らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

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最後のブログ

2017-12-31 | 趣味

今年もまた大晦日がやってきました。
小生がブログを始めて11回目の大晦日です。

小生が「らいちゃんの家庭菜園日記」と題して、ブログを始めたのは平成19年(2007年)12月5日でした。
当初の記事は、趣味の一つである家庭菜園の話題を中心にアップしてきましたが、1年過ぎると次第にネタ切れになって家庭菜園の話題から離れていきました。
その後はお花や時事問題、地元の話題などを取り上げ、最近では、雑学や旅先の名所旧跡などをアップしてきましたが、それもいつしかマンネリ化してきたことに気付きました。
読者の皆様も新鮮味のないことに気付かれていた事と思いますが、それでも10年間続けているとアクセス数も少しづつ増加し、最近では毎日600人から700人ほどの方々がアクセスして頂くようになりました。
そして、昨日までの10年間の累計延べ閲覧ページ数(PV)と、延べパソコンからのアクセス数(IP=訪問人数)は下記のように181万人を超えていました。
   ・延べPV(閲覧ページ数)・・・6,673,416頁
   ・延べIP(訪問人数)・・・・・・・1,819,869人

そして、その人たちからは貴重なコメントをたくさんいただきました。
中には辛辣なコメントもありましたが、それらのコメントを励みに10年は頑張ってブログを続けようと、今日まで拙い記事をアップしてきました。
そしてブログ開始後10年1ヶ月となる今日、平成29年(2017年)12月31日を以ってひとまずこのブログを休止することとしました。

毎日、弊ブログを読んで頂いている皆さまには誠に心苦しいのですが何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。
そして、10年間に亘り御愛読いただいたことに心から感謝と御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

今後は引き続き家庭菜園に注力しつつ、ブログに替わる何かを見つけたいと思っています。
そうは言っても、暫く休止の後、不定期にブログを書くことがあるかもしれません。
その時にはまたよろしくお願い申し上げます。

明日は平成30年(2018年)の幕開けです。
来る年が皆さま方にとってよいお年であることをお祈り申し上げて、最後の記事とさせていただきます。
有り難うございました。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

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岸和田城と五風荘

2017-12-26 | 趣味

一昨日、現役時代のOBの会である「歴史探訪同好会」のメンバー8名と忘年会を開きました。
場所は岸和田城のすぐ傍にある「五風荘」です。
そこで今日は岸和田城と五風荘をご紹介します。

「岸和田城」
岸和田城の歴史は古く、楠木正成が甥の和田高家に岸和田古城を築かせたのが始まりとされます。
その後、信濃泰義によって現在地に移築されたとしています。
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、江戸時代には徳川家康の妹の子である岡部宣勝が入城し、岡部氏13代の居城となりました。
有名な「岸和田だんじり祭り」は岡部氏3代・長泰の時代にはじまったといわれています。
内堀石垣の下部には犬走りを見ることができます。



「岸和田城の犬走り」
犬走りはこのように石垣の外側に沿ってつづく細い通路のことを指しますが、城の防衛という観点では城壁に取りつきやすくなるため非常に不利な構造となります。
しかし岸和田城では、石垣に用いられた石の多くが「和泉砂石(いずみさがん)」という強度の弱い石であったため、石垣を補強するために設けられたのではないかと考えられています。
なお、岸和田の地名は、「岸」と呼ばれていた当地に和田氏が城を築いたことによって「岸の和田」と呼ばれ、「岸和田」へ変化したと言われています。

・岸和田城の犬走りです。


「岸城(きしき)神社」
岸城神社は天照皇大神、素盞嗚尊、品陀別命(ほんだわけのみこと)の三柱を御祭神とし、創建年代は不詳ながら往古より かつての和泉国南郡岸和田村のうち現在の宮本町・上町・五軒屋町の産土神として祀られてきました。
桃山時代、豊臣秀吉より岸和田3万石を与えられた小出秀政が、岸和田城内に社殿を築造しました。
江戸時代はじめの元和5年(1619年)に岸和田城主となった松平康重が、 寛永年間(1624年~1643年)に新たな社殿を建立し、春日大明神・愛宕大権現・天満天神の三社を勧請した。
その後、岡部宣勝が6万石で岸和田城主となり、万治4年(1661年)、宣勝は廃壊していた社殿を修復、 彫物などで美しく飾り立てて再建した。
以後、岡部氏代々の崇敬が厚く、氏子も宮座を組み祭祀を務めたそうです。



