徳島県鳴門市大麻町板東(ばんどう)には、1917年(大正6年)~1920年(大正9年)の3年間、第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜が収容されていた「板東俘虜(ばんどうふりょ)収容所」がありました。
この俘虜収容所は、人道的な管理方針から世界でも類を見ない模範収容所と評されていたそうです。
このようなことから熊取町人権協会は人権啓発事業の一つとして今回の「平和バスツアー」を企画したものと思われます。
今日は板東俘虜収容所についてご紹介します。
なお、画像は昨日に続き全てネットから借用しました。
鳴門市ドイツ館では、館内の案内で板東俘虜収容所における当時のドイツ兵と、日本兵や地域住民との交流のエピソードが語り継がれています。
・板東俘虜収容所の門です。(画像はいずれもネットから)
「日独戦争」
日本とドイツが戦争をしていたという史実は、日独関係史の中でもとかく見逃されがちです。
と言うのは、両国は明治時代には法整備や医療・技術面において協力体制にあり、第2次世界大戦では同盟国であった印象が強いからだと思います。
しかし、1914年に第1次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた日本は、それを理由に中国・青島を拠点に極東に進出していたドイツに宣戦布告したのです。
日独戦争は、地の利から圧倒的な兵力を持って臨んだ日本軍にドイツ軍が降伏するかたちで、3カ月もしないうちに終結。その結果、日本は4600人以上のドイツ兵捕虜を受け入れることになったのです。
「板東俘虜収容所の全景写真」
嘗て、ドイツ兵俘虜約1000人が3年間居住した収容所の全景です。
「松江豊寿所長」
板東俘虜収容所の所長には、当時44歳の松江豊寿(とよひさ)が任命されました。
陸軍のエリート街道を進んできた彼は、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人でもあったのです。
「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は、幼い松江の心に深く刻み込まれていたといいます。
「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」
ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じました。
捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江の収容所運営はこうして始まったのでした。
それまでの収容所で経験した劣悪な環境から、警戒心を持って板東俘虜収容所にやって来たドイツ兵たちに、松江はまずこう語り掛けたのです。
「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。
しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。
依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」
・元、会津藩士の子、松江豊寿所長です。
板東俘虜収容所では、所長である松江豊寿をはじめとした管理スタッフがドイツ兵の人権を尊重し、できるかぎりの自主的な生活を認めていました。
そのため、ドイツ兵たちは元々優れていた技術を活かして様々な活動に取り組み、中でも盛んだった音楽活動においては、ベートーヴェンの「交響曲第九番」を、アジアで初めてコンサートとして全楽章演奏しました。
・収容所内で行われたコンサートです。
「隣人としてのドイツさん」
地域の人々は俘虜たちの進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜、製菓、西洋野菜栽培、建築、音楽、スポーツ等の指導を受けました。
そして板東の街並みでは、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、彼らとの間で日常的な交歓風景が当たり前のように見られるようになりました。
日本政府は、これを機にドイツの科学技術を国内に導入しようと、あらゆる分野についてドイツ兵から指導を受けるよう各収容所に指示していたそうです。
経済・政治学から、ウイスキー、ビール醸造、ソーセージやパンの製法、楽器演奏の指導まで、ドイツ兵捕虜の中にはそれら各分野の専門家がいました。
彼等は、兵士とは言っても、もともとは多くが一般市民であったことからこのような技術を持っていたようです。
板東俘虜収容所内にも、パン工場が建てられ、共同農場ではトマトや赤ビート、キャベツなど、それまで栽培されていなかった野菜の栽培指導が行われました。
「独式牧場」と名付けられた牧場では、ドイツ兵捕虜の指導により、牛乳の生産量がそれまでの5倍増しになるという成果が上がりました。
しかも、指導に赴くドイツ兵捕虜には見張りが付いていませんでした。
捕虜の待遇としては異例のことですが、ここ板東では一定の秩序の下、捕虜に生産労働や文化活動が許可されていたのです。
日本語教室や芸術活動、各種スポーツを楽しむ捕虜の活動は町の人々の興味・関心を引き、見学者の訪問も絶えなかったそうです。
収容所が日独交流会館のような様相を呈していくにつれ、町の人々はドイツ兵捕虜を「ドイツさん」と、親しみを込めて呼ぶようになったと言うことです。
・俘虜の遠足です。
「終戦、そして解放へ」
終戦となって俘虜が開放される時に松江所長は次のように言っています。
「諸君。私はまず、今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(捕虜)ではなくなった。
さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。
どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。
本日ただ今より、諸君の外出は全く自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!」
通訳が最後まで訳すと、拍手と歓声が沸き起こりました。
別れの日を意識し出してから、町の人と捕虜との繋がりはさらに深まり、お互いに別れを惜しんだといいます。
何百年も残るようにと、ドイツ人捕虜が1つひとつ石を積み上げた。後に「ドイツ橋」と呼ばれるめがね橋が完成したのは7月27日でした。
12月になると、いよいよ祖国への帰還の準備が進みます。町の人に捕虜からのプレゼントがあり、そのお返しに町の人も旬の食材でごちそうを用意し、それぞれの家で送別会も行われたそうです。
12月23日、徳島市に家族のいる9名が、先に解放されました。
松江所長が、家族と一緒にクリスマスを祝えるようにと、上層部と喧嘩腰で掛け合ったのだそうです。
翌24日夜、残る捕虜たちは収容所で最後のクリスマスを祝いました。
12月25日正午、広場に整列して最後の点呼を受け、13時に解放。
収容所を行進しながら出ていくドイツ兵捕虜を、町の人たちは総出で見送りました。目に涙を浮かべる者もあったそうです。
松江板東俘虜収容所所長の捕虜の人権を尊重した管理は、“これぞ武士道”を実践した素晴らしい業績ですね。