門」
岸和田城の大手門(復興櫓門)は、本丸隅櫓とともに昭和44年(1969年)に再建されたものです。


「八陣の庭」
昭和28年「1953年)、当時の庭園設計の第一人者であった重森三玲氏によって設計監督されました。
庭石材料は作者が一石一石選定した和歌山県 沖の島産の緑泥片岩を用いた石組を、京都白川産の白砂で囲み、、一木一草入れない枯山水としています。


「天守からの八陣の庭」
テーマは諸葛孔明の八陣法を取り入れ、大将を中心に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配しています。
この庭は城跡の保存を意識し、将来建設されるであろう天守閣から、更に上空からの俯瞰を意図して作庭された、これまでにない近代感覚にあふれた独自の創作によるものです。



「八陣の庭の説明板」


「犬走り」
岸和田城の遺構のなかでも内堀石垣下部の「犬走り」がとくに有名です。
現存する内堀石垣の下部に周堤帯が存在していますが、これが犬走りと呼ばれているものです。
城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていないそうですが、脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力だそうです。

・石垣と内堀の間に作られている緑の草が生えている部分が「犬走り」です。


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紀州街道を歩く(その2)

2015-03-25 | 地元紹介

紀州街道を歩くシリーズの2回目です。

「五十一銀行跡」
昨日ご紹介した旧和泉銀行本店から更に10分ほど歩いたところに「五十一銀行跡」の看板が掲げられていました。
五十一銀行は明治時代初めに全国に作られ「国立銀行」の一つで、設立順に一番から百五十三番までが存在したことからナンバー銀行とも呼ばれていました。
現在でも第四銀行、十六銀行、十八銀行、七十七銀行、百十四銀行など、いくつかのナンバー銀行が経営を続けています。

明治11年(1878年)に設立された五十一銀行は、昭和15年に国の政策により、和泉銀行、寺田銀行、岸和田銀行と合併して阪南銀行と名称が変更されました。
更に昭和17年には富田林銀行、辻林銀行と合併後、昭和20年に住友銀行に合併され、岸和田本町支店となりましたが、その後、支店の統合により廃止され、建物は岸和田市の水道局庁舎となった後、昭和56年に解体されたそうで、現在は看板だけが掲げられています。

・第五十一国立銀行跡地があります。


「円成寺」
円成寺は浄土真宗大谷派の寺院です。
天文5年(1536年)信濃の国の武士、加藤主計(かずえ)が出家して釈専称と号し、諸国を遍歴の後、岸和田村に坊舎を建立し、人々に浄土真宗の布教を行ったのが始まりとされています。


「吉田松陰逗留地」
嘉永6年(1853年)2月、吉田松陰は大坂沿岸の警備状況を視察するために岸和田を訪れ、塩屋平衛門宅(現久住家)に滞在しました。
岸和田に滞在中、藩儒でもあった相馬九方(きゅうほう)ほか藩士らと、藩校講習館の一室で囲炉裏を囲み、茶を飲み、せんべいをかじりつつ、夜を徹して時勢や詩文について議論を重ねたそうです。
この時、松陰は頻繁に姿を表すようになった外国船に対し、海防が手薄であることを繰り返し説いていたと言われています。

・吉田松陰が滞在した久住家住宅です。


古い町屋が並ぶ岸和田市内の紀州街道沿いの景観です。

「紀州街道一里塚跡(一里塚弁財天)」
ここに掲げられている説明によれば、
一里塚とは、江戸幕府の命により慶長9年(1604年)、江戸の日本橋を五街道の起点と定め、36町歩を一里と定め、一里ごとに塚を築造し、榎、松などを植えさせたのが始まりだと言われています。
紀州街道は脇街道、紀州往還道であるため、大坂の高麗橋を起点として、和歌山城下まで一里塚が設けられていました。
由緒によれば、弁財天は元々は一里塚に植えられていた松の下に小祠があったものを、天保7年(1836年)8月頃に弁財天として社殿をつくり、現在のところに遷座したものとされていて、現在も街道を往来する人々を見守り続けています。

・紀州街道の一里塚に建てられた弁財天(一里塚弁財天)です。


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紀州街道を歩く(その1)

2015-03-24 | 地元紹介

先日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー14名と大阪府内の紀州街道を歩いてきました。
今回は南海電鉄春木駅(岸和田市)から南海電鉄泉佐野駅(泉佐野市)までの12㎞~13㎞です。
晴天に恵まれ、4月中旬を思わせる暖かい日差しの下、全員元気に歩き切りました。
今日から数回に分けてご紹介します。