「五風荘(ごふうそう)」
五風荘は岸和田城の濠端に佇む回遊式日本庭園ですが、元は岸和田城主岡部氏の新御茶屋跡を、明治維新の後、当地の財閥、寺田利吉氏が10年の歳月をかけて邸宅・南木荘としました。
氏の没後、諡(おくりな)である五風院に因み「五風荘」とその名を変えました
2400坪を超す広大な敷地には格調高い主屋を始め、山亭、八窓亭、残月亭の三茶席が設けられており、優美な庭園が見事な景観を映し出しています。
なお、庭園は一般に開放されており自由に散策できます。



五風荘の管理運営は、平成21年(2009年)度から導入された指定管理者制度に基づき、指定管理者に選定された「がんこフードサービス株式会社」が当施設をレストランとして活用しながら管理運営を行っています。

・庭園から眺めた主屋です


茶室「山亭」
山亭は形の美しい自然石を礎石とし、その上に茶室が建てられているそうです。



茶室「残月亭」
池に張られている紐は白鷺から鯉を守るために引かれているものです。
その奥の建物は茶室「残月亭」です。



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崇徳院

2017-12-22 | 趣味

NHKの朝ドラ「わろてんか」を観ていると、時折「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」という和歌をナレーションの小野文恵アナウンサーが紹介しています。
ドラマでは「崇徳院」という演目の落語のシーンの時に出てくるのですが、実は、この和歌は小倉百人一首第77番に選ばれていて、第75代崇徳天皇が詠まれた歌なのです。

「崇徳天皇」
では、崇徳院とはどのようなお方なのでしょうか?
崇徳院(すとくいん:1119年~1164年)とは、鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で天皇の位を譲り受け、1141年までの18年間、第75代崇徳天皇として在位し、後に近衛天皇に譲位の後、鳥羽上皇の本院に対し新院と呼ばれた方です。
鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立し、保元の乱の争いになりますが、敗れて讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。

・崇徳院が詠まれた小倉百人一首第77番の和歌です。


では、「わろてんか」のシーンに度々出てくる「崇徳院」とはどのようなお話なのでしょうか?
落語の演目『崇徳院』は、小倉百人一首77番の崇徳院の和歌を題材にした、町人の恋模様を描いた滑稽噺です。

       「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)
       意訳:傾斜のために速くなり、岩に当たって二手に分かれている川の流れが、やがてひとつに合流するように、今別れ別れになっているあなたとも、
           またいつか逢いたいと思っています。
(参考)
『落語「崇徳院」のあらすじ』
商家の若旦那が食欲と体力を失い、重病になった。
医者から「医者や薬では治らない気の病で、思いごとが叶えばたちどころに治るが、放っておくと5日もつかどうか」と言われた店の主人は、出入りの職人・熊五郎を店に呼びつけ、「座敷へ行って、若旦那に『思いごと』を聞き出して来い」と命じました。
若旦那は消え入りそうな声で、熊五郎に以下のような事情を告げたのです。

20日ほど前、若旦那が高津さんへ参詣し、茶店で休んでいると、歳は17~8の、水のたれるような美しい娘が店に入って来たのです。
若旦那は娘に一目ぼれをしてしまいました。
娘は茶店を出るために立ち上がる際、膝にかけていた茶帛紗(ちゃぶくさ)を落とし、気づかず歩き出しました。
それを見た若旦那が急いで拾い、追いかけて届けると、娘は短冊に、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」と、和歌の上の句だけ書いて若旦那に手渡し、去って行きました。
若旦那は、下の句の「われても末に あはむとぞ思ふ」を思い出して、娘の「今日のところはお別れいたしますが、いずれのちにお目にかかれますように」という意志を読み取ったのです。
しかし、娘がどこの誰なのかわからないので、会うことがかなわずに困っていたのです。

熊五郎はこの事情を、店の主人に報告しました。
主人は「3日間の期限を与えるから、その娘を何としても捜し出せ。褒美に蔵付きの借家を5軒ゆずり渡し、借金を帳消しにして、それと別に礼金を支払うから」と熊五郎に懇願するのです。

熊五郎は、やみくもに街じゅうを走り回るうちに、はじめの2日間を無駄にしてしまいました。
熊五郎の妻はあきれかえり、「人の多く集まる風呂屋や床屋で「瀬をはやみー」と叫んで反応を見ればいい」と提案し、「娘を探し出せなければ、実家へ帰らせてもらう」と言い放ちます。
熊五郎は街じゅうの床屋に飛び込んでは「瀬をはやみー」と叫びますが、客がひとりもいなかったり、ある客の「うちの娘はその歌が好きでよく歌っている。別嬪だし、高津神社にも足しげく通っている」という話を聞くうちに幼い子供であると判明したりするなどして、結局有力な手がかりが得られないまま日暮れを迎えます。

数十軒の床屋をめぐるうち、剃れる髪もひげもなくなった熊五郎は、次に入った床屋の店主に「いっそ植えてほしい」と悲鳴をあげるのです。
そんな中、ひとりの職人風の男が、「急ぎで頼む」と割り込んできました。

男は「出入りしている店の娘が重い恋わずらいになり、今日明日とも知れぬ身だ。お茶の稽古の帰りに神社の茶店へ立ち寄った際、さる若旦那に気を取られて茶帛紗を忘れ、その若旦那に届けてもらったとき、あまりの名残り惜しさに、崇徳院の歌の上の句を書いて手渡して以来、枕が上がらなくなったそうだ。自分は、娘の父親から『店じゅうの者でその若旦那を捜し出してくれ。はじめに見つけた者には大金を与える』と命じられたひとりで、これか遠方・紀州方面へ行くのだ」と店主や常連客たちに語って聞かせるのでした。

これを聞いた熊五郎は男につかみかかり、「やっと見つけた。お前の出入り先の娘に用があるのだ。うちの店へ来い」と叫ぶと、すぐに店へ戻って褒美がもらいたい男は「いや、先にこっちの店へ来い」と言い返し、つかみ合いになります。
はずみで床屋の鏡が床に落ちて割れてしまい、店主が「どうしてくれる」と怒ると、熊五郎は、「割れても末(=月末)に 買わんとぞ思う」
という落ちで落語が終わるのです。

 

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箕面の紅葉

2017-12-04 | 趣味

先日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー9名と、箕面公園の紅葉狩りに行ってきました。
箕面公園は大阪府の紅葉の名所として知られていることから、大勢の人出で賑わっていましたが、ここでも中国人や東南アジアからの観光客の多いのには驚きました。

滝と紅葉で知られている箕面公園ですが、春は新緑、夏は納涼、秋は紅葉、冬は鍛錬の場として年間を通じて多くの人々に親しまれており、1986年「森林浴の森100選」に選ばれています。

・一の橋付近の紅葉です。


箕面川の両側に紅葉が広がっており、この川に沿って箕面大滝まで行く予定でした。


ところが、大滝までのほぼ中間地点である修業古場休憩所から先が通行止めとなっており、そこから夫婦橋まで引き返してきました。
大滝へは別のルートを歩くことにしましたが、他にも通行止めの個所があったことから、どうも道を間違えようであり、辿りつけませんでした。

・大滝がご紹介出来ないので、代わりにこの滝でご辛抱下さい。


夫婦橋です。
この橋を渡って右側の階段を上り、別のルートで大滝を目指しましたが、目的地に到達できませんでした。

・夫婦橋付近の紅葉です。


瀧安寺周辺の紅葉です。
瀧安寺は宝くじの起源である「箕面富」発祥のお寺です。
日本最古の弁財天としても有名で、江ノ島、竹生島、厳島とともに日本の四弁財天の一つとなっています。



境内の紅葉です。


今回は10㎞ほど歩きましたが、史跡などはなく、ひたすら紅葉を見ながらの山歩きでした。
歩いたのは11月25日だったのですが、紅葉には少し早いような気がしました。



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ジグソーパズル

2017-11-12 | 趣味

小学校3年生の孫娘が幼稚園年長組の頃、日本地図のパズルで遊んでいました。
47都道府県の県境の境界線を切り離したものを地図上に当てはめていくものですが、これが子供には結構面白かったようです。
大人は都道府県の所在地が分かっているので比較的簡単ですが、子供にはその知識はなく、都道府県の形で判断して当てはめます。
最初は苦労していましたが、数回すると覚えてしまいます。都道府県の場所を覚えさせるには最適なパズルのように思いました。
現在は「人生ゲーム」に凝っており、現金の元締めの銀行役を手放しません。
このゲームでは加減算の計算に役立っているようです。