「旧 和泉銀行本店」
スタート地点の春木駅前から1時間ほど歩いたところに由緒ありそうな重厚な建物がありました。
正面入口には「C・T・L・BANK」と書かれていたので、もしや「銀行?」と思い、説明書きを読んでいたところ、中から女性が出てきて、「見学可能」と言っていただいたので、内部を見学させてもらいました。

この建物は、昭和8年に建てられた旧和泉銀行の本店だったそうです。
その後、阪南銀行、大阪銀行、そして戦後には住友銀行、岸和田信用金庫、泉州信用金庫、南大阪信用金庫と入店が続き、平成16年の大阪信用金庫を最後に銀行の役割を終えました。
現在はダイエット食品を扱うタイムリーカンパニーなど3社が共同保有し、C・T・L・はこれらの会社の頭文字です。
その後、国の登録有形文化財に登録され、一般開放もされているということです。

  

・嘗て、銀行の営業場だった建物の内部です。正面の右の開いている部屋は金庫室です。


・頑丈な金庫の扉もそのまま残っています。

 ・金庫の中では絵画が展示されていました。

「紀州街道」
街道沿いに立てられている説明によれば、紀州街道は大坂高麗橋から住吉・堺・岸和田城下を通り、和歌山に至る街道です。
近世以前は熊野街道が泉州地域の主要な幹線道でしたが、海沿いの町が発展していくにつれ、慶長7年(1602年)頃に沿岸部を結ぶ街道として成立しました。
江戸時代初期には紀州徳川家は大和街道を通り、伊勢松坂を経由して参勤交代を行っていましたが、第六代宗直以降は紀州街道を通り、大坂・京・東海道を抜け、江戸へ向かう道程へと改めています。
これは第八代将軍徳川吉宗を出した紀州徳川家の家格に見合うように、行列の威容を道中で示すためであったと言われています。
このように参勤交代に使用されることで一層街道の整備が進み、町場の発展と共に多くの商家や町屋が建ち並んだそうです。

・綺麗に整備されている岸和田市内の街道です。


「こなから坂」
「こなから」とは半分の半分、即ち、4分の1を意味し、この坂が4分の1勾配に見えたことから、この名前が付けられたと伝えられます。
敬老の日の前日のだんじり祭りには、岸城神社に宮入するだんじりがこの「こなから坂を」一気に駆け上がり城に向かって豪快なやりまわしを行います。


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懐かしのCMソング(日立の樹)

2015-03-23 | ナツメロ

今日は 懐かしいCMソングを取り上げます。
その曲1973年(昭和48年)に日立グループがテレビCMでよく流した「日立の樹」です。

「日立の樹」の正式名称はモンキーポッド(monkeypod)と言う中南米を原産とする豆科の植物だそうです。
この樹はハワイ・ホノルルにあるモアナルア・ガーデンと言う私有地の公園に立っており、樹齢は約130年、高さ25m、幅約40m、胴周り(幹)は約7mもある大樹だそうです。
シダに似た形をした葉は日の出とともに開き、午後になると閉じ、また雨が降る前にも閉じることからレインツリーとも呼ばれているということです。

また、モンキーポッドの名前の由来は、猿がこの木になる実を好んで食べることから付けられたそうです。
それでは軽快なリズムの「日立の樹」をお聴きください。

・日立グループのCMでお馴染みの「日立の樹」です。


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八面六臂

2015-03-22 | 雑学

小説の中に、『「母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして、「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになる」・・・』の記述がありました。

この小説にある「八面六臂(はちめんろっぴ)」という言葉を皆さんはご存知でしたか?
私は聴き慣れない言葉だったので、調べてみました。
広辞苑を調べると八面六臂とは、八つの顔と六つの肘のこと。、転じて、一人で数人分の手腕を発揮することのたとえと説明していました。

この言葉は仏教用語からきた言葉のようです。
古くはインドの神で、日本では帝釈天と闘った後に仏法の守護者となった鬼神「阿修羅」として知られていますが、これが八面六臂のモデルだそうです。
ところが阿修羅はご覧のように三面六臂です。

この言葉は、元々は三面六臂が正しかったのだそうですが、後世の人が語呂がよいからと勝手に五面足して八面六臂にしてしまったのだそうです。
現在では八面六臂と三面六臂の両語とも辞書に載っており、一般にも通用する言葉となっています。

・三面六臂の阿修羅像です。(ネットより)

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