さて、パズルと言えば、ジグソーパズルがあります。
モナリザの絵柄などは有名ですが、最近では色々なものが造られています。
世界地図や世界の風景、犬や猫の写真、干支、花など多岐に亘って販売されています。
でも、なぜジグソー(糸のこ)と言うのでしょうか?
今日はジグソーパズルについて調べました。

ジグソーパズルは1760年頃にイギリスの地図製作者が考案したとされています。
地図を木の板に貼り、国などの境界線に沿って切り離したもので、子供に地理を教える教材でした。
当時は「解体地図」と呼ばれて、大変高価だったようです。
その後、複雑な形に切るため糸のこぎり(ジグソー)が導入され、より複雑なカットができるようになりました。
この糸のこぎり(ジグソー)が由来となってジグソーパズルと呼ばれるようになったそうです。

現在のように厚紙製のものは1900年代に入って登場しました。
特に世界恐慌が1929年に始まると、安価で繰り返し遊べるため、アメリカなどで大人にも大流行したそうです。

日本で広まるきっかけは1974年に東京国立博物館で開かれた「モナリザ展」です。
玩具製造販売「やのまん」などがモナリザの絵柄のジグソーパズル(750ピース)を輸入すると大ヒットとなり、最初に輸入した2万個は4日間で売り切れたそうです。
しかし、モナリザ以外の輸入ジグソーパズルは絵柄的にもそれ程日本人に受け入れられませんでした。

そんな中、登場したのが国産ジグソーパズルです。
富士山や金閣寺など日本の風景が中心でしたが次第に日本市場に浸透していきました。
優秀な日本の技術によって品質、絵柄のバリエーションなど、 日本人の気質にあった商品が世に送り出され、日本でもジグソーブームがやってきました。
ただし、欧米の普及と日本のそれとは明らかに違い、欧米では繰り返し組んで遊ぶ娯楽として普及したのですが、日本では一度組んで完成されたパズルは奇麗に飾っておきたいというインテリア指向のホビーとして花開いたということです。

現在では素材も多様化し、立体や球体のパズルも登場しているそうです。
私のような高齢者にはボケ防止に良いかも知れませんね。


「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  所用のため、明日から1週間程度ブログの書き込みを休ませていただきます。(少し長引くかも知れません)

 

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マンホール

2017-11-01 | 趣味

道路のあちこちに見られるマンホールの蓋。 殆どの人は見逃したり、意識せずにその上を歩いていると思いますが、このマンホールの蓋の魅力に取りつかれた女性たち、所謂「マンホール女子」が今、増加しているようです。
彼女らによると、マンホールの蓋のいろいろな柄や鮮やかな色付き蓋がとても「かわいい」と評判なのだそうです。
そこで、今日はマンホールについて調べました。

マンホールとは、下水道などの管路を点検・掃除するため、マン(人)が出入りできるよう設置されたホール(穴)であることからマンホールと呼ばれています。
下水道は紀元前5000年頃のメソポタミアと古代インドに存在していたそうで、これが世界で最初と言われています。
本格的に整備されたのは古代ローマ帝国で、石製のふたには「元老院とローマの人民」を示すSPQRの文字が彫られ、今もローマのシンボルになっているそうです。
また、映画「ローマの休日」に登場する「真実の口」は、当時の貴族にあった蓋だと言うことです。

・真実の口です。(2012年4月撮影)


日本で1881年(明治14年)、横浜・外国人居留地に初めて導入されたマンホールはレンガで造られ、蓋は木の格子だったそうです。
3年後に今のJR神田駅前に敷設された東京発の近代下水道でもレンガで造られていましたが、蓋は鉄の格子でした。

現在、「マンホール女子」達に人気がある、蓋に名所、名産品などをあしらったデザインマンホールは1977年(昭和52年)、那覇市が魚の群れを描いたものが走りだそうです。
デザインマンホールは、今では富士山ゆかりの武将を描いたものなど、全国で12000種類ほどあるそうです。

熊取町のデザインマンホールです。


また、国土交通省などで作る「下水道広報プラットホーム」は昨年から個性的な蓋をPRするマンホールカードの発行を始めており、これが大変な人気のようです。
マンホールカードとは、下水道のマンホール蓋は、各自治体のその土地ならではの歴史や文化、名所等をモチーフにしてデザインされています。
このような個性あふれるマンホール蓋の写真やデザインの由来を載せ、コレクションカード化したものがマンホールカードです。

マンホールカードは、平成28年4月1日に第1弾として全国28自治体で配布が開始され、その後、第2弾は平成28年8月1日に、第3弾は平成28年12月1日に、第4弾が平成29年4月3日に、そして第5弾が平成29年8月1日に追加導入され、全国で194自治体227種のカードが出ているそうです。
大阪府内でも大阪市や堺市など16市町で、マンホールカードを発行しています。
殆どの市が無料で配布しているようですが、一部の市では有料で配布しているところもあるようです。

それにしても、「歴女」とか「カープ女子」、「肉食系女子」、「山ガール」など、特定の分野に興味を持つ「○○女子」が話題になっていますが、マンホールの蓋の魅力に取りつかれた「マンホール女子」まで出現するとは、近年の女性の多様性、行動力には脱帽です。

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當麻の里を歩く(5)當麻の蹶速

2017-10-07 | 趣味

「當麻の里を歩く」シリーズの最終回は、日本初の天覧相撲が開催されたと伝わる「當麻蹶速の塚」をご紹介します。

「相撲開祖 當麻蹶速の塚」
「日本書紀」によれば、當麻の地に當麻蹶速(たいまのけはや)という名の蹴り技の名手と謳われる勇士がいました。
時の垂仁天皇(すいにんてんのう)は出雲国から野見宿禰(のみのすくね)という名の勇士を呼び寄せ、二人を戦わせました。
これが我が国の国技である相撲の発祥、日本初の天覧相撲とされています。

・相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と五輪塔です。


当麻の當麻蹶速の塚に立てられている案内板には次のように書かれています。
『日本書紀によると、当麻の村に大変勇ましく強い人がいて、その名を当麻の蹶速(けはや)と言う。その性格は大変な怪力で動物の角を引き欠いたり、曲がっている鉄の鉤(かぎ)を引き伸ばしたりします。そして、いつも人に語るのに、「日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者に会って、命がけで力くらべをしたいものだ」と語っていた。

この事を天皇がお聞きになり臣下に仰せつけられた。「もし誰かこの男にかなうような強い者が他にはいないだろうか」と。
すると一人の臣下が進み出て言うのに、「私は出雲の国に野見の宿禰(すくね)という力の強い人がいると言うことを聞いています。それでこの人を呼び寄せて當麻蹶速と力くらべをさせてみてはどうか」と言いました。

そこで垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日を期して當麻蹶速と野見の宿禰とに日本国技として初の天覧相撲を取らせることになった。
二人は互いに向かい合って立ち上がり、各々の足を高く上げて蹴り合い、力闘の末、當麻蹶速は野見の宿禰にあばら骨を踏み折られ、またその腰を踏み折られてしまい、敗者となってしまった。

當麻蹶速は高慢な人のようですが、実際には都ずれしない素朴で野性的な性格のため、朝廷の人々と相入れなかったと想像されます。
そのため当地の人々からは反って親しみを持たれた。石塔は田畑の中に鋤(す)かれることなく、現在まで貴重な遺跡として残されています。
勝者必ずしも優ならず、時には勝機と時運に恵まれず敗者となる事もある。勝者に拍手を送るのはよい、だが、敗者にもいつきくの涙を注ぐべきではないか。』

・相撲館に掲げられている天覧相撲の絵です。


「鉄砲柱」
説明によれば、
日本書紀には相撲の始まりとして當麻蹶速と野見宿禰の力くらべの話が書かれています。
その力比べで蹶速は命を落としますが、今日に至っても、この地で地元の人々の手によって祀られています。
「相撲発祥の地」に訪れる誰もが自由にこの柱に触れ、突き、体験することで相撲に親しんでいただけたらと、ここに鉄砲柱を設けました。
と書かれています。

・鉄砲柱です。一突きしましたが、ビクともしませんでした。


「終着地点」
今回の歴史探訪同好会「當麻の里を歩く」コースの終着点、近鉄当麻寺駅です。
このコースは、寄り道しながらでも7~8㎞と比較的短い道のりであったことから、参加者10名は誰一人脱落することなく元気に完歩しました。
次回11月の歴史探訪の参集を確認して当駅で解散となりました。



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當麻の里を歩く(4)當麻寺(2)

2017-10-06 | 趣味

「當麻の里を歩く」シリーズの今日は当麻寺の2回目です。

「金堂」
金堂とは、寺院で本尊を安置する仏堂で、伽藍の中心をなす堂宇です。堂内を金色にすることからこの名が付いています。
當麻寺の金堂も本来のご本尊・弥勒さまをお祀りするお堂なのです。

この金堂は當麻寺創建時の本堂であり、入母屋造の本瓦葺です。
元々は奈良時代の建造物なのですが、藤原時代(平安時代中期・後期)に平重衡の軍勢が乱入し、激しく破損ました。
現在の建物は鎌倉時代に修理されたものだそうで、堂宇には当麻寺の最初のご本尊「弥勒仏座像」(国宝)や「四天王立像」(重要文化財)などが収められているそうです。

弥勒仏坐像(国宝・白鳳時代)は日本最古の塑像(そぞう:粘土で作った像)です。
周囲を守護する四天王のうち、持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は、日本最古の乾漆像。多聞天は鎌倉時代の木像で、いずれも袂の長い隋以前の様式を伝えており、西域の武人を思わせる凛々しい姿をしているのだそうです。
 
・鎌倉時代に再建された金堂です。


「當麻寺 奥院」
當麻寺 奥院は中将姫の伝説で知られる當麻曼陀羅と同じ製法で制作された「綴織當麻曼陀羅」を有する、奈良県有数の浄土信仰を体現するお寺です。



「浄土庭園」
浄土の世界が目前に広がる浄土庭園です。
阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"があり、ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた年中楽しめる庭園となっています。
浄土庭園の巨石は「太閤石」という石です。
昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めましたが、浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用されているそうです。

・時間の関係で入場出来なかったのでネットの画像を借用しました。


「三重塔・東塔」
東西両塔が現存する、天平時代(奈良時代後期:710年~794年)創建の貴重な三重塔で、奈良時代の双塔伽藍を今に伝えています。
通常、三重塔は初重から三重目まですべての面の柱間を、三つの方三間とするようですが、この東塔は構造上、二重、三重ともに方二間の特異な構造だそうです。
因みに、「薬師寺三重塔」「法起寺三重塔」は三重目だけが方二間だそうです。




「中之坊」
説明によれば、當麻寺最古の塔頭で、熊野権現が現れた場所に役行者が道場として開きました。
もとは「中院」とよばれ、中将姫の師である實雅(さねまさ)や、弘法大師の弟子となった實弁などの高僧が住房としました。
中将姫の守り本尊である「導き観音」を本尊として祀り、信仰を集めています。



「中将姫」
中将姫は右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曾孫)の娘として奈良の都に生まれ、色々な迫害を乗り越え、16歳の時に当麻寺に入り尼僧となりました。
姫の深い信仰と仏さまの加護により天平宝字7年(763年)6月23日に蓮の糸で当麻曼荼羅を織り上げ、29歳の春に25菩薩の来迎を受け、極楽浄土に往生しました。
この當麻曼荼羅は現在、當麻寺の本尊として祀られ「蓮糸大曼荼羅」「観無量寿教浄土変相図」とも呼ばれ、西方極楽浄土の有様を表していると言うことです。



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當麻の里を歩く(3)當麻寺(1)

2017-10-05 | 趣味

今回の「當麻の里を歩く」では、今日ご紹介する當麻寺がメインスポットとなります。

「當麻寺仁王門(東大門)」
東大門(仁王門)は三間一戸の楼門です。
創建当初はどの門が「正門」だったのか不明ですが、中世になって信仰形態が西方極楽浄土におわす「阿弥陀如来」の崇拝と変わったことから、東大門が正門となったということです。



当麻寺東大門(仁王門)の仁王像(阿形)です。
年代を感じる阿形像ですが、説明書がないため詳細は不明です。



当麻寺東大門(仁王門)の仁王像(吽形)です。
吽形像も同様に詳細は不明です。



「當麻寺」
當麻寺は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院で、山号は「二上山」、宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている珍しいお寺です。
開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古(まろこ)王とされています。
用明天皇の皇子・麻呂子王が推古天皇二十年(612年)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、その後、天武天皇白鳳11年(681年)に麻呂子王の孫・當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。
創建時の本尊は弥勒仏でしたが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅だそうです。

・当麻寺の広い境内です。


「現存最古の梵鐘」
国宝の梵鐘です。
無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定されているそうです。



「本堂(曼荼羅堂)(国宝)」
寺伝では、本堂は曼荼羅信仰の中心となっている堂で千手堂の後身であると伝えています。
堂宇は東面して建ち、桁行七間(正面21.02m)梁行六間(奥行18.06m)寄棟造、本瓦葺で、背面北寄りに純和様の木瓦葺の閼伽棚(あかだな:仏に供える水又は花などを備える棚)(鎌倉時代)が付加されています。

・国宝の本堂です。


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當麻の里を歩く(2)石光寺

2017-10-03 | 趣味

葛木二上神社の後は、中将姫ゆかりのお寺として知られている石光寺へと向かいました。

「石光寺」
石光寺(せっこうじ)は浄土宗の寺院で、山号は慈雲山、本尊は阿弥陀如来です。
出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院です。
境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染の井」と、糸を干したという「糸掛桜」があることから「染寺」とも言われています。
また、ボタンの寺としても知られており、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
関西花の寺二十五霊場20番札所になっています。

・石光寺の山門です。


「相観の沙(そうかんのすな)」
「砂」を「沙」と書くのはお釈迦さまが沐浴されたガンジス河の砂に例えているからなのだそうです。
阿弥陀教には、ガンジスの砂の数ほどの数え切れないくらいの諸仏が阿弥陀を信じ、極楽往生を願う念仏の衆生を護念し給うくだりがあることから、ガンジス河の砂に例えているようです。

砂の形は手前が方形、後方が円形になっています。手前の方形は私たちの姿、世界を表しています。
方形、即ち四角な物体は、一見、強く、安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいもので、私たちの姿を表していると言うことです。
円形、即ち球体は「超えた世界」、覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、壊れない世界で、柔軟に全ての事に対応できる智恵の姿だそうです。
「相観の沙」は凡夫が「仏様助けたまえ」と念仏を唱える姿だということです。



「本堂」
天智天皇(626年~671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが石光寺の始まりと伝えられています。
開山は修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)です。
平成3年の弥勒堂建て替えの時に石造弥勒像が発見され、言い伝えが実証されたと話題になったそうです。
因みにこの弥勒像は日本最古の石仏だそうです。



「中将姫 染の井 糸懸桜」
聖武天皇の時(750年頃)に、当麻寺で「蓮糸曼荼羅」を織ったいた中将姫が、この寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜を「糸かけ桜」、井戸を「染の井」といいます。

「中将姫伝説」
聖武天皇の御代に右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曾々孫)の娘に中将姫がいました。5歳にして母を亡くし、継母に育てられました。世に言う継子いじめに遭われ、ついに世をはかなんで17歳で出家し、当麻寺に籠ったのです。
そして、生身の阿弥陀を拝みたいと毎日毎夜念じている内に、ある時霊感を得られ、蓮を集めて、その茎から糸を撚りだし、ここの井戸で洗い清め、桜の木(役行者が仏教興隆を願って植えた木)に掛けて干すと、乾くに従って五色に染まりました。
この糸で二人の化尼(観音・勢至両菩薩の化身)の助けで一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げたのです。
これが世に言う當麻曼荼羅です。



「境内」
ボタンの寺として知られていますが、境内には他にもシャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
冬に花を咲かせるボタンには、寒ボタンと冬ボタンの2種類あります。
・寒ボタンは、二期咲きのボタンで、自然の中で時期が来れば咲き、その見頃は、だいたい12月~1月頃です
 花が自分自身で寒さ対策をしているため、茎が短く葉もほとんどありません。
・冬ボタンは、冷蔵庫と温室を使って人工的に春をつくり、この時期に花を咲かせる種類です。
 こちらは、植物自体が春だと思って咲いているので、春と同じような大きな花を咲かせるタイプです。
因みに石光寺のボタンは『寒ボタン』で、當麻寺奥院は『冬ボタン』だそうです。



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